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矢田部吉彦|2024年真冬の必見ドキュメンタリー映画新作3選+巨匠特集【世界と私をつなぐ映画】

2024年も終わろうとしている。気付けば、「2020年代前半」が終わることになる。そしてこの2020年前半は、かなり最悪な時期として振り返られるだろう。パンデミック、ウクライナ、ガザ、そして米大統領選の結果がもたらす不安。ろくなことが起きていない。あるいは、20年代前半はまだよかった、と後年言われるのだろうか。

ドキュメンタリー映画に接することが世界で起きていることの理解に繋がるとは、直接は思わない。ただ、自分と自分を取り巻く環境を表現者がいかに切り取っているのかを目撃することを通じ、我々も現代社会に対する感度を上げることができる気がする。12月に重要ドキュメタンタリーが多数公開されることから、夏に続いて、2024~25年冬の必見ドキュメンタリーも紹介してみたい。

▼2024年8月公開のコラム記事をチェック

街に刻まれたホロコーストの記憶

ナチスによるユダヤ人虐殺とホロコーストについては、想像を絶する凄惨な事態ゆえに映画や言語で表現できないという、いわゆる「表象不可能性」が指摘される。究極の地獄と悪は映像化できない。しかし、それでも、いや、それだからこそ、ナチスの非道とユダヤ人の悲劇を映像で語ろうとする試みは後を絶たない。

ホロコーストに関わった人びとにインタビューを行った9時間越えのドキュメンタリー『SHOAH ショア』(1985年/クロード・ランズマン監督)、狭窄的視野を多用し「見えない/表現できない」の際に迫ろうとするドラマ『サウルの息子』(2015年/ネメシュ・ラースロー監督)、アウシュヴィッツと塀をひとつ隔てた楽園を描く『関心領域』(2023年/ジョナサン・グレイザー監督)などを挙げるまでもなく、あらゆる手段やアプローチを用いてホロコーストを語ろうとする大胆で優れた試みがなされてきた。

そしてここにまたひとつ、ホロコーストの記憶を辿る重要作が加わることになる。『占領都市』(12月27日公開)だ。

©2023 De Bezette Stad BV and Occupied City Ltd. All Rights Reserved.

舞台は、現代のアムステルダム。とある街角の、とある建物が映り、通りの名前と番地、部屋の階数に続き、その家/部屋で第二次世界大戦時に何が起きたかが読み上げられる。別の建物に移り、同じことが繰り返される。住宅ばかりではなく、広場だったり、施設だったり、ホールだったりもする。住人やその場に居合わせた人びとの運命は、いずれも凄惨だ。ユダヤ人として拉致され強制収容所に連行されたか、秘密の部屋に隠れて住んだか、殺されたか、あるいは自殺したか。ナチス支配下のアムステルダムにおけるユダヤ人迫害の記録が、建物に刻まれた記憶とともに克明に語られていく。

本作を監督したのが、現代美術のアーティストとしても知られる英国人のスティーヴ・マックイーン監督。彼の妻が歴史家で映画監督でもあるビアンカ・スティグターであり、オランダ出身の彼女が2019年に著した「Atlas of an Occupied City(Amsterdam 1940-45)」が、『占領都市』の元となった。

ユダヤ人はどこで拉致されたのか。ナチの本部はどこにあったのか。拷問はどこで行われたのか。レジスタンスの根城はどこだったか。人びとが隠れた家はどこにあったのか。本書には、ナチス占領下のアムステルダムの、どの街角のどの扉の向こうで何があったかが克明に記された。1940~45年の5年間で、アムステルダムから強制収容所に連行されたユダヤ人は10万人を超え、それぞれに物語がある。その物語を場所と切り離すことはできない。スティグターが元を作り、マックイーンが映像化した。

建物から建物へ。通りから通りへ。広場から広場へ。その淡々とした反復は、実に4時間を超える。無限と思える事例の紹介が、事態の途方もなさを徐々に実感させることにもなるだろう。4時間を超えると、確実に見ている側の感覚もおかしくなっていく。一種のトランスに陥る。文字通り、時空を超え、歴史を体感することになる。

特筆すべきは、マックイーン(とその撮影監督)が35mmカメラを向けたのが、パンデミック下のアムステルダムであるということだ。まるで戦時下のように建物周辺に人がいないという状況もあれば、広場ではステイホームに反発したり、政府の方針に反対する人々のデモが展開していたりもする。その広場は、かつてのレジスタンス活動に関連した場でもあるだろう。過去と現在が奇妙な形でシンクロしていく。

©2023 De Bezette Stad BV and Occupied City Ltd. All Rights Reserved.

とはいえ、パンデミックとの並置は一部でしかなく、大半は現代の平穏な光景であり、人びとの日常的な暮らしが映される。しかし子どもたちがいま楽しそうに通っている保育園が、かつてナチスが尋問に使っていた建物であったことを知ると、歴史が我が事として立体的に浮かび上がる。そして、機械的と言えるほど淡々と場所と出来事を紹介し続けるという、一切の虚飾を排した手法は、画期的に見えて実はフレデリック・ワイズマン監督(後述)にも通じるドキュメンタリーの呼吸を感じさせる側面もあり、斬新でもあり王道でもあるという、つまり『占領都市』は必見の作品として屹立している。

©2023 De Bezette Stad BV and Occupied City Ltd. All Rights Reserved.

家族を巡る、あまりに貴重で悲痛な記録

ドキュメンタリーには、監督が自分の家族にカメラを向ける「セルフ・ドキュメンタリー」(日本の造語)と呼ばれるサブ・ジャンルが存在する。撮影者と被撮影者の間に垣根が無いため、赤裸々で踏み込んだ描写が可能であるという利点と、その後の創作が続かないという難点が指摘されることがある。しかし、家族にカメラを向けている点では共通しているものの、セルフ・ドキュメンタリーを巡る些末な論議などは軽く無化してしまう重要作が出現した。それが『どうすればよかったか?』(12月7日公開)である。

(C)2024動画工房ぞうしま

藤野知明監督が、統合失調症を発症した8歳年長の姉に対して家族がどのように接したのかを、20年以上に渡って記録した。本作は、冒頭に次のような説明が表記される。

「この映画は姉が統合失調症を発症した理由を究明することを目的にはしていません」

「また、統合失調症とはどんな病気なのかを説明することも目的ではありません」

なるほど明解だ。姉の症状を通じて統合失調症とはどのような病気なのかを見つめていく作品ではないことが、最初に明らかにされる。身近な事象を普遍的に共有せしめようという意図ではない。家の中で起きていることが異常事態であると気付いた監督は、家の問題をあくまで個人的なものとして問いかけ続ける。「どうすればよかったか?」と。これほど切実でダイレクトで印象に刻まれる映画タイトルがかつてあっただろうか。

(C)2024動画工房ぞうしま

何が異常事態であったのかといえば、24歳の時に大きな症状が現れ、夜中に大声で叫びだした姉を、医師で研究者でもある両親が統合失調症と認めようとせず、家の中で姉を事実上の軟禁状態に置いたことである。実家の北海道を出て東京の映画学校で学んだ藤野監督は、姉が発症したと思われる日から18年後に家族の姿の撮影を始める。そこから20年、カメラは回り続け、監督が親に対して疑義を示し、何とかしようとするプロセスが映画に記録されていく。

不調な姉の様子はもちろん記録されているが、それが主要の目的ではないため、必要以上に踏み込んではいかない。実際に、監督はある時期から姉の部屋には入らないというルールを設けていたようだ。そして映画の中で姉以上に重要になるのが、両親の存在だ。母の言葉は年月によって変化していき、両親が互いに責任を押し付け合っているようにも見えれば、それぞれ自分の意見に頑迷であるようにも見える。そんな両親のもと、姉は呆然と宙を見つめる。

(C)2024動画工房ぞうしま

壮絶、という言葉では言い表せない。言葉では形容できない映像を映画が有する時があるとすれば、『どうすればよかったか?』はそういう1本だ。最初から映画化を企図して回っていたわけではないであろうカメラから得られた映像を世に出すことについて、監督はさぞ悩み抜いたに違いない。しかし、この極めて個人的な出来事からも、第三者が得るものがあるはずだと思うに至ったのだろう。

どうすればよかったか?は、監督の自らに対する問いであると同時に、観客の我々が受け止める問いでもある。それは、本作が病気の症状や理由の説明を目的としていないとしても、数十年に渡るひとつの家族史が、我々自身と家族の関係をも問いただす鏡になるからだ。

(C)2024動画工房ぞうしま

そして、しんどい局面が無いとはいえない本作が真に特異なのは、どこか爽やかな解放感を伴っているという点ではないだろうか。20年を越える家族史と並走する奇跡のような感覚と、映画作品として完成させたことで監督の様々な精神的葛藤に整理がついたのではないかという共感が、不思議な爽やかさとなって胸に迫ってきた。映画でこのような気持ちを味わうことは滅多に無い。

現代の改革運動のひとつの形

激動する国際情勢を読み解くことは難しい。先の米大統領選もその最たる例だろう。人権を重視する左派リベラルが生活を重視する右派保守に完敗したという解釈は単純に過ぎるとしても、強権を良しとする人物が圧倒的支持を集めて最高権力者に返り咲く未来への不安は如何ともし難い。とはいえ、世界は常に希望の芽を潰してきたわけではない。数年前のチリにおいて、突如として改革運動が湧き上がった。そしてその展開は、民衆の力を信じさせるものになったのだ。『私の想う国』(12月20日公開)は、この運動の記録である。

© Atacama Productions-ARTE France Cinema-Market Chile

2019年、チリのサンティアゴで、地下鉄料金の値上げ反対運動が契機となり、改革運動が大きなうねりとなって盛り上がっていった。社会制度の改革と人権の尊重を求めるデモの規模は150万人にも膨れ上がり、新しい時代の扉が開かれようとしていく。

『私の想う国』は、その内容もさることながら、パトリシオ・グスマン監督が手掛けているという事実が重要だ。グスマンは、70年代中盤の政治状況を活写した『チリの闘い』3部作をはじめ、数々の政治映画を手掛けて世界的な名声を誇るチリの巨匠監督である。そして『私の想う国』の導入部にて、グスマン監督本人のモノローグが流れる。いわく、過去のチリでの革命運動には自分も当事者として立ち会ってきたものの、パリ在住の身となった今、今回の運動には出遅れてしまったので、慌てて駆け付けたのだ、と。

駆け付けた巨匠がカメラを向けたのは、女性たちだ。活動家、歴史家、美術家、社会学者、医者など、複数の職業と立場の女性たちにインタビューを行っていく。今回の反政府運動にはフェミニズム運動の側面が強いことが実感され、時代の趨勢が見えてくる。

© Atacama Productions-ARTE France Cinema-Market Chile

ほんの数年前の歴史的事実なので、ネタバレをしても構わないとは思いつつ、チリの政治に詳しい人の方が少ないだろうとも思うので、運動の行く末は書かないでおこう。同時期の香港の運動の挫折を見ると楽観的になれるはずもないけれども、本作には市民運動の希望の形が示され、激動の時代を生きる我々観客に刺激を与えてくれるだろう。

世界的巨匠の包括的大特集

8月のコラムでも紹介した、ドキュメンタリー界の巨人中の巨人、フレデリック・ワイズマン監督の大特集[「フレデリック・ワイズマンのすべて――フレデリック・ワイズマンの足跡 1967-2023」が24年12月6日~25年3月29日を会期に開催される。1967年の『チチカット・フォーリーズ』から、2023年の『至福のレストラン 三ツ星トロワグロ』まで、上映本数は実に44作品。この57年の間に作られた作品が47本なので、ほぼ全てと言っても過言ではなく、これは本当にすごい。アテネ・フランセ文化センターを中心に、旧作の収蔵と権利更新を進め、近作の権利を持つ各配給会社の協力も経て実現する大特集であり、日本在住のありがたみを噛みしめるばかりである。

フレデリック・ワイズマン監督

ワイズマンは、学校、病院、裁判所、研究所、デパート、動物園、図書館、レストランなどの施設をあらゆる角度から捉え、社会の縮図を見せてくれる。

『高校』(68)では、授業の風景から、進路相談の様子、ホームルームや保護者の会話など、フィラデルフィアの学校の日常が描かれる。『病院』(70)では、患者たちと病院職員のやり取りを通じ、都市病院の実体を浮かび上がらせる。かたや、『ストア』(83)では客はもちろん、経営会議から清掃人に至るまで、デパートに関わるあらゆる人びとを見つめることになる。ひとつの施設に関わる人たちに片っ端からカメラを向けるスタイルは、ワイズマンの「施設もの」に一貫して共通する姿勢である。

また、『視覚障害』(86)から始まる4部作では、ろうあ者の教育現場におけるあらゆるシチュエーションが紹介され、『モデル』(80)ではモデル業に携わる人びとの姿を通じてファッション・ビジネス界のありさまを描くなど、ワイズマンが注目する分野は硬軟織り混ぜて、実にヴァラエティに富む。牛が食肉となる過程を、水も漏らさぬ克明な描写で映し切る『肉』(76)は僕のお気に入りの1本でもあって、食を扱うあらゆる映画の基盤となるべき作品と考えている。

そして、特にワイズマン未体験の方にお勧めしたいのが、『臨死』(89)、『DV-ドメスティック・バイオレンス』(01)、『DV 2 ドメスティック・バイオレンス2』(02)の3本だ。『臨死』では、ボストンの病院において、末期医療の現場に迫る。どうやって撮影の許可を得ているのか想像も付かないのだが、患者と家族と病院の間に交わされる極めてデリケートなやり取りの数々が、次から次へと現れていく。

『臨死』(89)

また、『DV』ではDV被害者の保護施設で実際に起きたケースの数々をじっくりと見つめ、『DV2』では被害者と加害者間の法廷闘争のケースが延々と映し出される。これらの作品で徹底的に見つめられるのは、人間の命と尊厳だ。あるいは人間の絶望的な愚かさでもある。人間という存在の計り知れなさを思い知らされる、至高の作品群である。

『DV』(01)

アメリカのあらゆる施設を観察し続けてきたワイズマンは、文字通り「観察」だけで物事を伝える手法を確立し、ドキュメンタリーにおけるひとつの「規範」を作った人だ。たったひとりでジャンルの「規範」を確立した映画作家として、唯一無二の存在である。作品中にインタビューはなく、字幕補足もない。見たまま以上の状況説明や情報補足は一切無い。あるのは、ただひたすらに、人の営みである。そして編集のリズムが、情報や物語を見る者の脳内に定着させていく。観察と言っても、定点監視カメラを凝視するわけではない。撮影対象を選んで捉えるカメラと、編集の力が、映像を映画たらしめるのだ。

さらに、ワイズマン体験から叩き込まれるのは、時間の常識の廃棄だ。3時間や4時間、さらには6時間の作品も珍しくない(上述の『臨死』は358分!)。「観察」だけで6時間が過ぎ、しかもそれが必然と思われ、抜群の面白さを伴ってしまうのが、ワイズマンが神と呼ばれる所以である。

もし、あなたがまだワイズマンに出会っていないとしたら、この冬こそは絶好の機会だ。途方もない映画の巨人にぜひ触れてほしい。

おわりに

世界的惨事の歴史を現代に繋げるスケールの大きなマクロ的作品と、家族を巡る極私的でミクロの作品が、期せずして並ぶことになった。世界は私、私は世界、ということだ。ドキュメンタリーの幅の広さを証明する2本に加え、最重要監督の特集が開始される2024年12月は、まるで不穏だった「20年代前半」を振り返るための重要なインスピレーションを用意してくれているかのようだ。

ドキュメンタリーを見て、20年代後半に備えよう。

 

矢田部吉彦(やたべ・よしひこ)
仏・パリ生まれ。2001年より映画の配給と宣伝を手がける一方で、ドキュメンタリー映画のプロデュースや、フランス映画祭の業務に関わる。2002年から東京国際映画祭へスタッフ入りし、2004年から上映作品選定の統括を担当。2007年から19年までコンペティション部門、及び日本映画部門の選定責任者を務める。21年4月よりフリーランス。

 

寄稿:矢田部吉彦
編集:おのれい

 

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