「推し」という言葉の現在
2025年6月4日放送の『あさイチ』(NHK総合)で企画されたのは、「【地下アイドルの世界】知られざる光と闇/いき過ぎた推し活!?」と題された特集だった。同日の放送では、地下アイドルと通称されるグループのメンバーのライブや特典会、動画配信やSNS発信等の活動に密着し、また一方では新宿・歌舞伎町の路上で女性支援を行うNPOに同行して、いわゆるメンズ地下アイドルに大金をつぎ込む未成年女性の事例などを紹介しながら番組を構成していた。
特集タイトルに「光と闇」と銘打ちつつ、「光」としてクローズアップする対象に関しても手放しに肯定するというよりは、出演者のコメントを含め、ジャンルの構造的な問題点に目を配りながらの語りが紡がれていた。その手つきには、現在「推し」というテーマが扱われる際、どのようなバランスを意識せざるを得ないかの一端があらわれていたといえよう。
「推し」あるいは「推し活」という言葉が社会に浸透し、「推される対象」にも増して「推す消費者」自身の活動にフォーカスする語りが急増して以降、このタームはマーケティングに関する話題や、ファンの能動的なアクションを取り上げる局面などで、たびたびポジティブに用いられてきた。他方、そのように今日的な概念として人口に膾炙したことで、懐疑的あるいは批判的に言及される機会もまた増え、たとえば常軌を逸した消費行動に走る人物像などを設定して、それらに苦言を呈する際に召喚される対象としても「推し」はある。
「推し」と括ることの不可能性
もっとも、いまやきわめて広範な意味合いをもって使用される「推し」という言葉や営為について、一括りに良し悪しを定めようとする視線は、多くのことをとりこぼす。「推し」というワードと関連付けてしばしば語られる問題には、ファンを継続的・能動的な活動に駆り立てるエンターテインメント方式の是非や、個人レベルで著しくバランスを欠いた消費行動や振る舞いに至るファンが存在すること、あるいはエンターテインメントの送り手側が抱える不均衡な権力関係によって演者の尊厳が剥奪されること、そうした運営上の問題があらわになった際にファンが当該組織を守ろうとする意図で無理筋の擁護を展開してしまうことなど、いくつものフェーズがある。
それらは互いにリンクしてはいても、水準の違う要素をひとまとめに評価することは難しく、別個に論点を整理・検討しながら、解消をめざすべきものである。本来、個別的で問題の性格も異なるそれらの問題群を、「推し」という言葉で雑駁にまとめて評価付けてしまえば、ジャンルごとに抱えている課題の性質や、そのジャンルがもつ文化としての意義を捉えることから遠ざかる。
そもそも、ジャンルを問わず個々人のファン活動のあり方は、生活のなかでの位置づけや対象との距離感、消費活動の多寡など、さまざまな側面において幅広いグラデーションのなかにある。それらきわめて広範で、ベクトルもまちまちであるはずの人々の営為を「推し」というフレーズに集約させたうえで、そこになにか共通した病理のようなものを設定することは、そうした生活の多様さを捨象してしまうだろう。
アイドルとパーソナリティ消費
ところで、前述の『あさイチ』にもみられるように、「推し」という言葉と強く結びつく代表的なジャンルとして存在するのが、アイドルである。とはいえ、ひとくちにアイドルといっても、今日この言葉が指し示す範囲は容易には捉えがたく、活動を行う規模や分野にも非常に大きな広がりがある。さらにいえば、芸能ジャンルとしての「アイドル」とは、歌や振付などによる一定の方向性の表現フォーマットを示す言葉としてあり、必ずしも即座に生業を指すものではない。その意味で、たとえば「バンド」などの言葉に近い語義の広がりをもつといえるが、ともかくも「アイドル」を、包括的に概観して、統一的な特性を指し示すことはほとんど不可能といっていい。
ただし、今日我々を取り巻くメディア状況を踏まえるとき、アイドルとして活動する人々にある程度共通する特徴として、自身のパーソナリティをいくつもの形で絶えず発信する立場に置かれているということが挙げられるだろう。とりわけ、多くのアイドルにとってSNSをはじめとしたテキストや画像、動画メディアを用いた発信が標準装備となり、ライブ配信なども頻繁に実施されるメディア環境は、それ自体が絶えざるドキュメンタリー生成の場であり、受け手は日々、アイドルたちによるリアルタイムの群像劇を受容する。バックステージがしばしば記録映像に収められ、またステージに立つ以外の時間がSNSや各種メッセージサービス投稿などのために充てられることで、アイドルとしての活動時間とプライベートの時間とは互いに侵食し合う。このようなオンとオフとの境界の引きがたさは、先の『あさイチ』での密着映像にも伺うことができる。
そうしたパーソナリティの発信や受容は、デビュー前の候補者たちを主体とするサバイバルオーディション番組や、オーディションの過程でライブ配信などを取り入れる選別プロセスなど、まだ芸能者としてのスタート地点に立っていない人々をアクターとするコンテンツにおいても同様に行われる。必然的に、参加者への課題設定やセレクション結果などのイベントが繰り返し発生するそうしたコンテンツでは、定期的に参加者の感情を否応なく揺さぶり、参加者のパーソナリティを享受対象とした物語が提供される。そこでは、いまだアイドルとしての立場を得ていない人々の人格もエンターテインメントの内に動員しながら、受け手への訴求力を高め、興味の持続を促していく。
加えていえば、そこで上演される参加者たちのパーソナリティは、操作的な環境下における一時的な立ち振舞が、他者の視点によって編集されたうえで、成型されたストーリーの一部として提示されたものである。それを観る私たち受け手は、極度に強くフィーチャーされる部分があることや、その背景には発信されなかったものが無数にあるという前提をしばしば忘れ、あたかも“素”の人格のように受容してしまう。
どこまでも、パーソナリティの消費からは逃れられないメディア環境にある以上、受け手がそうしたエンターテインメントの性質を頭のどこかに留めておくことは大切である。
あらゆる適性を飲み込む場としてのアイドル
ちなみに、演者のパーソナリティこそが強い消費対象として前景化する現象は今日、アイドルが「未熟を愛でる」エンターテインメントであるという、繰り返されてきたステレオタイプな議論に接続されることもある。しかしそもそも、現行のアイドル文化を「未熟さ」への偏好として特徴づけうるかといえば、ことはさほど単純ではない。
今日の日本のアイドル受容を捉えるとき、アイドルがそれぞれのベクトルで卓越したパフォーマンスを見せ、そのさまにファンが喝采を送るような光景はさほど珍しいものではない。また、アイドルグループのメンバーが、演技や歌唱の能力を認められ、グループ活動の外部に演者としての地歩を築いていくことは、ファンから好ましいものとして受け止められ、ファンが自身の好むアイドルをSNSなどでアピールする際にも、喧伝のための大きな要素となる。いわば分かりやすい意味での技能的な成熟、またはそのような成熟が好意的に受容される環境はそこかしこに見て取れる。
もっとも、それはアイドルというジャンルが「未熟」を内包しないことを意味するわけではない。今日のアイドルシーンは、実践者たちが自身の適性をさまざまに試し、投じる場として成り立ってきた。歌唱やダンスに活路を見出す者だけでなく、俳優としての道を開拓する者、テレビやラジオ等広くメディアコンテンツのアクターとして適性を見出す者など、アプローチする方向性は多岐にわたり、また個々が必ずしもひとつの専門分野に特化するわけでなく、いくつもの分野を越境しながら複合的な活動によってプロフェッショナル性を発揮する者も少なくない。
そうした者たちが、アイドルの代表的な活動である「音楽グループ」としてパフォーマンスする際、そこでは秀でた歌唱やダンスをみせるパフォーマーも、別の分野に活路を見出す演者も混在し、また長年の芸能キャリアをもつ者も、芸能活動を始めたばかりであらゆるベクトルにおいて「未熟」といえる者も混ざり合いながら、ひとつの表現を成立させていく。そのような場が涵養するのは、さまざまなタイプ、習熟度、表現のベクトルをもつ芸能者が雑多に混在することを鷹揚に受け入れる寛容な土壌であり、その雑多さのうちに「未熟さ」もまた寛大に受容される。いわば、「未熟さ」こそが希求されるのではなく、雑多で多様なベクトルを受容し、「未熟」に対しても寛容な場としてアイドルはある。
「感情労働である」を明言しにくい感情労働
話を戻せば、現在のメディア環境にあって、パーソナリティの享受が絶えず進行する事態は、一定の有名性を前提とする職能であれば、ジャンルや技能の如何を問わず避けることができない。なかでも、アイドルというジャンルにおいては、当人たちの人格が不可欠の享受対象として、あらかじめコンテンツ本体に抜きがたく組み込まれているのが特徴とはいえるだろう。
アイドルを絶えざるパーソナリティのコンテンツ化に駆り立てるメディア環境はまた、アイドルを受容するファンの側をも、絶えずコンテンツへのリアクション発信へと誘う。それは、コンテンツの送り手と受け手双方が同一プラットフォーム上にアカウントをもつSNSであれ、ライブ配信における即時的なコメントの往還であれ、アイドルとして活動する実践者と、それを愛好する受け手とが継続的に承認し合うための重要な機会をもたらしてきた。
しかし同時に、演者側がパーソナリティを開示し続け、それに対して受け手側の要求や理想や願望などが直接的に投じられる状況もまた、不可避に生み出すことになる。アイドルに対する受け手のさまざまな欲求が駆り立てられ肥大化する環境下で、アイドルに関する誹謗中傷や流言が飛び交い、演者自身に深刻な負荷を与えるケースは今日、幾度も目にするようになった。
演者とファンとの関係性は、受け手側からの「好意」を前提にして成り立つことが多い。それゆえ、好意に基づいて受け手が発する要求に対して、演者の振る舞いが影響を受けずにいることは難しい。現在、そうした関係性を省みて問い直す議論が少なからず生まれてきていることは、このエンターテインメントをできる限り無理なく持続していくために、重要な機運といえる。アイドルという職能に関して近年、感情労働としての側面がたびたび論じられるようになったことは、ひとつの進展であろう。留意すべきは、受け手の好意を常に意識しなければならない構造上、実践者自身がファンに対してオンとオフのモードを明確に切り分けて線引きをするのが難しいという点である。いわば、「自分が行っているのは感情労働である」と率直に明言することが難しいタイプの感情労働である、という困難がそこにはある。
「キモさ」という言葉で表現される姿勢
演者と受け手の関係性をめぐる議論の、最新の成果のひとつは、5月下旬に上梓された渡部宏樹『ファンたちの市民社会』(河出新書、2025年)だろう。渡部は、ファンが演者に対して抱く欲望を、「他者の(記号的な)イメージを利用して己の主体性を獲得する」いとなみとして捉える枠組みを援用し、そうした己の欲望に自覚的になることの重要性を論じている。ここで渡部は、その欲望をめぐって「キモさ」という言葉をあえて使用してみせる。
「キモい」という言葉は、アイドルのファンのあり方に関して、その性質を否定する文脈でも、あるいは逆に「ファンとはこういうものである」と半ば開き直り気味に肯定する文脈でも、頻繁に使われてきた単語である。その「キモい」を情緒的なニュアンスのままに留め置くのではなく、「自分の主体性を立ち上げるために記号的他者に本源的に依存していること」という骨格を与えて展開する渡部の議論は、ファンが演者に差し向ける感情を切り捨てるのでも無条件に肯定するのでもなく対峙しようとする姿勢といえる。
愛着を手放さず、問題に対峙する
他方、アイドルに限らず近年のエンターテインメント界であらわになったのは、宝塚歌劇団や旧ジャニーズ事務所など、組織内部で長年抱えてきた体質の問題性や、それに起因する演者への深刻な加害、あるいは演者自身による他者への加害行為といった、直接的には演者とファンとの関係性とは異なるフェーズの事象である。芸能組織内の構造的な権力の不均衡や、権力を行使あるいは制御・調整しうる立場の人々の無自覚、閉鎖的な場において価値観が歪なかたちで育まれてしまうことなどについて、こまやかな議論が目立つようになったことは、我々自身の認識を刷新していく機会となっている。
また同時に、それら芸能組織内で蓄積していた諸問題は、当該のエンターテインメントのファンダムからではなく、組織の外部からの発された相対化の視線によって、ようやく明るみになった、あるいは事態が動き始めたものが多い。
外部から投げかけられるそれらの声は、どうしても当該の組織や演者への愛着が先行してしまうファンダム内の声に比べて、きわめて率直で歯切れがよく、それゆえに根本的な問い直しのための不可欠のピースになった。ただし同時に、外部からの言葉であるからこその遠慮のなさ、あるいはそのエンターテインメント分野に関する細部の事実認識の不確かさなどは、ファンダムからの拒否反応も引き起こす。その結果、ファンダムの一部では、問題性を指摘された組織や演者を守ろうとする愛着ゆえに、組織や演者に対して批判を行う者や、声をあげた被害者たちへの誹謗中傷を繰り返す事態も少なからず起きた。
愛着のあるジャンルを守るつもりで、ファンダム外から投げかけられる言葉をかたくなに否定する振る舞いは時に、当人たちが愛着を差し向けているはずの実践者たち自身の、労働環境の改善を阻害し、ジャンルの抱える問題性を温存してしまうことにもなり得る。あるエンターテインメントに対する愛着と、そのエンターテインメントが抱える問題への指摘は背反ではない。むしろ、その両輪があってこそ当該のジャンルや、他ならぬ「推す対象」の環境を健全にしていくことにつながるはずだ。その意味では、ファンの発信と同時に、それらのエンターテインメントの情報を日々発信する、ファン向けの各種メディアが、愛着と批判的視点とをいかに両立できるかも重要になるだろう。
この点でいえば、現在公開中の映画『無名の人生』(2024年、鈴木竜也監督)で描かれる、明確に旧ジャニーズ事務所から着想を得た描写は、作り手のエンターテインメントに対する強い愛着と、自身が夢中になったエンターテインメントが抱えた深刻な問題への対峙との両方がうかがえる、真摯な表現になっている。作品そのものは、序盤から明示されるそれらの設定からは想像もつかない地点にやがて観客を連れていくが、その過程で綴られる、アイドルをめぐる描写は、二次被害に繋がりかねない表現を避けながら、しかし一人のファンとしても積年の問題に向き合おうとするものだった。
アイドルへの愛着を手放さず、しかし強く問い直そうとする表現がメディア上に増えていくことは、パーソナリティが絶えず消費されるエンターテインメントにおいて、この先も不可欠である。どうしたって生身の人格が享受され続ける芸能を愛好してしまう以上、送り手のあり方や受け手自身のあり方をどこかで常に疑い続けることが肝要なのだろう。
香月孝史(かつき・たかし)
ライター。ポピュラー文化を中心にライティング・批評を手がける。著書『乃木坂46のドラマトゥルギー 演じる身体/フィクション/静かな成熟』『「アイドル」の読み方 混乱する「語り」を問う』、共編著『アイドルについて葛藤しながら考えてみた ジェンダー/パーソナリティ/〈推し〉』など。
X:https://x.com/t_katsuki
寄稿:香月孝史
編集:おのれい
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