
社会的・経済的に疲弊した時代を生き延びる美学とは?

違法ではなく脱法、つまり、いかにルールの網の目をかいくぐるかがサバイバルの美学として広がっている。
かつて革命は、国家や制度という大きな敵を想定できた。だが現代では、制度があまりに微細に浸透しており、真正面からの破壊が難しい。たとえば資本主義は、もはや制度ではなく環境として存在している。20世紀の資本主義は大量生産・大量消費を主とするフォーディズム的な社会を作り上げてきたが、ポスト・フォーディズム以降はあらゆることが柔軟化・多様化する中で、規制や契約の体系も精緻化していった。
反抗すらも市場に包摂される時代において、現実的な抵抗とは、制度の内部をずらすことしか残っていない。つまり、資本主義の成熟が違法や逸脱のコストを上げ、私たちから反抗の効率を奪ったのだ。
また、現在はリスクが可視化されやすい社会となり、SNSによる監視によって即座に社会的制裁がくだされるようになった点も大きい。そのため、堂々と違法や逸脱をやるよりも「合法的にギリギリを狙う」方が現実的な抵抗の形になっているのかもしれない。脱法ドラッグや節税スキームはその典型だろうし、CBDやシーシャは、法的にはクリーンでありながら、感覚的にはトリップやリラックスといった擬似的越境体験を提供する。
これは、現代人が求める安心して壊れる場所=安全圏の中の危険、という感覚にマッチしているのだ。社会的・経済的に疲弊した時代において、危険そのものよりも「危険のシミュレーション」が快楽の対象になっている。清潔は危険を必要とし、危険は清潔によって意味を得る。監視社会における安全な越境とは、規範の裏面で作動する合法的な麻薬なのだ。
だからこそ、かつて注目を集めていた法や制度そのものに対する反抗が、いまは「いかに制度を利用して裏をかくか」「合法的にグレーを攻めるか」というハッカー的センスとして称賛されるようになっている。
違法や逸脱ではないが、「なんとなく悪そう」なことを共有することで、連帯感や親密さが生まれる状況。それは、かつての反体制的連帯が失われた後の、新しい共同体の形式なのかもしれない——良いか悪いかは別にして。グレーゾーンを嗜むことに対する意識が、とくに若年層の間では大きく変化しているように思う。
コンプラ社会の裏側で勃興する、グレーゾーンを嗜む文化

重要なのは、グレーゾーンを嗜む文化が、コンプライアンス化した社会と裏表の関係にあるということだ。現代社会では、法的にも倫理的にも清潔であることが強く求められるようになった。企業も個人も、少しでも汚点があれば即座に炎上し、排除される。つまり、社会全体がオモテとウラを明確に分断し、闇を地下へ追いやる構造と化した。かつて地続きだった日常と裏社会が、コンプライアンス社会によって切り離され、光の部分だけが公式に認められる。その結果、アンダーグラウンドはよりディープに、より閉鎖的に潜っていったのだ。
ただ、社会が清潔化すればするほど、人間は本能的に越境や逸脱を求める。そういった背景のなかで登場してきたのが、合法的な越境――つまり「安全な危険」の領域だったのではないか。
シーシャやCBDはまさにその典型であり、倫理的に揺れる恋愛コンテンツの人気や、アルゴリズムを逆手に取ったヒットチャート・ハックと呼ばれる行為なども、そういった例として説明できるのかもしれない。違法とまではいかなくとも、どこかアンチ社会的で退廃の香りがする行為。清潔な社会が進めば進むほど、人々はそのような「安全にグレーを楽しめる」逃げ場を求めるようになる。安全な越境とは、クリーン社会の副作用として発生しているのだ。完全な秩序の外ではなく、秩序の境界線上に立つこと。悲しいかな、現代では、革命よりもハッキングこそが現実的な反抗の手段となっているのだろう。

「破壊」ではなく、「ズラす」――。ポスト革命の時代において、芸術やカルチャーは制度を打ち壊すことよりも、その内側で制度を少しずつ歪ませることによって微細な自由を確保している。かつてのアヴァンギャルドが掲げた過激な否定の代わりに、現代の表現者は、逸脱の気配を設計するのだ。
そのズレの感覚こそが、いまの消費社会を特徴づける「ズラす美学」である。この美学は、法や規範といった明文化されたコードを破るのではなく、遵守したまま裏返す。つまり、ルールを破らずにルールを異化する。ここに、かつての革命の残響が、資本主義の内側でほのかに生き延びているのだろう。
それらは、消費文化におけるトレンドにおいても同様のフレームとして解釈可能だ。卑近な例だと、食におけるメガ盛りや過剰な味付けの流行がそれに該当するだろう。日常の装いにおいても同じで、現代のファッションは、「清潔」と「危うさ」の接合点で成立している。
ローライズやシアー素材、メタリックな質感といった、Y2K的なフェティッシュが復活しているのは偶然ではない。それらは、「見せたいけれど隠す」「危険なようで計算されている」という、安全圏から危険な領域へとアプローチする欲望を可視化した感性であり、身体の表現を通じてコンプライアンス的抑圧に対する微細な反抗を行っている。白シャツにタトゥーといった、いわば「聖と俗のミックス」が現代的美意識になって久しい。
コンプライアンス的な清潔さを保ちながら、そこにわずかなノイズを混ぜるという行為が、安全に逸脱するという現代的快楽を象徴しているのである。
アーティストにおける「グレーゾーンの美学」
音楽においても、ズラす美学は顕著だ。たとえば、Adoやちゃんみなといったアーティストは、整ったメロディとクリーンな音像の中に、攻撃性や歪み、社会的違和感を織り込む。一聴すればポップだが、その内部では怒りや毒が慎重にコントロールされている。そういった構造は、ヒップホップやクラブカルチャーの受容にも通じているだろう。違法行為や暴力を、曖昧で虚構的な危うさとして描くことで、聴き手に安全な悪の体験を提供している。
それらは、社会のルールを破らずにアンダーグラウンドの空気を吸うための技術だ。安全な不良性とも言うべきヒップホップ的革命が、資本主義の内部でのシミュレーションとして機能しているのである。
そして、この安全な逸脱の最も洗練されたかたちは、アメリカのポップスターたちによって体現されている。たとえば、サブリナ・カーペンター、チャペル・ローン、あるいはドージャ・キャット。
彼女たちはポリティカル・コレクトネス的に正しいメインストリームの枠に立ちながら、その内部でフェティッシュやエロス、暴力的な比喩を操る。この二重性こそ、ポスト#MeToo時代のグレーな感性であり、大衆の欲望なのだろう。もはや反抗はスキャンダルによってではなく、制度の文法を使いこなす知性と美学によって成り立っているのだ。
資本主義の論理が加速する現代。 “グレーゾーン” の嗜み方は生き方の階層差をも生む
言うまでもなく、こうした文化現象は、マーク・フィッシャーの言う資本主義リアリズムの延長線上にある。誰もが資本主義の外側を想像できなくなった世界で、人々はその内側をサバイブしながら、現実の隙間に美を見出すようになった。破壊の代わりに演出、否定の代わりにシミュレーション。表現者たちは、反抗を装いながら、制度の再演出家として生きている。
一方で、そういった社会状況の変化にあわせて、「グレーを嗜む人」と「グレーを恐れる人」との間に明確な格差が生まれているのも事実だ。つまり、越境の感性を持つ者と、持たない者の格差である。コンプライアンス的には白でいても、越境の感性/リテラシーがある者はグレーの扱い方を心得ている。
逆に、それを知らない人は、安全で無味無臭な場所に閉じこもるしかなくなる。現代の生き方の階層差を生んでいるのは、実はそういったところにもあるのかもしれない。いま社会は、経済資本による階層とは別軸で、文化資本の精度=グレーを扱う感性の差が新たな分断を走らせているようにも思う。クリーンであることが正しさだとオモテの社会が信じてやまない時代に、社会は、どんなグレーをどこまで許容していくのだろうか。
つやちゃん
文筆家。音楽誌や文芸誌、ファッション誌などに寄稿。メディアでの企画プロデュースやアーティストのコンセプトメイキングなども多数。著書に、女性ラッパーの功績に光をあてた書籍『わたしはラップをやることに決めた フィメールラッパー批評原論』(DU BOOKS)、『スピード・バイブス・パンチライン ラップと漫才、勝つためのしゃべり論』(アルテスパブリッシング)等
文:つやちゃん
編集:Mizuki Takeuchi
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