よりよい未来の話をしよう

写真表現を通じて考える「他者理解」について

前回に続いて再びアート鑑賞の魅力を述べさせていただけることに感謝したい。

今回は「他者理解とアート鑑賞」について依頼を受けた。

まず大前提として、筆者はどんなに努めても他者を完全に理解することはほぼ不可能であると考えている。残念に思うかもしれないが、そもそも、人は自分のことすらも完全に理解できていると言い切るのは難しいのではないだろうか。

しかし、生きている限り「自分はこれを信じて止まず、他の主義信仰哲学は一切受け入れない」というのも、なんともつまらない人生だと感じる。完全な理解に至ることができなくとも、さまざまな価値や思考に触れ、未知の領域に足を踏み入れる。そのことは自らの世界を広げ、未知の価値の存在を認識し、凝り固まった見方や考え方をほぐし、より広い視野で他者を受け入れることにつながるはずである。

今回は写真表現について、いくつかの作品を鑑賞しながらその魅力を語ってみようと思う。この記事を読み終わるころ、「自分の思い込みから抜け出すことの喜び」や「人の思考を想像し、読み取っていく楽しさ」を少しでも実感いただけたら嬉しい。

写真表現の多様性と見どころ

まず、「写真表現」とはみなさんにとってどんなイメージだろうか?

  • 友人との思い出の写真
  • 旅行先で感動した景色の写真
  • 冠婚葬祭での記念写真
  • 話題のおしゃれなカフェのスイーツを美味しそうに撮ったりSNSに投稿したりして楽しむ映え写真

SNSが盛んになった今、ほぼ毎日誰かが撮った写真を見る機会があると思う。スマートフォンの普及もあり、写真を撮ったことがないという人もきっといないだろう。ただしこれらは総じて、「記憶の備忘のための記録」または「共感の共有(“いいね”がほしい)」を目的に撮影されていると思う。

しかし、「写真表現の特徴」や「写真とは一体何なのか」ということを考えて撮ったことがある人はいるだろうか?もしかしたら、「構図」や「色味」「明るさ」といった要素を想像する方がいるかもしれない。趣味の延長の写真表現であればそれで十分だが、アートとしての写真表現となるとその哲学はもう少し奥深い。

今回はそんな「備忘録としての写真」や「映えの技術」というイメージとは少し違う写真表現の多様性や魅力を紹介したい。そして、私たちがいかに物事の一端しか見えていないのかを味わっていただきたい。

静止:計画された決定的瞬間

まずは初級編。こちらの作品をご覧になっていただきたい。

アンリ・カルティエ=ブレッソン「サン=ラザール駅裏」1932年

まず安心してほしい。この写真は特に深い意味はない。

おそらくみなさんの第一印象である「少年が今にも水面に落ちそうな緊迫感のある決定的瞬間を撮った写真」そのままである。かつてドガという画家が、バレリーナの踊っている姿(動いている姿)の美しさを絵画や彫刻でなんとか表現したが、動いているものを静止させることができるのは写真ならではの表現である。時代的にもこの「決定的瞬間を捉えて撮ること」がトレンドだったため、すごいとされている面もあるが、今回はよりその決定的な感動の演出に注目してほしい。

ポイントは「構図と幾何学」だ。

このようにアンリは画面の中に幾何学の形やなんらかの共通点を見出すことをかなり意識的に行なった。結果「ただ偶然出会った瞬間を撮影した写真」ではなく、「意図と技術をともなった芸術としての写真」として高い評価を受けている。

錯覚:実物を撮るからこそ生まれる遊び心

植田正治「パパとコドモたち」1949年

一見、家族らしき人たちが並んでいるだけの写真である。さっきのような決定的な瞬間でもなさそうだし、どこが面白いのか、と思うかもしれない。けれども、この写真に漂う、なんともシュールな雰囲気はなんだろうか。その違和感の正体がわからないし、やっぱりただの写真のようにも見える。

この写真を一目見た時に、違和感の正体に気づく人はかなりの美術好きか、鋭い観察力を持っている方である。(観察力を試したい人は、下の解説を見る前に一度スクロールする手を止めて、もう一度写真をよく見てみてほしい。)

ちなみに、この写真は合成技術などは一切使っていない。現実世界で撮影された写真である。

この写真の不自然な点はどこにあるのだろうか?

 

 

 

 

さて、種明かしの時間である。この写真の違和感とその正体を図で表現してみた。

いかがだろうか。なお、この写真は、周りの物体で遠近感を把握できないように、鳥取砂丘で撮影されている。自分はこの事実を知った時に、シンプルな発想と並びの美しさにさらに感嘆した。

・写真を平面性だけで終わらせない、現実世界の奥行きにすらストーリーを持たせる上手さ

・ただなんとなくの遠近法トリックではない、綿密な計画性

・親子で一直線に並ぶ仲の良さ

「実物」や「現実」を撮るからこそ生まれる不思議さや遊び心が表現されている。この写真は、「写真表現とはこういうもの」というお手本のような作品であると筆者は思っている。仮に絵画で描いても、「家族の身長が等しくなっている姿」という必然性を見出すのは難しいだろう。こうした日常に潜む不自然さを切り取った絵画といえば、ルネ・マグリットが挙げられるが、絵画で表現される非日常性とはまた違う、この「妙な説得力のある違和感」は写真ならではの世界観かと思う。

ルネ・マグリット「不許複製」1937年

ルネ・マグリットのこの作品のポイントは、左下の鏡に映っている本が、正常に反転している点だ。

鏡であるはずなのに、人物は反転していない、ホラーな作品。マグリットが依頼人の男性を描いたものだが、ジェンダーレスが叫ばれる現代においては、この後ろ姿が男性なのか女性なのかも議論の対象になりそうだ。

動き:連続する時間を表現する

David Hockney「Nathan Swimming,Los Angeles, 1982」 1985年

写真といえば、「ある一瞬」を切り取るイメージが強いかと思う。もしくは、写真を使って時間の経過を記録したいならば「長時間露光」という機能で、一定のまとまった時間を撮影することもできる。車のヘッドライトなどがビヨーンと伸びている下のような写真を1度は見たことがあるかと思う。あれがその「長時間露光」による効果である。

しかしデイヴィッド・ホックニーのコラージュ写真は、その時間の捉え方と少し違う。写真を何枚も並べることで、1つの画面を構成している。

彼のコラージュ写真をみて気がつくのは、私たちは確かに「一点だけをじーっと見ていることなどほとんどない」ということだ。私たちは常に1つの景色を把握するために、無意識に目を細かく動かし、いろんなところを連続して見ながら全体を把握している。「人が泳いでいるプールの全体」が見えるまでに、泳いでいる人も静止しているわけではない。ひとかきくらい動いていそうである。少しずつズラしながら何枚も撮影された「瞬間の寄せ集め」の写真コラージュは、1つの空間の中で、写っている対象も、自分の視線も常に動き続けていること、その僅かな連続する時間の経過を表現したといえるのではないだろうか。

「真実を写す」とはなんなのか

杉本博司「エリザベス女王1世」1999年

見た目やタイトルからわかるように、映っているのは誰もが一度は耳にしたことがあろう、イギリスの偉人「エリザベス女王1世」の肖像である。しかし、ここでも違和感が生じる。世界史に詳しくなくとも、エリザベス1世の姿が写真として残っているのを見たことがあるだろうか?事実、彼女が生きていたのは1533-1603年。写真が初めて撮られたのが1826年と言われているので、こんな鮮明な写真が残っていることが不自然なのである。

ウィリアム・シーガー「The Ermine Portrait of Elizabeth I of England 」1585年
(実際に世界史の教科書などでよく見かけていたのは、こういった絵画のエリザベス女王だろう。)

この作品は、博物館の展示などに使用する目的でリアルに再現された女王の「蝋人形」を、高い写真技術を用いて鮮明に撮影したものである。筆者が面白いと感じる部分は、「写真で撮った方が蝋人形(実物)よりもイキイキとした本人に見える」点である。

本来、写真は「記憶を保存する」要素が強いものだったはず。しかしこの作品は、まるで1度亡くなった人物を“写真技術によって蘇らせている”ようだ。また、蝋人形という「嘘」を撮って、「真実」を再現していると捉えてもいいと思う。そして、ここまででも十分面白いのだが、さらに少し深い面白さがある。

(しかし、小難しい歴史の話をするので、興味がない方はここまでにすることをおすすめする…)

日本の写真の略史

みなさんは「写真」という言葉の歴史をご存知だろうか。細かい解説は泣く泣く省くが、「写真」の原型「photograph」という言葉は、本来「光で描く」というニュアンスだそうだ。実際に日本では「photograph」を「写真」と訳すのか「光画」と訳すのか、今でも議論が続いている。実際に「photograph」を「写真=真実を写す」と捉えた場合、言葉だけでみるといろいろな矛盾点が出てくる。

例えば1920年代には「写真こそが真実」という風潮が広がり、報道写真(フォトジャーナリズム)がとても流行った。今でもよく見かける「芸能人の○○!△△と一緒にマンションから出てきた!」みたいな、あれである。内容はどうであれ、確かに「事実」を切り取ったものである。

しかし、それは実際に「事実=現象の記録」はしているものの、その理由や背景、経緯は何もわからない。「一緒にマンションから出てきた」は「事実」かもしれないが、だからといって「交際している」とは決定できない。しかし、その報道の切り取り方はさも「交際している!」とでも言いたげだ。(話は逸れるが、そもそもこういった個人的な話を報道というのか、というの点は問題提起したいところだ)

これらの「事実」は、はたして「真実」なのか。もしかしたら「photograph」を「光画」と捉えていたらこんな現象は起こらなかったかもしれない。

杉本博司さんの作品は、このように「写真=真実を写すもの」と捉えた時の矛盾点を見事に炙り出している。蝋人形を撮ったという「事実」は、エリザベス女王がまるで200年後の写真機の時代にいたかのような嘘の「真実」を演出する。私たち鑑賞者はその嘘を頭ではわかっていても、この作品を鑑賞する時にはその嘘の「真実」を感じざるを得ないのである。

いかがだろうか。今回は写真作品を鑑賞しながら

  • 静止:計算された決定的瞬間
  • 錯覚:実物を撮るからこそ生まれる遊び心
  • 動き:連続する時間を表現する
  • 虚実:真実を写すとはなんなのか

という観点で、写真表現の多様性と見どころを解説してみた。写真という媒体1つをとっても、偏見と革新の要素がこんなにもあることが実感いただけたであろうか。

アート鑑賞と他者理解について

「他者理解」という漠然とした概念について、アート鑑賞の側面からアプローチしてみた。アートに限った話ではないが、このような鑑賞を通じて「思い込みから抜け出すことの喜び」や「人の思考を読み取っていく楽しさ」を少しでも実感いただければ幸いである。また、こうして新しい見方や考え方を積極的に知ろうとすることや、他者を理解しようと歩み寄る姿勢が伝播することは、ひいては自分が他者に肯定されることにもつながると思う。

日々、なんとなくスクロールしてしまっているSNSの写真にも、撮影者の意図が隠されているかもしれない。その意図を読み取ることの面白さを見つけてもらえたら嬉しい。

美術解説するぞー 鈴木博文(すずき・ひろふみ)
東京学芸大学教育学部 美術専攻卒業。中学校美術科正規教職員歴9年 / 累計5,000名の生徒・児童を担当。大人向けのワークショップや講演も開催 / 累計600名以上と交流。美術の楽しさを子どもよりも、まず大人に伝えたいと一念発起。2022年2月退職・独立。
現在はSNSでの発信を続けながら、企業とのタイアップワークショップや、展覧会解説アンバサダー、講演、執筆などを通じて、美術の楽しさを伝える活動を行っている。夢は「美術界のさかなクン的存在になること」。
初心者でも美術を楽しめる上野のアトリエBiju-美授-代表SNS総フォロワー数30,000名。
運営アカウント
美術解説するぞー
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寄稿:美術解説するぞー
編集:おのれい