よりよい未来の話をしよう

現代アートがわかりづらい理由。アート鑑賞を通じて育まれるものとは?

今回「ソーシャルグッドと現代アート鑑賞の関連性について」論じる依頼を受けた。「ソーシャルグッド」とは社会に対して良いインパクトを与える活動やサービスの総称のことを指すが、今回は「ソーシャルグッド=よりよい社会を形成するための考え方や行動全般」と捉えることとしたい。

ソーシャルグッドを目指す上で欠かせないのは、1人ひとりが「見ず知らずの世界に対して想像力を働かせたり、関心を持つこと」であると考える。これはとても簡単そうに見えて難しい。例えば、会社や学校の知人や友人に対して、あるいはパートナーや家族に対して、「これをしたら失礼にあたるからやめよう」とか「きっと◯◯したら喜ぶだろうな」と想像をすることは容易である。しかし、ほんの少し人間関係や社会の半径を広げると、途端に実感と想像が難しくなる。例えば、「東京都が現在抱える社会問題」と言われたらどうだろうか?ホームレスや、ポイ捨て、ゴミやフードロスなどの問題がなんとなく想像にあがるだろうか?ではそれを群馬県…関東…日本…アジア…地球としたらどうだろうか?それぞれが異なるバックグラウンドを持つ中で生活しているが故に、これらの社会問題全てに当事者意識を持つことは難しい。
また、自分以外の他人がどう感じているか想像したり、その多様な考え方を知り、認め、受け入れたりするのも難しいことがある。しかし、このソーシャルグッドの中でも大切なスタンス

  • 見ず知らずの世界に対して想像力を働かせたり、関心を持つこと
  • 他者の存在や思考を認めたり、その多様性を楽しむこと

において、アート鑑賞ほど適する手段はないのではないかと感じたので、その関連性について以下で述べていきたい。

現代アートはわかりづらい

早々に残念なお知らせなのだが、アートはわかりづらい。わかりづらくて当然なのだ。その理由は大きく2つ挙げられる。

1つは、既存の美術教育の遅れによるものである。みなさんは美術といえばどんなイメージが思い浮かぶだろうか?おそらく絵の具で汚れながら、「画家」が筆でキャンバスに絵画を描いている姿や、りんご、石膏像のような形を創造するのではないだろうか。しかし、このイメージは近代の西洋美術から由来するもので、「平面上に写真のように何かを再現する」という表現手法は、実はすでに200年前に終焉を迎えている。ここから小難しい歴史の話が続くので、興味がない方は次項に飛ぶことおすすめする。

時は1826年。写真技術の登場によって、「平面上に写真のように何かを再現する」必要性がなくなった結果、美術史は「写真ではない、絵画にしかできないこと」を模索することになった。(この大きな潮流は「モダニズム」と呼ばれている。)だから、近年の作品は次に挙げるように「一見何が描いてあるのかわからない」のである。

ワシリー・カンディンスキー 「コンポジション VIII」 1923年

また、さらにたたみかけるようだが、この「絵画にしかできないこと」も1960年代にルーチョ・フォンタナという画家の登場によって一時終焉を迎える。なんと、画面に穴を開けてしまったのである。

ルーチョ・フォンターナ:Lucio Fontana「空間概念・期待」 1965年

これまで、ひたすら絵の具をぶちまけたり、画面を1色で塗りつぶしたり様々な新しい表現が試行されてきたが、画面に穴あけ始めたらいよいよである。この作品の登場により、「絵画や平面表現にできる新規性はもうない」と、美術史が2回目の大きな行き止まりにたどり着いてしまったのだ。

その結果、現代アートはますます「わかりづらい」方向に舵を着ることになる。絵画や彫刻以外での表現方法を模索し始めたのだ。

長くなったがアートがわかりづらい1つ目の理由を簡潔にまとめると、日本の美術教育は「2段階」遅れているからということである。

「リアリズム」=絵画でリアルを再現する
「モダニズム」=絵画表現にしかできないこと
「コンテンポラリーアート」=絵画以外でできること

これを読んでいただいているみなさんにも経験があるかと思うが、何かの作品を「模写」する美術の授業。あれは200年前まで行われていた「写真職人」を養成するための西洋の画家養成学校と同じ「リアリズム」教育なのである。その「模写」や「デッサン」を提唱し続けた日本の「リアリズム」美術教育は、「平面上に写真のように何かを再現する」ことが優れているという美術観を植え付けた。しかしそれは、現代アートの世界観からは2段階遅れている世界観であり、「本物の形とはかけ離れている絵画」や「絵の具以外の見慣れない素材で作られた造形物」なんて、宇宙人が宇宙語を喋っているように見えてしまうのは仕方がないことなのである。それは英語を一切学んでいないのに、字幕なしで英語の映画を観ている感覚に近いのかもしれない。

美術が「わかりづらい」理由の2つ目は、美術作品とは必ずしも断定的に内容が伝わることや、何かに活用されることを目的にしていないからである。
世の中には、テレビ番組や広告、駅の表示案内など「わかりやすい」コンテンツが溢れている。これらはより効率的に画一的な情報を届けることで、教育周知効果を高めたり、より多くの収益を上げることを目的にしている。近代文明の発達は社会に圧倒的な識字率の向上や、情報社会の発達、資本主義の台頭をもたらした。より効率的に、より素早く、より多く、よりわかりやすい内容が好まれるようになったのが近代社会の発展の歴史である。その結果、なんでも言語化すること、文字に起こすことが主流になった。その代償として、わたしたちは自ら想像し、創造することの楽しさを忘れてしまったのかもしれないと思うのだ。

対して美術作品は少し違う。必ずしも伝わることや使用されることを目的にしていないのである。むしろ“言語化が難しい内容”を、言葉に代わって表現したり、現代社会の状況や矛盾点、盲点を炙り出したり、今まで見向きもされていなかったミクロな世界を紹介してくれる。あるいは、生き方や考え方を新たに紹介してくれたり、代弁してくれる。つまり、住み慣れている環境、考えなくてもいい受身な環境から、1歩外の世界に導いてくれるコンテンツなのだ。同時にそれを楽しむためには、ある程度の「能動性」が求められる。

これら「日本の美術教育の遅れ」、「美術作品は伝わるために作られていない」という理由により、美術作品=作家がノリと独特なフィーリングによって作った訳のわからないもの、あるいは「芸術は爆発だ!」というイメージが先行してしまっているのである。そのため、一部の「センスのある」人しか理解できない、ちょっと変な領域のもの、格式の高いものと思われてしまっているのである。実際、そうやってスピリチュアルに、ポエティックに表現について語る作家が多いのも事実であるが、美術表現の領域は、意外とロジカルで体系的である。ここではその1部分を少し紹介したいと思う。

現代アーティストの作品の魅力

早速だが、まず、作品鑑賞をしてみようと思う。事前情報抜きで鑑賞してほしい。

VIKI(viable kids)《Unconscious Mirror LOT.046》¥206,640 他 2022年

みなさんはこの作品について、どんな感想を抱いただろうか。
筆者の鑑賞の手順はこんな感じだ。
―――――――
ぱっと見、まずぼんやりと肖像が目に入ってくる。
何でできているのか、素材が気になり、作品に近づいてみる。
刻んだレシートでできていることに気づく。
レシートには、実際に買ったものの記録がされている。
そのランダムな情報によって、肖像のペルソナが浮かび上がってくる。
ああー、レシートで人の形を描いているのね!
感熱紙の熱で黒くなる特性を利用して描く手法が面白い!
―――――――
と。徐々に作品の魅力を分解していく。この作品は、これだけでも十分魅力的な表現なのだが、さらに観客を引き込む仕掛けが施されていた。

この作品群は2021年度の東京芸術大学の卒業展覧会に展示されていた。つまり卒業を迎える学生の論文発表会のような立て付けなので、学生の作品を販売しているはずがない展示なのである。しかし、これらの作品群には値段が表示されていた。しかも“売約済を表す赤シール”が貼られていたのだ。

実際会場で耳に入ってくる鑑賞者の会話も興味深かった。それは作品や肖像についての上記のような内容ではなく「ここの作品はほとんど売れているんだねえ!」、「この作品とあの作品、似ているのに全然値段違うよ!?」と、もっぱら“作品の価格”についての話題だったのだ。
ここで種明かしをすると、この作品は展示当時は販売されていない。(後日別会場にて販売されるのだが)実は値段表示や赤シールは全て“無意味な表示”に過ぎなかったのだ。
では、ばらつきのあるこの値段はなにか?実はこれ、各作品に使用されている、レシートに記載された金額の合計に過ぎない。売約済みを示す赤シールもフェイク。さもたくさん売れているように見せることで、この作品が素晴らしいものに見えるようにするただの「演出」なのである。

この作品や作家の素晴らしいところは、演出や表現の全てが「レシート」でなければ成立しない点にある。

  • レシートは人々の行動の記録であること。買ったものの情報から、会ったこともない人格がなんとなく浮かび上がってくる
  • レシートがもつ感熱紙の特性を活かし、絵の具やインクは使わずとも形を表すことができる
  • 値段と赤シールの演出もレシートならではであること。仮にただ作者が適当につけたものでは、表示されている値段に必然性が見出せない
  • 普段はゴミとして処理される素材。それを活用して新しい価値を生み出してしまうこと。 凝り固まった常識が解きほぐされ、見落としている新しい価値に気づかされる。

つまり、この作品を通じて作者は
“もしこの作品に値段がついていなかったら、ただのレシートの塊に見えて興味を持ちにくいでしょう?でも、値段や赤シールが貼られているだけで、ゴミのはずの素材でも、とても興味が湧いてくるでしょう?そう、まるで誘蛾灯(ゆうがとう)のように。”
ということを訴えようとしていると、感じ取ることができるのである。

どうだろうか?種を明かされると「とても面白い!」と感じていただけるのではないだろうか。そして、このような世界観を解説されることなく、自分でも感じ取ってみたい、と思ったのではないだろうか。

しかし、実際にこのように作品を鑑賞しながら、自らの力で込められた思惑を読み取ることは難しいという声が多いのも事実である。

この後には、そんな「現代アートに興味はあるんだけど、解説を読むだけでなく自分でも能動的に読み取れるようになりたい」という方にちょっとしたアドバイスを提案する内容にしてみた。ぜひ最後まで読んでいただき、これからの美術鑑賞をもっと楽しむヒントに、そしてその想像力を日常生活にまで活かしていただきたい。

現代アートを能動的に楽しむコツ

現代アートを能動的に楽しむコツは、以下の3つだと考える。

1:素材の特性を想像する
2:行為の特性を想像する
3: キーワードは「時間」と「偶然」

1:素材の特性を想像する

さあ、ここからが本題である。前述したように特に「現代アート」と呼ばれるものは、様々な素材を使用することが多い。そのため、「素材が持つ特性」について考えると、意外と表現の狙いがわかりやすいことがある。例えば、先に紹介したVIKIさんの作品を例に挙げてみよう。彼の作品には、レシートが頻繁に登場してくるが、このレシートの特性を想像してみるのである。

繰り返しになるが、レシートといえば

  • 買ったものの情報が記載してある=人の行動や、生そのものの記録でもある
  • 感熱紙でできている=熱で黒く変色する
  • 無料で、一見ただのゴミ=多くの人にとっては見向きもされない、必要とされない素材

それらをたくさん集めると、

  • 作者が意図しない(できない)情報の塊ができる
  • 全くランダムな数字が生成される
  • 正体不明の人の意思が生まれる
  • レシートではなく、「感熱紙」という新しいキャンバスができる

どうだろうか。作品の意味がじわじわ浮かび上がり、考えれば考えるほど、まだまだメッセージが見えてきそうである。

2:行為の特性を想像する

もう1つ、別の作品を鑑賞してみよう。

マウリツィオ・カテラン《Comedian(コメディアン)》2019年
(写真:Wiktor Dabkowski/picture-alliance/dpa/AP Images)

この作品は2019年に、彫刻家のマウリツィオ・カテランが、アートフェア「アート・バーゼル・マイアミ・ビーチ」で発表した彫刻作品《Comedian》だ。

その辺のスーパーで売られているバナナ。「本物に見えるけど実は精巧な作り物」なんてオチを求めてしまいそうだが、残念。正真正銘、生のバナナである。なんとこの作品に1300万円の値段がついたのだ。ここ最近の「わかりづらいアートNo.」1と呼んでもいいのではないか思うほどだが、これについても鑑賞のコツは先ほどと同じである。まずは素材に注目してみよう。

バナナの特徴といえば、

  • 安価
  • 甘い
  • すぐ腐る
  • サルが好き

テープの特徴といえば、
(こちらはぜひ考えてみてほしい)

そして今度はさらにバナナが貼り付けられているという「行為」の特性にも注目してみるのだ。

「貼り付け(磔)」の特徴といえば

  • キリストが十字架に磔になっている姿→神の象徴
  • キリスト教に見られる「犠牲」
  • 懲罰や拷問「みせしめ」

どうだろうか。

バナナ+貼り付け
→「甘いけれどすぐに腐ってしまう安価なものが、まるで神のように扱われているみたいだ」

と、現代を象徴する「流行コンテンツの入れ替わりの速さ」を皮肉っているようなメッセージを読み取ることはできないだろうか?

このように、「素材や行動が持つ特性」を表現に取り入れるのは、実は現代アートに限った話ではない。
ここでは詳しく取り上げないが、例えば「ドクロ=死」を表すように、古くから絵画表現の中に見られるごく一般的な美術表現なのである。それを平面の中で表すのではなく、ものや空間を利用して表しているだけの違いなのだ。

3:キーワードは「時間」と「偶然」

3つ目のポイントを考えるうえで紹介したいのは、日本の現代美術家、宮島達男さんの作品である。

宮島達男 「それは変化し続ける それはあらゆるものと関係を結ぶ それは永遠に続く」1998年

東京都現代美術館のコレクションとして収蔵されているこちらの作品。全部で1728個のLEDのデジタルカウンターが、「1~9」の数字を表示している。 (※0は表示されない)そして、その特徴はそれぞれの数字が異なる速さで表示されているという点である。

先ほどのように
素材の特性 → デジタルカウンターといえば…?
行為の特性 → 「1つひとつが違う時を刻む」ということは…?
という点にぜひ注目して想像していただきたいが、

ここで取り上げたいのは、
「時間そのものが表現になっていること」と、「作者すら操作できない偶然が発生していること」である。

先に解説をしてしまうが、この作品は人間が生まれ、死に、そして再生する「輪廻」という東洋的な思想を現代のテクノロジーを用いて表現したものだそうだ。1つひとつ異なる間隔で数字を刻むカウンターは、固体による寿命の違いや、個々が感じ取れる時間の多様性を表しているのである。

このように「時間」そのものが、表現の材料として使われ始めたのが、現代アートの大きな特徴である。それは何も長い時間とは限らない。ごく短い時間を作品に取り入れているものもあるだろう。

そして1728個もの異なる時間が刻まれているこの作品は、おそらく「2度と同じ数字の組み合わせを目撃することはできない」のは、想像に易い。作者ですら、どのタイミングでどの数字が表示されているのか把握不可能なのである。このように「作者すらも操作できない偶然性」を作品に意図的に仕掛けるのも、現代アートの特徴である。
こうした仕掛けは近年実に様々な作品に見られるので、注目してみるとより鑑賞しやすくなると思う。

美術鑑賞の有用性

ここまで現代アートを能動的に楽しむコツを

  1. 素材の特性を想像する
  2. 行為の特性を想像する
  3.  キーワードは「時間」と「偶然」

の3つに絞り紹介してきたが、こうして美術鑑賞や美術表現の世界に触れることは「物事の抽象度を高めて、世界をより幅広く多角的に捉えることができる」ことにつながると筆者は考えている。

かの巨匠、マーク・ロスコはこんな言葉を残している。
「外形のみを追求していけば、精神の存在は完全に抹殺されてしまう」

あまりにも強烈な表現ではあるが、言い換えると
「説明的すぎる内容は意味を限定し、想像力を損なってしまうよ!もっと想像の余地を楽しもう!」ということだと、筆者は捉えている。

そして、アートのわかりづらさを楽しんだり、あらゆる多様性に触れることは冒頭のソーシャルグッドを目指す上で重要なこと

  • 見ず知らずの世界に対して想像力を働かせたり、関心を持つこと
  • 他者の存在や思考を認めたり、その多様性を楽しむこと

につながるのではないかと考えるのである。

SNSの発達や、未曾有のパンデミックによって、コミュニケーションの手段が大幅に変化した現代社会。
便利になった反面、他者の感情を汲み取ることが難しくなったり、対面ではないからと容易に人を傷つける言動が横行し、その結果死者が出てしまっていることは、自明の事実だ。
こんな時代だからこそ、自由で枠組みが定められていないアート表現に触れ、想像力を鍛えたい。そして、その想像力で他者の存在や思考を認め、その多様性を楽しむ力を身につけたい。本稿が、その一助になっていたら嬉しい。

 

美術解説するぞー(鈴木博文(すずき・ひろふみ))
東京学芸大学教育学部 美術専攻卒業。中学校美術科正規教職員歴9年 / 累計5,000名の生徒・児童を担当。大人向けのワークショップや講演も開催 / 累計600名以上と交流。美術の楽しさを子どもよりも、まず大人に伝えたいと一念発起。2022年2月退職・独立。
現在はSNSでの発信を続けながら、企業とのタイアップワークショップや、展覧会解説アンバサダー、講演、執筆などを通じて、美術の楽しさを伝える活動を行っている。夢は「美術界のさかなクン的存在になること」。
初心者でも美術を楽しめる上野のアトリエBiju -美授-代表SNS総フォロワー数25,000名。
運営アカウント
美術解説するぞー
https://www.instagram.com/bijutsukaisetsu.suruzo/
Biju -美授- art & experience
https://www.instagram.com/bijuueno/


寄稿:美術解説するぞー
編集:おのれい