よりよい未来の話をしよう

大島育宙|『宮藤官九郎論』(後半)「『あまちゃん』に消された不適切な記憶」

2024年も、相も変わらず宮藤官九郎の年かもしれない。

2000年代初頭からひっきりなしに、何年かに1度「クドカンの年」があった。

その度にサブカルの民が、パロディや内輪ギャグまみれの反則的な脚本世界とともに、「脚本家先生」にしては妙にとっつきやすい飄々とした本人のキャラクターを甘やかしてきた。「クドカン」の存在は愛称とともにいつしかサブカルの村から染み出し、しれっと国民的存在になっていった。

そしてまた、2024年も、みんなが自分ごとのように「クドカン」ドラマを語る奇妙な1月クールで幕を開けた。一体いつまでクドカンの時代なのか。真剣に検証する時期が来ている。

▼『宮藤官九郎論』前半はこちら

クドカンドラマは「ずっと不適切」だった

宮藤官九郎が全話の脚本を手がけた連続ドラマ『不適切にもほどがある!』(TBS系、2024年)の完結からまもなく1ヶ月が経つ。間違いなく、彼のキャリア史上最も賛否両論を巻き起こした作品であった。

私は6話放送後時点で執筆した本稿の前半で「宮藤官九郎という脚本家が、自身のキャリアを賭けて首を洗って差し出しているようなドラマ」と評した。しかしながら、いち視聴者として全話を完走して、その反響も通り過ぎてみると、どうも誰の意図も噛み合っていないチグハグで壮大なすれ違いを見ていたようである。冬クールが終わって春が訪れるというのに、秋の終わりのような荒んだ気持ちなのだ。

思うに、その季節の終わりは「クドカンの確変タイム」の終わりなのではないか、と思う。今回のドラマを見て「クドカンも鈍ったな」「クドカンも枯れたな」という評を目にし耳にするが、ずいぶん雑だなと言うほかない。言ってしまえば、クドカンドラマなんてずっと不適切だった。

クドカンドラマがその時代において王道で模範的だったことなど、あったとしてもごく一瞬である。初期の『IWGP』(TBS系、2000年)、『木更津キャッツアイ』(TBS系、2002年)なんて細かく分析するまでもなく有害な悪童文化を描いた「親に隠れて見るような」ドラマだったし、『マンハッタンラブストーリー』(TBS系、2003年)、『うぬぼれ刑事』(TBS系、2010年)なども既存の恋愛ドラマを即物的に誇張することで批評した、品があるかといえば圧倒的にないドラマだ。

『タイガー&ドラゴン』(TBS系、2005年)、『俺の家の話』(TBS系、2021年)といった家族社会モノでさえ、卑近な下ネタは削られない。2010年頃までのクドカン作品はどんなにヒットしようと「他のドラマより小気味よくて面白い」カウンターカルチャーだったのだと思う。他の脚本家が同じ時間帯のドラマや同じ公開規模の映画でやらなそうなくだらない小ボケ、狭く文脈依存的なパロディギャグがなぜか「クドカン」の世界だけで許されている、その治外法権的な空気と雑多な情報量が、間違いなく「本当に面白いものを知ってる我らの世代」という排他的高揚感を生んでいた。これを「第一次クドカン甘やかし期」と位置付けたい。

「低視聴率」なのに熱狂的に支持されるクドカンドラマ

ドラマ不況の今でこそ「クールを代表する王道ドラマ1位」として話題に挙がってしまうようになったが(これが不幸な状況であることは後述する)、この頃はどんな枠に抜擢されても「低視聴率」と叩かれ、しかし視聴者には熱狂的に支持される、という繰り返しだった。それもそのはずだ。「自分たちはカウンターカルチャーが理解できる!」と感じたい少数派のためのドラマだったのだから、視聴率を取ってはむしろ台無しだ。視聴率なんか取らない方がカッコよかったのだ。

「第一期」は、とにかく時代の空気とクドカンの気質が完璧なまでにマッチした時代だ。倦怠的なゼロ年代の空気を冷笑するように、「上の世代にはウケなくていいからさ、俺らだけでこっそり楽しもうよ」と狭い世界を志向した捻くれっぷり。その捻くれの姿勢が奇跡的なまでに時代のニーズとマッチした。

マイルドヤンキー的ホモソーシャルをリアルに活写した『木更津』は、今や死語になりつつある「セカイ系」と「日常系」の良いとこどりに成功した最初にして唯一の実写作品かもしれない。郊外のローカルに終わりなく続く日常に世界を閉じ込め、一抹の死の匂いを振りかける。

『木更津』で見せた「箱庭のような日常系の空気」と「青空の壁紙を弾丸が突き破ってくるように襲う暴力の臭い」は、クドカンの常套手段になってゆく。『タイガー&ドラゴン』では落語世界に軽々しく登場する死としてメインの世界にはっきり隣接し、『ごめんね青春!』(TBS系、2014年)にチラつく火災のイメージ、『あまちゃん』(NHK、2013年)に漂う震災の予感などに援用されていく構図だ。

しかし、ここまでは、世代を代表するカウンターカルチャーの旗手としてはむしろ王道の歩みだ。宮藤官九郎という作家が巨大化していく異常は「第二次クドカン甘やかし期」に顕著となる。

『あまちゃん』で塗り替えれられた過去の文化的狼藉

私の定義では「第二期」の始まりは『あまちゃん』からだ。「朝ドラ」「震災」という国民的な文脈を背負った特異点的傑作が「クドカンの代表作」と見做(みな)されたあたりから作家のキャリアが狂っていく。

『あまちゃん』は面白い。が、古参ファンほど、これを満場一致に代表作とすることに違和感を持つのではないか。みんな、『あまちゃん』に泣かされたばっかりに『あまちゃん』以前のクドカン史を『あまちゃん』の香りでコーティングして上書き保存してしまっていないか?

私は忘れない。『木更津』を初めて観た時の爽やかだけどイヤな感じを。私は忘れない。『タイガー&ドラゴン』を初めて観た時の小気味良いけど圧が苦しい印象を。

『あまちゃん』には驚くほどそれがなかった。クドカンによるNHK初脚本だったことからもわかるように、当時の朝ドラとしても挑戦的な抜擢だったはずだ。既に知名度も受賞歴も兼ね備えていた宮藤だったが、どう考えてもNHKらしい、まして朝らしい作家であるはずがなかった。3年前まで良い年した男たちが夜な夜な集まって色恋の話ばかりする連ドラを書いていた脚本家だ。

そんな異物脚本家が朝ドラというメインカルチャーで成功してしまったから大変だ。以降、数年に一度チャレンジングなNHK仕事が続き「NHKっぽさ」の色がつき続ける。それも『いだてん~東京オリムピック噺~』(NHK、2019年)で大河と東京オリンピックというこれまた大きな国策的文脈を背負ったり、生田斗真やイッセー尾形とマンツーマンで組んだり、正月時代劇『いちげき』(NHK、2023年)で現代と幕末を重ねるような傑作を生んだりするなど、ハズさない。

企画への嗅覚と言おうか、自身が生きる場へのこだわりと言おうか。(これはこれで宮藤の天才性としてまた改めて紙幅を割いて語らねばならない論点なのだ)要するに「NHK×クドカン」となった時に有害や下品の方向のチャレンジはできない、ではどんな挑戦なら自身のカウンター性をNHKで生かせるか、を熟慮した仕事のみ進行した結果、歴史的ないし芸術的に価値ある「NHKっぽい」キャリアを築けてしまったのだ。

「第二次クドカン甘やかし期」の恐ろしさはここからだ。オセロがパタパタとひっくり返るように『あまちゃん』以前の文化的狼藉の数々が「国民的作家先生の若き日のお仕事」として脱色して受容されるようになった、と私は疑っている。本稿の前編で私は『うぬぼれ刑事』で限界が露呈し「クドカンの脱皮への挑戦」が『ごめんね青春!』から始まると論じた。

このターニング・ポイントがドラマ作品として挟まる『あまちゃん』だと断定したい。民放でサブカルヒーローとして甘やかされ、不適切なチャレンジを繰り広げていたヒールが、NHKというシャレにならない場に招かれてしまった。

「NHKでは品行方正(ひんこうほうせい)なチャレンジを、民放や有料配信プラットフォームではちょっとセンシティブなチャレンジを」。この方向性が確定した2014年以降、ちょうど10年目が『不適切にもほどがある!』の2024年だったのではないか。

最も不幸な「第三次クドカン甘やかし期」

先述したように「あまちゃん」があまりに国民的偉業としてハマってしまい、「悪ガキ大将脚本家」だったはずの2012年までのキャリアも「優等生の半生」として誤った回顧をされるようになった。これが「第二次クドカン甘やかし期」の不幸であると思う。

そして訪れた「第三次クドカン甘やかし期」は2024年、つまり『不適切にもほどがある!』の絶賛派の反応だ。正確に言えば前年末の『ゆとりですがなにか インターナショナル』(2023年)『離婚しようよ』(Netflix、2023年)あたりから始まっていたようにも思うが、やはり民放連ドラで不特定多数の目に一気に触れた『不適切』の反応が顕著だった。

『不適切』の冷静で鋭い感想や批評をネットの海から見つけるのは、干し草の中から針を見つけるような困難だった。大きな声で拡散されているものほど、物語を読む作法を何歩か手前で学び直さなければいけないような、劇中のセリフや描写の意味を、至りたい結論に向けて恣意的に選び取り、そうでない反証的なパーツを無視する苛烈な罵り合いの空間がそこにはあった。

絶賛派はこのドラマに描かれた昭和への反省や忌避を無視して「やっぱり今の時代は生き辛い!昔はよかった!」と別のドラマを観たかのような感想を喚き、糾弾派も同じくこのドラマに描かれた昭和への反省や忌避から敢えて目を逸らして「そんなに昭和に戻りたいのか」と、これまた別のドラマを観たかのような批判を連ねた。

1つの作品を評して、絶賛派と糾弾派が同じ誤読・読み飛ばしをして、同じもはやそこに存在しない作品について語り、そして双方が自身の内面に元からあった結論に向けて作品の一部を利用しているだけなので議論の溝は埋まらない、という奇怪な現象が毎週のように繰り返された。「価値観の代理戦争」に見えてその実、代理となるプレイヤーたるドラマ本編の描写や文脈は無視され続けた。

私はこれを見ながら「クドカンも、絶賛派も、糾弾派も、みんな迂闊だ」と感じて気分が荒んだのだった。クドカン作品は昔からずっと迂闊だった。その迂闊さが異常に時代とシンクロし、国民的地位を得て、見過ごされ、誤読した層に支持された、今が最も不幸な「第三次クドカン甘やかし期」だ。『不適切』の現代描写の全てが行き届いていたとは思わない。私も折に触れて明らかにアウトだと感じた部分は摘示してきた。それでもやはり、ドラマの責任を超えて、そしてドラマの読み取りを怠って行われる過激な糾弾の波はとにかく速く、いくら論点を分解して発信しても追いつけなかった。

「話し合いましょう」と「寛容になりましょう」

誤読や読みの怠りに基づく過剰な糾弾について、ひとつひとつここで摘示するのは字数の都合上難しいが、押し並べて言えるのは「劇中のセリフ=作品のメッセージ」と直結する読みが随分無検討に繰り広げられていた、ということだ。主にミュージカルシーンの歌詞については毎週のように議論が起きたが、歌詞を直接「結論」と受け止める読みがいつから許されるようになったのだろう、と頭を抱えた。

複数の価値観が併存する設定の中で、ある人物が別のある人物に向けてそれを歌った、という表現である。それが作り手のメッセージとイコールなのかは当然に検討されるべきだが、多くの視聴者にはされなかった。

前編でも「『他人の性的自由を自分の娘を基準に考える』と歌う回が賛否両論を巻き起こしたが、それはあくまでドラマ内で一部の人たちが内面化した一案であり、ドラマがメッセージとして発信しているガイドラインと読むべきではない」と述べたが、その次のインティマシー・コーディネーターを巡る回で主人公・市郎(阿部サダヲ)は濡れ場の撮影中に女優の顔を娘の純子(河合優実)と幻視する。前の回の歌の内容と内心が矛盾する、という明確な描写だ。

こうした歌詞と劇中価値観の不一致と併存は随所に描かれる。最終回の初見時、私も「寛容になりましょう」というミュージカルに違和感を持った。テレビという特権側が視聴者に発信するメッセージとしては傲慢ではないか?と。しかし、繰り返し鑑賞するうちに、サカエ(吉田羊)が「寛容と甘えは違う」ときっぱり注釈していることに気づいたり、次の場面で渚(仲里依紗)だけが「寛容になりましょう」と口ずさんでいることから、実質的な視点人物・主人公である渚だけに向けられたパーソナルな歌ではないか、との解釈が立ち上がった。

さらに、友人と議論をするうちに、これは第1話の「話し合いましょう」と呼応し相互補完するアンセムであり、「話し合いでもどうしようもないことはあるからそんな時はお互い線を引いて寛容になりましょう」という歌だとの解釈に辿り着いた。エレベーターでパワハラの加害者/被害者となってしまった渚と後輩社員・杉山(円井わん)はほとんど目も合わせず、謝罪もせず、別れる。「寛容」を絵にするとこんなにもドライなのだ。

適切な「クドカン視聴者」のあるべき姿

現代に製作されたドラマなのに昔のドラマへのフォローのように「この作品には 不適切な台詞や喫煙シーンが含まれていますが 時代による言語表現や文化・風俗の変遷を描く本ドラマの特性に鑑み1986年当時の表現をあえて使用して放送します」というテロップがやたらと流れる、というこのドラマならではのお決まりギャグ。最終回、最後の画面に映ったのは「2024年当時の表現を」と書き換えたテロップだった。

本作の終盤に、2024年の価値観を少しだけ勉強した市郎が1986年に戻って当時の学校を急速に改革したことからも、このドラマが「昭和的なマッチョ思考へのノスタルジーとバックラッシュ」を意図したものではないことは明白だ。最後のテロップも「よりよい未来はいつも先にある」というだけで、2024年の人権感覚を無下に揶揄するものと読むのは無理がある。

しかし、その温度が視聴者にどの程度届いたのか。これはかなり怪しい。「第一次甘やかされ期」に深夜や民放で暴れ回って囃(はや)され、「第二次甘やかされ期」にNHK仕事がきっかけで品行方正(ひんこうほうせい)に誉められる。クドカンと市郎の生は恐ろしいほどにシンクロしている、と感じる。

となれば、未来からタイムスリップのアクセスを市郎が得たところでドラマが開かれて終わったように、クドカンのキャリアも無数に開かれていると信じたい。時代の悪童寵児から、国民作家となったことで過去のキャリアがウォッシュされ上書き保存され、自身の築いてきたイメージが仇となって議論の渦中に取り残された、彼の未来を。

『いだてん』で関東大震災と、『あまちゃん』で東日本大震災と向き合った宮藤は『不適切』では阪神・淡路大震災とかなり抽象的に対峙した。奇しくも現在テレビ東京系で放送されているDisney+で配信された宮藤の企画・監督・脚本のドラマ『季節のない街』(Disney+、2023年)は山本周五郎から黒澤明を経て受け継がれてきた震災文藝の継承作品だ。そこにある「震災」の爪痕は日本という島国が永劫逃れることのできない普遍的な記憶でもある。「池袋」や「木更津」のローカルに閉じこもった悪童作家が50代になって「日本」というちょっとだけ広いローカルを射程に置いた、と考える。

ここで私は敢えて言いたい。宮藤官九郎のキャリアは、まだ始まったばかりだ、と。問題児を適切に叱れなかった日本語空間を情けなく悔いるとともに、いつでもちゃんと叱る準備を備えて、目を光らせる。それがクドカンの視聴者のあるべき姿じゃないの、と思う。

 

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大島育宙(おおしま・やすおき)
1992年生。東京大学法学部卒業。テレビ、ラジオ、YouTube、Podcastでエンタメ時評を展開する。2017年、お笑いコンビ「XXCLUB(チョメチョメクラブ)」でデビュー。文化放送「おいでよ!クリエイティ部」、フジテレビ「週刊フジテレビ批評」にコメンテーターとしてレギュラー出演中。Eテレ「太田光のつぶやき英語」では毎週映画監督などへの英語インタビューを担当。「5時に夢中!」「バラいろダンディ」他にコメンテーターとして不定期出演。J-WAVE「GRAND MARQUEE」水曜コラム、TBSラジオ「こねくと!」月曜月1レギュラーで映画・ドラマの紹介を担当。

 

寄稿:大島育宙
編集:吉岡葵
写真提供:©TBS