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矢田部吉彦|ニナ・メンケス監督特集:映画の文法を刷新する女性監督のパイオニア【世界と私をつなぐ映画】

先日、20代の方々に向けて世界の映画祭の話をする機会があり、そこで最近の映画祭の傾向について質問を受けた。いくつかの答え方があるが、ひとつだけ挙げるとしたら、それはやはり女性の監督の躍進につきる。

カンヌ、ベネチア、ベルリンを「メジャー映画祭」と呼ぶとして、2020年2月から2024年同月までを数えると、メジャー映画祭は12回開催されている。その12回のうち、実に7回において、女性監督作品が最高賞を受賞している。過去のどの5年間を切り取っても、この数字は出てこない。なんといっても、カンヌ映画祭で2021年の最高賞を受賞したジュリア・デュクルノー監督は、当時で74回を数えていたカンヌの歴史の中で、28年振り2人目の女性監督受賞だったのだ。

ことほどさように、映画界は男性と男性監督が支配する世界だった。2017年の#MeToo運動で潮目が変わり、世界中の映画祭は女性監督の作品を積極的に取り上げるようになり、その結果受賞作も増え、上記の数字へと繋がっていく。

同時に、男性支配が強固な時代に作品を作り続けた女性監督たちに再び脚光が当たるようになり、その象徴的な例がベルギーのシャンタル・アケルマン監督であるが、彼女の描く女性の主人公の思考と行動は、フェミニズムの考え方が浸透しやすくなった環境の中で、新たな支持者と理解者を生み、日本でもリバイバル上映がスマッシュヒットを記録したのだった。

上記のような流れの中で、「新たな」女性監督が日本で紹介されようとしている。アメリカのニナ・メンケス監督である。今回の監督特集が初の日本における劇場公開となるように、日本における知名度は低いが(世界における知名度も決して高くはない)、男性による映像言語を否定し、女性としての演出を意識的に手掛けてきた存在として、現在まさに「再発見」されるべき監督である。絶好のタイミングでの特集上映であると言えるだろう。どのような作家なのか、紹介してみたい。

ニナ・メンケス監督

※なお、「女性監督」というタームを使うことに抵抗が無くはないが、監督に性別が関係ないことが完全に常識化するまで、期間限定的に用いることとする。

ニナ・メンケス監督のプロフィール

ナチのドイツからアメリカに逃れたユダヤ人の両親のもとに生まれたニナ・メンケス監督は、生年を公表していない。なので年齢を探るのは野暮というものだが(ところでどうして日本のマスメディアは必ず生年月日を要求してくるのだろう)、1981年にUCLAで映画を学んでいることから、現在(2024年)は60代なのだろうと推測するに留めよう。

その81年に、ニナ・メンケス監督は姉妹関係を描く短編映画を作り、そこに実の妹のティンカ・メンケスが出演する。初演技だったティンカを見て、ニナはその演技力と存在感に驚き、以来ティンカはニナの内面を体現するキャラクターとして5本の作品に出演することになる。83年に発表した短編『The Great Sadness of Zohara』は米国内の複数の映画祭で受賞し、86年に初長編『マグダレーナ・ヴィラガ』を発表。現在に至るまで7本の劇場用長編作品(うち1本ドキュメンタリー)を手掛けている。

メンケス監督は、80~90年代にフェミニズムを底流に持つ意欲的な作品を発表した女性監督のパイオニアのひとり、と目されている。その作風は実験的と称されることもあるが、いわゆる実験映画とは異なり、作品には物語が存在する。とはいえ、起承転結のはっきりしたそれではなく、時制は自在に入れ替わり、エピソードは反復を繰り返し、次第に抽象性を増していく過程で、孤独感や疎外感が強調され、セクシュアリティや暴力の存在が描かれていく。

監督はこう語る。

「私にとって映画とは魔術です。観客と私自身の知覚を刷新し意識を拡大すべく世界と交流するための、創造的な方法なのです」

(※1、筆者訳)

※1 引用:New York Times “A Cinematic Sorceress of the Self“ 
https://www.nytimes.com/2012/02/19/movies/retrospectives-of-the-filmmaker-nina-menkes.html?_r=1/

120年に渡る歴史のなかで映画は誰目線の、何を写してきたか、を問う。
『ブレインウォッシュ セックス‐カメラ‐パワー』

『ブレインウォッシュ セックス‐カメラ‐パワー』(22/以下『ブレインウォッシュ』)は、男性の視線に基づいて作られてきた映画の歴史を検証するドキュメンタリーであり、ニナ・メンケスの作品世界を直接体験するものではない。ただ、たとえニナ・メンケス監督に興味がなくても見てもらいたいのは本作で、映画の偏った演出に対する知識が深まるという点で、まずは本作を広く勧めたい。

もちろん、ニナ・メンケスが監督するドキュメンタリーであり、彼女の思考が作品を牽引していることから、まぎれもないメンケス監督作品ではある。本作に興味を覚えたら他の作品にトライするのもいいし、もともとコアの映画ファンの方であれば、必ずしもこの作品から始める必要はない。いずれにしても、映像を作る人にも、観る人にも必見なのが、『ブレインウォッシュ』という作品なのだ。

ニナ・メンケスが聴衆に対してレクチャーをする形で、作品は進行する。そこで解説されるのは、映画の映像言語が、いかに男性の視線によって作られてきたか、という点である。物語における家父長制の解釈は今回の検証対象でなく、表現方法/撮影方法に議論を絞り、数多くの作品のフッテージを見せながら、映画の視点を徹底的に解剖していく。

© BRAINWASHEDMOVIE LLC

何を作るか、そして、何を見せるか、という映画の選択の世界において、決定権を持つ人間のほとんどが男性である結果、映像は男性の視線で埋め尽くされる。男性が主体、女性は客体という関係が常態化し、女性を眺める男性、その男性の背後から撮影する男性のキャメラマン、そのキャメラマンに指示を出す男性監督、その画面を見る男性観客、という構図が、効果的なグラフィックを用いながら説明される。

男性視線に基づく画面作りにおいては、女性の肉体のパーツの強調やスローモーションが多用され、女性は性的搾取の対象となっていく。セクハラを告発するはずの映画の中においてすら、男性視線のショットが紛れていることもある。

いままで漠然とイメージしていたことが、実際の映像を示しながら理路整然と解説されるため、絶大な説得力を持つ。

映画ファンとして辛いのは、偉大だと目されている監督や、名作と評価されてきた作品に対しても、容赦ないことだ。例えば、アルフレッド・ヒッチコック監督はまさに「視線」の監督として有名だが、それを映画演出の技巧としてではなく、搾取の視線として提示されると、自分のいままでの鑑賞体験を見直せざるを得ない(※2)。マーティン・スコセッシ監督の代表作の1本『レイジング・ブル』(81)も、男性の視線上の「物(モノ)」として配され、声さえ奪われた女性のシーンが分析の俎上に上がる。

© BRAINWASHEDMOVIE LLC

人種差別の観点から注釈が必要となった『風と共に去りぬ』(39/ヴィクター・フレミング監督)や、LGBTQ+の観点から受け入れ難い描写を含む『クライング・ゲーム』(92/ニール・ジョーダン監督)や『羊たちの沈黙』(91/ジョナサン・デミ監督)など、かつては名作と呼ばれた作品に対する接し方を改めなければならないケースは少なくない。そして、それらの作品を楽しんだ過去の自分の否定につながる行為は、意外に難しい。そんな、たかが映画を否定することを難しいと思ってしまうくらいだから、無意識化に浸み込んだ根深い偏見をくつがえす行為の難しさたるやと、自覚するばかりだ。でも自覚することからしか、始められないのだ。

男性視線の演出が、映画の中の話だけにとどまっているのであれば、呑気な演出論を交わすのも許されるかもしれない。しかし、メンケス監督の指摘は、そこだけでは留まらない。男性視線のファンタジーは観る者の無意識に浸透し、女性の権利と安全を軽視する態度へとつながる。さらには、性加害の増加へと至る。

フェミニズムに対する、反フェミニズムの反論には長い歴史があるはずで、ヒッチコック演出批判への抗弁も可能なのだろう。子どもに悪影響とされる番組を制限する動きを堅苦しいとする風潮も、常に存在する。犯罪映画を見た人が犯罪者になるわけではないだろうという常套句は、人を安心させる。しかし、女性に対する視線を映像で刷り込まれた男性が、その刷り込みから全く自由でいられると誰が断言できるだろうか。

フェミニズム論争にここで踏み込むことはしないが(踏み込めるほどの知見が不足している)、確かに潮目は変わったのである。ナイーヴな演出擁護論の時代は終わったことを、本作は痛感させてくれる。120年に渡り、映画は男性の視線を文法化し、それが世界中に広まっていったことは厳然たる事実であり、その弊害を過少に評価することはできないだろう。

映画の後半では、独自の文法を獲得した女性監督たちも登場する。前述したシャンタル・アケルマンもそのひとりである。そして、ニナ・メンケス監督は自作に込めた試みも紹介する。ここで関心を抱いた人は、いよいよメンケス監督作品に進みたくなるはずだ。

※2 解説:ヒッチコックは早い時期からフェミニズム/セクシュアリティの観点による分析対象となっている。最新の知見は「クィア・シネマ 世界と時間に別の仕方で存在するために」(菅野優香著/フィルムアート社)を参照されたい

女性の不条理を描く『マグダレーナ・ヴィラガ』

ニナ・メンケス監督の長編第1作『マグダレーナ・ヴィラガ』は、1986年に製作された。86年というのは、メジャーではオリバー・ストーン監督の『プラトーン』がベトナム戦争映画ブームのピークを飾り、インディペンデントではジム・ジャームッシュやスパイク・リーらのスター監督が台頭し始めた時期にあたる。NYのアンダーグランド・カルチャーが栄える一方、エイズ禍で同性愛者の人権が危機に晒された(という時期を知るには、ローラ・ポイトラス監督『美と殺戮の全て』をぜひ見てほしい)。

メンケス監督はLAを活動の拠点とするが、NYのインディペンデント・シーンの活況から無影響でいられたわけはないだろう。(『ブレインウォッシュ』で男性視線を指摘されることになるものの)スパイク・リーが映画業界における黒人のプレゼンス向上に画期的な役割を果たしつつあり、社会ではエイズによる死者が増える一方であった状況下において、メンケス監督は全くどの他の映画にも似ていないフェミニズム映画『マグダレーナ・ヴィラガ』を作った。その物語は、次の二文に集約される。

「アイダ、またの名をマグダレーナ・ヴィラガという娼婦が、殺人容疑で逮捕される。果たして、彼女は本当に殺人を犯したのだろうか」

©1986 Nina Menkes ©2024 Arbelos

映画は、アイダの日常を描き、彼女の行動を通じて、その内面をあぶりだしていく。アイダは娼婦という仕事を忌み嫌っているが、そこから逃れる術を知らない。あるいは、逃れる術を本当は探していないかもしれない。あるいは、諦めたかもしれない。アイダは、そこに存在しているようで、まるで存在していないようでもある。

盛り場でいきなり逮捕されるアイダと、ホテルの一室で客を取り続けるアイダの姿が、時制をずらしながら、反復的に描写される。やがて、牢屋とホテルの一室の描写が繰り返されることで、アイダにとっては逮捕前のホテルが既に牢屋と同じ空間であったことが分かってくる。彼女の肉体と精神はあらかじめ捕らえられているのであり、映画はその不条理を、乾いたタッチで淡々と、シュールに、しかし確実に痛みを伴う形で語っていく。

特筆すべきは、後年の作品『ブレインウォッシュ』でメンケス監督自ら解説しているように、アイダが客を取っているときのセックスの場面だろう。そこに、男性の視線の作品であれば搾取されるであろう女性の肉体の要素は、一切介在しない。男性のファンタジーは一切ない。あるのは、無表情で肉体労働を耐えるだけのアイダの顔である。映画史が採用してきた危険なステレオタイプのセックス演出に対する確かなアンチテーゼが、ここにある。

©1986 Nina Menkes ©2024 Arbelos

マグダレーナ、という名前は、もちろん「マグダラのマリア」を連想させる。実際に、アイダを描写するあらゆる場面にキリスト教に関連する絵画や像が登場する。アイダは、客を取る際、行為の最中にあおむけで天井の宗教画を眺める。キリスト教に救いを求めているとも見られるし、自分は魔女であると宣言し不自由に抵抗する姿勢のインスピレーションをキリスト教から得ているのかもしれない。

マグダラのマリアは、イエスの復活の証人となった聖人として知られるが、職業が娼婦であったという俗説が残る。なので、娼婦を巡る虚実混じりの関連性において、あるいは悔い改めた娼婦の守護聖人とされたマグダラのマリアに、アイダは重ねられたのだろうと、最初は思う。しかし、マグダラのマリアと「罪深い女」を結び付けたのは、父権制が根強いローマ・カトリック教会のグレゴリウス1世であるとも言われる。つい最近のことで驚くが、2016年にマグダラのマリアは、ヴァチカンから正当に「使徒の中の使徒」であるとして、他の使徒と同等の位置を認められるに至っている。

©1986 Nina Menkes ©2024 Arbelos

近年の作品『マグダラのマリア』(18/ガース・デイヴィス監督)において、マグダラのマリアは、抑圧的な家族から自らの意思で出立し、イエスと行動を共にし、率先して女性たちに信仰の道を拓いた、フェミニズムの祖のごとき存在として描かれる。「罪深い女」であった描写は、一切無い。

メンケス監督がマグダレーナという名に込めた意図は、あきらかだろう。

日常の反復を通じて90年代前後のアメリカのリアルを写した『クイーン・オブ・ダイヤモンド』

『クイーン・オブ・ダイヤモンド』(91)は、さらに抽象性が高く、時間の概念が狂うような、至高のアート体験としか呼びようのない、珠玉の作品である。それでも、物語らしきものは、一応存在する。

ラスベガスのカジノでカードゲームのディーラーをしている女性が主人公。昼間は、寝たきりの老人の介護をしている。ときおり女性の友人と湖畔に出かける。失踪した夫がいるらしいが、捜索にはあまり関心を示さない。彼女が住まいとするモーテルでは、隣人の男女間で暴力が振るわれている。そして夜はカジノでカードを配る。そんな日常が繰り返される。

©1991 Nina Menkes ©2024 Arbelos

描かれるのは、アメリカの空虚、だろうか。本作が撮られた時代は、ソ連が崩壊し、中国が台頭するまであと10年くらいあり、湾岸戦争で圧倒的な武力を誇示したアメリカが、世界唯一の超大国として束の間の我が世の春を満喫する季節の入り口である。それでも、地を這うように生きる人々は、その栄華とは無縁に、「夢の町」ラスベガスの埃にまみれるばかりだ。我々は、皮肉にも「楽園」という意味を持つ「フィルダウス」と名乗る主人公の目を通じて、リアルなアメリカを目撃する。

廃墟となった元リゾート地や、朽ちたトレーラーハウスが連なるショットは、ありのままのアメリカを撮影したウィリアム・エグルストンの写真を想起させる。一見関連の無いエピソードショットが繋がっていく構成は、まさに写真集のページをめくるがごときだ。しかし、写真と映画の最大の違いの一つが、時間の介在だ。映画の時間は、観る者にはどうにもならない。そこでメンケス監督は、圧巻の時間ショットを披露する。

©1991 Nina Menkes ©2024 Arbelos

燃え上がる木を眺めるフィルダウスを背後から撮ったフィックスのショット、そしてカジノでカードを配る彼女の仕事の様子を、無限と思えるほどの反復で見せていくシークエンス。震えながら、身を委ねるしかない。

失われた楽園に留まる他を知らない人々の、空虚と孤独を乾燥した空気のもとに晒し出し、暴力が潜在する社会の空気を捉え、さらには一見幸せなウェディングの中にも醜悪さが露呈していくが、しかし最終的には美しい以外の言葉が見つからないのは、何故か。

メンケス監督が言う、「観客と私自身の知覚を刷新し意識を拡大すべく世界と交流する創造的な方法」としての映画が、確かにここにあるのだ。

おわりに

東京国際映画祭で作品選定業務に携わっていた時、選定した作品の中に女性監督作は何本あるかという質問を受けるようになったのは、2018年からだ。監督に男性も女性もない、という対応を当初はしてしまったが、やがて女性監督をあえて積極的に登用/応援していかないと業界構造の硬直性は変わらないと思うに至り、考えが変わっていった。

それはそれとして、そもそも監督に性別は関係ないという思い自体が誤りで、男性の視線の論理に強く支配されている男性監督作品が主流をなしてきたという事実をまずは認識すべきなのであり、今回のニナ・メンケス監督特集はそのことに改めて気づかせてくれる。ここで女性監督の演出に興味を持ったら、シャンタル・アケルマン、ケリー・ライカート、セリーヌ・シアマといった監督たちの作品に接してほしい。やがて、彼女たちの作品に影響を受ける男性監督も出てくるだろう。

そののちに、ようやく「監督に男性も女性もない」世界がやってくるはずだ。

 

矢田部吉彦(やたべ・よしひこ)
仏・パリ生まれ。2001年より映画の配給と宣伝を手がける一方で、ドキュメンタリー映画のプロデュースや、フランス映画祭の業務に関わる。2002年から東京国際映画祭へスタッフ入りし、2004年から上映作品選定の統括を担当。2007年から19年までコンペティション部門、及び日本映画部門の選定責任者を務める。21年4月よりフリーランス。

 

寄稿:矢田部吉彦
編集:おのれい