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新宅広二|2時間目:動物の幸福論【大人のための“シン・動物学”】

【大人のための“シン・動物学”】と題して、実は知られていない動物たちの生態を深掘りしていく。動物たちの世界を覗くことは、人間社会の問題を考える1つの側面として、私たちに新しい発見や面白い気づきを与えてくれるかもしれない。

動物の幸福について考えてみる

幸福とは、とかく快適とか“裕福”とか“ラッキー”みたいな、他者と比較して相対的に優位な状況、または自分が“下”ではないという確認作業と同義にされがち。また幸福か不幸かが、勝ち負けのように語られることもよくある。

そんな点に幸福を求める人がいても悪くはない。ただ、そんな人から見れば、私は負け組(自覚無し…負け組上等、夜露死苦!)。おそらく、真の幸福度とは、ミシュランの★の数のように表すことはできない。なぜだろう?

人は勝手に "縁起が良い"とか "幸福を呼ぶ"などと動物に運気を求めたがる。 タツノオトシゴとサンゴは最良の組み合わせ。

『幸福論』ーアラン、ラッセル、ヒルティなどの様々な立場で論じられた名著があるが、今回は“動物の幸福論"について考えてみる。と言っても私自身、幸福なんだか、不幸なんだか分からないし、そもそも自分に興味がないので、動物が幸福かどうかなんて知ったこっちゃないが、1杯やりながら夜な夜な語り合うのに、うまい肴なテーマではあるので、1つ私の駄話にお付き合いいただきたい。

メガネザルは、本の読み過ぎで眼鏡をかけているわけではありません!

動物園で飼育される動物は、不幸なのか?

まず、幸福論と関わってくる対義の "不幸"、“かわいそう"について。

人間の世界でも第3者が不幸を認定する状況は滑稽だが、割とありがちだ。とくに当事者が不幸だと思っていないのに、「かわいそう」と他人が決めつける悪意の無い偏見は、日常でも身の回りにゴロゴロ転がっている。

たとえば、古今東西、定番で普遍にあるのが「動物園はかわいそう」という意見。その理由の1つが「狭くてかわいそう」というものだ。

えっ?ボクって、かわいそうなの?

確かに、居住スペースが広いに越したことはないが、動物の飼育は、科学的にも法律的にも動物ごとに必要なスペース、レイアウト、材質、衛生基準などが考えられていて、野生との居住のストレス差は見た目ほど無い。

それによって動物園という飼育下でも、動物たちは寿命まで生きることができたり、多くが繁殖実績も伴っている。だからストレスが無いとは言わないが、飼育下の環境だけが特別なストレスに満ちているかどうかは、見た目だけで即座に判断するのは難しい。

ライオンなど大型ネコ科動物は、野生より飼育下の方が繁殖したり長寿の個体が多いことで知られている。

ちなみに、動物行動学者で動物園園長を歴任したハイニ・ヘディガー(※1)の科学的な視点とデータは、興味深いものばかりなので、動物飼育を可能にする科学的根拠と考え方の時代の変遷について興味のある方は、はじめに彼の原著(古典)を一読することをオススメする。

野生で遊動域の広い生態の動物は、運動スペースが広い必要性はあるが、多くの動物は、ちょっとした生活空間なら、割と狭い方がストレスはかからないことを知らない人は多い。何でも広けりゃいいと思っていないか?我々だって、東京ドームの真ん中で寝ろと言われて熟睡できるだろうか?

たとえば、ウサギなどの小動物は身体の2ヶ所以上の面に何か接していないと、強いストレスを感じるものだ(つまり、狭い隅っこ暮らしが好き)。これは本能に由来するもので、小動物の場合、何も無い広い空間に長く置くと、空から猛禽類(もうきんるい)に狙われているかもしれないという危機管理の本能が働いて、緊張状態が続いてしまうのだ。

※1 参考:ハイニ・ヘディガー。現代動物園の基礎を築いたスイスの動物学者。1944年から1953年までスイス・バーゼル動物園、1954年からはチューリッヒ動物園の園長を歴任した。

動物には落ち着く場所と、緊張する場所が、それぞれあるのよ。

動物園の檻は、大事なセイフティーガード

「檻に入れられてかわいそう」という意見もよく耳にする。確かに檻は監獄の囚人を想起させるから仕方ないが、動物園の檻は“自由を奪っているもの"ではない。むしろその逆で、自由を確保するためのものという考え方だ。

アルマジロ:ボクは狭い場所が大好き。
足が遅いから逃げるのが苦手なので、急に近寄られるとドキッとしちゃうんだよ。

毎日何百人もの来園者に次々にのぞき込まれて、檻の中の動物が、よくグーグー寝ていられることを不思議に思ったことはないだろうか?野生ではあり得ない人と動物の距離だ。

じつは動物目線で見れば、あの檻は「そこより先には知らない怖い人間は入ってこないよ」と安全と自由を心理的に担保しているので、猛獣でも、小鳥でも、安心して自分の空間で日常生活を続けることが出来る、いわば大事なセイフティー・ガードの役目なのだ。

ちなみに近年流行している大きな強化ガラスやアクリルを使った水槽のような展示方法がある。あれは形態などの細部を観察しやすいが、動物目線で見ると、直ぐそばに人間が行き来するように錯覚するので、檻展示より軽い緊張状態のストレスがかかりやすいデメリットがある。どちらも教育展示としては一長一短でもどかしい。それらは、照明角度や斜光フィルム等で人の気配を感じさせないような飼育展示技術でカバーすることが多い。

また、かつてどこの動物園でも見られた動物ショーは、20世紀中頃から、動物虐待と糾弾されて実施は無くなった。ところが、近年の動物のトレーニングの考え方は、恐怖やエサだけでコントロールする昔の手法とは異なり、褒めて伸ばすやり方が主流だ。単調な飼育下での生活の刺激、担当者との絆の深まり、緊急時の治療などを速やかに可能にするなど、動物飼育では、簡単な調教の応用が不可欠となり、動物園でも再評価されて積極的に取り入れられている。

もちろん調教鞭や棒は、動物を叩いて怖がらせるものでは無く、合図の小道具として使っているだけだ。実際に見てもらえば分かるが、動物もやる気満々で、割と楽しんでやっている。人とのコミュニケーションの動機もエサが欲しいというだけではない。

芸のように見える飼育員とのコミュニケーションは、実は大事な訓練だったのね。

動物園は、安心快適なマイホーム?

ところで、日本を含めた世界の動物園の動物は、20世紀後半から哺乳類は野生由来ではなく、すべて動物園生まれの個体を園同士で計画的に交換することで“生きた博物館"とも言える持続可能な教育活動をやりくりしている。

だから動物たちは動物園生まれなので、そこが自分の家であり、仮に何かのミスで檻の扉が開いていたとして、興味本位で外に出ることがあっても、外の知らない世界の方が不安なので、必ず自分から“家"に帰っていくものだ。もっとも、おっちょこちょいが、パニックになって騒ぎを起こすこともたまにあるが…。

例えば、愛犬がぴゅーっと不意に逃げ出すのは、日常の虐待やストレスの反発というよりは、お調子者やおっちょこちょいのケースが大半で、動物園の動物逸走も、これと同じ心理状況と言える。

私の動物園勤務経験では、担当者との別れに対して、閉園時間になると毎夕悲しそうに泣きだす動物までいた。「いつか脱獄してやるぜ…今に見ていろっ!」あるいは「助けてください!ここから出してください!」という動物たちの牢獄的な怨念や悲壮感は私には感じられなかった…。

そりゃそうだ。動物園は、栄養バランスが熟考された3食昼寝つきで、冷暖房完備、専属ドクターまで24時間体制で見守ってくれている。なんなら婚活のカウンセリングまでやってくれる。

一方、野生での動物の暮らしは、酷暑・干ばつ・嵐・食物不作・大寒波・豪雪、そして様々な病原体・寄生虫や天敵の存在に常に怯え、崖などの滑落事故による大ケガを負いながら、今日1日を無事に生きられたことを噛みしめながら浅く短い眠りにつく日々…。

あらためて念を押しておくが、私は「野生の方が幸せ」「動物園の方が幸せ」という、どっちが幸せかを論じるつもりは一切無い。ただ動物の理論値の生理的寿命に対して、実際の生態的寿命が、野生動物では極端に短いこと(半分くらいの寿命?)が、いかにあらゆる自然環境のストレスが大きいかが想像に難くない。無敵無双のライオンやクマのような大型最強猛獣ですら、あっけなく天災でコロッと死んでしまうのが自然の無情さだ。

自然には勝てない…

動物にとって、真の幸福とは何か?

では、動物の幸福とは、生活環境の快適さや寿命の長さだろうか?

否。

…とは言ってみたが、私にも答えはわからない。ただ、正解がそれではないことだけは確信が持てる。生活空間が狭いとか、汚いとか、小さなストレスはどうでもよい(いや、どうでもよくないが!)。幸福とはそういう即物的な話ではない。環境の快適さと幸福度は、あまり関係ないだろう。たぶん…。

ここで、ゾウの飼育係を40年やった私の恩師のエピソードを振り返って紹介する。

ゾウは、知能が高く、危険で、寿命も長いため、動物園の中でも最上級に飼育が難しい動物の1つ。

この師匠が定年退職する最後の日。すごかった。何十年も担当動物と付き合った最後の日なので、特別に美味しいご馳走をゾウにあげたり、念入りに可愛がったりするかと思って、私は師匠の行動とゾウの反応を一挙手一投足観察したが、何と意外な行動だった。

知能の高いゾウは、信頼している人がいつもと違うことをすると、何かあると察して不安にさせてしまうという。とくに "別れ"に関しては敏感なのだと。だから平常心を装い、万感の思いを押し殺していたのだ。「それでも、たぶん気持ち読まれて、バレていると思うけどね…。」ポツリと師匠は呟いた。「すごい、この人は"ゾウ"だ!」と私は心の中で思った。

そして退職後も、動物園に用事があっても、自分の姿をゾウに見られないようにしていた。会いたい気持ちを抑えて…。これは老いて死に場所を選ぶというリアルな"ゾウの墓場"伝説か?擬人化ではなく、きっと野生のゾウ同士もこういう繊細な気持ちのやり取りをしているに違いない。

私は、このゾウたちは幸せだと思った。

ゾウという動物は、自分や仲間の幸せについて、いつも何か考えていそうな気がする…。

人間の少しでも悲しませないようにしようとする繊細な気持ち、それをゾウが汲み取って同じレベルで共感・共有できる域に達しているということ。楽しみはもちろん、それが悲しみや苦悩さえも、誰かと共有できること、きっと気持ちが伝わっていると信じること、これこそが「幸福」と呼んでもいいような気がする。

野生動物でも、ペットでも、親子や仲間、時には種を超えて、そういう深い絆を感じる瞬間が、生きているうちに1度はあるだろう。それをうっかり見逃さないようにしなくてはいけない。見逃さないようにするには、自分が常に誰かを悲しませないようにする小さな心配りを怠ってはいけない。そうすれば、頼り・頼られる関係の絆として、きっとゾウのように幸福を汲み取ることができるようになれるはず…。

何となく、大きい動物から学んだ私の小さな幸福論でした。

P.S.
師匠の定年最終日の陽が落ちた終業時。ゾウ舎から飼育事務所へ二人で向かう帰り道、「40年間飼育して、ゾウってどういう動物でした?」と聞いたら、「わかんね…」という、私の愚問に対して含蓄のあるひと言が返ってきた…。

幸せと 思えたことが 幸せ…。

おしまい。

 

新宅 広二
生態科学研究機構理事長。専門は動物行動学と教育工学。大学院修了後、上野動物園勤務。その後、世界各地のフィールドワークを含め400種類以上の野生動物の生態や捕獲・飼育方法を修得。大学・専門学校などの教員・研究歴も20余年。監修業では国内外のネイチャー・ドキュメンタリー映画や科学番組など300作品以上手掛ける他、国内外の動物園・水族館・博物館のプロデュースを行う。著書は教科書から図鑑、児童書、洋書翻訳まで多数。
Twitter:@Koji_Shintaku

 

寄稿・写真:新宅広二
編集:篠ゆりえ