よりよい未来の話をしよう

“街の洋食屋さん”のような人類学を 磯野真穂さんインタビュー

「フックのある言葉で大勢の心を掴むアウトプットの手法に目が向きがちな今だからこそ、1人の声を聞くことに注目をしてみましょう。」

皆さんは、「人類学」という学問を耳にしたことがあるだろうか?これは、人類学者の磯野真穂さんが開講する人類学ワークショップ「聞く力を伸ばす」のホームページに記されている言葉だ。人類学とは、それぞれの人の視点に立ちながら、一見当たり前のように思える常識を素通りせずに立ち止まって疑義を呈することができる学問だ(※1)。新型コロナウイルスがさまざまな形で社会の分断を浮き彫りにした昨今、この人類学に注目が集まっている。
今回お話を伺った人類学者の磯野真穂さんは、拒食や過食の当事者の語りや、臨床の現場における患者や医療者の声、それを覆うエビデンスといった概念の使われ方に着目しながら、不確定な未来を進もうとする人々の現実の捉え方と作り方に注目をし、研究を進めてきた。2020年からは大学を離れ、人類学を暮らしに応用することを目的としてさまざまな一般講座を開講している。人類学をアカデミックな世界にとどめず、一般の人々に広く発信している理由、そして人類学の魅力についてお話を伺った。

※1 人類学には霊長類の研究や考古学も含まれており、ここで示したものは厳密に言うと「文化人類学」の説明になる。

街で気軽に行ける洋食屋さんのように、人類学を身近にしたい

磯野さんが一般の方向けに開かれている人類学講座にはどのようなバックグラウンドを持つ方が参加しているのでしょうか?

医療、マスメディア、コンサルティング、出版、時には占いを生業にする方まで本当に幅広い職業の方がいらっしゃいます。参加者の皆さんは、人類学の「既存のものの見方をちょっとずらしてみる」という点に魅力を感じてくださっているのではないかと思いますね。大学で人類学を学んでいたわけではない方々に何か新しい視点を提供できているのは嬉しいです。

人類学の講座を開講しようと思ったきっかけについて教えてください。

もともと大学に籍を置いていたときから「学問はみんなのもの」だと常に考えていました。有名な学会誌に論文が掲載されることが学者としては重要であり、それが大切なこともよくわかるのですが、それよりも、アカデミックな世界から離れた場所で生活する人々にどのように人類学を使ってもらえるかの方に私の関心はありました。
社会人で、学び直したいけれど大学院に進学することを躊躇(ためら)う方は結構いるのではないかと思います。数十万の学費を払って、会社を休んで授業に出るのはハードルが高いですよね。
私は、街で気軽に行ける洋食屋さんみたいな感じで人類学をやりたかったんです。なので思い切って大学の外に出て、一般に向けた講座を開いてみたら、想像以上に多様な方と出会うことができ、とても楽しい時間を過ごさせてもらっています。

「相手の肩越しに立つ」ことの意味と難しさ

普段私たちが生活するなかで、他人を無意識のうちにラベリングしてしまうことがあります。磯野さんは、人類学講座で「相手の肩越しに立つ」という表現を用いて、自分の見方が絶対的ではないことに意識を向ける重要性を説かれています。

2021年から2022年の春にかけて開いた「聞く力を伸ばす」という講座では、相手の語りを自分の言葉で安易に要約しないように、と繰り返しアドバイスしました。職業や立場によっては、相手の言葉を聞いた後、「つまり〜ということですよね」と要約をすることが求められ、実際に講義の中で行ったインタビュー(※2)でも、無意識の要約が頻繁に起こっていました。その時に行われていることは、相手の言葉を自分の世界の中に引き入れて、自分の言葉でまとめ直すこと。つまりそれは「相手の肩越しに立つ」作業と離れていくことになります。

講座を通して、磯野さん自身にも気づきはありましたか。

そうですね、私自身も発見が多かったです。たとえば、「聞く力を伸ばす」は、初対面同士で2回のインタビューをしてもらったのですが、インタビューそれ自体は、もっと表層的に終わると思っていました。ところが、皆さんから想像を遥かに超える語りとアウトプットが出てきたので、私自身も驚きましたね。講義では、2回のインタビューを自由な形式でまとめることを最終課題として設定していました。多くの方がインタビュー内容をプレゼンテーションや写真でまとめていて、それももちろん良かったのですが、なかには踊りで表現されている方もいて。人間の想像力の奥深さを見せてもらった感じがしましたね。

お話を伺うなかで、講座の自由度が非常に高いという印象を受けました。さまざまな講座を開講するなかで、共通して意識されていた点はありますか。

講座を対話形式にして、余白を取ることですね。こちらが一方的に話す形ではなく、対話の時間を作ると、そこで何が起こるか、何が出てくるかはわからない。そういう場所を作りたいと思っています。たとえば、講義内である理由があって「北枕の反対は何か?」という問いを投げたのですが、そこからは「生きていること」「パワースポット」など、さまざまな回答が返ってきて実に面白かったです。

私にとって人類学は、余白を楽しむ学問です。実際、フィールドワークを行う時も、事前準備はしていきますが、スケジュールは穴ぼこだらけにしていきます。ガチガチに最初からスケジュールを決めてしまうと、余計なものが入って来られないから。インタビューをする相手とのちょっとした雑談がきっかけで問いが膨らんだり、思いもよらなかった誰かを紹介してもらい、その日のうちに会いにいくこともあります。余白に自分を委ねていく研究のスタイルは、実験環境をとにかく徹底的にコントロールする、私が以前専攻していた運動生理学の研究とは真逆なんですよね。

※2 ここで磯野さんが言及している「聞く力を伸ばす」講座は週に1回オンラインで開講された(全5回)。初対面の参加者同士でインタビューを2回行い、その内容を自由な形式でまとめることが求められた。

人類学はアートのように既存の価値を見直す力がある

いま巷(ちまた)では複雑なことを単純化することが良しとされる風潮があると思います。一方で、人類学の枠組みでは、何かをカテゴライズすることを保留するという姿勢を大事にしていますよね。

人は不確定な状況に置かれたときに、分かりやすい言葉や指針を求めてしまいます。「つまりこれはこういう種類のものですよね」という形で分類をすると、その混沌としたところに秩序が生まれる。その秩序が私たちの不確定な世界を安定させてくれるので、やっぱり安心できるんですよね。
人類学の特徴は、その要約の仕方が絶対解ではないんだ、ということをさまざまな人々の事例や暮らしとともに実証的に見せてくれるところだと思います。世界がわかりやすい構図に収められていったときに「いやいや、ちょっと待て」と。ちょっとアートみたいだなとも思います。

アートとは面白い捉え方ですね。

雑駁(ざっぱく)な分け方ですが、デザインが人々の役に立つようなインターフェースや形、すなわち問題に対する答えを提供することを目指すとすれば、アートはそのような答えを提供せず、逆にそれを破壊してしまう。たとえば、現在はさまざまな解釈が手に入るピカソの絵ですが、当時の人は、一体何をしようとしているのか戸惑ったと思います。ダリの絵とかも、何であんなに時計がグニャグニャしてるの、みたいな。
だけど、あのような作品は、私たちの「当たり前」を超えた世界の存在を感じさせてくれます。アートと同じように、人類学もやはりそこを得意としていると思いますね。

「自分から見えているものが絶対解ではない」ということを前提にするからこそ、俯瞰(ふかん)して物事を見られるようになるのでしょうか。

人類学を勉強すると、その半年後に給料が上がるといったことはあり得ないのですが(笑)、一方で、講座を受講くださった多くの方から、「仕事のやり方の幅が広がった」「講座で学んだことを仕事で応用している」という声をいただいています。皆さんがこれまで生活で何となく抱いていた違和感の実態に輪郭や言葉を与えたりするお手伝いを人類学の知見ができており、また人類学は、「人間」「家族」「組織」といった基本的な概念を扱う学問であるため、その知見がかなり広範に応用が可能なんだろうと思います。
私は人類学の基本的な考え方しか提示していませんが、幅広い分野の方に「応用できる」とおっしゃっていただけるのは嬉しいですね。

「言葉をつかうこと」は特権だからこそ、矜持を持った発言を

磯野さんは、研究者としては文化人類学と医療人類学が専門です。近著『他者と生きる リスク・病い・死をめぐる人類学 (集英社新書) 』では感染者数や死者数といった数値にばかりフォーカスしてコロナ対応を議論するあり方にも疑問を提示しています。

本の後半では、共存の枠組みを、規則のように上から降らせるのではなく、下から立ち上げるにはどうすれば良いかを考えました。数というのは、中立に見えますが、そこには発言者の価値観や意図が埋め込まれています。しかし数は、それらをうまく隠し、誰しもが引き受けなければならないような道徳としてそれを見せてしまう力がある。

コロナのような話題について意見を述べる際、絶対的な正解がないゆえにちょっとした発言が炎上するリスクを孕(はら)んでいるとも思います。磯野さんはそれらの問題にご自身のポジションを取って発言されている印象を受けています。

たしかに、私のなかではそのような意味での覚悟はあるかもしれないですね。多少なりとも他の人よりも発言する機会は多くいただいているので。
このたまたま得られた特権を、おかしな方に使わないために、自分を守ったり、よく見せたりするためだけに言葉を使うことがないよう、難しくても頑張ろうとは思っています。特に新型コロナの場合、感染初期の頃は相当な批判がくるだろうことを予測しながらの発言も多く、実際に強烈な批判が来た時もありました。しかしこれは言葉を使って何かを発信する特権を得た人間がある程度は引き受けなければならないものです。そのどこを引き受け、どこは無視するかの境目を間違えないようにしたいと思っています。

今後は場を作り、人類学のバトンを渡したい

今後、人類学を通じて実現したいことはありますか?

今計画しているのは、人類学の古典を読む講座です。あとはゼミ形式で受講生の方に研究をしてもらう講座をやってみたいと考えています。先行研究を調べて、リサーチクエスチョンを作って、それに対して調べていくという研究のプロセスを進めるのは面白いかな、と思うのですが、受講生の方の負担もかなりのものになるので、実現可能かは検討中です。
あとは「対面で会う」ことをきちんとやっていきたいですね。私の講座は基本オンラインで、オンラインのいくつかの強みをこの2年でかなり実感しました。しかしそれを踏まえてもなお、身体と共に集まる意味みたいなことも考えたいです。そういう部分からしか得られない学びも多いと思うので。最後に、人類学講座に来てくださる皆さんが、気づいたら私より年下の方が多くなりました。この先自分の人生がどのくらい残されているか全くわからないことを考えても、自分が蓄積してきたものを、誰かに渡していくことを考えていきたいと思っています。


普段、私たちは属性や生活環境、その他多種多様な要因により形成されるフィルターを通して物事を見ている。それぞれの「正しさ」があるなかで唯一解を求めることは難しいが、自分のフィルターを絶対視することなく「本当に自分の考えは正しいのか」と問い続けることは可能だ。人類学の「相手の肩越しに立って物事を見つめる」というスタンスは一対一の人間関係に立ち返り、他者を真に理解するための第一歩になり得るかもしれない。

 

磯野 真穂(いその まほ)
人類学者。専門は文化人類学・医療人類学。博士(文学)。早稲田大学文化構想学部助教、国際医療福祉大学大学院准教授を経て2020年より独立。身体と社会の繋がりを考えるメディア「からだのシューレ」にてワークショップ、読書会、新しい学びの可能性を探るメディア「FILTR」にて人類学のオンライン講座を開講。著書に『他者と生きるーリスク・病い・死をめぐる人類学』(集英社新書)『なぜふつうに食べられないのか――拒食と過食の文化人類学』(春秋社)、『医療者が語る答えなき世界――「いのちの守り人」の人類学』(ちくま新書)、『ダイエット幻想――やせること、愛されること』(ちくまプリマー新書)、宮野真生子との共著に『急に具合が悪くなる』(晶文社)などがある。
(オフィシャルサイト:https://www.mahoisono.com/ Blog: http://blog.mahoisono.com


取材・文:Mizuki Takeuchi
編集:篠ゆりえ
画像:高野由香里 ほか