いまや誰もが当たり前に利用しているインターネット。だが、そんなインターネットの存在がもしかしたらその人の歴史や社会に、大きく関わっている可能性があるかもしれない…。この連載では、さまざまな方面で活躍する方のこれまでの歴史についてインタビューしながら「インターネット」との関わりについて紐解く。いま活躍するあの人は、いったいどんな軌跡を、インターネットとともに歩んできたのだろう?
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今回お話を伺ったのは、『銭湯図解』(2019年、中央公論新社)や『純喫茶図解』(2025年、幻冬舎)で知られる画家・塩谷歩波さん。アイソメトリックという建築図法を用いて描く建築物でよく知られるが、じつは学生時代、黎明期からインターネットに深く親しんだ経験もあるのだそう。学生時代から現在まで塩谷さんを支え続けているというインターネットとの関わりについて、聞かせてもらった。
ネットは“大人しか知らないもの”がある、憧れの場所だった
塩谷さんが最初にインターネットに触れたのはいつか、覚えていますか?
小学校の情報科目や授業の調べ物で、当時まだ大きい箱型のパソコンを触ったのが最初だと思います。隣の席の男子が、当時流行っていたフラッシュ動画(※1)を調べていて、「なにこれ?」と見せてもらったのがすごく記憶に残っています。
箱型の大きなパソコン、情報の教室に並んでましたよね(笑)。インターネットは学校で触るもの、という感覚だったのでしょうか?
家にもパソコンはあったので、小学校のときも触っていたかなあ。でも家では「そんなに触らないでね」と言われていた記憶があります。
2ちゃんねるとかも知ってはいましたが、当時の自分からしたらなんというか…ちょっとやばいサイトで、ダメって言われてるけど見てみたい、そんな度胸試し感がありました(笑)。あの頃のネットは、大人しか知らないものがある、憧れの場所みたいなイメージがすごくありましたね。
中学生になってから、インターネットの使い方は変わりました?
すごく変わりました。私は中高時代、あまり学校が好きじゃなかったんです。当時はオタク活動もしていたので、むしろネットに入り浸って友達をたくさん作っていました。
当時のオタクの人って、それぞれ個人サイトを持っていたんですよね。私も中学1年のとき、自分のサイトを作りました。まだいまみたいに、簡単に個人サイトを作れるツールもなかったので、好きなホームページを見つけたらそのソースを調べて、それをテンプレにしながら自分でHTMLタグを書いてましたね。忍者ツールズ(※2)という、ウェブサイト運営に役立つサイトをみんな使っていたので、そこも参考にしていました。
ネットで知り合ったオン友(オンライン友達)と、お互いに作ったサイトを訪問して「キリ番踏みました!」とかもやってましたね。中学2、3年の頃には、親にも「一旦勉強はやらないから!」と宣言して、深夜3時くらいまでずっとチャットをしていた時期もありました。その頃からmixiのサービスが始まって、mixiも使うようになりました。
当時の塩谷さんの生活の大半を、インターネットが占めていたと言っても過言じゃなさそうですね。
学校が本当に嫌いだったから、オン友との交流がすごく楽しかったんです。当時の自分は、本当にネットが支えになっていました。
当時からずっとホラーが好きで、洒落怖(※3)という2ちゃんねるの怖い話スレッドもよく読んでいました。登下校中にパカパカ携帯で洒落怖を読んで、その間にmixiでメッセージのやり取りもして。その時間があったから、ようやく学校に行けたと思います。夏休みも家族旅行を抜けて現地のオン友とオフ会して、その後家族と合流する、なんていうことをよくしていました(笑)。
※1 用語 :「フラッシュ動画」YouTubeなどの動画共有サービスが開始する前に、インターネット上で流行っていた動画規格。Macromedia(現・Adobe systems)によるwebコンテンツ開発ツールである”Flash Video”を用いて、静止画をぱらぱら漫画のように動かしアニメーションを作成することができ、様々な人気動画が生まれた。
※2 用語:「忍者ツールズ」2000年代に多く使われていた無料のウェブサイト支援サービス。アクセス解析、カウンター、掲示板、ブログパーツなど、個人のホームページ運営に役立つツールが豊富に揃っており、ネットユーザーの個人サイト制作を支えた存在。
※3 用語:「洒落怖」2000年ごろにできた2ちゃんねるの掲示板のスレッドタイトル「死ぬ程洒落にならない怖い話を集めてみない?」の略。「くねくね」や「八尺様」など、この掲示板から発展して都市伝説的に広がっていったホラーエピソードも多い。
自信がなかった絵の代わりに書いていた「小説」
その当時から、自作のホームページにご自身で描いた絵を載せていたんですか?
それが、当時は絵じゃなくて小説を書いてたんです。いまはとても言えないようなハンドルネームも、いくつも持っていました…(笑)。
当時はオタク活動をする中で、ROM専(※4)という人はほとんどいなくて、みんな何かしらの活動をしていました。私は何をしよう?と思ったときに、当時は絵が下手だと思っていたし、憧れる絵師さんもネット上にはたくさんいたので、私には描けない…という気持ちの方が強くて。
「絵が描けないから小説にしよう」くらいの気持ちで、小説を書いてホームページに載せていました。いまほどネットが浸透していなかったから、素人レベルの人もいっぱいいて、全然ハードルの高さを感じることはありませんでした。
絵を描くようになったのはいつからなんでしょうか?
元々絵は大好きだったんですが、ちゃんと描き始めたのは大学に入る前くらいです。
建築学科に行きたいと考えていたので、試験対策としてデッサンの練習をするようになりました。その過程でだんだん絵が上達していく感覚があって、「やっぱり絵を描くのが好きだな」と気づきました。だから、最初は建物に対する興味があって、そこに進む過程で絵を描き始めて、絵を描くこと自体がもっと好きになった感じかな。大学に入学してからは、一層絵を描くようになりました。
塩谷さんがSNSで絵を発信されたきっかけは、なんだったのでしょう?
最初にSNSに絵を載せたのは、Twitterで友達とやっていた公開絵日記なんです。銭湯に行ったことがない友達に宛てて描いた絵日記が注目され、多くの方に見ていただくようになりました。
最初は本当に、誰かに見せたいという意図はなかったんですよね。自分の絵が注目されることに、すごくびっくりしました。
※4 用語:「ROM専」Read Only Memberの略。掲示板やSNSなどの投稿を読むだけで、発信はしないユーザーのこと。黎明期のネット文化では「見るだけ」の人は少数派で、何かしら創作・発信をすることが多かった。
SNSで広がったキャリアと、その葛藤
そこから塩谷さんの絵に注目が集まり、『銭湯図解』(2019年)として本を出版するまでになりました。当時はどんな感覚がありましたか?
まずは嬉しい、というのが大きかったです。
ただ、どんどん周りの期待が高まって、自分の想像していた人生から外れていくような焦りもありました。まだ絵に自信もなかったので、「こんな下手なのに職業にしていいのかな?」という気持ちもありつつ、やっぱり絵を描いたり、いろんな人に認めてもらえたりするのは嬉しくて。
そこから徐々に「自分の虚像がどんどん膨らんでいくな」とも思うようにもなりました。メディアに出る機会が増えると、皆さん私のことをすごくよく捉えてくださいます。「本当の自分はこれだけじゃないんだけどな…」と感じながら、やっぱり期待に応えたくなって良いことばかりを話してしまう。一方で好感度が上がっていくからこそ下手なことを言ったら炎上するのでは?と不安にもなり…そんな状況が続いて、一度鬱になっちゃったんです。
ご自身にとって、相当目まぐるしい変化だったんですね…。
ありがたいことに、初動で有名になりすぎた感覚もあって、いろんな気持ちが追いつかなかったんだと思います。いま思うと「それも私の一部だから、怖がる必要はないよ」って言ってあげたいですが、当時は本来の自分らしさが奪われたような感覚を抱いてしまったんですよね。
その時期は、大好きだったインターネットとも少し距離を取るような期間だったのでしょうか?
うーん…それが、そういう気持ちになればなるほど、インターネットに依存しちゃうんですよね。ネットの中のキラキラした自分をずっと見ていたいから、距離を置きたいというより、むしろ「見続けたい」みたいな気持ちが強くて。
学生時代、塩谷さんの居場所だったインターネットが、少しづつ違う存在になっていく感覚もあったんですかね。
いや、それでもネットに対してはずっと好感がありました。すごく好きな場所だし、自分を支えてくれた逃げ場でもあったから。私の場合、距離をとりたかったのはインターネットというよりは「SNS」だったんだと思います。
その後カウンセリングにもいくようになって、先生と話す中でSNSとだんだんとうまく距離が取れるようになっていきました。
学生時代から変わらず、いまもネットのホラーコンテンツが仕事の相棒
葛藤を抱えた時期を経て、2025年には『純喫茶図解』を出版されました。描くにあたり、銭湯とはまた違う大変さがあったのではないかと思います。
銭湯よりも大きいし、書く要素が多い分色も多いし…人も全員服着てるじゃないですか(笑)。数段大変でしたね。
塩谷さんの制作は、実寸から始まると伺いました。全部おひとりでやるんですか?
そうなんです。現地で実寸したものを自宅に持ち帰って、最初はアナログで紙と定規を使い、建物の下書きをします。それをスキャンして、今度はデジタルで人や小物を書き足してから、さらにまたそれを印刷。アナログで水彩紙という分厚い紙にトレースして書き写し、最後に色を塗るという流れです。
アナログとデジタルを織り交ぜながら、そんなにたくさんの工程を経て制作されるんですね。ちなみに、塩谷さんが一番ワクワクする工程はどこですか?
やっぱり最後の着色が1番楽しいですね、そこはもうノリノリです。
でも最初の図面に起こす工程も機械的で楽しいし…一番緊張するのはアナログで行うペン入れですね。一発描きで失敗ができないので。
ちなみに、それら全ての工程でホラーをBGMに作業しています(笑)。
洒落怖といい、学生時代からネットのホラーコンテンツはずっと塩谷さんのそばにいるんですね(笑)。
都市伝説とか「検索しちゃいけない言葉」の解説とか、ずっと聞いてます。もちろん洒落怖もいまも読んでます!
怖い話が好きだからこそお化けを信じちゃうので、アトリエでは八方にお札を貼って、結界を張ってるんです。部屋に結界を張ることで、怖い話を無尽蔵に見れる環境を作ってるという…(笑)。
だから、いずれホラーっぽい絵も描きたいと思っているんですよね。たとえば、微妙に開いているドアみたいな、家の中の気持ち悪い余韻とか…。
見てみたいです(笑)。ちなみに、塩谷さんが描きたいと感じる建物の特徴はあるのでしょうか?
古めかしい建物がすごく好きです。ただ古いだけじゃなくて、古いからこそ光るデザイン性があるようなものが好きなんです。建築家が設計したわけでも、デザイン的な意図があるわけでもないけれど、作った人の感性ででき上がった要素が美しいことがたまにあって、そういうものを掘り起こして絵にするのが気持ちいいですね。
情報が溢れるインターネット環境でも、どんな感情を持ったっていい
塩谷さんは黎明期からインターネットに触れてきましたが、いまはなくてはならない存在にまで普及しました。生活を豊かにする反面、最近はSNSなど、誰しもインターネットに悩まされる場面も増えました。塩谷さんはいまの時代のネットとの適切な距離の取り方を、どう考えていますか?
SNSを通じてさまざまな情報を目にできる分、不必要に他人と自分を比較してしまうことが増えましたよね。他人の投稿を見て気持ちがひりつくときは、私もめっちゃありますよ。
ただ、それを感じること自体は別にいいことだと思うんです。私たちはどんな感情を持ったっていいんですよ。怒っちゃいけない、嫉妬しちゃいけないって別にないし、比べてもいいんです。
ただ、その感情を抱いたときに自分がどうするか?は決めた方が良いと思います。誰かを僻んだとき、「こんなこと思っちゃいけない…」と捉えるんじゃなくて、私は頭の中にもう1人の自分を置いて冷静に話しかけるようにしています。「いまは僻んでいる自分が嫌かもしれないけど、さらに成長するためにはいいことなんじゃない?」「その気持ちが落ち着いたら、とりあえず美味しいものを食べよう!」とかって。
こうやって客観的に向き合えるようになるまでに、私も時間はかかりましたが、ネガティブな感情を抱いたときにどうアクションするかを自分で決めることや、感情に対する解釈を押し付けないということは、大事なんじゃないかと思いますね。
最後に、SNSをきっかけにキャリアをスタートし、2021年からはフリーランスの画家として活動されています。いま塩谷さんがいる場所は、ご自身にとっていかがですか?
いまが1番心地いいなって思います。
私の人生、いままで気づいたらバズっていて、気づいたら銭湯の道にいて…というように、全部自分で選んだことではあるんですが、なんとなく自分事じゃないような感覚もありました。気持ちの整理が追いついていなかったのかもしれないですね。
でもいまは、全部自分が選んで、自分で責任を負ってこの場所にいる自覚がはっきりとあります。いまがベストですね。
<今回のインターネットポイント>
2000年代初頭、インターネットが一般家庭に広まり始めた時期、個人が自らのホームページを作成し、情報発信を行うようになりました。当時はブログやSNSが一般化する以前で、HTMLやCSSの知識があまりなくてもページを作れる無料サービスが登場。中でも「忍者ツールズ」は、アクセスカウンター、掲示板、日記帳(ブログ)、などを簡単に設置でき、多くのユーザーに利用されました。
ホームページの内容は、趣味の紹介や日記、二次創作、イラスト、プロフィール帳など多岐にわたりました。個人サイトの訪問者数をカウントするアクセスカウンターで、ちょうど“キリの良い数字”に当たった人が、その番号を取得したことを報告する文化「キリ番ゲット」は、当時のインターネットユーザーにとってお馴染みのワードでしたが、いまとなっては懐かしい言葉になってしまったと言えるでしょう。
作成されたページは、検索エンジンや相互リンク、ランキングサイトを通じて閲覧され、コミュニティ的な広がりを見せていました。ホームページ作成は、手作業による発信の入り口として、多くの人にとって初めての「表現の場」でもありました。
塩谷 歩波(えんや・ほなみ)
1990年生まれ。画家。 設計事務所を休職中に銭湯に出会いイラスト『銭湯図解』を発表。小杉湯の番頭兼イラストレーターを経て、2021年、画家として独立 。著書に『銭湯図解』(2019年、中央公論新社)、『湯あがりみたいに、ホッとして』(2022年、双葉社)、『純喫茶図解』(2025年、幻冬舎)。
Instagram:https://www.instagram.com/enyahonami/
X:https://x.com/enyahonami
取材・文:大沼芙実子
編集:安井一輝
写真:新家菜々子
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