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児玉美月|映画『顔を捨てた男』から考える「ルッキズム」と「障害表象」【言葉で紡ぐ、いま・ここにある社会】

当事者と非当事者による演技という対立軸が内包された『顔を捨てた男』

2025年4月に公開された本エッセイ第5回のテーマとして掲げた「ルッキズム」。そこでは、2025年5月に劇場公開された映画『サブスタンス』に触れた。『サブスタンス』はかつてオスカーを受賞した経歴を持つ人気俳優エリザベスが、50歳を迎えて失ってしまった若い肉体と美貌を手にいれるため、謎の再生医療「サブスタンス」に手を出す…という筋書きを持つボディ・ホラーだった。

世間で話題になっていたため、わたしの非常勤先である大学でも、女性映画作家を紹介する授業のなかでこの『サブスタンス』を取り上げた。すると、とくに女性の学生からの反響が多く、日頃触れているTikTokやInstagramといったソーシャルメディアを引き合いに出しながら語る様子を目の当たりにし、この映画が放つインパクトの大きさを改めて感じた。そして奇しくも、同じく「ルッキズム」のテーマを部分的に含み込む映画『顔を捨てた男』が、2025年7月に劇場公開された。

ニューヨークを舞台にした『顔を捨てた男』では、顔に極度の変形を持つ俳優志望のエドワードがある日劇的に顔を変えられるという治療を受け、新たな自分“ガイ”として生き始める。容姿が変わったことで人生が一変したエドワード/ガイだったが、そこにかつての自分とそっくりな風貌でありながらも快活でカリスマ性のあるオズワルドが現れると、彼のアイデンティティは揺さぶられてゆく。


この映画は、自分の人生を決定づけるのは外見よりも結局は内面のほうなのではないかという至極素朴なメッセージ性をそのオチで伝えているように見えつつ、多層的なレイヤーのうえで成り立っている作品でもある。

オズワルドを演じたのは、神経線維腫症1型の当事者である俳優アダム・ピアソン。対してエドワード/ガイを演じたのは、最近では『アプレンティス:ドナルド・トランプの創り方』(2024)の現米国トランプ大統領役が好評価を博したことも記憶に新しい、俳優セバスチャン・スタン。スタンは、当事者キャスティングの議論において、しばしば当事者の起用に疑義を唱える文脈で発せられる「役者は別の人間を演じるもの」という演技論をいみじくも体現するような役者だ。つまり『顔を捨てた男』には、同じような役どころにおいて、当事者による演技と非当事者による演技という対立軸が内包されていると言える。

映画における障害表象と当事者性

障害(者)描写と当事者性について近年で議論がとくに高まったのは、第94回アカデミー賞で実際に聴覚に障害のある俳優トロイ・コッツァーが、助演男優賞を受賞するなどして高い評価を得た『Coda コーダ あいのうた』(2021)あたりだった。同年、手話を使う人物が登場する『ドライブ・マイ・カー』(2021)が同賞において国際長編映画賞を受賞し、同時にその手話の扱いについて消費ではないかと、ろう者から批判が上がってもいた。

翌年にはそうした流れとも呼応するようにして、ろう者の俳優である砂田アトムを起用した『LOVE LIFE』(2022)が劇場公開された。これについて監督である深田晃司は、「当事者キャスティングがされてこなかった理由の一つには『経済』の問題があり、それはそのまま差別にも繋がっています」「『俳優にとって新たな挑戦』『どんな役にもなれるのが俳優だ』など耳ざわりのいい『芸術的な』理由を私たちは外向けに用意しがちです。それはそれでまったく真実を含んでいないとまでは言いませんが、少なくともろう者にキャスティングが十分に開かれてこなかった不平等が解消されていない前提がある以上、今はそれを言うべき時期ではないと考えています」(※1)と説明している。


わたしたちは、映画における障害表象について、まだまだ議論を成熟させていかなければいけないように思う。2024年12月に刊行された、研究者の塙幸枝による『スクリーンのなかの障害』(フィルムアート社)は、その意味でひとつの指針になるような本だった。

たとえばその中で、好意的な評が多いように見受けられた『Coda コーダ あいのうた』についてのクリティカルな指摘が印象に残った。映像には「視点」が存在し、その登場人物の視点によって撮られたショットを「主観ショット」(あるいはPOVショットなど)と呼ぶ。同様に、音についても「聴取点」という考え方があるのだと著者は説明する。その登場人物の聴覚に関する主観性を再現しようとするのが、主観的聴取点によるサウンドなのだという。『コーダ あいのうた』でおそらく多くの観客が言及したくなるシーンのひとつは、ろう者の両親のもとで暮らす主人公ルビーの合唱発表会で無音になるところだろう。

公開当時口コミを追っていると、このシーンについて「どうして音がなくなったのかがわからなかった」と書いている観客もいた。全員が共有できるとは言わないまでも、この無音状態がろう者である両親の主観性の再現であることはかなり高い確率で推測できるようになっている。

この映画的な表現について、著者は「聴者の観客もろう者の気持ちを疑似体験できる」とするのは「無邪気な感想」だと述べる。なぜなら、この「障害の再現」は前後が有音状態であることによって、つまりは、聴者の観客の「聴こえる」という健常性によって初めて成り立つ鑑賞経験であるというある種の矛盾から逃れられないからだ。これには、読んでいてとても説得させられた。

※1 引用:ハフポスト『ろう者の映画出演を“当たり前”に。当事者キャスティングを阻む「経済」の問題、乗り越えるために必要なこと』(2025年7月30日閲覧)
https://www.huffingtonpost.jp/entry/story_jp_63230b18e4b0eac9f4dece47

ライターの外見が担わされている効果と役割

話が逸れてしまったが、当事者キャスティングにおいても障害表象においても興味深い視点を与えてくれる『顔を捨てた男』でわたしがとりわけ気になったのは、劇中で「顔」を別人のように変えたエドワード/ガイが、おそらく好感度が重視されるのであろう不動産業界での成功を果たす一方、隣人であり懸想する女性イングリッドがかつての自分をモデルに手がけた演劇では思うように役にありつけず、仕事においても容姿によって翻弄されるところだった。

役者という職業はもっともわかりやすい例として挙げられるが、ライターもまた外見が担う効果とその仕事がまったくもって切り離されているとは言いがたい。そこに関しては兼ねてから、ずっと複雑な感情を抱えてきた。

2025年の春ごろ、某所で開催された映画ライターを集めたある会合に参加させてもらう機会があった。そのとき、インタビューの仕事をよくするライターたちの間で、俳優などにインタビューをするにあたって、ライトな雰囲気にしたい場合は女性のライターが、硬質な雰囲気にしたい場合は男性のライターがキャスティングされるという話が出た。そんなことがあるのか、と若干驚きつつも、たしかにどことなくその空気はあるかもしれないとも思った。

わたし自身はインタビューの仕事はかなり少ないほうではあるものの、たとえば過去にベテランの粋に入る上の世代の男性監督のインタビューをするにあたって打ち合わせを行なっていたとき、媒体の担当者が「あの人もきっと女性と話せたほうがいいから」と口にしていたのを覚えている。インタビューも無事に終了した後日、その媒体から「実はあの監督はちょっと気難しい人で…」という話も聞いた。もしかしたらそこには、女性であればその場の空気をやわらかく、和やかにしてくれるだろうというジェンダーバイアスの絡んだ思惑もあったのかもしれない。映画ライターの集まったその会合では、「仕事の上でライターの女性性がどのような役割を担わされているか」という様々な経験談が語られていったのを聞いた。

そもそも「映画評論家」という肩書きにとって、「女性」、とくに「若い女性」というラベルは何ら役に立たないどころか、むしろそれによって損することしかないのではないかと思わざるをえない。この社会には女性よりも男性の話のほうが信頼できるという(無意識的な)偏見がまだまだあり、「若い女性」ともなれば「本格派」とみなされるのはなかなか難しいのかもしれないとも感じてきた。

大学院で映画を研究しながら、少しずつ外向けにも文章を書きはじめようとしていた頃の出来事だった。著書を購入して読んでまでいたある上の世代の男性評論家から、「映画の書き手なのに自分の顔を出しているなんて、精神的に問題を抱えているに違いない」と言われていたらしいことを人伝てに聞かされたことがあった。それはSNSのアイコンが自分の写真だったのを見ての発言だったそうで、かなり年配ということを差し引いたとしても、驚きを禁じ得なかった。映画の書き手であっても、自分の写真をプロフィールに設定しているひとはいくらでもいるのにな、と不思議でもあった。

その後も、同業者から「あなたは同性から嫌われる顔立ちをしているから顔出ししないほうがいい」と助言されたこともあり、そうなのかもしれないと心のどこかで納得してしまい、表に出る仕事はオファーがきてもほぼお断りしていた時期もあった。

ありていにいってしまえば「顔出しするのはメンヘラだから」「女から嫌われる顔」といったこれらの言葉はもちろん多分にミソジニーではあるけれども、そう強く一蹴してしまえるほどの自信めいたものも、そのときの自分のなかにはなかった。そうしているうちに時間は経ち、同じ業界にいる周りがごく自然に自分自身の姿を公にしていながら活動しているのを見るにつけ、どうして自分ばかりが顔を出すことに対してここまでセンシティブにならなければいけないのかと悶々とするようになっていった。

主役は映画そのものであり、語り手ではない

本エッセイの第3回でも取り上げた朝日新聞の『怪物』鼎談記事が公開されたあとの反響はそこに書いたとおりだが、実は内心嬉しく感じていたこともあった。SNSを開くと、誰かがすごい勢いで非難されているようだったので火元を辿ってみると、そこには「化粧の濃さ」について言及している投稿があった(結局、その投稿主が何が言いたいのかは正確には読み取れなかった)。

早い段階で該当の投稿は削除されたが、すでにインプレッションを見ると4万回近くも表示されていたようで辟易した。ただ、これに関しては予測していたとおりといってしまえばそれまでだった。記事を作り上げていくにあたって、内容が内容なだけにサムネイルで顔写真が氾濫することに懸念があったため、媒体側とも写真について使用しなくてもいいものか打診をしたりもしていた。

とはいえ、何人もが「容姿について言及するべきではない」と代わりに憤ってくれていたのは、時代が変わったようにも感じたし心強くもあった。このときに加勢してくれたのが映画評論家の真魚八重子さんで、おそらく大先輩である真魚さんはわたしなどよりもよっぽど旧態依然な男社会のなかで嫌な経験もしてきただろうし、仕事内容に関係なく女性の書き手が容姿についていろいろ言われる風潮を変えたいと共感してくださった。先に書いたかつての記憶なども相まって、この一件でTwitter(現X)のアイコンは真っ白にして、いまもそのままにしている。

それから少し経って、ある女性の映画監督から、容姿について投げかけられた言葉によって自分も傷ついた経験があると打ち明けてもらった。たしかに映画監督もインタビュー記事などの宣伝活動や、舞台挨拶などでメディアに姿を現す機会も多い。作品とはまったく関係がないにもかかわらず、容姿について何かを言われるのは不当としか言いようがない。創作に関係のないことで頭を悩ませることがなくなってくれればいいのになと思う。

こうして『顔を捨てた男』における外見と仕事が切り結ぶ厄介な関係という水路が、一見遠いように思える自分自身の経験と合流したのだった。文章を書くうえでは、できるだけ透明な存在でありたいと思う。主役はあくまでも映画そのものであり、語り手ではない。語り手の個性やなんらかの特性が映画を越すほど前景化すべきではないとも思う。ときに邪魔だとさえ思ってしまう女性表象を否応なく纏わざるを得ない自分から逃れて自由に映画について書ければいいのに、と想像してみる。誰よりもそこに囚われているのは自分自身だということも理解している。きっとこうして日々文章を書き続けながら、ひとつひとつ積み重ねていくことでしか、それは解きほぐせないのだということも。

 


©︎ポニーキャニオン映画部

児玉美月
映画文筆家。大学で映画を学び、その後パンフレットや雑誌などに多数寄稿。共著に『彼女たちのまなざし』『反=恋愛映画論』『「百合映画」完全ガイド』がある。
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寄稿:児玉美月
編集:前田昌輝

 

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