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児玉美月|性暴力に関する映画の啓蒙的な役割【言葉で紡ぐ、いま・ここにある社会】

この社会は性暴力の問題にまだまだ未成熟だ

地元である北海道にいた頃、毎日自転車を必死に走らせて自宅から20分ほどの距離にある高校まで通っていた。その後、東京の大学に進学してまず衝撃を受けたのは、周囲の女の子たちがほとんど全員痴漢の被害に遭っていたことだった。授業後に複数人で話していたとき、たしか誰からともなくそんな話が出た。

大学時代、映画館か大学のAVライブラリーに引きこもりがちだったわたしは、まともに友達と呼べる対象は1人くらいしかいなかった。その子は東京生まれで大学までエスカレーター式の女子校に通っていたが、制服姿で電車に乗るときはとくに痴漢に遭うことが多かったのだと語っていた。

北海道の田舎で電車に乗る習慣がなかったわたしは、彼女たちの痴漢にまつわる経験談を聞きながら、自分だけが「助かってしまった」と思い、なぜか罪悪感さえ感じた。

もちろん痴漢は不同意わいせつ罪(※1)が成立しうる犯罪行為であり、決して許されるものではない。けれど今から15年以上も前のその時代、「痴漢」という言葉はあまりにも軽く、みんな「されても仕方のないもの」あるいは「運が悪かっただけ」だと納得し、どこか諦めているようだった。性暴力はあまりに身近で、麻痺していたのかもしれない。

時代はそれから目まぐるしく変化した。おそらく今の価値観で大学時代を過ごしていたら、日常的に痴漢に遭っていた友人に対してもっと然るべき対応を取っていたに違いない。性暴力を決して軽視せず、心の痛みももっとケアできていたはずだった。

そのときのことを思い出しては、無知だった自分を叱咤し、無頓着だった自分を悔やんだ。しかしながら「変化した」とはいえ、この社会は性暴力の問題についてまだまだ未成熟だと言わざるをえない。

著名人の性暴力告発が起きるたびに被害者を責め立てるような二次的被害が横行し、それを二次的被害、あるいは二次的加害だと指摘する声が上がるものの、なお止まない。告発と世間のそれに対する反応はある程度決まりきった型があり、それが何度も繰り返されている堂々巡り感さえある。

編注※1 用語 不同意わいせつ罪:刑法第176条に規定され、被害者の同意なく、体を触ったり、触らせたりなどのわいせつ行為を行った際に成立する。また、わいせつなものでないと誤信させて実行した行為や、16歳未満の子どもの場合は同意の有無に関わらず成立する(加害者との年齢差によっては処罰の対象とならない場合もあり)。法定刑は6年以上10年以下の拘禁刑

▼セクシュアルハラスメントの実態や経験談について記載した記事はこちら

トリガーアラートがなぜ重要なのか

「性暴力」とは何か。それは、「同意なく身体に触れる行為」のすべてを指す。しかし、まだまだこの大前提が欠けていると思わずにいられない瞬間も多々ある。

ここ数年、映画の上映に伴う性暴力に対する「トリガーアラート」(※2)を設置する作品が増えてきた。2024年10月には映画やドラマに含まれるセンシティブな内容を事前に確認できるサービス「milma.jp」がリリースされ、性暴力に限らずともトリガーアラートの需要はますます高まっているように見える。 

性暴力に対するトリガーアラートがなぜ重要なのかは、ここまで書いてきたとおり、この社会には想像以上に性暴力の被害者が多いという実態を踏まえる必要がある。2023年6月には、性犯罪において、一定期間の経過により犯人を処罰することができなくなる「公訴時効」が法改正により延長された。性暴力や性虐待はしばしばそれがそうだったと気づくまで、あるいは被害を訴えられるようになるまで時間を要するため、かねてより既存の時効期間では短いと批判があった。

とくに大人が性的な目的のために、言葉巧みに子供と親密な関係を築いて手懐けることを意味する「グルーミング」は、性暴力被害を生む背景として近年ようやく認知が高まってきたが、大人になるまで自覚できないケースも多く、被害者が18歳未満だった場合には18歳に達するまでの期間が公訴時効期間にさらに加算されるようになった。

2017年にハリウッドで起きた「#MeTooムーブメント」(※3)は、自分の被害について声を上げることだけでなく、同時に、自分が被害に遭っていたことを気づかせる契機としても世界的に波及していったのだともいえるだろう。

そうした性暴力の特殊性を考慮すると、必ずしも被害者として性暴力描写がトリガーになると自覚し、十分に自己防衛が可能な観客だけとは限らない。暗闇の中に身を沈めて画面をじっと見つめ続ける映画は、ほかのメディアよりもある部分で暴力性が高く、どのような記憶の扉の開け方をするか予想がつかない面も大きい。潜在的な性暴力の被害者の存在も踏まえたとき、必要ないと思っている観客にとっても、上映前の警告はそれが無意識であったとしても、一段階おくことで心の準備だったり、バリア的な機能をもたらすかもしれない。

編注※2 用語 トリガーアラート:映画や演劇などの鑑賞の際に、トラウマ(心的外傷的出来事)体験を刺激する可能性のある表現について、あらかじめ周知すること
編注※3 用語 #MeTooムーブメント:2017年にアメリカを中心に世界でも広がりを見せた、セクハラや性的暴行などの性暴力被害の体験を、「#Me too」というハッシュタグをつけて告白・共有する運動

トリガーアラートが持つ啓蒙的な役割

トリガーアラートには、まず何よりも性暴力の関係者がフラッシュバックなどの危険から身を守れるようにする目的があるほか、もう1つ副次的な効果として、どんな行為が性暴力にあたるのかを示す啓蒙的な役割があるように思う。

一般的な性暴力のイメージには、道端で知らない人に襲われる、激しく抵抗しているにもかかわらず乱暴を振るわれるといったものがあるが、実際には親密な間柄においても行われ、しばしばわかりづらい形をとる。1つの例として、たとえばある映画の中で行われた夫婦間における合意のない性行為が、婚姻関係を理由に性暴力として見做されない場合がある。そういった作品にトリガーアラートを設けたなら、劇中に性暴力の描写が含まれることが明示されることになる。

2023年の東京国際映画祭で上映された中国人女性と韓国人女性の交差を描く『緑の夜』は、まさに夫婦間における性暴力描写が劇中に差し込まれた作品だった。当時『緑の夜』の配給元より、トリガーアラートがあったほうがいいかどうかに関して、上映する前にご相談いただいた。

2023年はちょうど、『SHE SAID シー・セッド その名を暴け』(2022)、『ウーマン・トーキング 私たちの選択』(2022)、『アシスタント』(2019)など、性暴力やハラスメントを扱う映画において、そうした描写を直接的には行わない作品の劇場公開が相次いでいた年だった。『緑の夜』のDCPを作成したラボでは、こうしたトリガーアラートは前例がなかったらしく、まだこの試みは始まったばかりなのだと改めて思った。

映画祭での上映当日、スクリーンでのお客さんの反応が気になり、わたしも観客席で観ることにした。もちろんひとりひとりにどう感じたのか確認できたわけではないのでわからないが、その後のSNSではトリガーアラートに対して「事前に知れてよかった」「正しい判断」など好意的な口コミがいくつか見つけられた。

もっとも重要なのは、それが「ネタバレ」にあたるかどうか配慮することよりも、これまで不可抗力的にフラッシュバックを引き起こしうる表現と遭遇するのを避けてきたために映画館に行くことのできなかった観客を包摂することだと思う。

▼映画の「ネタバレ」の扱い方について児玉美月さんが執筆した記事はこちら

一方で、劇場が暗転してから「性暴力がありますよ」と警告されること自体が怖いといった声もあった。仰々しく言われてしまうと、とっさに身構えてしまうのもよく理解できる。その上映時には叶わなかったが、本来であれば、チケット購入の段階で注意書きがあればいいのだと思う。トリガーアラートを設置するかどうかに関して、鑑賞作品を選ぶ観客側にとっても、個別の作品に判断を委ねるのではなく、一定の基準を設けたガイドラインのようなものが用意されるべきかもしれない。

もうひとつ、トリガーアラートの設置によって性暴力の正しい知識を啓蒙する好例として、2024年に劇場公開された映画『HOW TO HAVE SEX』(2023)がある。この作品の公式サイトに掲示された「本作ご鑑賞上のご注意」をクリックすると、「本作には、性被害の描写が含まれます。鑑賞をご検討の際にはご注意ください。本作はインティマシー・コーディネーター監修のもと、制作されております。」と表示される。

『HOW TO HAVE SEX』は、性体験をしたことのない16歳の少女が友人たちと卒業旅行でリゾート地であるクレタ島に出かけていく物語が描かれている。この映画に対して、「若かりし頃の失敗」「大人になるための痛み」「甘酸っぱいひと夏の経験」といった感想が寄せられてもいた。実際、青春期に経験した性暴力被害がそうしたキラキラワードでデコレーションされてしまうことも決して少なくないのだと思う。だからこそ、公式が「性被害」と断言する意義がある。


健全な性行為と性暴力の間に境界線を引く「性的同意」は、アプリのチェックボタンのクリック1つで果たせるような即物的なものではない。『HOW TO HAVE SEX』が生々しく炙り出したように、「性的同意」はもっと微妙な営みであり、努力で築き上げられた信頼関係を下地にした繊細なコミュニケーションが必要とされる。

その過程でどちらかが暴力性を覚えれば、対等になされなければならないはずの性行為の基本原則は破綻してしまいかねない。性暴力の話題について語るとき、わたしはつねに「性加害」ではなく「性暴力加害」、「性被害」ではなく「性暴力被害」とするよう心がけている。「性加害」「性被害」のほうがよりカジュアルに使われている印象を受けるものの、それが「暴力」であるからこそ問題なのだという意味を捨象しないために省略を避けている。

描いた問題を映画の中で終わらせない意志

また、トリガーアラートが性暴力を扱う映画を上映する前の施策だとすると、上映後の施策として最近なるほどと思った作品があった。

花屋を開業する夢をボストンで実現させようとしているリリーが、外科医の男性と運命的な出会いを果たしながら、同時に初恋の相手とも再会する『ふたりで終わらせる/IT ENDS WITH US』(2024)である。一見、ルックはロマコメ映画のようでありながら、観ていくと性暴力をテーマにした作品であることがわかる。タイトルにある「ふたり」が誰と誰のことなのかが明らかになる展開に感動しながら映画が終わり、エンドロールがはじまるとすぐに、「あなたや知人がDVを受けていたら支援センターに相談してください」とテロップが流れる。

それは性暴力の被害が適切な相談窓口や支援施設に繋がるべき事態、然るべきケアがなされるべき事態であることを伝えると同時に、「あなた」という呼びかけによってあらゆる観客にとって「自分ごと化」させる効果ももたらす。描いた問題を映画の中で終わらせない意志がそこにはあった。このテロップにおいて、「あなた」だけでなく、「知人」にも目配せされているところは見過ごせない。性暴力の問題は、当事者だけの問題だけでなく、隣の人の問題であり、社会全体の問題なのだから。


かつて寄稿先の雑誌の編集部から、「性加害とかは女性が語ればいい」と言われたことがあった。もちろん性暴力やハラスメントの問題は開かれた場で議論していかなければいけない問題であって、女性だけが語るべきトピックではない。男性中心で構成された編集部から放たれたその言葉は、無責任極まりないものだと言わざるをえない。

被害当事者には男性もいるものの、圧倒的に女性のほうが多い現実がある以上、女性にばかり語らせようとするのはそこに潜在する被害当事者の傷をさらに抉り、負担をかける可能性も高めてしまう。いかなる議論においても、特定の属性のみがゲットー化されてはならない。それでも、性暴力やハラスメントの問題に関する領域に「女性」という属性だけでどこか信頼性が担保されてしまう風潮はたしかにある。男性であるがゆえに自分に語る資格があるのかと躊躇ってしまう層も少なくない。でも本当は、他者から与えられた性別ではなく、自分で得た知識のほうがよっぽど重要なはずだ。

▼性暴力を描いたドラマ『SHUT UP』のプロデューサーに取材した記事はこちら

眼科医から言われた一言

ついこの間、目が痛くなって引っ越した先で初めての眼科にかかったところ、医者から「君がもし僕の嫁だったらこうするね」と治療を提案された事件があった。その医者にとってはたんなる冗談だったとしても、これはわたしのなかではもはや事件(!)だった。

この社会では出生時に「女性」ジェンダーを割り振られた瞬間から、男性に従属する「母」や「妻」、あるいはその予備軍と見做されて生きることを余儀なくされてしまう。わたしはわたしとして自律して存在できず、男性ありきの存在でしかないという無力感。異性愛主義に不可抗力に巻き込まれる徒労感…。いうまでもなく、トランスジェンダーやノンバイリナリーなど非規範的なジェンダー属性の人々にとっては、勝手に「女性」「嫁」と目の前の人間から名指されることは尊厳を傷つけられる重大な人権侵害となりうるだろう。

わざわざ「僕の嫁」の仮定で想像せずとも、「医者と患者の立場でしっかり診察せんかい」と思ったが、口には出さなかった(新たな被害者を生まないために、Google Mapのクチコミに書き込むくらいはするかもしれない)。

なぜこの話をしたかというと、性暴力の被害について真剣に考えることや不適切な発言に対する再考を求めようとするときによく持ち出される、「もし被害者があなたの娘だったら?」という仮定を想起したからだった。情緒に訴えかける手段は、ある部分では有効なのかもしれないが、これに遭遇するたびに自分がその事案の被害者だったら勝手に「娘」とか思われたくないなと感情的には思う。

包括的性教育、人権教育が日本でももっと普及し、あらゆる性暴力やハラスメントが人権問題であるという意識が備わっていれば、そうした開かれた社会問題を特定の親密圏内に制限してしまう脆弱な仮定など、いつか必要なくなるかもしれない。

いま、世間では連日のように性暴力についての話題がメディアを飛び交っている。とくに近年ようやく正しい認知が高まりつつある性暴力やハラスメントにおいては、司法がそれらの加害を十分に裁けるほど機能していないがゆえに、必然的に市民レベルでの議論が活発化する。

性暴力やハラスメントに対しては、断固として厳しい態度を取っていかなければ変わらない。この激動を経てわたしたちの社会はどこに向かっていくのかを、わたし自身もこの社会に生きるひとりの当事者として、引き続き考え学びながら、注視していきたい。

 


©︎ポニーキャニオン映画部

児玉美月
映画文筆家。大学で映画を学び、その後パンフレットや雑誌などに多数寄稿。共著に『彼女たちのまなざし』『反=恋愛映画論』『「百合映画」完全ガイド』がある。
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Instagram:https://www.instagram.com/mizuki.kodama73?igsh=MjhlcjB2dGE5bDli&utm_source=qr

 

寄稿:児玉美月
編集:前田昌輝

 

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