よりよい未来の話をしよう

児玉美月|「言語化」時代にわたしは、生きた言葉と格闘する【言葉で紡ぐ、いま・ここにある社会】

「ハラハラ」という言葉への違和感

つい先日、非常勤講師として勤務している大学から依頼されて、ハラスメント講習を受けた。講習後にテストを受けてみると、適当な回答を選ばなければならない設問のなかに、「ハラハラが増えてきた」とあった。そこで一瞬、「え、ハラハラ……?」と立ち止まってしまった。

不勉強で知らなかったのだが、「ハラハラ」とは「ハラスメント・ハラスメント」のことらしい。ドキドキ、ワクワク、ハラハラ…。なんだか若干、愉快なニュアンスがある。

インターネットでその語について検索してみると、「過剰にハラスメントを主張する嫌がらせ行為」といった定義が出てくる。その講習では、「ハラハラ」は「権利の振りかざし」とも表現されており、本当に「権利の振りかざし」が「増えてきた」のだろうかと、設問を解く手が止まってしまったのだった。

こうして指導的立場にある人間に、わざわざそれだけをテーマにした講習を必須として課して学ばせようという施策自体、まだまだ社会においてハラスメントの認知や認識が十分ではない証左だと思う。

それがハラスメントであると正当に認定されるかわからないような共通理解の乏しい状況のなかで、あるいは「今はこれもセクハラになっちゃうのかな〜?」とセクシュアルハラスメントを無神経に揶揄してくる「おじさん」(中年男性ではなく、概念としてのおじさん)のような存在がいるなかで、職場や教育現場などにおいてハラスメントを訴えるのは、少なからずまだまだ勇気のいる行為ではないか。その段階で「権利」を「振りかざす」というような、声を上げようとしている被害者に抑圧的に働いてしまいかねない言葉が先行して流通するのはどうなのだろうか。

「ハラハラ」という言葉に違和感を覚えたのは、「〇〇ハラ」という闇雲な造語が増えるべきではないと思っているからでもある。

「セクハラ」「モラハラ」「パワハラ」…、そのくらいならば許容できても、「何にでもハラをつければいいってもんじゃないぞ」と感じざるを得ないような局面もある。要は、「ハラスメント」という言葉が軽くなっていくのに対する拒否感情があるのだと思う。ついさっき、「セクハラ」のすぐあとに「セクシュアルハラスメント」と書いたのはそのためだ。

言葉の省略から感じる、優位に立てた感

もうひとつ、これも個人的な所感として、どうも「フェミニズム」を「フェミ」と略したり、「ポリティカルコレクトネス」を「ポリコレ」と略したりすることには抵抗がある。もちろんれっきとしたフェミニスト自身も「フェミ」を日常的に使っているし、その限りではないと理解しつつも、「フェミ」や「ポリコレ」を好んで使う話者は、それを腐す文脈で使っている場合が多いように感じられる。

言葉を省略して使うと、なんとなく使い慣れている感が出る。わたし、この言葉を使いこなせていますよ、感。昔からよく知っているから略しちゃうもんね〜感。

要は、短く縮めたその言葉より、自分が優位に立てたような気になれるのかもしれない。ひとは無意識ながらに、矮小なものを軽蔑する生き物だから。

おそらくわたしは、「セクシュアルハラスメント」や「フェミニズム」、「ポリティカルコレクトネス」といった言葉を、長い息を吐きながら、慎重に、丁寧に扱いたいのだと思う。軽はずみに、世の中に放り投げたくない。そうした感覚を、言葉に対する畏怖の念と、一言で言い換えてみてもいい。

▼略語の歴史や傾向について日本語教師の堀尾佳以さんへ伺った記事はこちら

「フェミ」や「ポリコレ」などとは異なり、「レズビアン」を省略した「レズ」は、明確に蔑称にあたると今ではかなり人口に膾炙(かいしゃ)している。2025年の夏に公開された韓国のアニメーション映画『The Summer/あの夏』の劇場用パンフレットに作品評を寄稿したとき、劇中で子どもが「レズ」と発する場面があり、日本語の字幕をどうするのか本国側も含め思案しているという話が配給元からあった。

わたし自身は、作者が無意識に差別(的な)描写を生産してしまったのではなく、創作のなかでそれがきちんと「差別の描写」として描かれているのであれば、まず問題ないと思っている。ただ、映画を送り出す側が、誰かを傷つけるかもしれない表現をそのまま訳していいのか懸念するのも心情はわかる。

そこで、チェ・ウニョンが執筆した原作小説にあたってみた。日本語で読みつつ原文も確認すると、チェ・ウニョンは作中「レズビアン」と「レズ」を周到に使い分けていた。同場面において映画ではそこまで深入りされていないものの、小説では「レズ」がいかに差別的なニュアンスで吐き捨てられる言葉なのかまで記述されていた。

つまり、作り手はしっかりと理解した上で、あえて蔑称を用いていた。そうした作者の意図が「レズ」という原語を変えてしまうと伝わらなくなってしまうので、その辺りの解説を自分のパンフレットの作品評に入れ込むことにした。

どうやら日本語字幕では「レズ」とは訳さない方向性で話が進んでいたらしいのだが、その作品評を読んでくださり、再度話し合いが行われ、やはり「レズ」は「レズ」のままで行くことになったと報告を受けた。

とはいえ、映画を送り出す側がここまでたった二文字に、いやもちろんそれはされど二文字なのだけれども、その二文字にあれよこれよと複数の大人たちが思考を張り巡らせ、傷つくかもしれない誰かの感情に寄り添ったという事実は、なんらかの形で映画の観客にも伝わればいいなと思った。ダメ元で、「劇中に蔑称が使用されていますが、原語を尊重し当該用語をそのまま訳出しています」といった案内を公式サイトやSNSの公式アカウントなどで掲出してみてもいいのではないかと提案し、採用してもらった。

これによって、何が差別表現なのかという知識があり、その差別表現によって痛みを被るかもしれない観客へ配慮をしようとする試みを実践する映画会社だと暗にメッセージを発信できれば、そうした映画会社が配給する作品なら安心だと思ってもらえたら嬉しかった。

言葉による、わたしなりのささやかな政治的抵抗

その経験がわたしにとってひときわ感慨深かったのは、ある記憶が甦ったからでもあった。以前、定期的に寄稿していた映画雑誌のひとつに『映画芸術』がある。『映画芸術』の2022年秋号だったか、見本誌が届いたのでいつものようにぺらぺらと捲っていたら、編集長の荒井晴彦さんと映画運動家の寺脇研さんの対談で、荒井さんが次作でシナリオに「レズ」と書いたところ、インティマシーコーディネーターから「『レズ』は侮蔑的意味が込められているから『レズビアン』にしてください」と指摘が入ったというエピソードを語っていた。それに対し寺脇さんは、「いけないのは、差別なんであって、単に言葉の問題じゃない」と答えていた。

実際、その対談ではほかの箇所でも「レズ」が頻出しており、指摘されたはずの「侮蔑的意味」などお構いなしのようだった。いや、差別というのは、言葉の問題でもあるのだと、わたしは思う。

2025年12月6日からユーロスペースにて開催された日芸映画祭2025『はたらく×ジェンダー』のプログラムに掲載するため、映画業界における労働問題を扱う映画を中心に論考を寄稿した。その文章の『ガス燈』についてのあらすじで、「夫婦」と書いてから、やっぱり「ふうふ」とひらがな表記にした。


2025年11月28日、同性同士の婚姻を認めない制度の違憲性が争われた裁判で、東京高裁が「合憲」の判決を下した。その判決文には、「男女の性的結合関係による子の生殖が、今なお世代を超えて国民社会を維持する上で社会的承認を受けた通常の方法」であり、「『夫婦』を法律上の男性である夫と法律上の女性である妻と解する」ことには合理性があるなどと記されていた。

こうした「合理性」に真っ向から反対し、婚姻関係上のパートナーシップを異性同士のみに制限するべきでないとする立場として、「夫」と「妻」の漢字から成立する「夫婦」なる表現に、ぼんやりと則っていたくない。

内心そう思いつつも、見慣れない「ふうふ」にはやや違和感を覚えるし、これまで仕方なく漢字にしてきたけれど、こうした社会情勢によって筆が揺れ動く。「夫婦」を「ふうふ」と書くのも、わたしなりのささやかな政治的抵抗だ。

「一人」と「独り」を「ひとり」と書く理由

日本語は、どの漢字をあてるのかだけでニュアンスが変化する繊細な言語だと常々思う。2026年の2月に公開されるヨアキム・トリアー監督最新作『センチメンタル・バリュー』は、役者として活躍するノーラとその映画作家の父親グスタヴの再会を描く。主人公の年齢は定かではないが、ノーラを演じる俳優のレナーテ・レインスベが38歳なので、おそらくノーラも30代後半くらいの設定だろう。話の重要な展開に直接関わらないところなので、少しだけ会話を引用してみたい。

グスタヴはノーラに「今何歳になったのか」と問いかけ、「お前の年齢で母親はもう子どもがふたりいたのだ」と説く。グスタヴは「思いやる相手がいなければ、芸術にも悪影響を及ぼすぞ」と娘を脅す。このとき、グスタヴが言い放った「お前は永遠に独りでいたいのか」という台詞に含まれる「ひとり」の漢字が、「独り」なのだな、とふと思った。

元のノルウェーの言語によるニュアンスをわたしは解せないけれど、「一人」でも「ひとり」でもなく「独り」だと、より孤独の気配が強く漂う。娘は、すでに結婚して子どもを育てていた母親と比較されており、そこには「独身」といった含みも滲む。


2026年の1月に公開される『旅の終わりのたからもの』にも、奇しくも相似的な場面があった。この映画も『センチメンタル・バリュー』と同じく父と娘の関係を描く映画と言っていいかもしれないが、そこにホロコーストという負の歴史が介在してくる。

レナ・ダナム演じるルーシーは、父エデクを引き連れ、ポーランドへと過去の記憶を巡る旅に出ていく。食事中、36歳になったというルーシーに対してエデクは、「若いのに独身なんて普通じゃない、お前は孤独だ」と嘆く。しかしルーシーは、 “I'm not lonely. I'm single. I'm alone. But I'm not lonely.”とエデクの言い分を毅然とした態度ではねつける。ルーシーが自分自身を「ひとり」と表現するとき、それは決して「独り」とは変換しえないものだろう。


この社会ではそうして、「ひとり」を選んで生きている女たちが、ときに他者から不本意に「独り」と言われてしまう。文章を書くときわたしは、記号の「一」が含まれた「一人」でも、孤独の「独」が含まれた「独り」でもなく、ひらがなの曲線の柔和なニュアンスが気に入っている「ひとり」を選ぶ。「ひとり」は、優しいものであってほしい。

真剣に言葉と格闘する

ここまで自分のなかのさまざまな言葉にまつわるルールについて書いてきたけれど、もちろん失敗も多々ある。

たとえば、過去に『キネマ旬報』に『クリード 過去の逆襲』(2023)の短評を書いたとき、マイケル・B・ジョーダン演じる主人公の聴覚障害者である娘について「聾者」と記述し、SNS上で「聾」は「ろう」にすべきだと指摘を受けた。すぐに編集部に連絡して確認したところ、編集部による校閲記述では差別表現にはあたらないと回答があったものの、すでに印刷された雑誌は無理でもその後ウェブに転載される分に関しては、「ろう者」に修正をお願いした。

「記者ハンドブック」にも載っている通り、「つんぼ」とは「耳の聞こえない人を指す差別語・不快語」だが、「聾」という漢字はそうも読めてしまうため、指摘してくださった方が忌避するべきだと考えているのも理解できた。

今回、「記者ハンドブック」で該当部分を確認していると、「障害を持つ」という表現には、望んで障害を持ったわけではないという当事者の声に配慮し、「『障害の(が)ある』と書く」ともあって、これまで映画批評で「障害を持つ」となんのけなしに書いてきたと思い至り、今後参考にしてみようと思った。

ちょうど1年ほど前に発表された辞書の三省堂が選ぶ「今年の新語 2024」の大賞は、「言語化」だった。「現代の人々が『言語化』と表現するのは、それだけ『ことばにする』という営みを細かく捉えるようになったからかもしれません」(※1)と記された選評に、そうかもしれないなあと頷いた。

抽象的な映像を言葉にしていく映画批評は、まさしく「言語化」と呼ぶべき、折り合いのいい営みなのかもしれず、ここ数年は「言語化してくれた」というような感想を読者からもらうことがたしかに増えた。

言語化できることが尊ばれる時代であり、言語化しやすいものが賛を得る時代に全面的に賛同するわけではないが、言葉の隙間から捨象されてしまう微細な何かを見落とさない意識を忘れないのなら、「言語化」という時好の概念によってわたしたちがより真剣に言葉と格闘するのは歓迎したいとも思う。

▼「言語化」について哲学者の永井玲衣さんへ伺った記事はこちら

こうしてこのエッセイを書いている今、街の至るところがイルミネーションに灯され、どことなく楽しい雰囲気が高まるクリスマスが近づいてきている。…、と書いたそばから、「クリスマス」というワードが気になった。最近は周囲でも、「クリスマス」ではなく、宗教や文化を特定しない「ホリデー」のほうを耳にするシチュエーションが増えている。

「Merry Christmas(メリークリスマス)」から、「Happy Holidays(ハッピーホリデー)」へ。言葉はわたしたちと同じで生きている。文化や社会、時代に合わせて変化していく。その変化を面白がりながらたえず学び、自分自身もまた変化していく。それは決して、「言葉狩り」といった暴力的な振る舞いを喚起する語彙には還元しえない、いち人間としての根源的な誠意なのだと思う。

※1 引用:三省堂WORD-WISE WEB「三省堂 辞書を編む人が選ぶ『今年の新語2024』」(2025年12月10日閲覧)
https://dictionary.sanseido-publ.co.jp/shingo/2024/best10/Preference02.html

 


©︎ポニーキャニオン映画部

児玉美月
映画文筆家。大学で映画を学び、その後パンフレットや雑誌などに多数寄稿。共著に『彼女たちのまなざし』『反=恋愛映画論』『「百合映画」完全ガイド』がある。
X:https://x.com/tal0408mi
Instagram:https://www.instagram.com/mizuki.kodama73?igsh=MjhlcjB2dGE5bDli&utm_source=qr

 

寄稿:児玉美月
編集:前田昌輝

 

最新記事のお知らせは公式SNS(Instagram)でも配信しています。
こちらもぜひチェックしてください!

▼これまでの児玉美月さんの連載コラムはこちら

掲載されている文章、イラストおよび写真は、BIGLOBE又は第三者が著作権を有しており、権利者の許諾なく利用できません。