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つやちゃん|共鳴が知をひらく──「私の感じ方」でつながる時代の教養論【伝染するポップミュージック】

音楽の聴き方は「知識」から「共鳴」へ。

世の中における、音楽の聴き方が変わってきた。

仕事柄、特に若年層がどのように音楽を聴いているかについて見聞きすることが多いが、特にこの4、5年で圧倒的な変化が起きたことを実感する。まず、音楽を知識とともに聴く人が減った。一部のリスナーを除いて、ジャンルを理解して聴く人も随分といなくなった。当然、構造を分析して聴くような人たちも見られない。ある種の教養主義的な聴き方が失われてきた。

代わりにどのような聴き方が増えているのかというと、「私の感受性」を起点にするリスニングである。もちろん昔から「私の感受性」は大切にされてきたが、同時に、どこか「感受性に響かない音楽=私の聴き方が悪いのかもしれない/感受性が鈍いのかもしれない/知識が足りないのかもしれない」という自己責任的な謙遜意識があったように思う。

しかし今、それは明らかに後退している。わからない音楽に出会ったときの態度――「これは難解な名作らしい。私はまだ理解する素養が足りないのかも」「あの人が絶賛してるなら、自分の感性を疑った方がいいかも」――といった、“わからない自分”にこそ原因があるとする内省は、失われている。

そのぶん、「私の感受性」を起点にした聴き方によって、音楽を通じて自分を知り、他者と接続し、社会を映し出すことができるようになった。SNSで、コミュニティ内のイベントで。私だけの感じ方が、他者の読みを引き出すきっかけにもなり得るし、そこから社会についても考えられるようになる。

つまり、音楽を“わかる”ためではなく、“ひらく”ために聴く――そういった変化が起きている。そこには、自分の感性へのフラットな信頼があるだろう。大きな共同体の価値観に照らして聴くのではなく、“私”というローカルな基準で、身近な共同体=コミュニティにつながりつつ聴くということ。そしてこれは、音楽に限った話ではなく、あらゆる分野にあてはまるのではないだろうか。

読書でも広がる「私の感受性」でつながる流れ

「BookTok」や「Bookstagram」という現象をご存知だろうか。日本はこの現象から取り残されているが、海外では、特に北米を中心に読書が大きな盛り上がりを見せているのだ。BookTok はTikTok発の読書コミュニティで、若者たちが本の感想や一節を語り、動画を通じ「共感」や「読みの仮説」を共有することを指す。対してBookstagram は、読者が本棚やページを撮影し、コメントを添えて投稿する行為である。表紙のデザインやフォトジェニックさだけでなく、感情や読後感も含めた「読んでいる自分」を演出する文化だ。読書も、今は感受性を映し出す自己演出であり、他者との共振を起こす行為へと変化しているのである。

いま全世界で#BookTok による投稿数が爆発的に増え、ティーン・若年層へのリーチ力の大きさが注目を集めている。また、TikTokユーザーの多くが、BookTokの影響で以前より読書量が増加したと回答。その結果、新刊にとどまらず、古い書籍の売上も増えているとのことだ。盛り上がりはSNSだけにとどまらない。リアルの場でも本に対する注目は高まっている。アメリカの書店チェーン店『Barnes & Noble』は、BookTok 人気を受け、今年コネチカット州で3店舗の新設を発表したという。その影響力から、いま書店は「ソーシャルハブ」としての役割として再定義されつつある。

さらにポップアップ型のブック・バーや読書会など、本を語り合うリアルイベントも多く開催されている。これは、音楽において「ライブ映像上映+語りあいの場」といったリスニング・ラウンジのような鑑賞形態が生まれていることとも近い現象だろう。共に「読む」「聴く」体験を共有し、同時に各々の感受性を提示するような、知性を分かち合う場が生まれてきているのだ。他にも、そういった傾向は多々見られる。アメリカ発の文化系ポッドキャスト「Nymphet Alumni」は、ホストたちがポップカルチャーを解読し、独自の概念を発信している。リスナーの参加や対話も活発で、発展的に知識を消費・再構築する場となっている。国内でも、文学フリマの大盛況が度々ニュースとなっているが、それも売買に伴ったSNSやリアルでのコミュニケーション・交流を伴う点で、近い現象として捉えられるはずだ。

さまざまな領域で起きている傾向は、何を表しているのか?

以上のような新たな傾向は、一体何を表しているのだろうか? 知の生態系が、個人の感性を拠り所に、自律的かつ共同的に構築されていく流れ――これは、「新しい教養」なのだろうか?

かつて教養といえば、古典を学び、知識を体系的に身につけることを指していた。けれども、そういった旧来の教養主義は崩壊したと言われて久しい。膨大な情報が手に入る今、知識を持っていること自体は、かつてほどの希少価値を持たなくなったからだ。YouTubeで(有象無象の!)教養講座が観られる今、情報に対する課題はもはや「アクセスすること」ではなく、「選別すること」へと変質している。

同時に、社会の分断・信頼の欠如のなかで、現在は「共鳴」の必要性が高まっている。ゆえに、今、重視されているのが感受性である。「何を知っているか」ではなく、「どう感じ取るか」「どう意味づけるか」「どう語り直すか」。知識は感受性の素材となり、跳躍のための土台として再配置された。言い換えれば、知識は“閉じた体系”から、“ひらかれた対話の断片”へと変わったのだ。

と言うと、すぐさま反論が来るだろう――「そんなものは教養ではない、かつての教養には、“深さ”や“体系”、“持続”、さらに“知の緊張感”といったものがあった」と。けれども、「本気で鑑賞する/読む」ことから「スタイルとして鑑賞する/読む」ことへの転換は、それこそ1980年代のニューアカ的知性の頃からすでに起きていることであり、あの時代にあった「文庫本を読む身体」や「批評語を話す口調」が、今でいえば「引用するInstagram」「ZINEをつくる自己演出」「ポッドキャストで語る自分」などに置き換わっているだけではないだろうか。つまり、感性を媒介に知がスタイリングされるということは、昔から起きていたのだ。昔と違うのは、今はより個人の感受性が重視され、より曖昧で、より開かれているという点なのではないか。

もっと踏み込むとしたら、いまの教養においては、“未完成”であることこそが力を持つようになっている、とも言えるのではないか。「完成された知識=権威ある語り=閉じた体系」とするならば、それに対置されるのが、「未完成な感受性=ひらかれた語り=対話への呼び水」である。自分の語りがどこか未完成であるからこそ、他者に応答の余白を残し、対話が生まれる。つまり、「私の感じ方」を差し出すことが、他者の感受性や言葉を引き出すきっかけになるのだ。

そう考えると、教養は大きく変わったようにも見えるが、実は本質的な部分では変わっていないのかもしれない、とも思う。そもそも旧来の教養も、単に知識を積み上げることだけに価値があったわけではない。それは常に、「ある文化的共同体に参加するためのコード」として機能していた。教養とは、特定の階級や文化圏にアクセスするための“通行証”であり、その意味で他者との関係性を前提としていたのだ。そうであるならば、今、教養が“未完成な感受性の共有”というかたちに変わったとしても、他者とつながるための表現形式という本質においては、むしろ地続きであるとも言えるのではないか。

だから私たちは、もはや「何を知っているか」ではなく、「どんなふうに感じ、それをどんな言葉で誰と分かち合うか」を問われているのだろう。知識を孤独に蓄えるのではなく、未完成なまま感受性を差し出し、他者と響き合うことで知は再び生まれていく。もしそれが、いま新しい教養主義と呼べるものだとしたら――それは、完成ではなく共鳴を志向する、開かれた知性のあり方なのかもしれない。

 

【参考】

『publishersweekly』BookTok Helped Book Sales Soar. How Long Will That Last?
https://www.publishersweekly.com/pw/by-topic/industry-news/bookselling/article/93014-booktok-helped-book-sales-soar-how-long-will-that-last.html

『WORDSRATED』BookTok Statistics
https://wordsrated.com/booktok-statistics/

『Accio』book tok trend
https://www.accio.com/business/book_tok_trend

 

つやちゃん
文筆家。音楽誌や文芸誌、ファッション誌などに寄稿。メディアでの企画プロデュースやアーティストのコンセプトメイキングなども多数。著書に、女性ラッパーの功績に光をあてた書籍『わたしはラップをやることに決めた フィメールラッパー批評原論』(DU BOOKS)、『スピード・バイブス・パンチライン ラップと漫才、勝つためのしゃべり論』(アルテスパブリッシング)等

 

文:つやちゃん
編集:Mizuki Takeuchi

 

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