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「できる」だけでなく「できない」も尊重される社会に 作家 松田青子さんインタビュー

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私たちは、それぞれ異なる個性や能力を持って、異なる環境で生活し、異なる価値観のもとで生きている。しかしどうしたって、社会で生きるなかでは社会通念上「普通」とされていることに正義が置かれ、違和感や不快感を抱いても声を上げにくいことがある。そんなとき、この感情はなかったことにするのが正しいのではないかと、その違和感を隠してしまったり、向き合い方が分からなくなってしまったりしたことはないだろうか。本当はその違和感を持ったまま、声を上げるべきかもしれないのに。

作家の松田青子さんは、そんな違和感との向き合い方に、すっと光を指し示してくれる。多くの人がうまく表現できない違和感を言葉にしてくれる松田さんの作品には、「その気持ちは間違ってない」と読み手を後押しする強さがある。

2021年に出版された『自分で名付ける』(集英社)は、松田さん自身の育児体験談を綴ったエッセイだ。よくある育児エッセイのイメージとは異なり、世間一般に言われる育児とは、母親とは、母性とはという要素がほとんどない。子どものことを一個人としてとらえ、客観的に尊重する姿勢が印象的だ。親子であっても、それは自分ではないという意味で互いに「他人」である。その個性を尊敬し面白がる松田さんの考えにもう少し触れたいと感じた。

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松田青子『自分で名付ける』(集英社、2021年)

松田さんは、2021年11月に『おばちゃんたちのいるところ』(中央公論新社、2016年)で世界幻想文学大賞・短編集部門も受賞された。各方面から注目を集める作家として多忙な日々を送りながらも、いま子育てをするなかで感じていることや、著作に込める想いについて伺った。

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保護者の言葉が子どもの「呪い」や「重し」にならないように

まず『自分で名付ける』に関連して、子育てについてお伺いしたいです。本著にてお子さんのことを「子どもの人」と表現していらしたのが印象的で、自分とは別の人間として尊重されている印象を受けました。子育てをされるにあたり、お子さんとの向き合い方で意識されていることはありますか?

生まれたときから髪がふさふさしていたからかもしれませんが、赤ちゃんが出てきた瞬間の印象が、これはすでにめちゃくちゃ「個人」じゃないか、という感慨だったので、それ以来、自然とリスペクトの気持ちになりました。なので、「子ども」というより、「子どもの人」という表現がしっくりきました。

執筆にあたり「決めつけ」になるような言葉を避けたと伺いました。日頃の子育てでも「決めつけ」をしないよう、意識されていることはありますか?

「決めつけ」は無意識な部分でやってしまうこともありますし、たいしたことはできていませんが、「男の子だから」「女の子だから」といったロジックで話さないようにしていますし、服の色やおもちゃなども、それを理由に選ばないようにしています。いまはまだ小さいですし、なんでも自分でやってみたい時期で、好みもはっきりしてきたので、とりあえず本人がどう出るかまずは様子を見るようにして、状況に応じて軽く手を添えるような感じがいいなと思っています。

本著にて「一時的にOさん(お子さん)の人生を仮止めをしている」と書かれていましたが、どうしてこう表現されたのでしょうか?

裁縫の仮止めの糸って、抜いたときにすっと抜けますよね。共に生きていると、保護者としていろいろ子どもに影響してしまうと思うのですが、本人がある程度選べる年齢になった頃に、私の言葉が「呪い」や「重し」といった玉留めになって邪魔をしないように、いざとなったときにすっと抜けるようなあり方を目指したいと思っています。

育児をされるなかで感じている面白さやエピソードがあれば教えてください。

あまりにもなんでも楽しそうで、興味を持つので、単純に見ていて面白いですし、世界ってそもそもそうだった、と子どもが見ている世界のお裾分けをもらっているような喜びがあります。
子どもの人はいま2歳で、大人たちの話す言葉をまだ全て理解できないし、あまり話すこともできないのですが、外出したときとかに「ああやってこの小川があそこで湖に合流するんだねえ」「そろそろ冷えるねえ」とか私が何を話しかけても、1回1回「うん」「うん」と神妙にうなずいてくれるので、いい人だな、と思っています。
あと、「いし(石)」が好きなんですが、レーズンも好きで、レーズンを食べる時に、「いし、いし」と言いながら食べていて、レーズンを石だと思っているのに食べるんだな、と面白く見ています。

『自分で名付ける』のご執筆以降、お子さんが成長するにつれ、「子育てをする人」と「社会」との関係性について新たに感じていらっしゃることはありますか?

ちょうど最近まで「保活」(※1)をしていて、これまで散々その大変さを見聞きしてはいましたが、実際に自分も「保活」をくらってみると、その過程でいちいち、「なんだ、この不条理は!」と驚かされることが多くありました。こんな大変なことを乗り越えて認めてもらわなければ、子どもを保育園に通わせることも、働くこともできないっておかしくないか、としみじみ思いました。
もちろん住んでいる場所によって違いますが、まず、集めなくてはいけない書類など、手順が書かれたしおりも細かすぎて分かりにくいし、こういう状況のこういう家庭は何点、とそれぞれの家庭環境が点数化されている一覧が、まるで「参考にしろ」とでも言うように、普通に載っているのも禍々(まがまが)しかったです。
入園希望の保育園を何位まで書き出せと言われても、そこに入れる保証もないし、「保活」をがんばっても入れるかどうか分からない。私と同じくフリーランスの友人は「保活」のときに八方塞がりの状況になり、区役所でこれでは働けないと泣いてしまったところ、「お母さん、大丈夫ですよ〜」と係の人に慈愛をこめた表情でなだめられたそうなのですが、全然大丈夫じゃないですよね。係の人も含めて、「保活」に関わらざるを得ない人がみんな楽になるようなシステムはないのだろうかと遠い目になっています。謎の試練が慣習になっているのが、つらいです。

あと、子ども服って、色やスタイル含めて、あんなに男女差を強調する必要あるんですかね。どっちが着てもいい感じ、な服がたくさんあれば、線引きがもっとあいまいになるのにと思っています。いまだと、女の子の服ばっかり力が入っていて、バリエーションがあるように見えます。男の子の服ももっとかわいかったり、いろいろな種類があったりしてもいいのになと思うし、性別を気にせずに、本人が好きな格好をできる雰囲気が、幼い頃からすでに失われていることに気づかされます。

※1 子どもを保育園に入れるために親が行う活動のこと。

「できる」だけでなく「できない」ことも同じくらい尊重される社会に

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『自分で名付ける』のタイトルに関連してお伺いしたいのですが、日常生活のなかで人は名付けられ、カテゴライズされる場面が多いと思います。なぜ多くの人や社会は、名付けたがるのだと思いますか?

カテゴリーという箱に入れると、物事が単純化され、個人として見なくてよくなるので、楽なんだと思います。物事が整理されることで問題が可視化されることもあるので、一概に悪いことではありませんが、1人1人の性格や事情など、見えなくなってしまうことも多いですよね。『自分で名付ける』というエッセイ集のタイトルは、妊娠、出産、育児、母親、父親、など、特にカテゴリーに入れられやすいことごとを、他者や社会通念からではなく、自分自身で1つ1つ名付けていく、という意味で付けました。

社会生活にはたくさんの「決めつけ」や「こうあることが普通」という思想が根付いていると感じています。松田さんは、それらに対する違和感を発信されている印象を持っていますが、意識され始めたきっかけはあるのでしょうか?

「発信」はしているつもりはなく、ただ書いているだけなのですが、自分が生きているなかで感じた不思議や不条理さを言語化していくと、やはり社会に対する違和感になることが多いです。女性として40年間あまり生きてきたなかで、見たこと、経験したこと、感じたことがベースになっています。
特に意気込んでもいないのですが、言語化していくことで、考えが整理されることもあり、書いている最中に気づくことも多いので、自分にとって必要な作業だと思っています。

もっと自由に自信を持って「生き方」や「在り方」を選択できる世の中になるためには、どんなことが必要だと感じていらっしゃいますか?

できる、ということより、できない、ということがもっと当たり前になってほしいと思っています。できることが当たり前の社会は、能力主義に陥ってしまったり、できない人が劣等感を覚えて萎縮してしまったり、優劣が必要以上に際立ってしまいます。できない、ということも同じくらい尊重され、できなくても生きていける福祉の細やかな社会をつくることが大切だと思います。

無理をせず、それぞれのタイミングで声を出せばいい

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『おばちゃんたちのいるところ』での世界幻想文学大賞・短編集部門の受賞、おめでとうございます。本作はどんな想いで執筆された作品なのでしょうか。

この作品は、昔話や怪談に出てくる、物語の中で理不尽に殺され、幽霊や化け物になった女性たちと、いまも同じ構造の中で生きている現代の女性たちが手を取り合って生きていけるような場所をつくることをイメージして書いた作品です。楽しさ、に重点を置き、私自身もいろいろと作品の中で遊びながら、楽しんで書いた作品なので、それが今回の受賞につながったこと自体がとても面白いなと感じています。もちろん賞のために書いているのではないのですが、自分のやってきたことは間違いじゃなかったと励みにもなりました。

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松田青子『おばちゃんたちのいるところ』(中央公論新社、2016年、中公文庫、2019年)

著作を執筆される際には、どんな人にどんなことを伝えたいと思っていらっしゃいますか?

デビュー作の『スタッキング可能』(河出書房新社、2013年)は、現代の日本の女性たちの置かれた状況や生き方をいくつかの書き方で書いた作品集なのですが、当時は自分に見える世界を小説にすることに必死で、誰かに何かを伝えたい、と考える余裕はありませんでした。でも、この作品を読んだ女性たちがとても喜んでくれたことが、その後の私の指針になっています。彼女たちにがっかりされない作品を書き続けたいと思っています。また、最初の読者である私自身を楽しませ、満足させないといけないです。伝えたいことは、毎回はっきりと言葉にできず、小説を書いているうちに、それが何かしらのかたちで織り込まれていくような、私自身も書いていくうちに気づくような感覚です。

そこにあるのに見えないことになっているもの、違和感はあるのに目を背けてしまっていることがあり、声をあげたいけれど方法が分からないと思っている若い方が近くにいたとしたら、どんなアドバイスをされますか?

同じように思っている人はおそらくあなただけではないので、本を読んだり、SNSの誰かの言葉を探してみたり、誰かと話してみたり、違和感の正体を突き詰めてみるのもいいかもしれないですし、そのままにしていても、いつかハッと気づくこともあると思います。無理なときは無理をして声を上げる必要はないですし、誰にも読まれないノートに書くだけでも、その言葉は世界に存在していることになります。
それぞれが、いまなら声を出せる!というタイミングで声を出せばいいですし、出せるときが来るのを待ってもいいのではないでしょうか。いま声を出している人たちを見て、こうすればいいのかと学べることがあったら、それを自分の中に蓄えておくのも大切なことです。同時に、社会の不平等や理不尽なことに対して闘ったり、常に動き続けてくれている人たちがいることで社会は変わってきて、いまも現在進行形でそうなので、それを私たちは忘れてはいけないです。最近SNS等を見ていて、この人はこの話題に反応しなかったからダメだ、この問題に対してちゃんと意見を表明しなかったからダメだ、といったような言葉もたまに目にするのですが、SNSに表れる言葉がその人のすべてではないし、SNSとは違う場所でできることを続けている人もいます。他者の人生や生活への想像力は常に必要ですし、世界への抗い方はいくつもあり、それぞれ人によって違うんだということも忘れてはいけないことだと思います。

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いまの社会は、社会通念上正しいとされていることに“順応できる人”が生きやすい場所になってはいないだろうか。そう感じてしまうからこそ、松田さんが語るように、「できる」だけでなく「できない」ということも同じくらい尊重され、できなくても生きていける社会をつくることを目指していきたい。そう思ったとき、違和感を口に出し、その気持ちを伝えるということも重要なのではないかと感じる。

社会の不平等や理不尽なことに対して、声を上げ動き続ける人がいて、少しずつ社会は変わっている。その声の上げ方は、誰かに伝えようと大声で叫ぶのではなく、自分の中で静かに言葉にしてみるだけでも、そこに言葉として存在するだけでいずれ力を帯びることがあるだろう。力むことなく、伝えたいことがあるとき、自分のタイミングで声を上げたら良いという松田さんのメッセージは、暖かく、そして力強く勇気を与えてくれた。

ありのままに自分の感情を、違和感を、言葉にして伝えることで、社会の前進に繋がることがあるかもしれない。松田さんの作品に力をもらいながら、自分のペースで想いを言葉にしていくことを、少しずつ始めてみてはどうだろうか。


松田青子
1979年、兵庫県生まれ。同志社大学文学部英文学科卒業。2013年、デビュー作『スタッキング可能』が三島由紀夫賞及び野間文芸新人賞候補に。19年には短編「女が死ぬ」がアメリカのシャーリィ・ジャクスン賞の候補となった。2021年、英訳版『おばちゃんたちのいるところ』が、BBC、ガーディアン、NYタイムズ、ニューヨーカーなどで絶賛され、TIME誌の2020年小説ベスト10にランクインしたほか、LAタイムズ主催のレイ・ブラッドベリ賞の候補に。同作は後にファイアークラッカー賞、世界幻想文学大賞(短編集部門)を受賞。その他の著書に『英子の森』『持続可能な魂の利用』『男の子になりたかった女の子になりたかった女の子』『女が死ぬ』、エッセイ集『自分で名付ける』などがある。

 

取材・文:大沼芙実子
編集:白鳥菜都
写真:間部百合