アスファルトに転がる禍禍しいニッパーが描かれた表紙に「“ポリコレ系”文化人ד弱者男性”芸人」と綴られた帯が目を惹く小説『物語じゃないただの傷』(河出書房新社、2025)。作者は『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』(河出書房新社、2023)の著者・大前粟生だ。
これまで『おもろい以外いらんねん』(河出書房新社、2021)、『死んでいる私と、私みたいな人たちの声』(河出書房新社、2022)でも有害な男性性を扱ってきた大前さん。本作は、フェミニズムやポリティカル・コレクトネスを中心とした意見が人気を博しメディアに引っ張りだこの後藤と、職なし金なしのインセル(※1)的な思想に傾倒した白瀬という、傷を抱えた二人の男性の邂逅と変化を描いた物語だ。
今回は書籍の刊行を記念して、大前さんにインタビューを実施。インセル・無敵の人(※2)を題材にしたワケ、思想の違う二人の物語に込められた想い、価値観の違いが分断に直結する現代において対話が持つ意義について伺った。
※1 用語:Involuntary Celibateの略語。望まない禁欲者、非自発的な独身者という意味。日本では「非モテ」や「弱者男性」などの言葉と重なる部分が大きい。
※2 用語:社会的な地位や経済的な安定、人間関係などをすべて失い、失うものが何もないために、周囲への攻撃性や破壊的な行動に及ぶ人物を指す言葉。日本では主にネットスラングとして広まり、現代社会における疎外感や孤独感、閉塞感を背景に語られることが多い。
切り捨てるだけでは、孤独や不平不満は加速する一方
本作はどのようなことから着想を得て書かれた作品なのか教えてください。
きっかけは、立場や所属の違う男性同士が関わる機会がほとんどないと感じたことでした。とくに大人になると、自分と考えが合う人とばかり話してしまいがちです。普通に生きているだけで、知らないうちに住み分けが進んでしまう——その状況がもどかしかったんですよね。なので、本作では異なる価値観を持つ人同士が関わる物語を描こうと思いました。
まずは極端な価値観の人物を出すことから考え、インセルや“無敵の人”のようなメンタル的にグラデーションのある人、つまり「白瀬」を書いたところが始まりでした。考えに共感できるかは置いておいて、強い憎しみを持つ人がいるなら、その心理構造というか、どうしてそのような思想に至ったり、事件を起こしたりするのかを作家として理解しておきたかったんです。
実際に描いたことで見えてきたことはありましたか。
一部のインセルによる過激な言動は、良くないことです。でもそれを「良くない」と切り捨てるだけでは、彼らが抱える孤独や不平不満が加速する一方ではないかなと思いました。
彼らが抱える孤独や傷に対して、「あなたの考えは間違っている」と外から正そうとすることに、どれだけ効果があるのだろうか、ということも考えました。インセルや無敵の人も、被害者意識を募らせた結果、そうなってしまったはずなので外から何かを言われれば言われるほど、「自分は正しい」という思い込みが一層強まるだけのような気がするんですよね。
だからこそ小説のなかだったら、彼らを正すとか、断罪する、以外の方法で、彼らの抱えてる孤独や憎しみを和らげることができるのではないかと思いました。ある程度の長い文量を持つ小説という媒体だからこそできることがあるのではないかなと。
SNSで発信すると分断を生んでしまうことでも、小説だと腰を据えて考えられます。切り取られにくい長文ということもありますが、「分かりやすさが小説にはない」からかもしれません。そこがいまの社会においては、メリットだと思いますね。
「人気のもの自体に価値があるという考え方」の危うさ
白瀬と対極の存在が、主人公・後藤です。彼はリベラル的な言説を展開する論者である一方で、メディア露出に比例して資本主義に飲み込まれていくことに葛藤を抱える人物として描かれます。このような設定にしたのはなぜなのでしょうか。
インセル的な思想を持つ白瀬とはっきり対立する人物像だと、どちらも歩み寄れないのではないかと考えました。後藤にも白瀬にも彼らなりの弱さがないと駄目というか、お互い綻びがあるようなキャラクターにしないと対話の余地が生まれにくいなと。
なんにでも資本主義に吸収されることに、大前さん自身思うところがあったのでしょうか。
SNSを眺めてると、ミイラ取りがミイラになる、じゃないですけど、最初は世の中のために発言していた人が、人気を集めれば集めるほど対立の煽りやアテンションに巻き込まれる様子を目にすることがあって。なかには、正しいことを言っているはずなのに、正しいという形でかなり過激になってしまう人もいます。それが個人的に悲しかったんですよね。
SNS社会というか、人気や関心度がお金と直結してしまってる社会へのもどかしさを後藤に担わせられたらなと思い、彼のキャラクターを設計しました。
本作に登場するもう1人の主要人物に、愛染という男がいます。彼は後藤とは対極に位置する、いわゆるポピュリストとして描かれますが、彼を登場させた背景も伺いたいです。
白瀬と後藤が大きく道を誤ってしまった姿として愛染という極端な思想を持つ人を出そうと考えたんです。わかりやすくいうと、白瀬と後藤にとっての仮想敵というか、反面教師的な存在でしょうか。
彼の思想はかなり極端でほとんど陰謀論的な感じにも近いんですけど、“無敵の人”が決して少なくない世の中だと考えると、マジョリティの権利を声高に主張し、選挙に出馬する愛染のような人物が社会に現れることも普通にあり得る話だと思うんです。
愛染の描写からは、アテンションが重視されるいまの社会に対する大前さんの危機感のようなものが伝わってきました。
人はなぜか、テレビの向こう側にいる人に対して愛着を感じてしまうじゃないですか。その心理構造は悪用しようと思えばいくらでも悪用できて、実際にそれが現実に起こっているのがいまの社会だと思うんです。人気があること自体が悪いわけではなく、「人気があることに価値がある」という考え方にこそ危うさがあるのではないかと。
茶化さずにちゃんと相手の話を聞く時間
本作で描かれる男性性の話も伺いたいです。後藤は時代に適した振る舞いをしますが、未だに男らしさの呪縛からは逃れられていません。男らしさから脱するために、大前さんは何が必要だと考えますか。
周囲や自分自身に対して、「自分は強いんだ」「自分は人気者なんだ」というふうにアピールすることこそが、男らしさなんじゃないかと、僕は思うんです。人の目を気にすることが何かしらの呪縛というか、メンタルに悪影響を及ぼしているのではないかと。
極端な言い方かもしれませんが、男らしさから解放されるためには一度その人が主戦場にしている世界から降りることや、「自分というキャラクター」や世間体を脱ぎ捨てることが必要だと思うんです。
たとえば、仕事に追われている人なら、職場以外での自分がどういう人間なのかを考えてみるとか、1度仮面を外してゼロから物事を見つめ直すことが大切かもしれません。後半における後藤の状態は、まさにその姿ですね。
本作では「男性がいかにして自分の傷と向き合うか」が描かれていますよね。男性同士のコミュニケーションだと、傷は「自虐ネタ」の対象になることもあり、傷と正面から向き合うことは難しく感じます。
男性だけの集まりは「笑えるかどうか」がすごく大事だったりするじゃないですか。失敗や傷をとにかく茶化しますし。
笑いに昇華することは、それらを「忘れる」という面ではいいことかもしれませんが、忘れることは「傷つきをなかったことにしてしまう」こととかなり近いと思うんです。楽しく笑い合いたい気持ちも分からなくはないんですけど、その手前に、一度茶化さず、相手の話をちゃんと聞く時間を持つことが必要ではないでしょうか。
主義主張が違う人=敵ではない
作中で「他人と他人のまま、通じ合わないままでも通じ合うことができる」という言葉があるように、白瀬と後藤は後半にかけて対話の姿勢をとりますよね。いまの社会における対話の必要性についてはどのように考えますか。
誰しもに向き合ってオフラインで話せる相手がいたらいいなと思います。SNS上の発信は他の人も見てることもあって、自分の考えやスタンスをアピールするための言葉ばかりを使ってしまいがちです。そういうコミュニケーションではなく、社会のしがらみから脱した状態で、何でも話せる相手がいるといいんじゃないかなと。
『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』でも、七森と麦戸はお互いの気持ちや悩みを発露する場面がありましたが、二人は似た思想を持つもの同士として描かれています。一方、本作の後藤と白瀬は正反対の思想を持つ二人です。思想が異なる者同士の対話を通して伝えたいことがあったのでしょうか。
意見が違うからといってそれは別に対立ではない、意見の違いは当たり前だということを示したかったんです。
主義主張が違うだけで敵、主義主張が同じだったら仲間みたいな社会の空気感がいつの間にか蔓延していますが、本当にそうなのかなと疑問に思うんです。一人ひとり考えてることは違うはずなのに、考えが似た人か、それ以外で社会の分断が加速しているような気がしていて。そういう状態が続いてしまうと、本来はもっと過酷な状況に置かれている人を見過ごしてしまうかもしれない、そんな危機感があります。
そもそも、何か言いたいことを吐き出せる相手がいないからしんどくなることが多いと思うので、話し相手がいない人は、ぬいぐるみやAIに話すのでもいいと思うんです。それだけで少しは不安が解消されたり、楽になったりする部分があるのではないかと。
話し手側が「自分のこと」を話す1歩目を踏み出すことが重要だということですね。
やっぱり世の中、男性社会なので、男性として社会と一体になればそれで生きていられるんですよね。「仕事人間でいろ」とか「ノリに合わせろ」とか、つまり社会のノリ自体が男性的なノリだと思うんです。
一個人が自由な考えを持つことが、社会を回すためには不要になっている気がするんですけど、そこに抗うというか、自分がいま本当に考えていることを誰かに話すことや、自分自身を見つめてみることが必要なのではないでしょうか。
最後に、どういった人に本作を読んでほしいか教えてください。
敵を作って自分の立ち位置を確かめたり、他人と区別してアイデンティティを安定させたりする気持ちは、多かれ少なかれ誰にでもあると思います。ただ、皆がそうなってしまうと、対立が連鎖する一方ですよね。この本は、対立を求めがちな社会へのささやかな異議申し立てとして書きました。「他人は他人、自分は自分」という考え方から少しでも自由になりたい人や、少しだけ穏やかに生きたい人に読んでもらえたら嬉しいです。
大前粟生
1992年、兵庫県生まれ。2016年、『彼女をバスタブにいれて燃やす』でデビュー。2021年『おもろい以外いらんねん』(河出書房新社、2021)で織田作之助賞候補。『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』(河出書房新社、2020)が2023年に映画化。小説はもちろんのこと、短歌『柴犬二匹でサイクロン』(書誌侃侃房、2022)、児童文学『まるみちゃんとうさぎくん』(ポプラ社、2022)、絵本『ハルにははねがはえてるから』(亜紀書房、2021)など幅広いジャンルの創作を手掛ける。
取材・文:吉岡葵
編集:前田昌輝
写真:笠川泰希
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