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ポリティカル・コレクトネスとは?その意味と事例、問題点を解説

ポリティカル・コレクトネス(PC)とは?

ポリティカル・コレクトネスの意味

ポリティカル・コレクトネス(PC)とは、人種、民族、ジェンダー、セクシュアリティ、職業、宗教、ハンディキャップなどにより、すでに差別や偏見にさらされている人々を侮辱したり、排除したり、傷つけたりする表現を避けることを意味する。近現代の価値観は西欧社会・白人男性史上主義に基づいて形成されたという見方ができ、その価値観は西欧社会や白人男性以外の文化・人権をないがしろにする側面があると言える。そういった考え方に対して、ポリティカル・コレクトネスは多文化主義の立場に立ち、差別や偏見の背景にある思想・歴史観の変更を求める考え方だとも言える。日本語では「政治的妥当性」や「政治的正しさ」「社会的望ましさ」と訳される。

ポリティカル・コレクトネスの歴史

ポリティカル・コレクトネスの起源は諸説あるが、1917年のロシア革命後、ソビエト連邦共産党の政策を支持する姿勢を表す言葉として使われ始めたとされる(※1)。その後、1930年代にはアメリカの共産主義者のなかで使われ始めるが、そのときには「アメリカ共産党員が特定の問題に対して取るべき適切な言葉や立場」という意味を持っていた(※2)。一方、1970年代後半から1980年代前半にかけては、レトリックを重視する一部の左派の過激さを、リベラルの立場をとる政治家が批判する用途で使われることもあった。1990年代初頭には、アメリカの保守派が大学カリキュラムの左傾化に反対する文脈で使われた(※1)。このように、ポリティカル・コレクトネスという言葉は年代や場所によって、さまざまな使われ方をされてきた。

日本でポリティカル・コレクトネスという言葉が使われ始めたのは、1990年代だと言われている。その後、2010年代にはインターネット上で、差別や偏見を助長する表現の削除や修正を求める文脈で使われることが増えた。一方で、そのように表現の削除や修正を求める姿勢には一部過激なものもあったため、そういった姿勢を揶揄する意味でも、ポリティカル・コレクトネスという言葉が広く使われるようになった。つまり、差別や偏見を助長する表現を批判する場面、反対にそういった批判の声に反発する場面、いずれのケースでもポリティカル・コレクトネスという言葉が用いられるようになったのである。

※1 参考:Britannica "political correctness"
https://www.britannica.com/topic/political-correctness

※2 参考:The Washington Post "How ‘politically correct’ went from compliment to insult" 
https://www.washingtonpost.com/lifestyle/style/how-politically-correct-went-from-compliment-to-insult/2016/01/13/b1cf5918-b61a-11e5-a76a-0b5145e8679a_story.html

身近なポリティカル・コレクトネスの例

ポリティカル・コレクトネスの例として、従来使われてきた言葉を差別や偏見につながらない表現に置き換えるという動きがある。日本における例として、「看護婦」を「看護師」と表現したり、「肌色」を「ペールオレンジ」や「うすだいだい」と表現したりするようになったことが挙げられる。前者は「看護の職は女性のものであり、男性のものではない」という排他的なニュアンスを避けるために、後者は「『肌の色』として定義する色は人によって異なる」ということを示すために変更されている。

他にも、広告や映画・ドラマ・漫画などにおいて、ポリティカル・コレクトネスの考え方をもとに表現の在り方が変化した例もある。たとえば、マーベルの映画『エターナルズ』(2021年)は、1970年代に書かれた原作ではヒーローチームのほぼ全員が男性だったのに対し、男女それぞれ5人がヒーローとして描かれている。またそのヒーローは白人だけでなく、アフリカンアメリカン、ヒスパニック系、アジア系のメンバーがいるほか、ゲイや聴覚障がいのあるメンバーもいる。マーベルの映画シリーズでゲイと聴覚障がいのスーパーヒーローが描かれたのは、この『エターナルズ』が初めてだという。この事例は、ヒーローといえば「白人のシスジェンダー、かつヘテロセクシュアルの男性」であり、有色人種や同性愛者、トランスジェンダー、女性はヒーローになれないという、属性に関わる固定観念を覆し、多様なキャラクターが描かれていく兆しを見せた例だと言えるだろう

ポリティカル・コレクトネスへの反発

ポリティカル・コレクトネスに対しては反発も多い。まず、インターネットやSNSでは、「特定の属性への差別や偏見を助長する表現は望ましくない」とし、そういった表現の修正を求める声があがることがある。対して、そのようにポリティカル・コレクトネスを主張する人に反発し、「ポリコレ棒で殴っている」「ポリコレ棒を振りかざしている」などと揶揄(やゆ)する声も散見される。

また、映画やドラマ、漫画などの文化表現に対してはとくに、差別や偏見を助長しない表現を求める人々のことを批判・揶揄する声が目立つ。ポリティカル・コレクトネスを「表現の自由」と対置し、「過剰な言葉狩りだ」「ポリティカル・コレクトネスが表現の幅を狭めている」といった主張をする場合も多い。ほかにも、「ポリティカル・コレクトネスに抵触するのでは」とメディアや企業が萎縮し思い切った報道ができない、間違えられない空気感が社会全体に漂い窮屈になっている、というような指摘もある。

ポリティカル・コレクトネスの必要性

上記のようなポリコレ主張と、それに対する反発意見のやりとりをみていると、「正しさかおもしろさか」という二者択一を迫るのがポリティカル・コレクトネスだと捉えている人が多いように見受けられる。しかし実際は「正しさかおもしろさか」という二者択一はなく、ポリティカル・コレクトネスはあくまで、これまで差別や偏見にさらされてきた属性の人々の尊厳をこれ以上傷つけないために必要なのものだ。言葉1つでも、キャラクターの描き方1つでも、マイノリティはないものとされたり、ステレオタイプに押し込められたり、スティグマ(※3)を背負わされたりしてきた。誰かを傷つける表現を避けるため、あるいは誰かを排除する社会を再生産する表現を避けるために、ポリティカル・コレクトネスは必要な考え方だと言える。また、映画『エターナルズ』の例を取ると、多様なヒーローが登場する作品に対して「ポリティカル・コレクトネスに配慮するためだ」と概念的な捉え方をするのではなく、「実際に社会に存在する多様性を表象に取り入れた結果」であり、見えないことになっていたものを可視化したに過ぎないと捉えるほうが望ましいだろう。多様性に配慮した表現に対して行き過ぎていると感じた場合、それは自身がマジョリティであり、マイノリティが置かれている状況に無自覚だからなのではないかと振り返るべきかもしれない。

※3  用語:一般と異なるなどの理由から、個人の持つ特徴に対して否定的な意味やネガティブなイメージを他者から付与されることを指す。古代ギリシャ語で奴隷や犯罪者などの皮膚に押された「烙印(らくいん)」が語源となっている。

ポリティカル・コレクトネスとヘイトスピーチ

ヘイトスピーチに関しても、しばしば「表現の自由か、ポリティカル・コレクトネスか」といった文脈で議論されることがある。しかし、社会学者のハン・トンヒョンさんによると、「ヘイトスピーチのような明らかな差別扇動表現はポリティカル・コレクトネスの範疇(はんちゅう)で語られるべきでなく、法的に規制されるべきだ」(※4)という。ポリティカル・コレクトネスによって議論できるのは、あくまで明文化できない規範・倫理であり、一方でヘイトスピーチは特定の人々を社会から追い出そうとしたり危害を加えようとしたりする行為であるため、相入れないという考え方だ。従来使われてきた言葉を差別や偏見につながらないような表現に置き換えたり、表象において多様性を重視したりといったポリティカル・コレクトネスと同じ俎上(そじょう)で、明確な意図を持った差別行為であるヘイトスピーチを語るべきではないといえる。

※4 参考:Yahoo!ニュース「​​ポリティカル・コレクトネス――社会的属性の描き方における「社会的な望ましさ」
https://news.yahoo.co.jp/byline/hantonghyon/20210501-00233314

まとめ

ポリティカル・コレクトネスは、歴史的にも用法の変遷がある。また現在の日本においても「多様性を尊重した、ポリティカル・コレクトネスを配慮した作品」とポジティブな文脈で使われることもあれば、「ポリコレ棒」などとネガティブな文脈で使われることもある。非常に多様な解釈を持つ言葉だ。しかし今回紹介したように、すでに差別や偏見にさらされている人々を傷つける表現を避けるという意味では、とても大切な考え方だろう。ポジティブな意味でもネガティブな意味でも、「ポリティカル・コレクトネス」という言葉を使うときには、なんのために必要なのか、なにを守るために使うのか、立ち止まって考えることが重要なのではないだろうか。

 

文:尾崎はな
編集:大沼芙実子