
子どもの頃の思い出を振り返ると、「何であんなことをしたんだろう」「思い出したくない」と思う人も多いのではないだろうか。
2025年11月19日に刊行された、伊藤亜和さんの4作目エッセイ『変な奴やめたい。』(ポプラ社)では、そんな伊藤さんの子どもの頃の思い出がユーモアたっぷりに綴られている。つい目を背けたくなる幼少期のできごとを、いまの伊藤さんの目線から、くすっと笑えて、ときにはじーんとするような思い出として描く、魅力的なエッセイだ。
本インタビューでは、エッセイに収録されたエピソードに触れながら、伊藤さんが子どもの頃のネガティブな思い出とどのように向き合っているのか、また「『変な奴』のままでいいのかもしれない」と思えるようになったという現在のお考えなどについて、お話を伺った。

『変な奴やめたい。』(ポプラ社) 著/伊藤 亜和
容姿からくる周囲の勘違い、コントロールできない自意識……恥ずかしい子ども時代を振り返り、今の自分を見つめ直すエッセイ集。
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何歳になっても、自分は自分
新刊『変な奴やめたい。』を書かれたきっかけを教えてください。
2021年にこのタイトルのまま『変な奴やめたい』という話をnoteに投稿していました。それを編集者さんが気に入ってくださって、そこを起点に「幼少期の話を書いてほしい」というお話をいただいたんです。
いままで、家族や元彼の話、会社の上司とか…出会ってきた人、一緒にいる人たちの話は結構書いていて。 でも「意外と自分だけの話って書いてなかったな」と思ったので、今回は自分を深く考える機会として、子ども時代の話を書きました。
自分のことを書くとなると、ご自身と向き合う時間が長かったと思いますが、いままでのエッセイ執筆時と比べて、新たな発見はありましたか?
他人のことを書くのとは違って、自分自身のことなので「何歳の自分でも、結局自分だな」と思いました。 面白いですよね。
小さい頃の自分って、いまの自分とは切り離して考えがちです。もちろん、当時何を感じたとか、そういう部分はどうしても曖昧なところがあるんですけど、行動を辿っていくと「こういうこと考えてたんだろうな、どうせ」と分かってくるので、 結局「昔の自分から地続きの自分が、いまの自分だな」と強く思いました。

周りを優先するがゆえの「変な奴」
タイトル『変な奴やめたい。』について、「変」と一言で言っても、ポジティブにもネガティブにも捉えられると思います。伊藤さんは、ご自身のどのようなところを「変」だと感じていますか?
「変な奴」っていうとだいたいイメージされるのが「集団から浮いていて空気を読まない」という状態だと思うんです。「変」と言われている本人も自覚がない。 どうしたらみんなと協調できるのか、どうやったら普通になれるのか分からないっていうのが多分、多くの人がイメージする「変な奴」だと思います。
でも、私の場合は、自分が浮いているとか、おかしいことをしているっていうのが嫌になるくらい分かっているんです。いま、自分がみんなから冷たい目で見られていることを自覚はしてるんですけど、それでもどうしても、自分がしたいことが我慢できない。
自分が心地よくなるために、やらなければならないことが我慢できない。ある種の強迫観念にとらわれている状態が、私の中のコンプレックスでしたね。ずっと分かっているけどやめられない。私に限った「変な奴」っていうと、そういうことです。
なるほど、一般的にイメージする「変」とは少し異なり、伊藤さん独特の感覚だと感じました。「自分が心地よくなるために」とはどんな感覚なんでしょうか?
ゼロからプラスにしていく心地よさじゃなくて、マイナスの状態からゼロに戻したい感覚だと思います。 たとえば、道をミミズが横切って、それが轢かれてしまうかもしれないっていう不安があるんです。だからミミズをどっかにやりたいっていう。主に「虫を助けたい」みたいな気持ちが強いんですよね(笑)。
不安な状態をできる限り避けようとする、ということでしょうか。
そうですね。たとえばそれで予定に遅刻するとか、多少自分に不利益が生じても、ミミズを助けるとか、そういったことをやらずにはいられない。
「周りを優先する」というご自身の性格は、このエッセイにも書かれていましたね。虫のこともそうですが、周りをよく見ている分、いろんなことに人よりもよく気づかれるんでしょうね。
そうだと思います。昔から人が怒りそうなことに、一番早く気づくんです(笑)。学校でも先生が怒りそうなとき、誰よりも先に「あの人、ムッとしてる…!」って察知していましたね。


せっかくなので、当時の写真を再現してもらった
幼少期のお写真:『変な奴やめたい。』p.191より
「自分だけが入れる部屋」に、自分すら入れないという感覚
別のインタビューで「小さい頃から周りから浮く存在だったことから、自分の立ち振る舞いや、どう見られるのかをずっと考えながら生きてきた」とおっしゃっていたと思います。今回のエッセイでもその考えが色濃く反映されていると感じましたが、いまもその考え方は地続きなんでしょうか?
これまで「他人の目を気にする」と表現していたんですが、最近になって、気にするというよりは、それが私にとって普通の振る舞いと同じだなと思うようになりました。そこから、「自分だけの世界」みたいなものが私にはないということを自覚し始めました。
それは、どういうことでしょうか?
どうやら、みんなプライバシーというものがあるらしくて。他人に見せていない、「自分だけが入れる部屋」があるっぽいんですけど、私にはそんな部屋はないし、自分すら「その部屋」に入れない。みんなと一緒になって、外からの自分を見てるっていう感覚なんです。
だから、私の世界にどんな人が入ってきても全然大丈夫です。「自分だけの1人の時間」も、なくても大丈夫みたいです。
なぜ、最近それに気づいたんでしょうか。
みんなが…私にいろいろ隠してくるから…(笑)。
(笑)
文章を書くようになってから、周りから心配されることが増えたんです。「伊藤さんの文章は赤裸々ですね」とか、「私、悲しくなっちゃいました」「あなたの将来が心配です」と言われることがあるのですが、何が心配なのか全く分からない。
そういう感想を聞いて、みんなプライバシーがあって、私に見せてくれない部分があるのだなと分かりました。「えぇ…みんな秘密主義だね…」と思って(笑)。

周囲からの反響で「そう捉えられるんだ」と気づいたんですね。
私が書くエッセイを、自分では赤裸々だと思ったことがないんです。赤裸々って、自分自身をそのまま出すということだと思います。でも私は人に見せるように作って出してるから、そのままのものがそもそもないというか。
いまの伊藤さんご自身の捉え方としては、文章に表しているものは、全て人に見せるために加工したもの、なんですね。
そうですね。加工という意識を持っていることにすら、最近気づきました。
反対に、「誰に見られていなくてもこれをやりたい!」っていうことが、「虫を助ける」くらいしかないんです。これは逆に見られたくないことなんですよ。「人としてできてる」みたいに思われそうだし、褒められそうなことだし。でもその他のことは、全部人に見せるために、振る舞いを作っている感覚があります。

自分自身の捉え方と、周囲からの捉え方のギャップ
このエッセイには、いろんな幼少期の友人が登場されていますが、エッセイに出てくるご友人から反応はありましたか?
「ロシアはくもり」というエッセイに出てくる、合唱団の子たちには見せましたね。みんなで私が書いたものを読みながら、「そうだった…こんなことあったね」みたいな会話をしました。「あのときにね、リコちゃん(エッセイに登場するご友人)があんなことを言ってた」とか、「その後また喧嘩して、結局1人で帰ったよね」とか。
先ほど、ご自身の根本は変わらず地続きだとおっしゃってましたが、幼少期を一緒に過ごされた方との思い出を振り返ると、周囲の伊藤さんへの見方は変化しているんでしょうか。
私は、自分のことを「最近おしゃべりになった」と思ってたんです。でも、「最近気づいたんだけどさ、私って、すごい喋るんだよね」って昔からの友達にしたら「うん、知ってるよ」って。「昔から、小さい声でいつもなんか言ってる」って言われました(笑)。それを聞いて、昔からそうだったんだって気づきました。
自分から見て、周りは結構変わったように見えますけどね。先ほどの合唱団の友人たちも、元々の根本は変わってないんですけど、みんなそれぞれ会社に勤めるなど変化する中で、柔らかくなってきたというか。
伊藤さんが、自分に対して抱いている「こういう人間だ」という考え方と、周りからの捉え方には、意外とギャップもあるんでしょうか。
そうかもしれないですね。周りに聞いてみないと分からないですけど、自分では気づいていない、周りからこそ見える私の一面もまだあるのかなと、このやりとりで気づきましたね。


子どもの頃のネガティブな思い出との向き合い方
子どもの頃のネガティブな思い出に対して「向き合いたくないな」と考える方もいると思います。大人になったいま、どんな風に向き合っていったらいいと思われますか?
一見するとネガティブなことを、私がこうやっておもしろおかしく本に書けたのは、それが「間違いだった」とか「当時の自分が捉えていた視点とはまた違う視点で、いまはそのできごとを見られている」っていう自信があるからだと思います。
私自身の性格は変わらないですけど、価値観は変わっています。 当時と同じ価値観でそのできごとを捉えていたら、「私は間違ってない」と思ってしまうはずで、多分こんな風に書けないと思います。
あと、大人になってすごく変わったのは「ちゃんと後悔できるようになった」こと。配線をぐちゃぐちゃつなげて、半ば無理やり自分を納得させて「だから私は、このことについて後悔はしていません」って自分のなかで解釈しようとする癖が私にはあったんですけど、最近は大人になって「あんなことしなきゃよかったな」ってちゃんと反省できるようになった。 それをちゃんとできるようになったから、書けているんだと思います。

みんな「変な奴」なのかもしれない
「服とルール」のエッセイでは、ご自身を「変な奴」だと受け入れることができ始めている、というお話がありました。そう思えるようになった時期や、どんなきっかけがあったのかを教えてください。
バニーガールのバイトや大学を通して、いろんな育ちの人たちと友達になりました。 そのなかで、そういう人たちと友達になるために自分がその人に近づく必要はない、その人の性格に寄っていく必要はないということが、大人になってやっと分かってきました。
私が中学校のときに「陰キャ」「陽キャ」 っていう言葉が出てきました。当時は「私は陰キャだから、陽キャとは相容れないんだ」と思って過ごしていました。
くだらないカテゴライズに人一倍嫌悪感は持ちつつ、「陽キャ」への憧れはどうしようもなくあり、それでもどうしたって「陽キャ」にはなれそうもない。自分には決して手に入らない振る舞い方だと分かってしまったからこそ「陽キャ」を憎んだり、見下したりして、どんどん性格をこじらせていきました。だから大学に入るまでは「陽キャ」「陰キャ」は分断されていて、住む世界が違うと思い込んでいたんです。
それが大学生になったら、あまりにもいろんな人がいるから、もう「陽キャ」「陰キャ」は関係なくなりました。私から見て「陽キャ」でも、普通に私と仲良くしてくれるし、その二分化された壁を突破するために擬態する必要がないんだ、と分かったんですよね。
それが分かってやっと「うん、私は別にそのままでいいのか」と思えるようになりましたね。
それが分かってから、伊藤さん自身も楽になったのでしょうか?
うん。楽になりましたね。なーんだ、みんな変じゃん、みたいな。

改めて、本エッセイを通して、伊藤さんご自身の中で変化したところや、気づきはありましたか?
それこそ「みんな変」ってことですね。普通の人っていないのかもしれない。
感想でもちらほら「別に変なやつだとは思いませんでした」っていうレビューを見かけました。 それを見て、「まあそうか、その人から見たら私は別に変じゃないし、 私から見たら変な人がいるし…」と思って。そういうちょっとずつの違いのなかで、みんな付き合って生きてるんだなって思いましたね。
「変な奴」はやめられないですね。
そうですね、やめられないですね。

伊藤亜和(いとう・あわ)
1996年、神奈川県横浜市生まれ。文筆家。学習院大学文学部フランス語圏文化学科卒業後、noteに投稿したエッセイ「パパと私」が話題となり、創作大賞2023 メディアワークス文庫賞受賞。2025年11月19日発売の『変な奴やめたい。』のほか、著書に『存在の耐えられない愛おしさ』『アワヨンベは大丈夫』『私の言ってることわかりますか。』がある。
取材・文:母坪はな
編集:大沼芙実子
写真:服部芽衣
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