
2025年11月28日から全国公開される映画『兄を持ち運べるサイズに』。作家・村井理子が実兄の死後の数日間を綴ったノンフィクションエッセイ『兄の終い』(CEメディアハウス、2020年)を原作に、絶縁状態にあった兄の突然の訃報を受けて集まった家族が、後始末に奔走しながら故人と向き合う4日間を描く。
本作の監督は、中野量太。『湯を沸かすほどの熱い愛』(2016年)で第40回日本アカデミー賞6部門を受賞、『浅田家!』(2020年)では東日本大震災を経て家族の絆を見つめ直す物語を紡ぎ、日本国内はもちろん海を越えたフランスでも大ヒットを記録した名匠だ。そんな中野監督が、柴咲コウ、オダギリジョー、満島ひかりという実力派俳優を迎え、死者の不在を通して生者の内面を浮かび上がらせる独自の手法で、現代における家族像の新たな一面を提示する。
社会を前進させる情報発信を行う「あしたメディア by BIGLOBE」では、一貫して家族を撮り続ける中野監督の表現哲学について、映画解説者・中井圭との対談形式でお届けする。
※本インタビューは、作り手の意図を深く問いかける目的で、結末についての具体的内容に触れているため、ネタバレに注意したい方は、映画本編をご覧になってから閲覧されることを推奨します。

作家の理子は、突如警察から、兄の急死を知らされる。兄が住んでいた東北へと向かいながら、理子は兄との苦い思い出を振り返っていた。警察署で7年ぶりに兄の元妻・加奈子と娘の満里奈、一時的に児童相談所に保護されている良一と再会、兄を荼毘に付す。そして、兄たちが住んでいたゴミ屋敷と化しているアパートを片付けていた3人が目にしたのは、壁に貼られた家族写真の数々。子供時代の兄と理子が写ったもの、兄・加奈子・満里奈・良一が作った家族のもの・・・兄の後始末をしながら悪口を言いつづける理子に、同じように迷惑をかけられたはずの加奈子はぽつりと言う。「もしかしたら、理子ちゃんには、あの人の知らないところがあるのかな」兄の知らなかった事実に触れ、怒り、笑って、少し泣いた、もう一度、家族を想いなおす、4人のてんてこまいな4日間が始まったー。
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2025年11月28日(金)公開
脚本・監督:中野量太
原作:「兄の終い」村井理子(CEメディアハウス刊)
キャスト:柴咲コウ オダギリジョー 満島ひかり 青山姫乃 味元耀大
制作プロダクション:ブリッジヘッド/パイプライン
製作幹事:カルチュア・エンタテインメント
配給:カルチュア・パブリッシャーズ
©2025 『兄を持ち運べるサイズに』製作委員会

家族の形は全部違う、だから撮り続ける
中井:中野さんはこれまでのフィルモグラフィーを見ても家族の映画を多く撮られています。なぜ家族の物語を撮るのでしょうか。
中野:いちばん興味があって、いちばん分からないものだからだと思います。ぼくはほとんど父親を知らずに育っているから「家族ってなんだろう」とずっと思っていました。小さい頃からそういう意識があり、表現者になって一体ぼくは何を表現したいんだろうと考えたら、浮かんできたのが家族だったんです。
最初は自分の家族を照らし合わせながら撮っていたんだけど、「家族とは何か」という問いに対する大きな答えなんかないことに気づきました。そして、様々な作品を撮っていくうちに、「それぞれの家族の形」というものがあることにも気づいた。以前、『長いお別れ』(2019年)で認知症を抱えた家族を撮って、前回は『浅田家!』で実際の浅田家をモチーフに撮って、今回は『兄を持ち運べるサイズに』で村井家という実在のご家族を撮ったけど、家族の形は全部違います。それが面白いんです。「中野さんはいつも家族を撮っていますね」と言われても、ぼくにとって毎回が新鮮です。だから、ずっと家族を撮り続けているのだと思います。

中井:中野さん自身も映画を撮られ始めてからいまに至る過程で、ご家族を持たれましたが、映画作りにおいて何か変化はありますか。
中野:めちゃめちゃありますね。昔は子ども目線で家族を撮っていたんです。『湯を沸かすほどの熱い愛』はまさにそうでした。でも、いまは親になって、『浅田家!』はまだ子ども目線だったかもしれないけど、この『兄を持ち運べるサイズに』や、(制作に入った)次回の新作では、親目線の家族の映画に変わってきています。作る目線の変化もあるから、さらに全然飽きないですね。
中井:じゃあ今後お子さんが大きくなっていくにつれて、中野さんが撮る内容も変わってくる可能性がありますね。
中野:そうですね。いまも子育ては大変だけど、小学校、中学校の親となると、また新しい悩みが絶対出てくるので。
中井:家族がそれぞれ違うということを映画制作で理解しながらも、それでも家族に共通するものについて、見えたことはありますか。
中野:家族とは何かという定義はないけど、ひとつ気がついたのが「食卓を囲んで一緒にご飯を食べる集団」なんじゃないかな。とくに朝ごはんを一緒に食べる人たちは家族らしいなという印象があります。だから、ぼくの映画では、必ず食卓でご飯を食べるシーンを作るようにしています。

原作から映画へ、向きを合わせる脚色の哲学
中井:中野量太監督といえば、個人的にはご自身で脚本を練る印象が強いです。前回の『浅田家!』もほぼオリジナルだと思いますし、近年は原作を脚色してるケースも多く、今回の『兄を持ち運べるサイズに』も村井理子さんの原作『兄の終い』の脚色です。中野さんのなかで、こういう原作であれば自分の脚色で書きたいものを書ける、というポイントは何ですか。
中野:人をどの方向から見るか、ですね。ぼくは人間の愛おしさや滑稽で笑ってしまうことに興味があります。必ずその方向から人を見ようとしています。だから、ぼくができる原作はその方向が近いものですね。真正面から感情を押し出すものだと、ちょっとぼくには扱えないなと思います。
今回の原作は、ぼくと近い方向から人間を見て書かれていたのが、ぼくにとって「これを映画にしたい」と思った要因のひとつです。元々真逆の方向のものをぼくの方向に寄せると、まったく違う話になってしまう。原作を原作通りにやるということではないけど、自分のなかに一回入れて吐き出すためには、基本的に同じ方向じゃないとやりづらいですね。この原作を映画にしてくださいというお話は頂きますが、見ている方向が違うものがたくさんあって、自分が映画にしたいと思わないことが多いです。
中井:今回の原作において、中野さんを動かしたポイントはどこですか。
中野:先ほど言った人間の見方はもちろん、ぼくは一貫して「残された人がどう生きるか」を撮り続けています。今回の原作も家族が亡くなり残された人がどうするかという物語だったし、人間を見る方向も一緒でした。原作を読んだ時点で、ぼくが撮ったら面白くなるだろうという自信がありました。

中井:原作者と脚本家の関係性については、数年前から問題が起き続けています。原作をどうリスペクトしていくのかなどのすり合わせはどのように進めていきましたか。
中野:ぼく自身の考えは「原作と映画は違うものになる」ということです。そもそも媒体が違うので、同じにする必要はないと思っています。ただ、その前提でも、どれだけ原作をリスペクトできるかが重要です。それができないのであれば、手をつけるべきではない。
ぼくは、この原作で大事な部分が何かを理解しリスペクトしながら、それを中野量太が撮ったらどうなるかをやろうと思いました。だから、原作者の村井さんにお会いして「ぼくが脚本を書きますが、基本的には映画と原作は違うので内容が変わることがありますが良いですか」という話をしました。
村井さんは原作の改変を許してくださる方でした。脚本の配分としては、原作が6割、村井さんに取材をして出てきた新しいエピソードが2割、ぼくの完全オリジナル部分が2割です。完成した脚本は、原作と半分近く違うものになっています。さらに映画用にタイトルも変えました。原作をリスペクトして脚本を書いたけど、最初村井さんにお見せするときは「これは違う」って言われたらどうしようとドキドキしました。でも、村井さんはとても喜んでくれました。

イメージを超えた配役が生む、兄妹の新たな関係性
中井:主演に起用された柴咲コウさんのフィルモグラフィーを鑑みると、今回の役は柴咲さんの従来のイメージからは少し距離があるとキャスティングが発表された際に思っていましたが、中野さんはどう考えてたのでしょうか。
中野:主演を決めるとき、圧倒的な主役感のある人にやってほしいという思いがありました。お話自体には派手さがないから、まずは強い映画にしたかった。それに加えて、柴咲さんとは一緒に仕事をしてみたいという気持ちがありました。
彼女に最初にお会いした際、「いままで見たことない柴咲さんを撮らせてください」とお伝えしました。挑戦的なアプローチで、でも圧倒的な主演感がある柴咲さんがこの役になってくれたら絶対面白いという思いがありました。その代わり、兄役と加奈子役のふたりは、役に対してピッタリのイメージじゃないと怖かったんです。
中井:確かに。
中野:兄役のオダギリジョーさんはピッタリだし、加奈子役の満島ひかりさんもご一緒するのは初めてだったけど、この役は絶対ハマると思っていて。柴咲さんが決まってから全体のバランスを考えて、ここは絶対満島さんだなと思ってお話したら、引き受けていただけました。
中井:満島さんに持っていた中野さんのイメージっていうのはどういうものだったんですか。
中野:お芝居の感度がすさまじい人だと思っていました。この感度が高ければ高いほど、手触りのザラつきのようなものを感じてしまう。その生っぽさがすごい人だなといつも思っていたので、ぼくも絶対お仕事をしたいなと思っていました。実際に満島さんとお仕事をしてみて、本当に素晴らしかったです。こんなにお芝居に対して真面目でストイックな人はいないと思いました。

中井:これまで満島さんのお芝居を見ていて、一度もイマイチだと思ったことはないですし、それは本当に凄いことですね。今回も素晴らしいお芝居をしていたと思います。兄役のオダギリジョーさんはどうでしたか。『湯を沸かすほどの熱い愛』でも起用されているので、久々のお仕事だと思います。
中野:オダギリさんは10年前に『湯を沸かすほどの熱い愛』でご一緒したときから、この人すごいなと思っています。今回も、この役はオダギリさんだろう、と思ってオファーしたら受けてくれました。で、今回ご一緒したら、脚本通りに演じるんですよ。
中井:脚本通りに演じるのは通常ではないのですか。
中野:オダギリさんは『湯を沸かすほどの熱い愛』の撮影時、基本的には脚本通りだけど、テストで毎回違うことをするんです。途中でそのことに気づいたので、「こういう感じでいきましょう」って耳打ちして芝居してもらっていました。でも、今回はきっちり脚本通りにお芝居するんですよ。それが気になって、オダギリさんに「どうして今回は脚本通りにやるんですか?」って聞いたら、「面白い脚本なら脚本通りにやるんだよ」って言っていました(笑)。
この役は、だらしなくて本当にどうしようもない兄ちゃんだけど、その兄ちゃんにも実は良いところもある、というもの。ダメ兄ちゃんはオダギリさんはいままで散々やってきたし、絶対できると思っていて。「最初の葬式のシーンでは、とことん嫌な人をやりましょう」という話をしたら、見事に本当に嫌な感じの人をやってくれました。
映画の終盤、それぞれの思う兄が出てくるシーンがあります。あの場面は演出も難しいと思ったし、成立させるのも大変だなって思っていたんです。でも、オダギリさんが3人の俳優の演技に対して、何とも言えない笑顔で芝居を受けていて、本当にすごいなと思いました。

関係性を「見える」ようにする、内側からの演出
中井:演出の話も伺いたいです。『湯を沸かすほどの熱い愛』のときから中野さんは「見せる」ではなくて「見える」ことを大事にするとよくおっしゃっています。つまり、無理やり外部から形作るのではなく、自然とそのように見える状況を内部から作ることが重要、ということだと認識しています。今回の場合、とくにどの点が「見せる」ではなくて「見える」なのかを教えてください。
中野:今回も家族の関係性の話だから、オダギリさん演じる兄と柴咲さん演じる妹が、ちゃんと兄妹に見えるかを強く意識していました。だから柴咲さんにも「最初は母だけど、途中からやっぱり妹にちゃんとなってくださいね」という話をしました。そうすると、途中からかわいい妹になっていくんですよね。オダギリさんと兄妹のように「見せる」ではなくて、ちゃんと「見える」になってきたなと思いました。その他の家族たちも、ちゃんと家族に見えるようにしたかったから、撮影よりも前に会ってもらって一緒にケーキ食べたりとか、互いに手紙を書いてもらって、家族としての関係性をちゃんと作ってから現場に入ることをやりました。

死の瞬間は撮らない、生きていく人のための映画
中井:中野さんの作品では、よく死を描きます。本作でもオダギリさん演じる兄は、映画の冒頭から亡くなった形で登場します。以前、中野さんにお話を伺った際に、死を描くことを通じて生が輝く、という旨を聞かせていただきました。このことを、より具体的に教えてください。
中野:ぼくはそもそも人が死ぬことを表現したいわけではなく、大切な誰かが亡くなった後に残された人がどう生きていくのかが大事で、そこを描きたいんです。
ぼくは、たとえば、お葬式は亡くなった人のためにあるんじゃなくて、これからもそれでも生きていく人のためにあると思っています。死そのものを扱う行事ですら、生きていく人のためにあるって思っているので、だからこそ生きていくことを描くために、死を描かなければいけないと感じています。
そんななかでも、ひとつこだわりがあります。死の瞬間は絶対に描く必要がない、ということです。死を身近に経験することで生きていく姿を撮りたいけど、そのために死の瞬間を描く必要はないんです。でも、その代わりに亡くなったという事実をきちんと描きたいから、遺骨を出します。これはあくまでぼくの考えですが、人は亡くなると人から物になると思います。物になってしまうと不思議とあんまり悲しくないんですよね。だから、そこからは描きます。それは「生を描きたい」という自分のこだわりだと思います。

中井:なるほど。ぼくは、中野作品で描かれる死と生には曖昧な部分があると思っています。というのも、死の周辺にどこかユーモアらしきものが入ってきます。死は悲しいものという基本的な認識をみんなが持っているけど、思い切ってユーモアを差し込んでいます。そもそもユーモアは生者のものという意識を持つ人は多いですが、どうして死の周辺にもユーモアを扱うのでしょうか。
中野:それは、ぼくの個人的な体験から来ているのだと思います。一生懸命何かをしている人の滑稽さに魅力を感じているんです。人間は一生懸命になればなるほど、愛おしくておかしみが生まれます。家族の死は最も感情が動くときだと思いますが、そこにあるのは悲しみだけじゃないと、ぼくの経験上思います。そのときの人間の愛おしくておかしみを捉えたいと思っています。
中井:中野さんの作家性のひとつは、そこだと思っています。つまり、死生観が他者とちょっと違う。死は確かに終わりなんだけど、でも終わってない、という認識。消えたはずの何かが生者に継承されていく感覚があるから、ある意味で死が神聖化されすぎない。ぼく自身も家族の葬式に出たことがありますが、そこにあったのは悲しい感情だけなのかというと、そんなことはありませんでした。準備や対応にバタバタして、もっと複雑な、思いも寄らぬ心の動きがありました。画一的に単純化して死を見つめていないから、中野作品のユーモアを見たときに、ぼくにはむしろ誠実に見えます。
中野:はい。ぼくはそう思って取り組んでいます。そんなときにユーモアなんて不謹慎なのではと言われることもありますが、ぼくは大真面目にやっています。

部屋の変容が映す、死から生への転換点
中井:劇中、オダギリさん演じる兄が住んでいたアパートの部屋が出てきます。あの部屋の演出について聞きたいです。前半、兄の死後、残された妹をはじめとする関係者が部屋の状態を見に行くというシーンがありますが、不気味さや空気の淀みのようなものを感じるような見せ方になっています。
一方、後半に再登場するシーンでは、部屋全体に光が差している明るい世界観になった印象があります。その空間設計は演出上どのように考えていましたか。
中野:最初は死んだお兄ちゃんの部屋だけれども、そこから生きている人たちが部屋を掃除していきます。だからあの部屋は徐々に、残された人たちのものになっていきます。最後はガランとしたなかで、カーテンもなくて陽が差し込んでいる空間にしたかった。生きている人たちのための部屋に変わります。
中井:この話は、ぼくが作品全体に感じていたことに繋がっています。オダギリさん演じる兄は、一体誰から見た兄なのかという視点がずっと投影されていますよね。というのも、村井さんと兄の母親の葬式のシーンでは、兄がかなり悪目立ちしていました。なぜあそこまで悪意に満ちた兄だったのか。それは当時、柴咲さん演じる村井さんが兄をどう見ていたのかという目線が色濃く投影されている。
中野:そういうことです。
中井:回想は思い出すものの主観も入ります。彼女にとって兄を絶対に許せないっていう感情が入っていたことに起因しています。劇中、死んだ兄は割と頻繁に出てきますが、実は兄本人そのものは、常に作中に存在していないところがポイントですよね。誰かから見た、想像した、思い出した兄が投影されているだけで、兄はもう最初から最後まで不在なんですよね。
中野:その通りです。
中井:だから、劇中のオダギリさんの姿を追うほど、彼女たちの本心が分かってくるという作品構造になっています。
中野:兄は幽霊じゃないけど、最初はそう見えてしまう。でも、すべてこちら側の想像でしかない。だから、兄が発する言葉も自分が言ってほしい言葉であり、そもそも自分のなかにある言葉なんです。その認識を持ってこの映画の2回目を観るとガツンとくるように作ってあるんです。「お前はこれからも生きていくんだから、自分で考えなきゃいけないんだよ」と自分が思っていて、死後に現れたお兄ちゃんの口を借りて言っているだけであって、お兄ちゃん自身の言葉ではありません。

中井:その視点を踏まえて、ぼくが本作を観て、1点だけ議論が起き得るかもしれないと思う論点があります。それは「兄が本当に人としてだらしがなかった」ということをどう描くかです。兄がだらしなかったのは揺るがない事実だと思います。とくに子どもの下着のサイズのエピソードは、親として問題があります。でも、作品の展開上、兄を見つめる人々の目線が和らいでいく構造になっているので、兄の住んでいた部屋も明るくなっていくし、死後の兄は優しいことを言っているように見える。この描き方に対して、観客の中には違和感を持つ人も出てくると思うんです。ただ、本作でポイントなのは、兄は良いところもあるかもしれないけど本当にダメな人なんだ、という現実を終盤に差し込んできます。この描写によって、死んだ兄を偶像化せず、きちんと落としどころをつけたと感じました。
中野:はい。そのことをお客さんが観て感じてくれるといいなと思っています。途中からでも、兄の言葉は自分の頭のなかで言わせてる言葉なんだよと理解して見ると、深く見えると思います。終盤、みんなのなかの兄が良い方向に行ってしまうけど、現実は本当に悪い面もたくさんある人だから、ちゃんと伝えなきゃいけないなと思いました。終盤の満島さん演じる加奈子の痛烈なシーンは原作にはありませんが、原作にないことでもちょっと言っておかないと、と思って描きました。
中井:そうなんですよね。この映画は、ある種のファンタジーでもあります。しかし、そのファンタジー性に溺れて、本来はダメなこともなんとなく良かったものとして捉えさせてしまうのは、ぼくはちょっと不誠実だと思います。だからこそ、あの終盤の厳しいシーンが入ることで、観ている側としても安堵しました。映画を観ていくうちにお兄ちゃんの優しさを実感してしまっていたので、満島さんにピシャリと言っていただいてよかった、という気持ちはすごく大きかったですね。

悪い人も愛おしく見る、多角的な視点
中野:これもぼくが人をどっちから見るかという話になりますが、よく「中野さんの映画には悪い人が出ないね」とか言われます。でも、出ているんですよ。『湯を沸かすほどの熱い愛』だって、父親(オダギリジョー)は不倫をしている。ぼくは「どうしてその人は悪いんだろう」ということに興味が沸きます。その人がどういう人かに興味があって、そうすると悪いだけじゃない面もちゃんと描くことになる。それが見えるだけであって、毎回ぼくの映画には悪い人が出てくるんです。
中井:この映画もそうですが、結局、人間というものは多面的な生き物ですよね。それをどこから見ているのかという理解がすごく重要です。現代社会では、ある一面から見て人をジャッジする傾向がすごく大きい。だけど、はたして本当にそうなんでしょうか。人間ってそんな単純なものなんだろうか、という大きな疑問を、この作品は兄の多面性を複数の人の視点から描き出し、それぞれが思っている兄像ではあるけど兄を再構築することで暴いていく。ぼくたちも現実社会で事象をどこか単視眼的に見ていませんか、と教えてくれるような作品になっています。
中野:そこはすごく狙っているところですね。ぼくも最近のそういう風潮が嫌だなって思っています。大仰にはやりたくなかったから、終盤あのような形で、撮りました。

家族という名のスクラム、押し合いへし合いの絆
中井:中野作品が家族を描いたときに、家族が物理的にスクラムを組むシーンが差し込まれます。『湯を沸かすほどの熱い愛』のときも、ハッキリと組み体操をしていました。『浅田家!』も、みんなでコスプレをして写真を撮るのは変種の組み体操ですよね。本作は文字通りスクラムという形態を取ります。この表象について考えを教えてください。
中野:そう言われて初めて気づきましたが、何がそうさせているんでしょうね(笑)。でも、家族は単体では成立せず、押し合いながら形作っていくと無意識に考えているのかもしれないですね。もちろん、家族とは何かという定義はないですし、人によっては家族が大嫌いな人もいる。全然それでいいと思います。憎んでいてもそれも家族だし。ただ、ぼくが何をやりたいかって言ったら、絆をやろうとしています。それが家族として正しいということではなく、ぼくがやるんだったらそっちをやるし、家族が憎いという考えは誰か違う人がやればいいと思っています。ぼくがやるべきことは、スクラムの方だという意識が出てるのかもしれないですね。

震災の記憶、街と共に生きる再生への願い
中井:最後になりますが、個人的に『浅田家!』が中野さんにとって大きなターニングポイントだったと思っています。とりわけ、震災は大きかったと思います。この『兄を持ち運べるサイズに』でも、震災の爪痕が撮られていました。
中野:もちろん『浅田家!』で震災を描いたことは大きいです。今回は宮城県の多賀城市で撮影しました。村井さんのお兄さんご本人も多賀城市に突然引っ越したみたいで、ご家族もなぜ多賀城市だったのか分からないんですとおっしゃっていました。でも「おそらく震災復興の仕事があったから、兄ちゃんは行ったんじゃないか」という風におっしゃっていました。ぼくも取材やロケハンに行ったのですが、多賀城市にも震災の爪痕があるんですよ。駅前でもここまで津波がきたという印があって。そこでぼくが思ったのは、お兄ちゃんはきっと失敗ばかりしていたから、この街と一緒に復活したかったんじゃないか、と。じゃあそれを形にしようと思って、劇中のセリフにもしています。
そして、それをやるなら、この街が震災に遭ったということを表現しないとダメだなと思いました。でも、この作品は震災映画ではないので、そこまで深くは描けません。でも、ちゃんと事実を描かなければならない。『浅田家!』を撮ったことで、より敏感になっているんだなと思います。

「お前はこれからも生きていくんだから、自分で考えなきゃいけない」——これは生者が自分自身に向けた言葉だと中野監督は語る。『兄を持ち運べるサイズに』が描くのは、死者との対話ではなく、死者の不在を通して浮かび上がる生者たちの本心だ。
ダメな兄の死後、その部屋を片付けながら、残された家族たちは兄の多面性と向き合っていく。最初は暗く淀んでいた部屋に、少しずつ光が差し込んでいく。それは単なる美化ではない。終盤で満島ひかりが演じる元妻が放つ痛烈な一言が、観客を現実に引き戻す。人間は善悪で割り切れるほど単純ではないが、だからといってすべてを許せるわけでもない。その矛盾を抱えながら、それでも前に進んでいく。
震災の爪痕が残る多賀城市で、失敗続きだった兄が街と共に復活を願ったように、人は何度でもやり直そうとする。完璧ではない、むしろダメなところだらけかもしれない。それでも食卓を囲み、時にスクラムを組みながら、押し合いへし合いして生きていく。その不器用で滑稽で、でもどこか愛おしい営みこそが、中野量太監督が撮り続ける「家族」の本質なのだろう。
取材・文:中井圭(映画解説者)
編集:大沼芙実子
撮影:服部芽生
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