『海のはじまり』(フジテレビ系、2024年)が月曜の夜を掻き乱した夏となった。
間違いなく、伝統的に王道恋愛ドラマを放送してきた月9という枠の挑戦的な一手だった。恋愛、性愛、家族の在り方が多様に受け入れられていくべき時代に、描かれるはずだがこれまで描かれてこなかった、地上波ドラマの新たな地平を開いたと言っていい。
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夏への同情から派生して噴出した“ある感想”
シングルマザーとしての子育てを決意するも、時間もお金もなく追い詰められ、がんの発見が遅れ早逝してしまう水季(古川琴音)。彼女は実母・朱音(大竹しのぶ)との不穏だった仲を改善したり、図書館で働く同僚・津野(池松壮亮)との関係には一線を引きながら力を借りたりと、限界状況のなかでも工夫して育児に奮闘していた。
そんな水季が中絶同意書にサインさせ、「産んでない」と思い込ませていた元恋人・夏(目黒蓮)に娘の海(泉谷星奈)を7年越しに突然託した形になったことについて、視聴者のヘイトが集まった。ドラマ全体を慎重に見返してみても、決して水季の判断の一つひとつは完璧に穏当なものとは言えない。特に、津野・朱音・海に対しての、夏に関する説明、ケア、フォローが不足しており、三人から夏が責められるのは水季のコミュニケーションの頑張り次第でもう少しなんとかなったのではないか、とは思えてしまう。
目黒蓮の誠実な演技と相まって「夏くんかわいそう」となるのは当然の視聴者感情だが、夏への同情から派生して噴出した水季へのヘイト感想には明らかな詭弁が多かった。
水季に向けられた“行き過ぎた自己責任論”
なかでも気になったのは「一度隠して出産したのに、死ぬからって夏に知らせるのはひどい。自分勝手だ」という声だ。誤解に基づく、理不尽で過度のキャラクター批判であり、流石に作り手を不憫に思った。
夏の人生を自由に解放したいという願いから、一度は中絶を決意した水季にとって、この時点で「夏と子育てをする」未来はもうない。その後、弥生(有村架純)が書き残した言葉などに影響され、奇跡的に中絶を翻意して海を産んだ。つまり、「夏を騙して/夏に隠れて産んだくせに」はドラマの感情設計に乗りすぎた誤読だ。因果関係と前後関係を感情で恣意的に編集してしまっている、スピード違反のような感想だと思う。
死が近いと知って判断が変わったことも見過ごしてはいけない。自分の死後、高齢の両親(朱音と翔平)、自身の家庭を持って時間がなくなるかもしれない同僚(津野)に娘の人生が依存するルートを確定させるのではなく、血縁の父(夏)に“父の立場を担う選択肢”を戻してみようと発想した。この感情自体も一方的に非難されるような加害的なものではない。
夏の住所を海に知らせたのは、両親と津野に何かあった際の緊急事態のセーフティーネットとしてだろうし、手紙を朱音に託したのも「父になる決意をしたら」という留保があってのことだ。死という危機に瀕してもなお、「一度隠したならこの存在を隠し通せ」と断罪するのは行き過ぎた自己責任論だ。そんな感想が蔓延するSNS空間に、荒んだ、否、SNSごときに“荒まされた”時代の空気を感じる。
真に怒りを向ける先は、弱者ではない
不在の中心たる水季に謎の香りを帯びさせ、主人公たる夏に共感と心配と同情を集める感情コントロールが周到で巧妙なために、「夏は被害者」「水季は加害者」という二元論に飛躍するスピード違反、信号無視とも言うべき感想が発生した。
一部の視聴者を責めたいのではない。こうした誤読の過熱の背景には「行政の不備」と「父性の無責任」がある。
人権や個性の意識が伸長し、性愛や恋愛や家族の形が多様化した今の時代なのに、国は貧しい。十把一絡げに「男女は」「家族は」こういうもんだ、と対策できた頃よりも個々のケースの対応には時間とお金がかかる。それはわかる。
「モーレツに頑張ろう!」「24時間働けますか?」と国力の向上を前提に無理ができた時代ではなくなった日本で、子どもを産もう、育てようという気にはなれない人が増えるのは当然だ。そして、実際には国力の低下が問題なのではない。実用性のない小さな布マスクを示威的に配ることや、同じく示威的に都庁を光らせるのにかかった莫大な予算を、貧窮する家庭に分けることは本当にできなかったのか。
スッキリと共感できない判断だとしても、悩んで答えを出していくシングルマザーを過度に叩く自己責任論は、市民生活に想像力を向ける気もない権力の思う壺だ。怒りを向けるべきは弱者ではなく、政治の怠慢だ。(政権や時代への批判は『海のはじまり』では焦点ではない。あくまで連想ゲームのように感想を加速させるならキャラクター批判ではなくそっちだろう、という指摘にここでは留める。)
父性について掘削した“母の説教”と“父の吐露”
登場する全員が全員、不器用な小さな世界の話だ。コミュニケーションの快楽が描かれるシーンは極端に限定されており、タイミングや距離感、言葉選びの間違いによって気持ちがすれ違うもどかしいシーンの連続だ。だからこそ、ごく稀にコミュニケーションが成功する奇跡的な場面でカタルシスが溢れる。爽やかで緻密な画面設計と相まって、地上波ゴールデンのドラマらしい明るさは絶妙なバランスで保たれている。
父性の無責任性、というのはこのドラマの根幹のテーマだ。目黒蓮のスター性が夏というキャラクターへの応援心理として作用しているのは、ドラマの企画の前提における狙いだろう。彼でなければ、男の射精責任はもっと生々しく、不快に映ってしまったはずだ。
しかし、目黒蓮のアイドルとしての輝きは演技と演出と脚本によって、できる限りセーブされていることを思うと、我々視聴者は夏を無意識に甘やかしていたことに気付かされる。
5話で夏の母(西田尚美)が愛情を込めつつも息子に厳しい説教をする。8話では夏の父が「父」を降りた背景を吐露する。この2つの場面が父性、もっとほぐして言えば「生殖・出産・育児における男性親の宿命的な無責任性と、それでも責任を担える可能性」についての深い掘削だ。
母は夏に言う。
「隠したの?学生の分際で。彼女妊娠させて」「隠せるって思ったのよ。男だから。サインして、お金出して、優しい言葉かけて、それで終わり。体が傷つくこともないし。悪意はなかったんだろうけど、隠したってそういうこと」。そして、5話時点での存命の恋人・弥生に関しても「弥生ちゃんのことは任せる。でも何か強要させるのは許さない」と付け加える。
夏だけでなく、男性というジェンダーへの、何も包み隠さない、身も蓋もない、ぐうの音も出ない批判だ。妊娠・出産のプロセスで体に負担をほとんど負わない、この一点を男性はどうすることもできない。だからこそ、命の責任を持ちきれていない男性というジェンダーが優位な社会はおかしいのだ。
視聴者はもっと夏に厳しくなければならなかったが、夏の可愛らしさ、不憫さに阻まれた。水季の一存で、妊娠においてはイーブンなはずの男女の責任が、夏の射精責任が、ゼロになることはない。
悲しき妖怪が示した“男性同士のケアの可能性”
なんの前触れもなく8話で突然登場する溝江(田中哲司)は夏の血縁の父だ。8話は筆者が最も好きな回だ。
父になることを報告しようと夏が呼び出すも、久しぶりの再会にもかかわらず、溝江は有害な男性性を振り撒く。「お前の子かどうか分かんないよ」「変な名前。母親変わってんだな」と海の前で笑う。「絶対お前の子じゃないぞ。女ってそうだろ、ずるいよな。産めるってずるいわ」と言われた夏は激昂し、椅子を蹴飛ばす。
後日、釣り堀で再会して父子の会話がようやく成立する。この回の冒頭で夏は水季をカメラで撮りながら「面白い」と言う。海も祖父に「面白い」と言われたことを話す。同じように、溝江は幼い夏を「面白い」と思って撮っていたと語る。夏の母に「面白がるだけなら趣味。あなたは子どもを釣りや競馬と同じだと思ってる」と泣かれた、と。
父という責任から降りた、夏が選ばなかったもう1つの世界線を歩む父。そんな父の存在に絆されたのか、夏らしくない暴力性を発露した直後、夏は怒涛のように誰にも言えなかった苦しみを父の背中にほとばしらせる。
白昼夢のような回だ。水辺のロケーションも相まって、溝江という父は、人間の責任を無責任に請け負ってくれる妖怪のようにも見える。父性をなまじ真面目に考えてしまったために、父になれなかった悲しき妖怪だ。
子どもの頃にはトイレについてきていた夏を、今度は「ついてくんなよ」と突き放す。「優しい皆さんに支えられて、しんどくなったら連絡しろよ」という男性同士のケアの可能性を残して、久しぶりの父はこのドラマから消える。
過渡期にある、“恋愛ドラマ”と“ホームドラマ”
夏の会社の先輩・藤井(中島歩)は社会が求める典型的な家族像のロールモデルで、夏のよき相談相手だ。そこに生殖を介さない擬似的な父になろうとする津野、生殖で父になったが諦めて降りた溝江、そして生殖を経たが父になるイニシエーションを省略された夏、という四者四様の濃密な男性像が交錯する。
母性という幻想を都合よく搾取して駆動してきた社会において、都合よく責任を省略されてきた父性が、もっとできることはないか。そんな問いが特別編も含めて13話かけてみっちりと描かれた。
最終話、夏は急遽の休日出勤で海に留守番をさせそうになるが、一瞬迷ってついに津野に甘える。元恋人となった弥生、血縁はない弟の大和(木戸大聖)も訪れ、夏が背負いすぎていた過剰な父性を分担する。夏の健康を気遣い、手作りの食を与える行動が朱音と夏の実母の間でシンクロする。水季がたくさんの人に助けられて育児していたように、夏もまた育児を団体戦にできた、という清々しい結末だった。
「海」はずっと続いていく終わりがない命のリレーの象徴だ。命を繋いで育てていくのに必要なのは「母」や「父」という責任感だけではない。そんな母性と父性の呪縛から、親を解放する骨太なドラマは、間違いなく大きな問いと挑戦の成果だ。
「西園寺さんは家事をしない」(TBS系、2024年)「あの子の子ども」(フジテレビ系、2024年)など、類似テーマの良作、そして「家族だから愛したんじゃなくて、愛したのが家族だった」(NHK、2023年・2024年再放送)などの新しい質感の家族ドラマが月曜と火曜に密集した2024年の夏だった。恋愛ドラマもホームドラマも、過渡期にある。
月9ドラマ『海のはじまり』
動画配信サービス「FOD」にて最新話まで配信中
▶FOD:https://fod.fujitv.co.jp/title/3026/
大島育宙(おおしま・やすおき)
1992年生。東京大学法学部卒業。テレビ、ラジオ、YouTube、Podcastでエンタメ時評を展開する。2017年、お笑いコンビ「XXCLUB(チョメチョメクラブ)」でデビュー。フジテレビ「週刊フジテレビ批評」にコメンテーターとしてレギュラー出演中。Eテレ「太田光のつぶやき英語」では毎週映画監督などへの英語インタビューを担当。「5時に夢中!」「バラいろダンディ」他にコメンテーターとして不定期出演。J-WAVE「GRAND MARQUEE」水曜コラム、TBSラジオ「こねくと!」月曜月1レギュラーで映画・ドラマの紹介を担当。
寄稿:大島育宙
編集:吉岡葵
写真提供:©フジテレビ