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つやちゃん|うまくなるだけでは、残れない。「技術の民主化」時代の作り手に必要な資質とは?【伝染するポップミュージック】

チュートリアル書籍の進化が止まらない。プロのノウハウが惜しみなく開陳される時代に

昨今、いわゆる技術論が各ジャンルで大きな盛り上がりを見せている。プロのノウハウが平易な言葉で開かれ、書籍でもインターネットでも、チュートリアルと呼ばれる形式がますます人気を集めているのだ。もっとも、「初心者のための〇〇入門」といった類いの人気自体は、すでに長らく続いてきた傾向であり、あらゆる分野でその基礎的な解説は出揃っている。では、何が今あらためて注目されているのか。最近の新たな特徴は、そうしたチュートリアルの驚くべき「深度」にある。

その傾向が最も表れているのが、漫画やイラストといったジャンル。書店に行くと、昔なら美大や専門学校に通う人しか教えてもらえなかったようなプロの技術が、平易な言葉で開かれている。しかも、内容は驚くほど精緻だ。誰でも本格的な漫画やイラストを描けるようになることが、もはやただの夢物語ではなくなりつつある。数々の書籍がベストセラーとなって反響を呼んでいるが、この潮流は、2020年に『キム・ラッキの人体ドローイング』(オーム社)が出版されたあたりから加速していったように思う。筋肉や骨格の構造を、美術解剖学に基づきながらもイラストとしてどう描くかに反映した点で、その明晰さは極めて画期的だった。(※1)コロナ禍で創作に傾倒する人が増えたことも後押しし、それ以降、類書が多く登場することになる。

そして2025年、それらのバリエーションと深度は、あまりにもプロフェッショナルかつマニアックなレベルに拡大してきている。ダイナミックな動きやジェスチャーに特化した技法を紹介した『マイケル・ハンプトンのジェスチャードローイング入門』(ホビージャパン)や、加藤公太が人物イラストを描く際に重要な「体表」の起伏と構造を図示した『アーティストのための体表解剖学 ポーズごとに筋肉の位置と形を解説』(ホビージャパン)、『知る・見る・描くの美術解剖学ドリル』(ボーンデジタル)といった書籍が売れている。さらにピンポイントのテーマに絞った本も多く、「全ての創作に使える背景資料の必携本」と銘打った『日本の家と町並み詳説絵巻-縄文から平安、戦国、江戸、明治・大正・昭和まで』(エクスナレッジ)や、時代劇にフォーカスした『構造と動きがよくわかる 着物の描き方大全』(ホビージャパン)、『イラスト・マンガを描くための侍&剣豪ポーズ集』(玄光社)といった書籍に至るまで、その充実度合いには目を見張るばかりだ。すでにあるものを増補改訂版としてアップデートし出版しているものも多く、改めて、入門と専門を兼ねたノウハウ経済圏がいま膨らんでいるのを実感する。

中でも決定的だったのは、森薫、入江亜季、大場渉といった現役漫画家・編集者が出した『マンガの原理』(KADOKAWA)だ。「コマ割りと時間」「フリウケ」「視線誘導」「フキダシの線と位置」「キャラクターの立て方」など、創作者目線であらゆる技術を体系立ててまとめた本書は、大きな反響を呼びヒットしている。確かに、この本のクオリティには舌を巻く。もはやこれ一冊を読み込み訓練すれば、それなりの漫画が描けてしまうのだろうというサービス精神旺盛な内容で、チュートリアル書籍の進化も来るところまで来てしまった感があるのだ。

※1 著者のキム・ラッキ氏は米国の著名コミックスMARVELで長編漫画「X―FORCE」を連載するなど、実力派のイラストレーターとして知られる。韓国で刊行された原著は初版発行から2週間で重版となった

「秘伝のタレ」から「コンテンツ」へ。知識・技術をめぐる風景が変わった

そもそも何のジャンルにしろ、入門と専門を兼ねた技術論がここまで広がった背景には、いくつかの要因が考えられる。ひとつに、師弟制度の終焉と個人の時代が到来したこと。かつての技術習得は、誰かの背中を見て学ぶ、あるいは専門機関で正規の訓練を受けることで成立していたところがある。しかし、現代では個人で始められることの範囲が劇的に広がった。

YouTubeを見て真似してみる、書籍を読んで学ぶ、SNSで技術を見せ合う——そういった環境が、入門と実践の距離を一気に縮めた。同時に、ソフト・ツールの直感化と普及という点もあるだろう。かつては習得に年単位を要した技術が、今ではプリセットやAI補助で直感的に操作できるようになった。ただ便利なだけではない、専門性を自分で再構成できる自由が浸透したのだ。また、TikTokのダンス、ZINEの編集、アマチュアのDTMなど、成果物を未完成なまま公開することが許容される風土が、学習と発信を同時に行うスタイルを定着させた背景もある。皆が、プロになる前に“プロっぽいこと”ができる時代になったのだ。

ただ、それ以上に、知識や技術といったものが私物化から共有財へなったことが、最も大きなパラダイムシフトのように思う。かつて、技術とは「盗む」ものであり、「見て覚える」ものとされてきた。技術を開示することは、ある種の禁忌にも近かったのだ。しかし今は、技術を教えること自体がコンテンツになった。

動画チュートリアル、技術書、SNSでのスレッド解説——こうした実践知の共有は、もはや自己表現や自己ブランディングの一部にもなっている。それは、「秘伝のタレを堂々と配布する文化」へのシフトとも言えよう。つまり、学びのスタイルが「継承」から「自己編集」へと移行し、技術が「秘密」から「コンテンツ」になった現代ゆえの現象だということ。だからこそ、「技術論を語るなんて無粋」という価値観がまだうっすらと共有されているお笑い界において、それを堂々と開示しベストセラーになった高比良くるま(令和ロマン)の『漫才過剰考察』(辰巳出版)は、大きな転換点として象徴的だったのだと思う。

うまくなるだけでは、残れない。「技術の民主化」時代の表現者に必要な3つの資質

けれども、ふと思う。「技術の民主化」がこのまま著しく進んだとして、皆がプロ風の技術を得た時にどういう未来がやってくるのだろうか、と。このような話は、筆者が最近音楽アーティストに取材している際に、たびたび話題にあがる。

もう、曲制作のチュートリアルはたくさん出揃った。それなりのクオリティのトラックメイキングは容易にできるようになった。今後、音楽もますます生成AIの力を借りて誰もが作れるようになっていくだろう。そうなった時に、結局どこで差が出てくるのか。たとえば10年後に、多くの人の支持を得て歴史にも残るような音楽を作れる人とは、つまりどういう人なのか。

これから先、「皆ができるようになった時に何をするか」という問いは、ますます重要性を増していく。入門と専門を兼ねたノウハウ経済圏がこのまま膨らみ続けていった結果、残るのはどういった表現者なのか――本稿では最後に、そのヒントを3点ほど提示してみよう。

  1. 世界を引きずってくる人

技術的な巧さやクオリティはすでに多くの人が持っている。だからこそ重要なのは、ただ巧く作れる人ではなく、自分の背負った土地・時代・からだ――そういった「世界のかけら」ごと表現に引きずってくる人だろう。奇妙な言い方だが、「決定的な失敗を抱えた人」というのもそれに近い。なぜなら、完璧なだけのものはますます記憶に残らなくなるから。これからは、どこかノイズや歪み、執着、トラウマのようなものを内包していて、それが不可解な魅力になっている人が求められるようになる。単なるツールの操作ではなく、「なぜ今これを作るのか?」という動機が、誰かの課題ではなく自分にしか見えない風景によって始まっていること。結果的にそれは、大きな切迫感とリアリティ、必然性を帯びて受け入れられるはずだ。

  1. 想像力を連れてくる人

多くの表現が既存の型の再生産にとどまっていくであろうなか、その人ならではの想像力によって形式そのものをずらす発明ができることこそが、重要になってくる。「そもそも何を作りたいのか」「この時代に何を問いかけるべきか」という思考と感性の深度は、自分の背負ったものから生まれる想像力からしか生まれない。

既存のフォーマットの中で完璧に作る人が増えていくからこそ、お約束を一度壊しにかかるような手つきの人が、本当の意味で時代を揺さぶるだろう。なぞることより、ずらすこと。きれいな答えより、解けない問い。想像力によって形式を裏切り、ズレを設計する人が重宝されるようになるはずだ。

  1. 存在によって場を変える人

表現がどれもクオリティ高く差別性が図れなくなっていったとき、「関係性」や「空間の磁場」といったものが、違いとしてより重視されるようになるだろう。その際、評価の軸は、作品の完成度よりも「その人がそこにいると何が起きるか」といった視点へと移るに違いない。

誰かに呼ばれる、誘われる、場を生む。そうした存在は、他者を活性化し、見えなかった関係線を可視化する力を持っている。それは、旧来のプロデューサー的な力とも異なると思う。むしろ、言葉以前のところで空気を変えてしまうような人――いるだけで場の質が変わる人、共振を引き起こす人、偶然を引き寄せる人のことを指している。結果的に、そのような表現者は、作品単体ではなく「誰かと共にあること」そのものを作品にしていくはずだ。完全なものを差し出して終わりではなく、誰かと不完全なまま場を耕していくような姿勢を持つ人が、次の時代のアイコンになるだろう。

技術論の高まりとノウハウの民主化によって、そういった時代はもうすぐそこまでやってきている。極論、「うまくできたものから忘れられていく」時代がやってくるのだ。残るのは、表現者の存在ごと染み込んだ作品だけである。巧くなったあとで、なお表現し続ける理由があるか? その問いに向き合える人だけが、これから先を生き延びていく。つまるところ、知識や技術はもはや誰のものでもあるが、表現はやはり、誰かのものでしかないのである。

 

つやちゃん
文筆家。音楽誌や文芸誌、ファッション誌などに寄稿。メディアでの企画プロデュースやアーティストのコンセプトメイキングなども多数。著書に、女性ラッパーの功績に光をあてた書籍『わたしはラップをやることに決めた フィメールラッパー批評原論』(DU BOOKS)、『スピード・バイブス・パンチライン ラップと漫才、勝つためのしゃべり論』(アルテスパブリッシング)等

 

文:つやちゃん
編集:Mizuki Takeuchi

 

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