よりよい未来の話をしよう

『夜明けのすべて』三宅唱監督インタビュー 「見えるものは変化しても、目には見えない変わらないものがある」

いま、国内で最も新作を期待されている映画監督のひとりが三宅唱であることは、近年、日本映画を少なからず観てきた人々の間では、共通見解となっているだろう。耳が聞こえない元プロボクサー・小笠原恵子の自伝「負けないで!」を原案に映画化した前作『ケイコ 目を澄ませて』(2022年)が、国内の主要映画賞で大きな成果を上げたことも記憶に新しい。その三宅が待望の新作を劇場公開した。それが『夜明けのすべて』だ。本作は、瀬尾まいこの同名小説を映画化したもので、PMSを抱えた女性とパニック障害を抱えた男性の間に芽生える、助け合いの感情を描いている。

社会を前進させる情報発信を行う「あしたメディア」では、『夜明けのすべて』の劇場公開を迎えたタイミングで、三宅唱監督へのインタビューを実施、掲載する。前回の『ケイコ 目を澄ませて』インタビューと同様に、今回も三宅唱監督と映画解説者・中井圭との対談形式でお届けする。(本稿は、作品の結末に触れています

『夜明けのすべて』

月に一度、PMS(月経前症候群)でイライラが抑えられなくなる藤沢さんはある日、同僚・山添くんのとある小さな行動がきっかけで怒りを爆発させてしまう。だが、転職してきたばかりだというのに、やる気が無さそうに見えていた山添くんもまたパニック障害を抱えていて、様々なことをあきらめ、生きがいも気力も失っていたのだった。職場の人たちの理解に支えられながら、友達でも恋人でもないけれど、どこか同志のような特別な気持ちが芽生えていく二人。いつしか、自分の症状は改善されなくても、相手を助けることはできるのではないかと思うようになる。

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出演:
松村北斗 上白石萌音
渋川清彦 芋生悠 藤間爽子 久保田磨希 足立智充
りょう 光石研
原作:瀬尾まいこ『夜明けのすべて』(水鈴社/文春文庫 刊)
監督:三宅唱
脚本:和田清人 三宅唱
音楽:Hi’Spec 
製作:「夜明けのすべて」 製作委員会
企画・制作:ホリプロ
制作プロダクション:ザフール
配給・宣伝:バンダイナムコフィルムワークス=アスミック・エース
©瀬尾まいこ/2024「夜明けのすべて」製作委員会
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中井:まず、『夜明けのすべて』を撮った三宅さんのモチベーションを教えてください。

三宅:出発点はごくシンプルに、瀬尾さんが書かれた主人公たちがとても愛おしいなあ、ということですね。ひとつひとつのセリフや振る舞いや試行錯誤のアクションに惹かれました。それで、どうして愛おしいと感じたのかをゆっくり考えながら作ってきたわけですけど、撮影から時間が経った今ようやく言葉になったこととしては、PMSやパニック障害といった当事者にとって不条理にも長く付き合わなければいけない問いを生きている人たちがどうやって前に進んでいくのか、その姿に引っ張ってもらっていたように思います。そう思うと、前作の『ケイコ 目を澄ませて』やこれまでのぼくの作品は全然違う題材だと思ってはじめは取り組んできたけれど、それぞれ支流を遡っていけば同じ源流にたどり着くのかもしれません。

中井:この映画には原作があります。そして、いま、痛ましい事件があり、原作の改変や映像化が社会的にも取り沙汰されています。この事件は看過できない問題だと個人的には思っているのですが、原作を映画にするときに、三宅さんは原作者や関係者とどのようなコミュニケーションをとっているのか、伺いたいです。

三宅:今回は、プロットがある段階になった時やシナリオのいくつかの段階で、瀬尾さんと出版元である水鈴社の篠原さんからコメントをいただくという形でした。企画・プロデュースのホリプロ井上さんから企画開発当初に「プロデュース部もチームとして丁寧に開発していきたい」という思いが伝えられ、井上さんにリードしていただきつつ、脚本の和田さんと僕、チーフプロデューサーのバンダイナムコ西川さんら数名で打ち合わせを重ねていきましたが、世代も立場も違うからこそいろんな角度で充実した検討ができましたし、篠原さんからは「小説と映画は異なるものという前提で」とわざわざ気を遣ってくだった上で、本当に丁寧なコメントを毎回いただいた記憶があります。すべてのやりとりが僕の立場でわかっているわけではないと思いますが、わかる範囲で言えば、個人的に、普段文章を書く仕事のときに編集者の赤入れフェチなので、まさにプロの目によるコメントに密かにテンション上がりつつ、撮影ギリギリまで稿を重ねていくことができました。

また、大きかったのは、(藤沢さん役で主演の)上白石萌音さんの存在ですね。主演であり、もともと原作の大ファンであるという上白石さんが最初に脚本をどう受け止めてくれるかが本当に重要なので、小説にはない要素である諸々について、例えばプラネタリウムの設定、藤沢さんのお母さんとの話、物語のラストの変更などの理由に加え、そもそも小説と映画という表現媒体の違いを自分がどう考えているのかといった根本的なところも含めて手紙に書きまして、その後直接、初めてお会いしました。そこでみっちり話して、さらに脚本がいまの形にブラッシュアップできたので、上白石さんと初めてお会いした日の会話が相当に大きいです。瀬尾さんと直接お会いしたのは、撮影現場にわざわざ足を運んでくださったので、その時が初めてで、次が初号試写の際に感想をお聞きした際ですね。公開前のつい最近も、篠原さん経由で改めて、映画化に関してメッセージをいただきました。内容は言えませんが、とてもありがたいものでした。

中井:原作者とも、それほど良好な関係性を結べているんですね。

三宅:瀬尾さんがnoteの連載でいろいろと書いてくださって、ほんとうに大きな器のなかで仕事をさせてもらえたなと感じています。

©瀬尾まいこ/2024「夜明けのすべて」製作委員会

中井:そもそも、個人的には、原作者が内容面でも許諾を与えているのであれば、映像化にあたっての改変は良いのではないかと思っています。小説を映像化するときに、小説のそのままを描くのは不可能だと思うんですよ。そもそも文章と映像は全然違うアートフォームだから、変換するときに必ず違いが発生する。テキストを映像に最適化することによって新しい作品が立ち上がること自体も、ぼくは良いと思っています。そういう観点で、三宅さんは映像でしか描けないものを盛り込んでいくことについて、どう考えていますか。

三宅:小説の映画化に関して考えるポイントは多々ありますが、ふたつ挙げると、ひとつは想像力の違いの問題ですよね。例えば、藤沢さんが(松村北斗演じる)山添くんの髪を切るシーンがあります。そこは小説でも大きなポイントになっていて、瀬尾さんの他の小説でも反復されるモチーフですが、小説を読んでいるときには読者それぞれが想像できるのに対して、映像にするとたったひとつの絵を与えてしまうことになるのが恐ろしいと思っていました。スベったら目も当てられないし、ほんとどうしようかな、とギリギリまで考えてた箇所です。ただ、そもそも俳優はもっと恐ろしいでしょうね、姿も声も自分の演技ひとつに集約させてしまうので。時にはさらっと読めるかもしれないところでも、生身の体があると印象も変わってしまいますし。ふたつ目は、小説の地の文で表現される心の動きは、映画では「目に見えるアクション」を通して「目に見えない心」を想像してもらうしかないので、それをどうするかという問題。アクションといっても大きなものに限らず、ちょっとした仕草などで表現するわけですけど、時間芸術としての映画は、セリフとセリフの間(ま)の提示といい、やっぱり俳優の体から出てくるものが大きい。小説の速度感と、生身の人間が動く速度はどうしても違ってしまう。

中井:確かに、時間という視点で考えると、小説のようなテキストでは読む側が主体になっていく。しかし、映画のような映像だと提示する側が時間を支配していく。映像の提示というのは、ある意味で唯一解なのかもしれないけど、それによって発生する別の新しい面白さがありますね。

三宅:そう思います。それから、「映画でしか描けないもの」という点でいえば、例えばこのポスターで説明すると、フォーカスは主人公たちにありますけれど、ここには木の揺らぎや光のきらめきが人間と等価に同時に存在していますよね。小説はそれを同時に描くことはできません。一行のリニアな文字の連なりの中で、ときに木の梢の揺れを描写できるけど基本的には単線で書くしかないはずなんです。一方映画だと、こうした無数の記号を同時に、物語に回収されない形で存在することを表現できます。今回の題材は、自分の内側のコントロールできない問題と向き合っている人が、自分の外側のコントロールできないさまざまなものにも目を向けていく、という話でもあると解釈したので、それはこうやって言葉で説明するよりも、視覚芸術だからこそ一発で表現できるはずだとは考えていました。

©瀬尾まいこ/2024「夜明けのすべて」製作委員会

中井:この映画は原作から改変されているところも面白いなと思って観ていました。例えば、職場の設定が変わっています。金属部品会社から科学教育教材の会社に変更され、移動式プラネタリウムなども扱っています。プラネタリウムは、孤独を表す夜のメタファーでもあるし、暗闇の中で光る星が他の孤独な誰かを支えていく物語と繋がっていく、とても上手い改変だと思いました。三宅さんがプラネタリウムを見たときにこの設定変更を考えたと伺ったのですが、もう少し詳しく教えてください。

三宅:実は、物語の設定をプラネタリウムにするのはどうかなと思ったうえで、検討のためにプラネタリウムに行ったような記憶を最近思い出したんです。プラネタリウムという設定をどうして思いついたかは、説明するのがやや時間がかかるんですけど。あ、でももともと宇宙に個人的に興味があるのと、あと映画でいえば、ニコラス・レイの『理由なき反抗』がどうしてプラネタリムが舞台だったのかはよく考えていました。

中井:そうだったんですね。

三宅:話を戻すと、この物語は「働くこと」についてのお話でもあると考えていたんですね。PMSやパニック障害の症状自体の苦しみもあるし、それが原因で思うように働けない苦しみもある。前者は医療の、後者は社会の問題で、映画で考えられるのは主に後者の一部だと考えました。そこで、映画化では職場の描写がより大事になるはずと思い、小説で書かれた職場の雰囲気を大切にしつつ、もう少し職場の描写を増やしてみたらどうなるだろうと考えました。事務作業の他に、商材や業務を増やしたらどうなるかな、と。小説では栗田金属という会社名ですが、まずは、金属というメタリックで無機質な場だからこそ、この会社独自の関係性が対比的に際立っているのかなと考えて、金属ネジを使うような理系っぽい商材、というところから科学教材があったらどうなるか。科学教材、顕微鏡、レンズ、望遠鏡と連想ゲーム的に広げていきました。

©瀬尾まいこ/2024「夜明けのすべて」製作委員会

三宅:で、プラネタリウムを調べました。山口県の宇部市にあるプラネタリウムに足を運ぶ機会があって、そのプラネタリウムで実際に感じた、いろんな悩みが吹き飛ぶような開放感が素晴らしかったんです。プラネタリウムの中にいる時間も面白かったし、外に出て空を見たり風を感じる気持ちよさっていうのが、瀬尾さんの小説の読後感に近かったようにも思います。具体的には、山添くんが自転車に乗って感じている風ですよね。あと、宇部のプラネタリウムの解説員の方の喋りが、落語の名人のように異常に面白くて。プラネタリウムの投影機も、映画の35ミリの映写機を魔改造したような、とんでもなくかっこいい機械だと思いました。そこからさらに調べていくと、移動式プラネタリウムというものが世の中には存在することを初めて知ったんです。プラネタリウムは、都会に住んでいて星空が見えない人のために偽の星空を作って想像させるものですが、移動式プラネタリウムがどうして存在しているかというと、そのプラネタリウムにも足を運べない、たとえば病院から出られない子供たちやお年寄りの方のために機材を持ち込んで投影しています。その活動を知って、かなり心が動揺するというか、感激しまして。小説の中では、山添くんが映画館にいけない代わりとしてサントラCDを家で楽しむという美しい場面があるんですが、その場面は版権がクリアできず残念ながら実現できなかったんです。ただ、「代わりの楽しみを見つける」という重要なモチーフを表現するのに、プラネタリウムという空間ならサントラの「代わり」になるかもしれない、と。そして、小説では最後に、ガレージを開いて地域の人にきてもらおうという展開になるので、それに合わせる形で、イベントを開いて地域の人にきてもらう形はどうだろうというのが自然と見えてきました。ここまでくると、構造は同じと勝手に言い張っても見た目はだいぶ変わってしまうので、小説と映画に違いができてしまうことを映画の中でちゃんと明示した方が良いだろうと思い、社名は金属から科学に変えたいということも含めて、腹を決めて提案させてもらいました。それを寛大に受け止めくださったばかりか、「ロマンチックすぎやしないか」という懸念まで事前に伝えてくださったおかげで、ここは過剰に音楽を流したりCGの星空をきらきらやったりせず、基本は声と顔だけで勝負しようという方針も、ブレずにやれたように思います。

中井:そうだったんですね。あと、プラネタリウムが生み出す、みんなで暗闇の中で光るものを見つめる行為って、まさに映画だなと思いました。そういう意味でも、この作品は主軸で動いてる物語とは違うところで、三宅さんの映画に対する思いが入ってきていると感じています。そのひとつとして、劇中、中学生がビデオを回して栗田科学の社員を撮り続けるじゃないですか。以前、三宅さんにインタビューしたとき「中学生の頃に小さなビデオで短編を撮って、そこから映画に興味を持った」とおっしゃっていたことを思い出しました。そういうご自身の経験とも重なる部分はあるんですか。

三宅:いや、さすがに中学時代の自分とは重ならないかなあ。あんなに真面目じゃなかったから(笑)。でも、自分も中学生で初めて短編映画を作りましたし、好きなものに対して今以上に集中できていたことは自覚しているので、映画の中に出てくる中学生のふたりが熱心にドキュメンタリーを作ってるのは感覚的にわかるつもりです。でも、どちらかというと、いま自分たちがやってる仕事の方が、彼らと重なっていると思います。観た人から「三宅くんの代わりにあそこにいるでしょう」って言ってもらうこともありました。

中井:今、社会的には利己主義が横行し、自分と身内のことだけを重んじておけば、他人に配慮なんかしなくて良いよっていう社会がどんどん押し迫ってきている実感があります。だからこそ、この映画で描かれている、他者に対して何かできることがあるっていう姿勢は、今の時代にとても重要なものを提示してるんじゃないかと思いました。

三宅:ぼくが学生の頃から、新自由主義化における自己責任論の考え方がありましたけど、個人の責任の外側で起きるトラブルなんていくらでもあるので、「いや、ありえないじゃん」って当時から思っていました。何のために行政や国家があるんですかね。経済的にもそうだし、話を広げるようですが、例えば生まれつきの疾病を持っていることなどに関しても、当然その人が悪いはずがない。地震に遭った人や飛行機に乗ってた人が悪いわけがない。自己責任とか、因果応報とか先祖のバチとか、そういう考え方に対して、怒りというより、「くだらねえな」とずっと思っていました。ちょっとでも冷静に考えたら自己責任なわけないってわかると思うんです。だから、振り返ると、国家とか家族とかの既存の共同体とは違う、もうひとつの別のコミュニティばかり撮ってきたように思います。普段あんまりこういうこと口にしてないし、呑気なものかもしれませんが。

中井:それが映画の形になって、自覚的か無自覚かは別としても、何かしら投影されるのではないかとは思います。

あと、この映画のセリフで「北極星すら交代する」っていう言葉がめちゃめちゃ良いなと思って。このセリフの個人的な解釈として「変わらないものはないんだから、自分を追い詰めて過剰に固執する必要はないんじゃないか」というメッセージにも受け止めたんですね。それがこの物語の終盤の意外な展開にも繋がっていく印象を持ちました。

三宅:この映画がもし別の時代に作られていたとしたら、最初はぶつかっていた男女が出会ってどう終わるのかという際に、恋愛を物語上の帰結として使うことはあったと思うんです。しかし、今回はそのように展開しないのが面白いなあと思って作っています。仮に恋愛視点で考えれば、それぞれが離れ離れになるのは悲しいことのように思われてしまうけど、この映画ではそういう感情にはまったくならずに、ふたりそれぞれの人生の選択として観客がごく普通に受け止められるものにしたかった。あとは、もし小説の続きがあったら、このふたりが定年まで栗田科学に勤めることはないだろうって考えてみたんですね。ただ、会社が変わったからといって、このふたりに生まれたものが変わるかというと、そうじゃないはずと思いました。職場や住所といった目に見えるものは常に変化していくけれど、目には見えない、変わらないものがあると思うんです。北極星の位置という目に見えるものが変わっていくけど、目に見えないもので変わらず存在するものを感じられれば良いと思いました。彼らふたりも、これから年老いて姿形も変わっていくけど、心の中にあるものはおそらく変わらないと信じたいので、それを撮るのがぼくの仕事だなと思いました。

©瀬尾まいこ/2024「夜明けのすべて」製作委員会

中井:今おっしゃったことと少し重なりますが、ぼくがこの作品で特に良いなと思ったのは、人それぞれの苦しみを安易に恋愛で回収しないことですね。

三宅:ロマンティックな関係を抜きにした友人って、余裕であるんで。あまりにも当たり前に。

中井:そうですね。今まで、映画でもドラマでも、抱えた苦しみを最終的には恋愛で回収していくことが多いけど、実はその物語は多くの人を救えないんじゃないか、と思ってるんですよ。ぼくは恋愛関係って万人のものではなく、基本的に限られた人の間で発生するものだと思っています。でも、物語が恋愛関係性に閉じてしまうと、特殊な状況でしか課題は解決できないという答えに寄ってしまう印象を持ったんです。

三宅:確かに。

中井:だけど、非恋愛的なものであれば、受け取る側からしても持ち合わせている可能性がある。そういう意味で、この作品の最終的な展開は、多くの人を救うんじゃないかと思いました。

三宅:今ふと、念のため言いたくなってきたんですが、一応お伝えすると、ぼく、恋愛映画が大好きなんです。古今東西の、それこそ90年代以降のキャメロンディアスあたりのロマンチックコメディとか。

中井:『普通じゃない』(1997年)とかね。

三宅:そうそう。セックスコメディと言われるものも好きだし、ドリュー・バリモアの映画がほんとに好きで。学生時代まではそのジャンルをちょっとバカにしていましたけど、25歳を超えたぐらいから夢中になりました。ただ、恋愛が描かれる映画でぼくが面白いと思ってるポイントは、カップルがくっつくかどうかというのは正直どうでもいい。赤の他人たちがベッドに入ろうが何しようが、そこはたいした自分の心が動く場所じゃないし、実は意外とその瞬間自体は演出もあんまり気合いが入ってない気がするんですね。そこじゃなくて、その過程にある衝突の瞬間や幸せな瞬間が面白いと思います。このジャンルは、全然違うタイプの人間が出会って、最初は苦手で、でもお互いを知ったり、自分のことも知るような過程が重要なのだと思うし、また、演技も時代に合わせて新しいモードで演じてくれるのも面白いです。失敗を恐れずに相手に飛び込んだり、まんまと失敗したりするのが笑えて泣ける。だから『夜明けのすべて』では、ある意味で、恋愛のないロマンチックコメディというか、それの再解釈、そうしたジャンルの面白いと思う核の部分には影響うけつつ、それ以外の性愛要素は一切なしで撮る、ということだったかもしれません。

©瀬尾まいこ/2024「夜明けのすべて」製作委員会

中井:面白い話ですね。あと、この映画で上手いなと思ったのは、藤沢さんと山添くんの関係性を表現する物理的な距離感と立ち位置です。例えば、恋愛関係性を描く際には、基本的な立ち位置って正対するシーンが多いと思います。

三宅:キスするためには正対しなきゃいけないですからね。あとケンカも。

中井:そう。だけど、この映画ではどちらかが相手の方に体を向けてるときは、相手はあまり向き合わない。

三宅:90度ぐらいかもしれない。

中井:つまり、お互いの体の位置関係がずれている、というのが印象的だったんです。席が隣だから横位置にあることも多かったけど、ふたりが長い時間、目を合わせ続けることはあんまりなくて。

三宅:玄関前ぐらいかな。

中井:そうそう。いわゆる恋愛の匂いがする部分を表現上で回避してる。カラッとした気配があって、だけど相手に対する気遣いの気配もあるというのがすごい良かったなと思っていて、そこをどう考えて演出していたんですか。

三宅:まず、恋愛未満みたいに見られたら違う、とは思ってましたね。そもそも、彼らはそんな気持ちがないどころか、実は必要以上に仲良くなろうとすら積極的にはしてない。同僚としてやれることをやろうとしてるだけで、今は楽しい時間だねと自覚もしてない。ただ相手が寒そうだからブランケットを渡すだけで、別の意味や意図はないというか。

中井:ブランケットを渡すシーンは、演出的にだいぶ気遣ってる感じがしましたね。変な意味を持たないような渡し方をしていた。

三宅:「これは変な意味を持ってないんですよ」みたいに渡すと、それはそれで意味が出てしまう。そのあたりはもうお二人が持っているストレートな魅力もあるし、お二人がそれぞれのキャラクターをちゃんとつかまえているから、どう座ろうが立とうが、恋の気配が一切漂わない力強い存在でいてくれました。ぼくの演出プランとして、ふたりは向かい合わずに横並びといった立ち位置のルールは事前にやんわりと持ってましたけど、それがなくてもこの関係性は成立したと思います。

中井:おふたりには、その位置関係の話はされていたんですか?

三宅:「横に座っているだけなんで」という台詞に上白石さんが「好きなセリフです」と反応してくれて、それで説明したような気がします。そこで面白かったのは「これくらいの信頼がお互いにあれば、たとえ横並びじゃなくてもこの関係性は成立しそうですよね」と何気なく話してくれて「確かに!」と。上白石さんの知性というか頭の柔らかさに、ぼくが刺激をもらいました。もしその言葉がなければ、サッカーのフォーメーションでいえば、ガチガチにシステマチックだったかもしれません。でも、その僕のシステムの上で、彼女たちがめちゃめちゃ柔軟なポジショニングをとった上で本当に厳密な芝居をしてくれて、個の力は強いしシステムとしても機能する、みたいな素晴らしいチームになりました。

中井:その補完性がうまくいってるから、劇中に変な固さみたいなものが一切なくて、すごくよかったなと思っています。

気遣う気配という観点では、この作品は2階から誰かを見つめるっていうショットが反復していましたね。相手との距離はあっても気にかけているという作品のテーマと重なる表象だと感じました。

三宅:確かに、上から見守ってる感じはありましたね。そのテーマで言うと、シナリオの文字面では、セリフを言ってる人が前面に立って見えてしまうものですが、でも、この映画はセリフを言っている人の周りも大事なので、シナリオにはうまく書けなくても現場では会話を聞いてる人も撮ろうと事前に思っていました。でも、喋ってる人と聞いてる人を交互に撮ってると撮影の量が増えてしまうんで、それは現場として体力的にしんどい。じゃあ、どうやって聞いてる人も同時に撮るか、見守ってる人を撮るか、というところは、自分の仕事だったかなと思います。

©瀬尾まいこ/2024「夜明けのすべて」製作委員会

中井:そういう意味で、この映画は音の映画でもあると思っていたんです。例えば、渋川清彦さん演じる山添くんの元上司が泣くシーンがあります。あのシーンの撮り方は、カメラは山添くんを前から捉えて、彼の話を聞いている元上司の背中が見切れてる。そういう状況だから元上司の表情は映らないけど、元上司のリアクションは、音をきちんと聞いているとわかる。つまり、この映画は耳を傾ける映画でもあると思います。

三宅:そうですね。

中井:このふと耳を傾ける行為そのものが、相手に対して気遣うことに繋がっています。劇中、PMSになるかならないかは相手を注意深く見ていればわかる、という話もありましたけど、周囲の人たちが気にしていれば気づくことがあるという点では、音の中に見えないものが込められている印象を持ちました。

三宅:普段お喋りしているとき、たとえば友達と話している場合、喫茶店で向かいに座ってお喋りできる内容と、夜に遊歩道で顔を見合わせずに相手の声だけ聞きながらお喋りするのでは、出てくる言葉が変わるというのは実感としてあります。道徳の授業の「耳を傾けましょう」みたいなことではなくて、もっと単純に、隣で一緒に歩いてたら相手の話もよく入ってくるし喋ることができるよねという、ふだんの身体感覚がベースにあります。

中井:ぼくはこの作品を試写室で観たんですけど、聞こえてくるものを聞くという行為が劇場空間と相性良いなと思いました。家で暮らしているとそれだけでノイズが多いけど、映画館だと、きちんと聞くべき音が聞こえます。

三宅:そうですね。

©瀬尾まいこ/2024「夜明けのすべて」製作委員会

中井:俳優についてももう少し聞かせてください。前作『ケイコ 目を澄ませて』で三浦友和さんが演じたボクシングジムの会長のように、何かを抱えた人を見守る人の存在が今回も反復して登場しています。具体的には、光石研さん演じる栗田科学の社長がその立ち位置です。前作のときは、会長自身が抱える経営や健康の問題がありつつも、教え子であるケイコを優しく見守るという構図でした。今回も社長は、弟を亡くした心の傷を長年抱えた上で、社員である藤沢さんと山添くんを見守っています。その意味でも、見守る人の存在が三宅さんの近作の中ではシグネチャのようになっていると感じています。

三宅:作品を跨ぐ形でキャラクターを捉えているわけではないですが、今回で言えば、光石さんが演じた社長は、最初から見守りたくて見守っているわけじゃないんですね。自身の経験として、弟を見守り損ねたという大きな後悔と悲しみがあります。これは、具体的には言いませんが、ぼく自身の実人生においても自分が見守らなかったせいで起きてしまったと思っている大きな後悔があるし、そういう苦しい思いを拭えずにいる人は、この日本には多くいますよね、本当に悲しいことに。だから、誰かを見守りたいとか、優しくしようとかいうのが先行してあるのではなくて、自分はかつて見守れなかったという取り返しのつかなさが、映画の中や実人生で、これからはどうしたいか、という思いと繋がっていく感覚です。だから、「優しい世界ですね」と言われるとほんのちょっと微妙な気持ちになりますね。優しいやつほど怖いというのはヤクザ映画で見たことありますし。だから、この映画の職場は、あくまで僕の言い方だと、優しいというよりむしろDFやボランチみたいに周囲を厳密にみている人たちを見事な集中力で演じた俳優たちが映っている場で、その前提として、世界の残酷さがベースにあって、でもその悲惨をわざわざお金をかけて再現するなんてなんか違うというか、その後をどうするかという世界を新たにつくって撮ることに、フィクションの意義があると思って撮りました。

中井:その意味で、先ほど話した渋川さん演じる元上司が泣くシーンも、どうして泣くのかという理由がよくわかるんですよね。自分に向けた悔恨を抱えた人間が少しでも救われる瞬間って、他者を救おうとすることによってのみ、生まれるんじゃないかと思うんです。

三宅:そうですね。一度失敗しているからこそ、二度目は何とかしたい、という物語だと思うんですよね。自分がこういう映画を作っていること自体もそうかもしれないです。

中井:ぼくはこの作品が主演ふたりの話ではあると思いつつ、群像劇的な要素も多い印象があります。特に栗田科学で働く同僚たちがめっちゃ良いなと思っています。

三宅:めっちゃ良いですよね。

中井:主人公ふたりに対して絶妙に優しい距離感で、主演ふたりの存在が際立つのは栗田科学の人たちがいたからだと思っています。演出面におけるキャラクター設計と動きをどのように考えていましたか。

三宅:これはキャスティングが大きいですね。山添くんのセリフに寄せて言うと、「地味で、こうはなりたくない」という雰囲気がまず必要でした。でも、その先入観が途中から良い形で裏切られ、彼らがとても素敵でプロフェッショナルな人たちである、という事実がわかっていく。この変化を達成するには、大変失礼な言い方ですけれど、まず最初に一見した時の雰囲気で、ある印象を思わせられなければならない。なんて言えばいいです?

中井:つまり、派手すぎない、ということですね。

三宅:そうです、うまい言い方をありがとうございます。オーディションをして、いい出会いがありまして。みなさん、本当にこの映画の核心をがっちり掴んでくれて、とても良い距離感であの場にいてくださったので、ぼくは彼らベテランの技術に相当に甘えながら、ふたりと同時にみなさんの芝居を一緒に作っていくっていう形でした。同時に6、7人を演出するのは疲れましたけど、めちゃ楽しかったですね。全カットにわたってずっと複数人が出てくる異常に多層的な映画を作ってみたくなった。

中井:カメラ位置の考え方について教えてください。主演の松村さんと上白石さんにも、あまりカメラが寄りませんでした。

三宅:まず、藤沢さんも山添くんも、それぞれひとりでいる時間があります。それらの場面では、観客もごく自然と顔を見ようとしますからそこで顔は見えてくるし、位置と照明がよければ、必要以上に寄らなくても観客は脳内で補完するものだと実感として思います。映画を観ていて、自分の脳内では首から上の寄り画の記憶があるけど、観直したら実は胸や腰から写ってた、ということがありますよね。それが美しいクロースアップというか、理想的なバストショットだと考えています。その辺りは月永さんの厳密な仕事のおかげです。

藤沢さんと山添くんがふたりでいるときは、同時に撮りたかったんです。それぞれをバラバラに撮って繋ぐと、編集で間合いなども調整できますが、そうする必要がない、そういう邪魔をしてはいけないと思うような、見事な美しいリズムが現場で生まれました。また、劇中、社員がいる空間で、観客もふたりを同時に見るという経験が面白いんじゃないかと思いました。会社にいる人たちも、ふたりのうちのどちらかを寄りで見てるわけではなく、距離をとって同時に見ているわけで。

中井:この映画は、切り返し(それぞれが単独で映っているショットの連続)を使うことなく、ふたりが収まっているショットの中で時間が経過していくのを観客が見つめる構図でしたね。切り返しを撮らないという意図は、松村さんと上白石さんにはどういう話をされたのでしょうか。

三宅:そのやり方は、撮っていく中で見つけたんですよ。

中井:では、最初は切り返しも撮っていたんですか。

三宅:いや、ふたりの出会いのシーンまでには、この映画の撮り方を見つけちゃったので。切り返しも撮るプランも立てていたけど、結局撮らなかったということですね。ただ、ふたりとも、他の現場のやり方とは違うことに当然気づくので、先に意図を説明しました。撮りたいものは、ふたりの時間丸ごとだ、という話を簡単にですけどね。ふたりとも、ぼくが言わなくても自然とその場の居方を感じてくれていたように思ったので、必要以上には言っていません。ただ、カット数が少なくなると芝居できる回数自体が少なくなるというのがメリットになり時にデメリットにもなり、「もっと(演技を)やりたいからカットを割ってほしい」と言われましたけどね(笑)。それは(前作の撮影時に)岸井さん(ケイコ役の岸井ゆきの)にも言われました。

中井:ということは、今回は結構、早撮りだったということですか?

三宅:いや、どうですかね。テストに時間がかかるのと、テイクは重ねたので。

中井:でも、16ミリのフィルム撮影じゃないですか。

三宅:もちろんデジタルほどはできないけど、前作の『ケイコ 目を澄ませて』ほど制限もせずに、前回のざっと3倍ぐらいはカメラを回してましたかね。

中井:そうなると、俳優のフィジカルの問題も出てきますね。

三宅:そうですね。今回は芝居が乱れる感じも撮ってみたかったんで、テイク1で上手くいっていても、テイク2や3で違うことを試してみて、それで何か面白いものがあればいいなということも試しました。平均はテイク4くらいだったと思います。

©瀬尾まいこ/2024「夜明けのすべて」製作委員会

中井:劇伴についても聞きたいのですが、曲数も限りなく少なく、使い方もリフレインしています。これはどういう意図だったのでしょうか。

三宅:結果的にですね。はじめから極端に制限したわけではなくて、今回曲数多くなるかも、なんて最初のころは話をしていた記憶もあります。劇伴を担当したHi’Specとは4回目の仕事でしたし、彼が天才なのはわかっていたので、音楽は彼のものという感覚でやってもらいました。彼はシナリオも映像もみてない段階で、僕が簡単に口頭で物語と狙いを説明しただけで、今のメインテーマの基本になるものを「どうですか」と送ってきてくれて、「これだわ。どういうこと?」みたいな。そのあと、編集と並行して映像も共有しつつ、詰めていくなかで、キーワードも出てきましたかね。

ひとつは、波です。先ほどリフレインとおっしゃいましたが、同じように繰り返しがあるけれど、実はその都度、違うことが起きている、みたいな。ヒップホップのビートも基本的にはループですけど、そこにラップがのることで変化して聞こえるから延々と聞くことができますよね。Hi’Specが自分のジャンルでやってきていることですけど、ただの繰り返しではない波、変化する波っていうのがこのふたりの物語とマッチするだろうなと思いました。今回はサンプリングじゃなくて基本弾いてましたね。途中で一緒にキーボード買いに行ったりして。鍵盤足りない、みたいな。

あと、新しい感覚だったのは、音って普通は、鳴るとそこに新たに生まれるものとして捉えると思うんですが、でも今回は、ひとことで言えば「幽霊」、聞こえる前から元々そこにあった音、というのが途中からキーワードになりました。音楽を聴いているとき、これはイヤホンだとわからないことですけど、まともなスピーカーで聞いているときに、たとえばピアノが曲の途中から入ってくると、「あ、ピアノさんそこにずっといたんだ」みたいな感覚があると思うんですね。突然現れたわけじゃないというか、音が足されてる感じじゃなくて。ずっとそこにいて、たまたま弾いてなかっただけ。ピアノがあってピアニストもいてピアニストの息遣いも最初からあったという空気感。そういう音の鳴り方がしたらいいねえ、とミックスの最後の方に話していた記憶があります。多分、映画館だと、その辺りがわかってもらえるかなと思います。

©瀬尾まいこ/2024「夜明けのすべて」製作委員会

中井:最後になりますが、以前、三宅さんにご自身の作品選びの基準を伺った際、「答えがなさそうな問いを見つけたときに自分ならどう考えられるのかが、映画を撮るモチベーションになっている」とおっしゃっていました。この答えがない問いにじっくり対峙する行為は、現代社会の中で重視されつつあるネガティブ・ケイパビリティだと感じます。映画に挑む際に、この視点を大事に考えているのはなぜなのか、教えてください。

三宅:どれだけ幸せだろうと苦しかろうと、いつか人は死ぬという事実、人生が一度しかないというのは変わらなくて、それが自分の映画づくりの根っこにある気がしています。この社会がどうなったらいいだろうとか、夕飯何食べようとか、生きているといろんな問いと選択をすることになるけれど、それらの問いがすべて、一度きりの人生という大きいお皿の上に載っているという感覚があります。どうせ死ぬという絶望は、適当に忘れなきゃ生きていけないし、でもそれがないと何も決められない気もします。ずっと生きてるなら何でもありになっちゃう。

中井:いずれ誰しも死ぬことは確定しているけれど、そこに向かうプロセスは、答えの出てないものばかりで、その不確定なものを映画で撮りたい、ということでしょうか。

三宅:そうですね。僕は超面倒くさがり屋なので、ただの言い訳というか屁理屈なんですが、どうせ死ぬけどでもやるぞと思えるような理由づけがないと、基本的にはなんにもせずに寝てたいんです。でも放っておくとあらゆる物事は基本的に悪くなるはずなんで、悪くなってから面倒くさいことをするか、その前に面倒でもやるか、どっちがマシかだと思うんですよね。もうめっちゃ、先やっとけばよかったーって思うことばっかりですけど。それで、生きていく上でのいろんな面倒な問いに対して「こうすると儲かる」とか「これが流行り」とかいろんな答えがありますけど、常に「でも死ぬ」とか「で?」という蓋をすると、また違う答えを探して再検討し続けることになる。まあ、どうせ死ぬのは自分だけじゃなくて好きな相手も超嫌なやつもそうだから、余計なことで削り合うのは虚しいし、どうせ一回しかないんだから、いいことをちゃんとやった方がいいとは思うんですよね。そういうプロセスというか試行錯誤を、ぼくの映画では繰り返しているようにも思います。

前作『ケイコ 目を澄ませて』の取材以来にお会いした三宅唱監督は、以前と変わらない物腰の柔らかさと以前よりもさらに深みを増した知性で、筆者のとっつきにくい質問にも鮮やかに回答していく。そして、映画監督としてはまだまだ若い年代でありながらも、瞬間的にベテランのような落ち着きと胆力を感じさせるのは、作品を重ねるたびに高く積み上がる期待のハードルを乗り越えてきた自負心だと受け取った。この『夜明けのすべて』は、おそらく2024年の日本映画の上位に位置するのは確実であり、次回作への期待はさらに高まった。三宅唱からまだまだ目が離せない。

 

取材・文・編集:中井圭(映画解説者)
撮影:服部芽生