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『ケイコ 目を澄ませて』三宅唱監督インタビュー 「他者の立場であることを自覚して想像すること」

『メタモルフォーゼの縁側』『恋は光』など、良質な作品が次々と生まれている2022年の日本映画界。その中において、とても静かだが強い存在感を示す傑作が、年の瀬に劇場公開となる。『ケイコ 目を澄ませて』(12/16公開)は、聴覚障がいを持つプロボクサー小笠原恵子さんの自伝「負けないで!」を原案にした映画だ。監督は、三宅唱。ロカルノ国際映画祭のコンペティション部門に出品された『Playback』(2012年)が映画関係者や映画ファンの注目を集め、近年では『きみの鳥はうたえる』(2018年)の高い評価により、一般にも認知が拡大した。今後の日本映画を牽引する映画監督のひとりとして、期待を集める存在だ。

社会を前進させる情報発信を行う「あしたメディア」では、『ケイコ 目を澄ませて』の公開にあわせて、三宅唱監督へのインタビューを掲載する。今回、作品の持つ細かいニュアンスを伝えるために、三宅唱監督と映画解説者・中井圭との対談形式でお届けする。

『ケイコ 目を澄ませて』

嘘がつけず愛想笑いが苦手なケイコは、生まれつきの聴覚障がいで、両耳とも聞こえない。再開発が進む下町の一角にある小さなボクシングジムで日々鍛錬を重ねる彼女は、プロボクサーとしてリングに立ち続ける。母からは「いつまで続けるつもりなの?」と心配され、言葉にできない想いが心の中に溜まっていく。「一度、お休みしたいです」と書きとめた会長宛ての手紙を出せずにいたある日、ジムが閉鎖されることを知り、ケイコの心が動き出す――。

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出演:岸井ゆきの、三浦友和、三浦誠己、松浦慎一郎、
        佐藤緋美、中島ひろ子、仙道敦子
監督:三宅唱
12月16 日(金)よりテアトル新宿ほか全国公開
配給:ハピネットファントム・スタジオ
©2022 「ケイコ 目を澄ませて」製作委員会/COMME DES CINÉMAS
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「答えのなさそうな問い」がモチベーションに

中井:まず、この企画を選択した意図を教えてください。

三宅:この企画は、プロデューサーからお話を頂きました。元々ぼくはボクシングのファンではなかったので、自分にこの企画は相応しくないかも、という気持ちがスタート地点でした。ただ、なぜ自分が今までボクシングに興味を持たなかったのかを考えてみました。ぼくには、痛い思いをするのにどうしてわざわざ殴り合うんだろう、ということが謎だったんです。(考えても)その答えはわからないんですが、この問いについて考えていくことは、ぼくら人間はいつか死ぬのになんでわざわざ明日も生きようとするんだろう、という問いと結びつくかもしれないと思いました。ボクシングの謎は人生の謎でもあると思ったので、この映画の主人公のモデルとなった小笠原恵子さんの人生について考えることで、人生の謎と生きることができるんじゃないかと思って、この企画を引き受けることにしました。

中井:三宅監督は映画を作るとき、そもそも「このテーマを撮りたいんだ」という意志が強いのか、逆に置かれた状況から考えるスタイルなのでしょうか。

三宅:テーマは先には見えていません。先ほど言ったような「答えがなさそうな問い」を見つけた時に、自分なりにどのように考えられるかが、自分の映画を撮るモチベーションだと思います。

中井:今の世の中、わかりやすさという名の極端な答えを要求しますよね。SNSでバズっているものは、だいたい極論言ってる人だったり、何かを自分勝手に断言したり。過去と比較しても時代が混迷してるからこそ、誰しも明確な回答を求めてますが、実際のところ回答なんてないじゃないですか。だからこそ「答えがなさそうな問い」には、今の世の中に対する批評性を感じます。

三宅:ぼくも面倒くさがり屋なので、もし答えを簡単に知ることができるならすぐ知りたいです(笑)でも直感的に「それは何かが違うだろうな」と思っています。考えることは本当に面倒くさいけど、それでも自分を引っ張ってくれるのが、映画作りの楽しさだと思います。今作で言えば、主人公のモデルである小笠原恵子さんの生き方が本当に魅力的だったので、その魅力がぼくを引っ張ってくれて「答えがなさそうな問い」を楽しめるようになったと思います。

耳が聞こえないことを特別視しない選択

©2022 「ケイコ 目を澄ませて」製作委員会/COMME DES CINÉMAS

中井:ボクシングというジャンルは、今まで映画史の中で作られてきた作品で考えても、カタルシスの意味で、映画と相性が良い印象があります。しかし、ぼくがこの作品を観たときには、むしろボクシングの試合ではないところに重きが置かれている印象を受けました。どちらかというと、ケイコの日常性が強く打ち出されていると感じます。

三宅:『ロッキー』(1976年)なんか素晴らしいですし、映画で本当に熱狂的な試合に興奮できることも当然あると思います。でも、現実の井上尚弥さんの試合を観ているときの、一瞬も見逃せないようなあの瞬間には勝てない。だから、あの現実と勝負するよりも、実際にあるけれども我々が普段は目にできない世界、例えば選手が試合に立つまでの過程こそ、カメラを向けるべきことだと思っていました。だから、最初から試合のカタルシスを撮るより、そこに至るまでの日々の積み重ねに興味があったというのが、純粋なぼくの気持ちです。

中井:この作品は、ろう者の話でありながら、耳が聞こえないことを特別視して描いているわけではないと感じました。

三宅:そうですね。仮にケイコの年齢が10代であれば、自分のそうしたアイデンティティが最大の問題になると思います。今回ぼくが映画で描くことを選んだ、彼女が20代後半になる時期で最大の問題は、プロボクサーになる目標を達成した後、なぜかボクシングを辞めたいと思ってしまうこと。耳が聞こえるかどうかや女性であること、年齢なんかももちろん関係あるだろうけど、ケイコにとって最も切実な問題は、好きなボクシングをどうするかだと、焦点を絞りました。その問題をケイコがどう突破していくのかが、この映画で重要だと思いました。

中井:ケイコ自身が耳が聞こえないことを特段意識しない描写が作品の中にありました。例えば、生活の中で人とぶつかったり、コンビニで店員とのやりとりがチグハグになるシーンなどは、聴者であるぼくが観ているとちょっとドキッとしました。でも、ケイコがそこに何かを感じてるようには見えない。彼女にとって耳が聞こえない状況が日常化している点が、監督がおっしゃった話と接続していますね。

三宅:ケイコにとって、この映画の中で描かれた日常で起こることは特別ではありません。しかし、聴者がろう者の日常を見ていると「はっ」と思うこともあると思います。逆に、普段からろう者の身近にいる人には、これは日常、と思うかもしれない。それぞれの立場の当たり前を撮りたかった。

雇用機会と芸術の創造力を考えること

©2022 「ケイコ 目を澄ませて」製作委員会/COMME DES CINÉMAS

中井:世界レベルでも、近年はマイノリティを描く作品が非常に多く、第94回のアカデミー賞では、ろう者の家族を描いた『コーダ あいのうた』(2021年)が、最高賞である作品賞を受賞しました。同作が高く評価されたポイントのひとつに、ろう者役にろう者を起用した当事者性にもあったと思います。『ケイコ 目を澄ませて』では、ろう者のケイコを聴者の岸井さんが演じました。一方、ろう者の俳優も配役されて、そこに当事者性があります。

三宅:ぼくが監督のオファーを受けた時点で、ケイコは岸井ゆきのさんが演じることが決まっていました。あとは、それを踏まえてぼくが監督を引き受けるかどうか、でした。聴者で男性である自分が、この物語を撮るに値するかということは頭の中にありました。当事者のキャスティングで言えば、雇用機会の平等という点などはプロデューサーの役割なので、ぼくが申し上げられることは少ないですが、ケイコ以外の登場人物でろう者の役がある場合、ろう者をキャスティングをしたいと伝えた上で、監督を引き受けました。

今の日本の映画産業で、雇用の不平等が続いている状態では悩ましいところですが、産業としての雇用機会の問題と、芸術の創造力の問題は、切り分けることも考える必要があるとは思います。現状議論するのは早いけれど、今回は自分なりに整理をして臨みました。それを整理するまでに時間がかかったので、監督を引き受けるのにも時間がかかりました。

©2022 「ケイコ 目を澄ませて」製作委員会/COMME DES CINÉMAS

中井:ケイコを演じた岸井ゆきのさん、素晴らしかったですね。実際に彼女と仕事をして、魅力はどういうところにあると感じましたか?

三宅:岸井さんは、本当に素晴らしいと思いますね。本来こういう取材では魅力もひと言でまとめるべきだと思うんですが、ひと言ではまとめられない、まとめたくないような時間を一緒に過ごさせてもらえたので、あえてそれは言葉にせずに「ちょっとみんな観てよ。まずは、この岸井ゆきのを観てから話そうよ」と言いたいですね。

中井:今の三宅監督のお答えも、さっきの話に繋がっていますね。わかりやすさに対する拒絶は、すごく意識されているように感じます。三宅作品は、この映画も含めてひと言では言い表しづらい。しかし、それが三宅作品の良いところじゃないかと思います。その、わかりやすさの拒絶を体現するのが、岸井さんで本当に良かったと思いました。

三宅:本当にそう思います。

他者の立場であることを自覚して想像する客観性

©2022 「ケイコ 目を澄ませて」製作委員会/COMME DES CINÉMAS

中井:本作はケイコが主人公という位置づけになっていますが、どこか群像的なものを感じました。特にケイコを応援しながら、自身も健康面などの問題を抱えるボクシングジムの会長を演じた三浦友和さんが、もうひとりの主人公のようにも見えました。

三宅:この映画は、タイトルこそケイコという主人公の名前を取っていますが、ケイコだけを描いているわけではありません。ケイコではない人たち、つまり、ろう者でもボクサーでもないまったくの他者が、当事者と関係を持てるのかということを描いています。それが、当事者ではないぼくが映画を作ること、当事者ではない人たちが映画を観ることと重なるのではないか、と考えていました。その中でも、作り手あるいは観客の先頭で、会長を演じた三浦友和さんがケイコである岸井さんを見つめてくれることで、ぼくらは会長とともにケイコを考えることができます。そのための、大きな窓のような存在として機能してくれたと思いますね。

中井:その上で、この作品には常に他者性があると感じました。聴者の立場からケイコの内面に深く共感していくことを、どこかで拒絶するものが存在している。例えば、この映画における環境音は象徴的です。他の作品と比較して、環境音のボリュームを上げている印象があります。ろう者と観客の間で世界の近しい見え方、たとえば音を聞こえにくくすることで観客の共感を得るのが通常のアプローチだと思います。しかし、この映画は意図的に音がよく聞こえる演出によって、ケイコと観客の距離を取っているように感じました。

三宅:本当に細かく観てくださって嬉しいです。おっしゃる通り、ケイコをわかった気にはさせたくないんです。ろう者の生きている世界が単に音のボリュームを下げただけとは到底思えないですよね。なので、それだけは避けよう、と。他者として、どれだけ想像し直し続けるかが大事だなと思いました。ケイコがケイコの人生を生きているように、観客は観客それぞれの人生を生きています。映画を観る観客自身が、何が聞こえ何を見るのかという感覚を研ぎ澄ませていくことが、実はケイコのように生きること、つまり、ケイコが目を澄ませることなんだと思います。ぼく自身も自分の人生の当事者としてこの映画と向き合うことが、今ぼくができる精一杯の映画の表現だったかなと思います。それが正しいのか、まだ全然わからないですけど。

中井:その誠実さが、ぼくがこの映画で1番好きなところです。世の中、わかった気になることって多いじゃないですか。なんとなく相手に共感したら、その当事者のことが全部わかっちゃったような気にはなるんだけど、そんなものはいち側面でしかない。特に、多様性と謳われている現代に、他者をわかろうという意識がすごく重視されてるところで、三宅さんのおっしゃる「目を澄ませる」アプローチをとることが重要。物事のすべてはわかり得ないけれども、わかろうとする努力、意思が大事だと見せてくれてるのがこの作品の誠実さで、そこが最高なんだということを、いろんなところでこれから言っていこうと思っています(笑)。

三宅:ありがとうございます(笑)。でも、自分としては本当にだらしない人間で、先入観もたくさんあって、いろんなレッテルで物を見ていると思います。ただ、モデルとなった小笠原さんも岸井さんも、関わった人たちみんな、ちゃんとした人たちだったんです。そういう人たちと一緒にいるのがすごく楽しかったから、誠実であることが負担ではなく純粋に楽しいことでした。だから誠実って言ってもらえるのもすごい嬉しいし、同時に「いや、楽しいです」とも言いたいです。

聞こえなくても、この世界に確かにあるものを描く

中井:この映画は音が聞こえないケイコを描いているけど、映画自体は冒頭からリズム感が意識され、とても音楽的だと思いました。序盤ボクシングのミット打ちのリズムを設計して、観客にはそれが音楽のリズムのように聞こえてくる演出には、何か意図があったのでしょうか。

三宅:聴者にとっては音としてのリズムですけど、音を消しても動きでリズムが生まれるようにしています。リズムっていうのは単に音の問題ではなく、ボクシングの体の動きが生むリズムって、聞こえるか聞こえないかは関係なくこの世界に確かにあると思っていて、そこからこの映画を始めていきたいと考えていました。

中井:ちょっと余談ですが、三宅さんと音楽って、以前から距離がすごく近いなと思っていました。

三宅:いやいや、僕が音楽に憧れてるだけで(笑)。

中井:音楽家にならなかった理由は何ですか。

三宅:日々の修練に耐えられないと思います(笑)。ギター弾ける人も歌える人も、みんな地道に日々コソ練してると思うんですよね。ボクサーもそうであるように。ぼくは練習するのが嫌いだったんですよ。だからできなかったです(笑)。

中井:そんな三宅さんが、どうして映画監督を選んだのでしょうか。

三宅:何でなんでしょうね。やりたいことはたくさんあって。音楽も当然好きだったし、本読むのも好きだったけど、映画には全部あるじゃんって。中学3年生の時に初めて小さなビデオを撮ったとき、そのことを感じました。映画を理由にすれば、どこでも行けるし誰とでも会えると思ったので、映画を仕事にするのが楽しそうだなと思いました。

16ミリフィルムが記録した、一生に一度のボクシング映画

中井:なるほど。作品に話を戻しますが、この映画はロケーションも印象的でした。主に浅草や東京の東側で撮ったと思いますが「映画が記録する街」ということについて、三宅さんはどう考えていますか。

三宅:この映画を撮影したのが2021年の3月だったんですけど、コロナ禍が始まって緊急事態宣言を何度か経験した後の、本当に大きく生活様式が変わった時代でした。あの渦中で、その影響がまったくない世界を撮るのは想像がつかなくて、丸ごと記録しておきたいっていうのは思いました。あと、これまで何本かの映画を撮ってきて、その時には気づかなかったけど、後で見返してみると、あれが映っていた、これが映っていたという記録の価値が発見できる喜びがあるので、街は昔から撮りたいなとずっと思っている対象の1つですね。

中井:ちょっと前だと、廣木隆一監督が『さよなら歌舞伎町』(2014年)で再開発中の歌舞伎町を映画の中に収めました。あの映画には、あの瞬間しか存在しなかったものが確かに存在するじゃないですか。街って、我々の人生スパンから見るとあまり変化がないようにも見えるけど、長い目でみたらやっぱり変容しています。

『ケイコ 目を澄ませて』が16ミリフィルムで撮られていることも関係していますが、今の映画はデジタルが主流になってデータ劣化はしないものの、規格変更によって観られなくなることもあり得ます。配信も流行っているけど、来週その作品が観られるかどうかはわかりません。でも、フィルムは、それこそ映画が生まれた頃の作品も観ることができます。そもそも保存性が高い。そういう意味で、今回16ミリで撮られていて街が映っていることも本作の強みと考えています。浅草や東京の東側の屋外に人がいない状況が記録されたことも価値があると思いました。

三宅:今もう世の中にカメラがあって、無数の映像や写真が溢れているので、そういう価値を主張するのはなかなか難しいとは思ってるんですけど、ぼくにとって作品が物質的に残るのは大きいです。ぼくも岸井さんも多分、一生に一度しかボクシングに関わる映画を作らないと思う。その意味で、今回フィルムで撮れたのは嬉しかったですし、できるなら今後の作品も、正直、全部フィルムでやりたい。

フィルムの一回性によってたどり着く表現

中井:おそらく、現在世界中で作られている映画の95%以上がデジタルで撮られていると思います。一時期、本当にフィルムが廃止になりかけた時に、フィルム愛好家のクエンティン・タランティーノやクリストファー・ノーランらがフィルムメーカーとフィルムを維持するための生産契約をして、なんとか継続できているというのが現状だと認識しています。そんな中で、今回ほとんど撮られることのない、16ミリフィルムで映画を撮ることはいかがでしたか。

三宅:その魅力も言葉にできないから楽しいです。自分が飽きるまではフィルムでやりたい。そう言いながらね、ぼくは天邪鬼なんで、何本か撮ったらコロッとデジタルに転じる可能性はあるんですけど、とにかく今はフィルムに夢中ですね。

中井:技術的な発展で、映像の見た目だけで言うと、デジタルでもかなりフィルムルックに寄せた表現が可能になってきていると思います。観客がぱっと画面を見たときに、この映画がフィルムとデジタルのどちらで撮られたかを言えるかというと、答えられない作品も存在していると思います。でも、フィルムのメリットでありデメリットでもあると思うんですけど、一回性があるんじゃないかなと。フィルムで撮るってコストがかかるじゃないですか。撮り直すたびにコストがかさむ。

三宅:その一回性があるがゆえに、罠を仕掛ける準備をなるべく考えます。デジタルの利点として、トライアンドエラーによって自由を獲得できますが、フィルムの一回性によって、考え抜いた末に目指す表現にたどり着くことができることが、自分にとってすごく新鮮でした。初めてだったのでプレッシャーはありましたけど、単純に楽しかったです。あと、ボクシング映画だったので、いくら体力がある岸井さんといえど、常にフレッシュではいられません。演じる役者たちの鮮度を大切にするためにも、ぼくらのようなカメラの後ろ側にいる人間もその物理的に制限のある環境でやることで、双方にとって良いことになるんじゃないかと思ったら、予想以上にそうだったと感じています。

映画の前に広がる平等な瞬間や人間関係の楽しさ

©2022 「ケイコ 目を澄ませて」製作委員会/COMME DES CINÉMAS

中井:『ケイコ 目を澄ませて』は、作品のクオリティから既に海外の映画祭でも評価されています。三宅さんと仲の良い濱口竜介監督も『ドライブ・マイ・カー』(2021年)がアカデミー賞で評価されました。映画祭やその場で世界から評価されていくことについて、三宅さんがどう捉えているのかを教えてください。

三宅:(濱口竜介監督の『ドライブ・マイ・カー』は)もう、とんでもないことになっていますからね(笑)。

ただ、個人的には海外含めて、評価というものを先行して意識することは特にないですね。自分も小さい頃から他の国のものを普通に摂取して影響を受けてきたので、初めから国内や海外っていう区分ではものを考えていないです。ぼくは、どこかに観てくれる誰かがいるだろう、という前提で映画を作っています。映画祭は、各国の配給会社と商売するマーケットの機能以外に、映画を金額に変える価値以外の何かを担保する場として、ずっと残っていくんだろうなと思うんです。国籍も性別も立場も宗教も何も関係なく、映画の前で平等な瞬間や人間関係性があって、それが楽しいんですよね。

映画に関わっていると、ふとした瞬間に、年齢とか関係なく映画の話ができるって最高だと思うんですよ。サッカーとか他のジャンルでも同様のことが当然あるとは思うんですけど、映画には権力関係が発生しない、むしろそういう関係をうやむやにしていく力があると思っていて、そういう場としての映画祭は楽しい。もちろん、映画祭の中でも権力発生装置っぽい瞬間もあって、「うげー!」って思うこともありますけど。でも、たまたまぼくが最初にロカルノっていう本当に平和な映画祭に行けたこともあって、いまだにそれが理想というか、楽しい場所としてのイメージがありますね。でも正直それだけかな。その感覚を味わえるんだったら、別に世界じゃなくてもどこでもいい。日本も世界だし。

スクリーンでかける映画を作りたい

中井:フラットな感覚、わかりますね。先日、『ケイコ 目を澄ませて』の完成披露試写会の時に、三宅さんが登壇して「スクリーンに観にきてくれて、ありがとうございます」と挨拶したことが印象的でした。試写も配信で観られるのに、わざわざ劇場に足を運んでくれてありがとう、と。

三宅:もう本当に、この映画はスクリーンで観てほしいから。ただ、どの映画のインタビュー記事を読んでもどの監督も同じことを言っているので、差別化するためになんて言えばいいかわからないんだけど(笑) 。でもね、いやー、映画館で観てほしいなあ。

中井:いや、ぼくはスクリーンで観たから三宅さんの感覚がわかりますね。このインタビューの中でおっしゃっていた冒頭の音楽的なリズムの話もそうですが、この作品に身体性を感じています。だからこそ、多分大きなスクリーンで見ないとわからないことが根本的にある。スマホではさすがにちょっと伝わらないですね。実際、完成披露で観た後に、取材のためにもう1回オンライン試写で観ました。正直どちらでもあまり変わらないケースもあるんですけど、この映画は印象が違いました。最初にちゃんとスクリーンで観ることができて良かったと思いました。

三宅:ありがとうございます。

中井:最後に、三宅さんの今後の映画制作に関する意思についてお聞きしたいです。映画を通じて、社会とどのように向き合っていきたいですか。

三宅:スクリーンでかける映画を作っていきたい、というのが今の正直な気分です。社会との関係の持ち方については、ぼくの映画は、なかなか感じ取れないかもしれないし逃げてしまってるところもあるのかもしれないけど、最初の映画から、今この時代だからこそやるべきだろうというテーマがベースにあります。もちろんその時点で見ている社会は、自分の年齢も上がってきて変わりますが、この時代だからやるべきだろうというベースは変わらずやっていきたいです。ただ、映画はどうしたって、時代の波に即応できる芸術ではなくて、2年や3年、あるいは5年とか、少し時代とずれるものです。だから、速さではなく時間をかけて捉えることやずっと残していくものという意識で、世の中を見ていきたいと思っています。即時で反応すべきことは、時間のかかる映画でなんてやってる場合ではなくて、すぐに社会的なアクションを起こせばいい。映画が関わるべき社会的問題は、もう少し長いスパンのものではないかと思います。

一見、強面に見えるけれど、実際はとても穏やかでユーモアたっぷりの三宅唱監督。その柔らかい物腰から垣間見えたのは、軽妙ではあっても重要な場面では丁寧に言葉を選びながら、心の中にある思いをできるだけ正確に他者に伝えようとする姿勢だった。三宅唱監督が持つ誠実さ、そして考えることをやめない知性により、『ケイコ 目を澄ませて』は、わかりやすく即時性の高いカタルシスから意識的に距離を取って、深い奥行きを持つことを達成した。本作の魅力を理解することは、現代を生きる上で必要なソーシャルグッドの本質的理解と接続している。その視点でも本作は、今の時代の傑作と言えるだろう。

 

取材・編集・文:中井圭(映画解説者)
撮影:服部芽生