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「普通」という言葉で、世界を「簡単」にしたくない 『彼女が好きなものは』草野翔吾監督インタビュー

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2014年、映画『それでも夜は明ける』(2013)が、第86回アカデミー賞作品賞を受賞した。同作は、19世紀中頃の黒人奴隷とその解放について描いたものだ。同作の作品賞受賞は、大きなインパクトをともなう快挙だった。その理由は、アカデミー賞設立から80年以上が経過しても、黒人主演による黒人についての物語が、事実上の最高賞である作品賞を1度も受賞したことがなかったからだ。しかし、2009年のバラク・オバマ大統領就任後、社会に呼応するように、アメリカ映画界でも徐々に有色人種にフォーカスがあたる気配が生まれていた。同作の作品賞受賞は、その機運が明確な形になったものだと言える。

このように、世界中の映画は、その時代の社会と連動する形で生み出され、評価されていく。近年は人種に限らず、あらゆる領域のマイノリティに光をあてる作品が急激に増えて、高い評価を獲得してきた。多様性が社会にとって重要であるという認識を、世界レベルで共有しつつあるからだろう。中でも、セクシュアルマイノリティをテーマにした作品は、2017年にアカデミー賞作品賞を受賞した『ムーンライト』(2016)をはじめ、質的、量的にも世界中で急増している。

2021年12月3日に全国公開となる映画『彼女が好きなものは』も、大きな括りではセクシュアルマイノリティについて描いた作品だ。ゲイであることを周囲に隠している高校生の純(神尾楓珠)がBL好きのクラスメイト、紗枝(山田杏奈)と親しくなることを通じて、世界との間に存在する見えない壁と葛藤、希望を映し出す。しかし本作は、近いテーマの従来作品とは違って、「セクシュアルマイノリティを描いた」と書くには言葉のフォーカスが適切ではないと感じる。その違和感の正体を確認するため、本作の草野翔吾監督に話を伺った。

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(c)2021「彼女が好きなものは」製作委員会

過去の理解不足の反省と、作品を通じた認識のアップデート

現在、世界中でセクシュアルマイノリティを題材とした作品が生まれていますが、今回、草野さんがこの題材で映画を撮ろうと思った経緯を教えてください。

原作との出会いは、本作プロデューサーの前原(美野里)さんが送ってくださったことがきっかけです。そこで初めてこの小説を知って読んだ時に、何も特別な話じゃないのに、今まで自分が感じ取れなかった、聞き取れなかったような言葉が赤裸々に書かれていると思って、すごく心が動きました。ただ、それを映画化するとなった時に、自分にできることがあるんだろうか、と逡巡しました。その後、プロデューサーと会った際に、この作品を真摯に映画にしてメッセージを伝えていきたい、という思いを聞きました。ぼくは過去に、林遣都さんがゲイの役を演じた『にがくてあまい』という映画を作りましたが、ぼくの中で、ゲイであることに対する理解が浅かった、という認識がありました。なので、もう一度ちゃんと向き合って映画を撮りたいという気持ちがありました。

『にがくてあまい』の制作はいつ頃でしたか? 

おそらく、2015年ぐらいの撮影だったと思います。

今の時代、5、6年経つと社会の認識は激変しますよね。時代とともに表現は変わっていくけれど、作品は変わらずに残り続けます。映画作家はこの状況と向き合っていかなければならない、という点をどう思いますか。

正直なところ、過去にさかのぼってまで(作品を)糾弾するのは、ちょっとナンセンスな気はしています。公開から年月が経って「この当時のこの考え方は良くなかったよね」という反省、としてだったら良いと思うんですけど、行き過ぎた糾弾になるのはちょっと悲しいなと思います。ただ、撮って1週間後に放送されるドラマと比べると映画は制作開始からお客さんに届くまでの時間が長く、先々まで残ることを前提に考えて作らなければいけないと思います。その上で、作品が公開された時代にちゃんとフィットすればいいなと思います。

社会がようやくセクシュアルマイノリティの現状に向き合い始めた時代に、今回の作品を撮るのは、かなり難易度が高かったのではないかと思いました。

そうですね。この映画を撮ることは「その難しさと向き合っていく」ということだったと思います。本作では、同性愛をステレオタイプに描かない、何か表現するときにはクリシェにならないように、と意識していました。「同性愛者ってこうだよね」「ゲイってこうだよね」じゃなくて、あくまで「純を描く」ことに集中していました。

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(c)2021「彼女が好きなものは」製作委員会

確かに「同性愛者ってこうだよね」と一般化して捉える傾向が世の中にはあると思いますが、実際は個別具体の話でしかないですよね。その点、セクシュアルマイノリティを題材にしたもので、個別具体としっかり向き合う作品は意外と多くないように思います。

今回は、あくまでもぼく自身がこれまでに撮った作品との対峙がありました。作品の根底にあるものは、「個人は個人、それぞれである」ということ。この話は映画に限りません。日常においても、社会が他者に対してもう少し寛容であってほしいなとか、自分自身も寛容でありたいなと思っています。

個別具体という意味で、劇中にあった「これだから腐女子は」じゃなく「これだから三浦さんは」という言い換えの台詞が象徴的でした。世界を簡単にしないことが、世界を良くすることに繋がると感じました。

その台詞は原作にもあって、ぼくもすごくいいなと思っています。世界を簡単にして、自分の知識とか観測の範囲だけにまとめてしまうと、そこに対する苛立ちや敵意みたいなものが生まれやすいですよね。単純化してわかった気になれば自分は勝手に安心できるけど、それって結局自分を守る行為です。そうすることによって、気がつかないうちに踏みにじっているものがある。

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(c)2021「彼女が好きなものは」製作委員会

「普通」という言葉で、世界を「簡単」にしたくない

この作品は、実に示唆に富んだ台詞が多いことが特徴になっています。「普通の幸せ」というキーワードが出ますが、一方で「普通」という言葉が旧来的な価値観に引きずられているのが現代だと感じます。本作における「普通」を含めて「普通」がどうなっていくと良いと考えますか。

「普通」という言葉は、基本的に旧来的価値の積み上げだと思いますが、無理やり共通言語を作って「それが普通だよね」って言ったら、世界をいちばん簡単にする言葉になります。ぼくもこの映画を撮ってから、日常できるだけ「普通」っていう言葉を使わないように心がけているんですけど、やっぱり使っちゃうし使われちゃうんですよね。すごく便利な言葉なので。でも「普通」に含まれるものをアップデートしていかなきゃいけない。そして「普通」という言葉をこのシチュエーションであんまり使わない方がいいよね、という認識から始めることが重要だと思います。

「普通」は、人によって違う。自分が使った「普通」っていう言葉が誰かを傷つけているとしたら、自分の持ってる「普通」がものすごく古い価値観に基づくものだと認識した方がいいと思います。

純くんの「(自分がゲイであることを)明かしていないから、(相手に)配慮しろとは言えない」という台詞にも深く考えさせられました。つまり、世の中の価値観がアップデートしない限りは、知らないうちに誰かを傷つける言葉が溢れます。

そうなんですよ。日本の社会は、まだ容易に他者に明かせる状況にもなっていないと思いますし、状況に対して、二重、三重に壁があることを象徴する台詞だなと思います。

これらの台詞が示すように、本作にはセクシュアルマイノリティ当事者や認識的に最前線にいる方々からすると当然だと思うことがたくさん描かれているのだと思います。一方、特に意識せずに暮らしている人々からすると、非常に多くの気づきがあるのではないでしょうか。

ぼく自身が原作を読んだときに、それをすごく感じました。ぼくは、LGBTQ+の専門家だったり、専門知識を学んだ人間ではないけれども、決して無自覚な人間でもない、と思っていました。しかし「全然無自覚だった」と原作を読んで気づかされました。その要素は、この原作を映画にする上で1番大事なポイントでした。純が生きていく中で、我慢していること、人に言えないでいることを描くべきだと思っていたので、ぼくが原作を読んだ時と同じようにお客さんに伝わるといいなと思ってます。

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撮影についても教えてください。月永(雄太)さんが撮影を担当されていますね。

好きなんですよ(笑)。月永さんと初めてお会いした時、「どうしてぼくなんですか?」とまず聞かれて、「好きだからです」と、ただの告白をしました(笑)。今回、いわゆるキラキラ恋愛映画ではなく、もう少し冷たい距離感で撮りたいと思っていました。月永さんの撮る距離感がすごく良いと思っていたのと、単純に月永さんが撮る青春のお話を観てみたかったんです。

距離感の話をされましたが、撮影を通じて、視点の第三者性を要求したということでしょうか。

そうですね、特に前半は。前半と後半で撮影を変えたいという話をしていました。前半は、純を見つめるけど、当事者性じゃなくて第三者性を求めました。後半は、もう少し群像劇のような多視点で、少しずつ近寄っていくようなイメージで撮りたいというのは月永さんと話しました。作品の展開が、純ひとりの悩みから全員の問題になるという構成なので、それを撮影上も描きたかったんです。

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(c)2021「彼女が好きなものは」製作委員会

本作では「見えない壁」について描いていて、その壁はマイノリティ当人を守る以上に、マジョリティーを守るために作られていると指摘しています。多くの人がこの事実に気づけば、社会はもうちょっと良いほうに変わっていくんじゃないかなと思いました。

これも結構ショックを受けますよね。でも、これってマイノリティについてだけじゃなくて、意外と日常生活でもわかる感覚です。たとえば、どこかに行った時、その場の雰囲気を崩さないために、自分の意思を押し殺すことをやってきています。それが周りの人たちを戸惑わせないためなのは、誰でもわかる感覚なのだと思います。

その「見えない透明な壁」は、画面の中で視覚化されて、作品のテーマを示唆する形になっているように見えました。例えば、水槽や観覧車、教室の窓などが象徴的です。

おっしゃる通りで、なんだか恥ずかしいです(笑)。映像にするにあたって、見えない透明な壁をどう表現するかは、まず考えなければいけないことだと思いました。実は、他にもっといろんな候補もありました。と言うのも、脚本を書いてる途中で、ちょうど新型コロナ感染拡大がおき、現実に透明の壁が目の前に現れ始めました。しかし、あまり描写をコロナに寄せると時間が経つと、表現として古くなってしまうと思ったのでやめました。あと、透明というキーワードは、純くんの持つある種の透明感みたいなものも、すごく感じていました。

本作は、セクシュアルマイノリティを題材にした物語で閉じず、青春映画として非常に優れていると感じました。そもそも両者が二律背反するものではないという認識を持っていますが、どういうバランスを考えていたのかを教えてください。

前提として、この映画はLGBTQ+全体を描いているわけではなくて、あくまで、あるゲイの男の子を描いた映画です。その上で考えていたのは、まず原作を信じること。そして自分なりにいかに勉強していくかを意識しました。絶対に届かないし足りないんだろうけど、勉強して配慮した表現をすることを徹底的に考えた上で、LGBTQ+についての映画として撮るのではなく、青春映画としてのマナーで撮りました。

ぼくは青春映画も好きなんですが、あまりにポップなものにしないために月永さんに撮影をお願いしたり、そういうバランスが随所にあります。それに、LGBTQ+についての映画という感覚で撮ったら、この映画を届けたい人には届かないと思いました。この映画のメッセージに気づいて欲しい人に届けるためには、絶対に青春映画として撮るべきだというのは、プロデューサーと最初に会った時からずっと話していました。

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(c)2021「彼女が好きなものは」製作委員会

映画の世界と現場を一致させたい、そう思うようになりました

クリエイティブのバランスの話を少し拡張して良いですか。今の映画において、ポリティカル・コレクトネスを満たしてるか否かということが評価や存在理由にも大きく影響します。個人的にもポリティカル・コレクトネスに対応することは今の時代、当たり前だと思っています。ただ、作品の評価軸はその地平だけじゃないのではないか、と思うことがあります。

本作の原作を読んでいざ映画化するとなった時に、実はその点が気になっていました。登場人物がセクシュアルマイノリティであるけれど、あくまで登場人物のひとりとしてフラットに存在しているというのが、時代に合った作品なのではないか、とも思ったんです。でも、違いました。そもそも、現実はまるで追いついていないんですよね。それは日本だけではなくアメリカであってもそうかも知れないのですが、「現実的に解決していない問題を棚上げして、映画としては解決済みのフラットな状況として打ち出しましょうということになってない?」と。この映画に真剣に向き合った時、そう思いました。

それに、最近の海外作品の中には、映画としてのバランスを失って「ポリティカル・コレクトネスのスタンプラリー」状態になっている映画もあって、ちょっと「うっ…。」となる時もあります。しかし逆に、日本映画では「本当に今時そんな(古い価値観の)表現をするの?」という意味で、さらにがっかりすることがあります。個人的には新しい価値観の上でエンターテイメントとしてしっかりしているものが面白いと思います。ちゃんと価値観がアップデートできていると、観ていて安心感があるじゃないですか。

たとえば、本作の原作では、最後の最後まで紗枝が「ホモ」という言葉を使い続けます。実はそれはよくないんだよね、と最後に明かされますが、それをいま映画で描くと、観客が集中して観られないと思うんです。「この監督、本当に大丈夫?」と不安に思われる。言葉を無邪気に使っている、とならないようにかなり意識しました。

今後、作り手の表現としては、過去にどういうものを作ってきたのかも重要になるでしょうし、新作であれば、作中にきちんと信用できると思わせるものがあれば、ある程度踏み込んでも、観客も安心できるだろうと思うんですよね。

そうですよね。たとえば、本作で渡辺大知さんが演じた隼人は、無自覚な偏見に満ちた台詞を言ってしまうキャラクターなんだけど、それはあくまで、この物語におけるそのキャラクターが無自覚なだけであって、そこに至るまでの芝居の中や脚本の中で観客が信用できるものをきちんと打ち出しておかないといけない、という気持ちがありました。

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最後に、撮影現場におけるハラスメント対策などについて教えてください。

今回の現場に関しては、特別な講習会といったものはありませんでしたが、プロデューサーはじめ、もともとその辺りの意識のある人たちが集まっていたので、ぼくからの視点だけですが紳士的な現場だったと思います。ただ、この作品を撮ったことで自分の意識は前進し、「たまたま今回は良かった」ではダメだと感じました。なので、別の現場では撮影に入る前に、ぼくとプロデューサー、メインスタッフ、キャストで講習を受けるというのを条件にさせてもらいました。今後、自分が撮るものと現場を一致させたい、という気持ちがすごく出てきています。

あと、映画界のハラスメントには、思うところがすごくあります。その文化で育ってきた人、そのやり方で生き残った人がハラスメントを行うところを見かけます。その度に、監督がしっかりしようという話になるんですが、実際は監督であってもパワハラを受けます。非常にくだらないムラ社会の争いみたいなものがありますね。徒弟制度で育ち、しごかれて生き残った人の中には、それを周囲に求める傾向もあるんです。ただ、これらも結局は、お金のなさに直結している問題だと思うんです。

お金があればスケジュールなどの都合もついてタイトにならなくて済むため、ギスギスしないということでしょうか。

それもありますし、この業界にお金があれば、もっと若い人も入ってくる。今は予算に責任を負う立場の人が、ハラスメントしようが何しようが、現場のことを長年知っている人に任せざるを得ない、みたいな状態が少なからずあると見聞きしています。

ぼく自身の今後については、まずは自分が関わる作品で、きちんとやっていきたいという気持ちがあります。自分が顔が見える人にきちんと直接言っていきたい。ただ、監督ひとりが気を張っても難しい。やっぱり、お金と時間なんですよね。根底には、この世界の構造的な問題があると感じています。この話をするのに、あと1、2時間くらい欲しいですね。

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草野監督との話はどんどん熱を帯びて、充分もらったはずのインタビュー時間は、気がつけばあっという間に過ぎていた。そんな筆者の飛躍しがちな質問に対し、ひとつひとつ真摯に回答する草野監督の姿勢を見て、本作における「決して主語を大きくしない語り口」と通ずるものを感じた。それは、筆者がインタビュー前に本作から感じていた、似たモチーフを扱う従前の作品とは違う、良い意味での違和感を紐解くものだ。本作は、現代を生きる人々が無自覚に誰かを傷つけないための、重要な気づきを与えるものになるに違いない。分かったつもりになっている人こそ必見の一本だ。

 

取材・文:中井圭(映画解説者)
編集:おのれい
撮影:服部芽生