よりよい未来の話をしよう

戦争も日常の対立も、根本は同じ。紛争解決学・上杉勇司教授と「対話」の重要性を問い直す

現在も継続中のロシアとウクライナの戦争、イスラエルとパレスチナの戦争ーー。悲しいことに、どちらも終わる気配が見えていない。私たちが生まれてから、世界のあらゆるところで国家間の争いは起き続けているはずだが、ここまで大きく、そして長引く戦争を目の当たりにして、改めて戦争が起きている社会に生きている現状に、心を痛めている人も多いのではないだろうか。

「戦争」と聞くと、日本で生活するなかでは遠いことに感じてしまうかもしれない。しかし紛争解決学を専門とする早稲田大学・上杉勇司教授は、「同じ人間が起こしていること。私たちの日常で起きる対立と比べた場合、共通点が多い」と話す。上杉教授に、紛争解決に向け活動する専門家の仕事や、私たちが日常で経験する対立との共通点、また日常で大事にしたい視点の持ち方について、お話を伺った(※1)。

※1 補足:「戦争」は国家間が武力を用いて争うことを意味し、「紛争」はなんらかの諍い(いさかい)・対立を意味する。本稿においては、「戦争」を含む対立や諍いを広く扱うことを意図し、「紛争」という表現を用いる

上杉 勇司(うえすぎ・ゆうじ)・早稲田大学国際学術院教授
国際紛争分析の博士号 (2002 年、ケント大学)、紛争分析と解決の修士号 (1996 年、紛争分析と解決研究所、ジョージ メイソン大学) を取得。平和と紛争の研究、特に国連などの仲介者の役割に焦点を当てた研究を行う。 また、東ティモール、カンボジア、アチェ (インドネシア)、バンサモロ (フィリピン)、アフガニスタン、沖縄 で、紛争解決/平和構築の実務家としても活動。早稲田大学では、平和対話、グローバル紛争、平和構築の授業を教え、平和、紛争、安全保障、平和構築に関心のある修士および博士課程の学生を指導する。
HP:https://www.yuji-uesugi.com/
X:https://x.com/Yuji_Uesugi

紛争を平和裏に解決するため、第三者としてできることを模索する学問、「紛争解決学」

まず「紛争解決学」は、いつ生まれた学問なのでしょうか?

第二次世界大戦後に欧米諸国で生まれた学問とされています。「政治学」や「国際関係論」はもう少し前からありましたが、なかなか紛争を平和裏に解決することは難しく、「既存のやり方では駄目なのではないか?」と考えた人たちが立ち上げた学問と認識いただくと良いと思います。

国益がぶつかり合うようななかで、それまで通りのやり方では、力の強い者が弱い者を力でねじ伏せるような形になってしまう。国際法というものもありますが、守られない状況も生まれてしまうなかで、「何か他の道はないのか?」と考えたところが起源です。

1960年代後半から1970年にかけて欧米で体系的に整備された比較的新しい学問のため、日本では「紛争解決学」という名前の認知度は高くないと思います。アメリカやイギリスにおいても、伝統的な「国際関係論」や「国際政治学」と比べると、認知度が低いと言えるかもしれません。

具体的に、どのようなことを研究する学問なのですか?

既存の学問では、国益を中心に考えたり、軍事力や経済力のパターンを前提に考えていくのが定石なのですが、紛争解決学はそこに疑問を投げかけるような学問です。

大きく分けると、「紛争はなぜ起こるのか?」という原因を追求する部分と、「紛争はどうしたら解決できるのか?」という解決アプローチを考える部分の2つがあります。私は後者のうち、紛争中の人たちの間に第三者として入り、仲裁する部分に関心があり、この分野に進みました。

人間はどういうときに、暴力を振るってでも“あるもの”を守ろうするのか?と考えたとき、「すごく大切なものが脅かされたり、人間としての尊厳を維持するために不可欠なものを奪われたりするようなときにそれが起こる」という理論があります。捉え方を変えれば、大切なものを守る、あるいは大切なものを維持できるようなやり方を、第三者として提案できれば、戦争は止まるんじゃないか?とも考えられます。その前提に立って研究をしている分野になります。

紛争解決学について、身近な例を交え紹介する上杉勇司教授の著書、『どうすれば争いを止められるのか 17歳からの紛争解決学』(2023年、WAVE出版)

「第三者として仲裁する」というと、どんなアプローチになるのでしょう?

仲裁者にもいろいろなパターンがあり、有名な政治家が仲裁する場合もあれば、国際司法裁判所のような裁判機関が関わる場合、国連機関が担う場合もあります。

アプローチとしては、当事者たちが話し合う「場を提供する」ということが1つあります。いまのロシアとウクライナの戦争を例にとると、和平交渉や停戦交渉する「場」自体を提供したり、あるいは同じ場所に集まれない場合には、仲裁者の人がまずウクライナで話を聞き、次にロシアに行って話を聞き…といった形で、その人自身が双方の考えの仲介を担う場合もあります。

また、当事者同士に感情のもつれのある中で、仲裁者が聞き役として会話をより建設的なものにする手伝いをするときもあります。双方の意見を聞いた上で、「それならこういう結論がいいんじゃないか」とより具体的な解決方策について提案するケースもありますが、お互いが建設的に話す「場」の設定さえすれば、中身にほとんど口を出さないケースもあります。それぞれの特性と長所をうまく噛み合わせながら、適切なアプローチを考えて対応しています。

さらに言うと、仲裁者は完全に中立を保つ場合もありますが、そうではない場合もあります。イスラエルとパレスチナの関係でいうと、アメリカはイスラエルに近い国ではありますが、1992年のオスロ合意(※2)ではアメリカが仲介して、イスラエルとPLO(パレスチナ解放機構)の仲裁を行いました。イスラエルに近いからこそ説得ができたり、アメリカという大きな力を持つ国が間に入ることで、合意を守りやすい環境を作り出せることもあります。

取材中の上杉教授

いま挙げていただいた仲裁者は、「国」や「国際機関」など大きな立場だと思いますが、たとえば民間組織や個人が仲裁者的な役割を担うこともあるのでしょうか?

あります。たとえばインドネシアでは、アチェという民族が分離独立を求め、インドネシア政府と内戦が続いていました。2005年にスマトラ島沖地震が起きた際、多くの方が命の危機に晒され、内戦どころではないと停戦の機運が高まり和平合意に至りました。その際の対話の場や関係性作りに、インドネシアで仕事をしていたフィンランドのビジネスマンが一役買ったとされています。

北欧にいた反政府勢力の上層部とは、北欧の地で話をつけるよう働きかけ、自身はインドネシアのネットワークを使ってインドネシア政府にアプローチをするなど、根回しに動いたようです。もちろん、1人のビジネスマンとしてやれることには限りがあるので、ある程度話ができる状況になったところでフィンランドの元大統領に引き継ぎ、和平合意に至りました。この例からも分かるように、ビジネスマンでも双方にしっかりとしたネットワークを築くことができれば、仲裁者の役割は果たせると思います。

日本でも、日本人初の国連職員でおられる明石康さんが、国連退職後スリランカの反政府勢力と政府間の和平交渉のため、特別特使という形で日本政府に個人指名され、和平合意を結ぶ手伝いをされた例もあります。また、ミャンマーの内戦において、日本財団の笹川陽平会長が日本政府から任命され、反政府勢力との和平交渉の場作りを続けています。

その他にも、よりミクロなレベルの調停も日々行われています。たとえば、人道支援を届けるに当たって、政府側と反政府側両方の許諾を得るなど、限定的な合意を得ることも仲裁者ができることです。NGO国境なき医師団は、現場レベルで反政府勢力やテロリストと話をつけ、「どちらの側の負傷した人たちも、あるいは民族に隔たりなく、傷ついた人を助ける病院を作る」といった活動を続けています。

※2 参考:1993年、イスラエルとパレスチナが結んだ合意。イスラエル軍は占領地のヨルダン川西岸やガザ地区から撤退し、パレスチナが暫定的な自治を始めるという内容で、両国の共存を恒久的な和平合意に向けた大きな布石とされていた

東ティモールで、ギャングの思いを聞き、関係者を巻き込んだ現地での経験

上杉教授ご自身も、「仲裁者」として実務に携わられたご経験があると伺いました。ぜひご経験談も伺いたいです。

過去経験したものでは、紛争地に直接赴く場合と、日本に来てもらい対話の場作りをする場合の2通りがありました。

後者でいうと、東ティモールで治安上の問題があったときに、紛争予防に関わる国の役人、揉めごとが起きている村の村長さん、揉めごとを起こしている若者ギャングのリーダーに日本に来てもらい、研修という名目で対話の場を作ったことがあります。

東ティモールでは、“ギャング”と呼ばれる人たちが縄張り争いをしていました。ギャングのリーダーを対話の場に誘っても、もちろんなかなか来てくれません。どう進めるのかを考え、色々な人脈を通じてギャングやリーダーに会いに行き、「こういう趣旨でこんなことをやろうとしてるんだけど…」と説明していくなど、根回しもしました。

その中でいろいろ話を聞いていくうちに、「トラブルメーカーのように言われているけど、自分たちだって出身の村に貢献したい。でも学校卒業後は仕事もなければ結婚もできない」という思いを聞くことができました。

若い男性にとって、すごくムカムカする社会であることが分かったんです。その憂さ晴らしをするようにギャング組織に入ってしまう。また、誰だって道端で暴力団に絡まれたら嫌じゃないですか。他の暴力団に入っておけば、バックに組がついているので無闇に絡まれない。それと同じで、みんな「自分の身の安全」のためとか、「学校を出た後に所属するコミュニティが欲しい」くらいの気持ちでギャング組織に入っている人も多くて。

そういう話を聞くなかで、「彼らはどうしたら『安心』を感じられるのか?」「地域のために自分たちも活躍できているんだ!と思えるような場は作れないだろうか?」という考えが生まれるわけです。そういう思いを持って村長さんや政府に話をし、若者をどう一緒に巻き込んでいったらいいのかを考えながら、「対話の場には誰に来てもらうべきか」を考えていきました。

以前、ソマリアでテロリストの更生をサポートするNPO法人アクセプト・インターナショナル代表の永井陽右さんにお話を伺ったことがあります。その際にも、対話の重要性と難しさを痛感しました。

一番難しいのは、「対話は必要ない」「自分たちは譲歩する気はない」と言っている人たちに、どうやって対話の場に来てもらうかです。彼らにとってもメリットがあると感じてもらう必要がある。そうなると、たとえば国外に出たことがない人にとっては、「日本のお金で日本にいける」というだけでも、インセンティブになるかもしれません。何らかの形で魅力を感じてもらえるよう工夫はしました。

また、「平和のための対話」のようなタイトルで人を集めようとしても、現地の人からすると「いまが平和ではないみたい」とネガティブに捉えられる場合もあります。「コミュニティが協力するために、どんなことをするべきか?」とタイトルを工夫するなどしたこともありました。

東ティモールのケースでも、若いギャングのリーダーは、村長さんや政府の役人などそれまで敵対していた人と一緒に日本に来て、「同じ東ティモール人」として語られ、同じ釜の飯を食う体験をしたことで、結構仲良くなって帰っていたんですよね。その場では和平交渉はしませんでしたが、自国に戻って一緒にやっていこうね、といった意識は作れて、有意義だったと思います。

▼ソマリアの若いテロリストの更生に取り組む、永井陽右さんのインタビューはこちら

国際紛争も「人間が起こしていること」。日常の対立と、根本は変わらない

お話を聞いていると、諍いのあるグループ同士が、ちょっと違う環境で話すと親しくなれるというのは、学校や会社など私たちの日常生活の中でも容易に想像がつくように思います。

そうなんです。たとえば学校のグループ同士で対立があり、お互い敵対視している間は、同じグループのメンバーもいる手前、敵対姿勢を保つしかないと思います。でももし他のメンバーがいないなかで、敵対グループのメンバーと1対1で話し合う場所があれば、相手への理解が深まることもありますよね。あえて第三者が場を作り話すというのは、紛争地だけじゃなく、日本国内の様々な環境で通じるものがあると思います。

国際紛争と言うと、「自分とは全然関係がないもの」と思う人も多いかもしれませんが、実際に紛争を起こしている人たちは人間です。「人間が起こしていること」と考えると、根本的な部分ではあまり変わらないと思うんですよね。

日常生活で起きる諍いや対立と、根本的には同じ、ということなんですね。

逆に違うところを話すと、国際紛争の要因としてよくある「宗教対立」というのは、日本人には分かりにくいかもしれません。また「軍事力があるかどうか」という部分も、日常の対立とは大きく違うところです。でも、それを除いてしまえば、かなりの部分は近いのではないかと思います。

人間は仲間が欲しい生き物で、一人になることを恐れ、自分を集団に置くことで守ってもらえる感覚を持ちます。また、少数派は自分の権利を主張しづらいところがあるので、多数派でいる状況にすごく安心感を覚えます。だから多くの人は、自分の意見を殺して多数派に同調し、自分も仲間になることで恩恵を受けようとしていると思うんです。それはどこの社会でも同じで、多数派と少し違った考えを持つ少数派の人たちが、彼らの大事にしている価値観が押し潰されそうになったときに、反旗を翻すんですよ。

そうなったときに、多数派が力ずくで少数派を押さえ込む形もあれば、少数派の意見を聞き、彼らとの共存の道を探る形もあります。「原発に賛成・反対」「米軍基地は必要・不要」など、国内でも様々な対立がありますが、多数派と少数派に分かれたとき、「民主主義なんだから、少数意見は黙っとけ」という姿勢をどんどん積み重ねていったら、少数派の人たちにとって、住みやすい社会ではなくなってしまいますよね。

我々は民主主義システムのなかで生活していますが、「少数派の意見をいかに組み込んで、彼らもハッピーになってもらえるような社会をどう作っていくのか?」ということは、我々全員にとって重要なテーマだと思います。その際にも、対話の重要性を改めてお伝えしたいですね。

▼過去早稲田大学で実施された対話の重要性に関するセミナーに、上杉先生とともに登壇された沖縄の平和教育ファシリテーター・狩俣日姫さんのインタビューはこちら

民主主義社会の中でこそ、意識して「対話」を重ねることが重要だと感じました。

我々は「常識」という名の偏見にまみれているんですよ。社会の中で、いちいち前提を確認してコミュニケーションをとるのは大変じゃないですか。なのである程度スムーズに意思疎通を図るために「常識」があるわけです。

ただ、必ずしも全ての人がその「常識」を共有してるかというと、違う場合もある。多民族の社会や、多宗教の社会がそうです。日本はどちらかというと単一グループとされがちで、「常識」ってみんなが共有しているものだと思いがちだけれども、そうでないと理解することが大切だと感じます。

対立があったときに、自分の常識で、あるいは自分の考え方や視点でのみ相手の行動を考えるのはよろしくなくて、相手は別の理由で憤っているのかもしれないし、別な観点で異議を唱えているかもしれない。「同じ人間でも違う見方をしているかもしれない」ということを理解するために、必要なのが「対話」なのだ、ということを強調したいですね。

怒りや違和感、モヤモヤを感じたときこそ、自分の価値観に向き合うチャンス

相手と前提が違うかもしれないと認識し、相手の発言の背景や根本にある考えを知ろうとする態度が重要ですよね。とはいえ、日頃常に意識できているかというと、私自身もまだまだできていないかもしれません。

対話の重要性って、自分と考え方が違う人と話してこそ、価値あるものになると思います。一方で、たとえばいまの日本の学校は多様性に欠き、違う価値観と出合うことが難しいと思います。私はいま、早稲田大学の国際教養学部で教えていますが、色々な国から学生が来ているので意見の違いが教室の中でぶつかり合います。これにすごく価値があると思っています。

私は、誰かが何か言ったとき、何かしたときに、「え?おかしくない?」とか「モヤモヤする…」とか、相手を理解しがたい、怒りや悲しみといった感情が芽生えたときこそ、自分の価値観を再確認するチャンスだと思っています。

ある意見に対して自分がイラっとしたなら、「あれ、なんでいまイラッとしたんだろう?」と考えると、「自分はこういうことが重要だと思っていて、こういう見方はよくないと思っているんだな」と再確認できます。対話は、単に問題解決のためだけじゃなく、自分自身の理解にも繋がると思うんです。

そのときに、自分のネガティブな感情を、よりメタ的に見ることもすごく重要です。感情に支配されてしまって、イラっとしたことに対し感情を出していったら、状況は悪化するだけです。まずイラっとした自分を理解して、「なぜそうなったのか?」を認識した上で、ワンクッションおいて相手に向き合う。「相手の真意は私が理解したものと同じなのだろうか?いや、別の理由があるのか?」と確かめ合うためにも、感情に支配されないことが対話の重要な点だと思います。

「感情に支配されない」というのは、とても重要な視点だなと思いました。最後に、先生のように紛争解決に実際に携わりたい、と考える人がいた場合、どんな準備ができるでしょうか。

まず、知識はないよりもある方がいいので、大学や大学院で紛争解決に関する専門的なことを学ぶことは、メリットになると思います。ただ、知識は実際に使わないと活きません。イスラエルとパレスチナの紛争を解決したいと思っても、「いま、学生の私ができることはない…」と思い何十年後のチャンスを待ってしまっては、もったいないと思います。たとえば友達同士で諍いがあったときに、仲裁を試してみる、というのはおすすめです。友人の仲裁ができない人に、イスラエルとパレスチナの仲裁は難しいと思います。

あるいは、たとえばクラスにいじめられている子がいたときに、どう対応したらいいのかを考えてみる。自分は学級委員長じゃない場合でも、自分の立場でどのようにクラスのみんなをまとめる貢献ができるのか?など、問題意識を持って学んだことを実践していくといいと思います。

また、部活動やアルバイトもいい訓練の機会です。私はずっとスポーツをやってきましたが、チームメイトとどのように共通の目標をすり合わせていくか、目標がずれてたときにどう目線を揃えていくかなどを考える良い機会になりました。

アルバイトでも、店長と副店長の仲が悪い状況で、いちバイトとしてどう行動するとみんなの関係性が良くなり、日々のバイトが楽しくなるか?など、考えられることはあると思います。日常生活における自分の周りの人とのコミュニケーションや、所属する組織やグループとの関わりのなかで、日々使えるスキルを磨いておくと、異なった次元・レベルに到達したときにもすごく有益になります。

本当に日常の、毎日の過ごし方と繋がるお話ですね。

たとえばアフガニスタンで、イスラム主義勢力・タリバンと話をすると想定しても、基本は「相手は人間だ」と考え、「何を欲しているのだろう?どうしたら交渉の場に来てくれて、どう話をしたら譲歩してくれるんだろうか?」と考えを巡らすことになります。これって、極論を言ってしまえば、自分のお父さんやお母さんを説得することとも近しい状況なのではないでしょうか。日常で取っている行動と、紛争解決に必要な行動も、人間に向き合うという点では、変わらないんですよね。

第三者として仲裁するのではなく、仮に自分が諍いの当事者になった場合、必要と考える心構えも伺いたいです。

自分が当事者になってしまったときは、自分が変わる心づもりがない限り、いくら対話を試みても対話にはなりません。「自分はこう思っていて、譲る気はない!」と互いに考えているのでは、ぶつかり合うばかりです。

そういうときには、「第3の道」を見つけなきゃいけない。そのためには自分もオープンマインドでいて、より良い道を探せるように、「自分が変わる」という心づもりが必要だと思います。

▼他の記事もチェック!

さまざまな立場の人が共存する社会を作っていくために

「戦争」や「国際紛争」と聞くと、遠いことのように聞こえるかもしれない。しかし上杉教授のお話を聞いて、根本の部分は私たちの日常の対立と大きな相違はなく、それらは「日常の延長線上」にあると言っても過言ではないと感じた。対話の重要性はさまざまなところで叫ばれているが、実際に紛争地の課題解決に携わった経験のある上杉教授のお話を通じて、「どうして、どのように重要なのか」という解像度がぐっと上がるのではないだろうか。

少数派が追いやられる社会ではなく、共存していく社会を目指すために「感情に支配されずに対話を心がける」。私たちの日々の生活の中でも、強く意識していきたいものだ。

 

取材・文:大沼芙実子
編集:柴崎真直