前回の斎藤幸平先生とのやり取りをずっと考えている。彼の「脱成長」志向テーゼは極めて興味深いもので、そしてやはりというべきか、困難だ。もちろん彼自身、その困難さについて自著で述べているが、基本的に、社会を構成する全員が明日からワンランク上のレベルで思考する必要がある感じなのがキツい。
「社会の寿命が延びる」という以上に、何か即効性のある分かりやすいインセンティブが皆にとって必要だろう。たとえば「脱成長イズムにシンクロすると気持ちよくなる」的な何かを導入すれば…。
…と書いてみて、ああっ、これは薬物で手なずけるやり口と一緒で良くないなぁ、と気づいてしまう。困ったものだ。
「誰か」の切り捨てを前提として成立する資本主義システム
そういえば斎藤幸平先生の考え方にはひとつ、重要な前提があった。それは、脱成長主義が「皆がまともな形で生き延びるため」のものだ、ということ。
この前提が無くなれば、ハードルは大幅に下がる。
ある程度の人間グループの淘汰・切り捨てを前提とする方針ならば、「悪しき」資本主義システムを崩さずに世界は進んでいける。異常気象や環境変化や社会的騒乱で多くの人々が死ぬとしても、死に絶えなければ、一定数が守られていれば、それは持続でしょ、という考え方が発生しうる。
いや、既に発生して進行しているかもしれない。特定のグループに属する人間の切り捨てスキームが社会の随所にて、いろいろな形で整備されつつあるのは、その分かりやすいサインと言えるだろう。
すなわち、次第に小さくなってゆく「生存権」のパイの奪い合いを、人類は「持続」の道として選んでしまうだろう、というのが私の考えだ。それを論理的に肯定・正当化するような言説が、今後いろいろな形でプロデュースされ、大量に湧いてくると思われる。
おぞましい「地獄システム」を受け入れる未来
おぞましい話だ。しかし、みな次第に慣れていくだろう。抑圧され、滅びが決定づけられた層の人びとも含めて。ナチの強制/絶滅収容所の活動サイクルの実態を見れば、そのへんの心理作用というものがよく分かる。地獄システムに本当についていけない人間というのは、実は少数なのだ。
たとえばフランツ・カフカ(※)のような。その意味で彼が、自らの同胞たちが被った歴史的悲劇を、そしてその子孫たちが「生存」の名目で行った殺戮を目にすることなく逝ったのは、ある意味幸運だったかもしれない。彼は病気で早逝したけれど、あと20年も生きていれば、ほぼ確実に死の収容所送りになったと思われるので。
そんなわけで残念ながら、「2024年に自然死しといて、あの人は幸運だったねぇ」みたいな懐古が今後増えていくことだろう。
※補足:フランツ・カフカ(1883-1924)は『変身』などを代表作とする作家。オーストリア=ハンガリー帝国領のプラハ(現在のチェコ)で、ユダヤ人の商家に生まれた。ナチスドイツによるユダヤ人迫害が起こる前の1924年に、41才の若さで逝去している。
価値観が変わらない社会の延長にあるのは、喜んで手を挙げる「奴隷システム」
たとえば昨今の政治的潮流の中心にあるのはポピュリズムで、そこにはだいたい自国民ファースト的なベクトルが存在する。あれは要するに「われらこそ生き残り組!」という選別アピールみたいなものと言えるだろう。
しかし本能ベースによるムーブという面が強いため、実際には、真に生き残るための緻密さと思慮深さに欠けている。「自国民だけ偉いぜ!」的なシステムを構築しようとして、持続可能な強国が成立するわけがない。そう、単なる身内血縁アゲ的なマインドは、社会システムの永続的稼働と相性が悪いのだ。
社会システムの再構築がどのようになされるのか…。
政治なのか、世界戦争なのか。地域紛争なのか、カルト思想なのか。それともその複合なのか…。
それらは不明で、その落ち着きどころが地産地消的生活サイクルと親和性の高い城塞都市っぽい形態になるのか、あるいは現在と同様の遠距離交易システムを駆使するフレキシブルな形態になるのかも分からないが、わりと確度をもって予見できる点がひとつある。
それは、新時代の覇権システムが、巧妙で新しい形の奴隷制になるだろうということだ。ぶっちゃけ、万民平等の権利を保障する市民社会は、たぶんエネルギー効率が悪い。先細りの環境リソースを最大効率で活用するためにも、「生活習慣や価値観を根底から変えない限り」奴隷システムの導入は不可欠だ。
そしてもうひとつ。その新社会システムは、奴隷の側からみて魅力的な、誰でも進んで奴隷になりたがるような特質を備えているだろう。それでこそ、万事が先細りな地球環境にあって、持続可能性を最大にした社会が成立するのだ。
エネルギー効率の観点から、『マトリックス』が現実になりうる
「いや、そんなシステムは観念的にも物理的にもありえない…」と思うかもしれない。しかし、これに近い有名なサンプルがある。映画『マトリックス』で、主人公キアヌ・リーヴスが覚醒する前にどっぷり漬かっていた、「仮想現実しか存在しない」マトリックス・システムである。実際、知人のクリエイターの数人は、あれこそが実際、人間文明が不可避的に墜ちなければならない極上の地獄なんですよ、と述べている。私はそれに抗する言葉を知らない。
あの作品は人間「存在」の本源的な価値の確認がテーマであり、情報場の威力に歯向かってその価値性を奪還する戦いの物語であって、人間社会にとってのエネルギー効率の最適化という観点からはまるで議論されてこなかったと思う。しかしいま、そのときが来てしまったのだ。製作者のそもそもの意図と理想とその他サムシングは、ある意味、物心に余裕のある時代の美しい思い出にすぎない、とみることも可能だろう。
いつか、大々的な予算と広告を背景に、『マトリックス』と同じ設定で、メッセージ性だけが真逆の新作映画が登場したら、それは堂々たる「方針」の予告なのだと思う。
さて、それはいつ襲来するのか…?
マライ・メントライン
1983年ドイツ北部の港町・キール生まれ。幼い頃より日本に興味を持ち、姫路飾西高校、早稲田大学に留学。ドイツ・ボン大学では日本学を学び、卒業後の2008年から日本で生活を始める。NHK教育テレビの語学講座番組『テレビでドイツ語』に出演したことをきっかけに、翻訳や通訳などの仕事を始める。2015年末からドイツ公共放送の東京支局プロデューサーを務めるほか、テレビ番組へのコメンテーター出演、著述、番組制作と幅広く仕事を展開しており「職業はドイツ人」を自称する。近著に池上彰さん、増田ユリヤさんとの共著『本音で対論!いまどきの「ドイツ」と「日本」』(PHP研究所)がある。
https://x.com/marei_de_pon
寄稿:マライ・メントライン
編集:大沼芙実子
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