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【大島育宙のドラマ時評】海のはじまり論(前編)「月9ドラマの革命児が描く生と死」

『海のはじまり』(フジテレビ系、2024年)が月9ドラマに革命を起こし続けている。『silent』(フジテレビ系、2022年)『いちばんすきな花』(フジテレビ系、2023年)の生方美久によるオリジナル脚本に加え、スタッフが再結集していることもあり、連ドラ三作目の放送中にして早くも「生方ドラマ」というブランドが確立されている。

1話ごとにテーマや論点が少しずつ隣へ広がってゆき、最終的には開かれた人間観・コミュニケーション観が残る、というのがこれまでの生方作品に共通する構成だが、『海のはじまり』は7話にして1つ大きく異質な核が、ごろん、と切り出された。「父性」というテーマだ。

テレビドラマが描いてきた「恋愛」のあれこれ

28歳の青年・月岡夏(目黒蓮)は大学時代に別れた恋人・南雲水季(古川琴音)の葬儀で、彼女には海(泉谷星奈)という7歳になる娘がいたことを初めて知る。その娘は、妊娠を知らされるも水季に押し切られる形で中絶したと思っていた娘だった、という第1話だ。

この導入だけでもう、既成の月9ドラマのイメージを何段階にもひっくり返している。

月9=恋愛ドラマというブランドは日本のドラマ業界、ひいてはテレビ業界が俳優、脚本家のイメージだけでなく、視聴者との共同作業で築き上げてきた財産だ。月曜の夜には街から若者(当時は「女性」とか「OL」という言い方だったが)が消える、と言われたほどに「月曜の夜にフジテレビの恋愛ドラマを観る」という視聴習慣は国民的だった。

月9という枠の斜陽については様々な角度からの考察ができるが、ここでは簡単に済ませる。恋愛観やジェンダー観の多様化に加え、何次にも亘る韓流ブームの成果で、異性愛を前提にした大味でフルスイングな恋愛ドラマはNetflixなどの配信サービスで大量供給され、お株を奪われた感もある。数百万〜数千万人が同時に「二人」とか「三人」の個人的な恋愛を、同じような気持ちで、毎シーズン見守るのが難しい時代なのは間違いない。

テレビドラマという限られた世界の中で、10時間くらいで完結する「恋愛」のあれこれ。地上波ドラマでの「性愛」の扱われ方は極端だ。「そんなような関係まで行きました」「一晩を共にしたので具体は想像にお任せします」とタブーとして脱臭されるか、「大胆なセックス・シーン」として虚飾(きょしょく)の目玉になるか。

しかしいずれの場合も、現実のセックスに伴うその後の影響は描かれない。異性愛者間の恋愛からのセックスという流れの先には妊娠の可能性がある。その可能性をいちいち厳密に意識してたら瞬間瞬間の恋愛を楽しめないじゃないか、というあっけらかんとした大義名分か、もしくはただの不検討によって「恋愛」「セックス」の時に「妊娠」について考える責任を免れてきたファンタジーがテレビドラマだった。

そこに来て「恋愛」というポップなはずのエンタメジャンルの囲いを外し、シャレの効かない「人生」に接続してしまったのが『海のはじまり』だ。

泉谷星奈演じる・南雲海 ©フジテレビ

生方氏が『海のはじまり』を通して伝えたいこと

脚本の生方美久氏は助産師・看護師として働いてきた立場から、このドラマを通して明確に伝えたいことの1つは「避妊具の避妊率は100%ではないということと語っている。(※1)予期せぬ妊娠をするなんて、だらしないカップルだ、という世間の目は誤解に基づく偏見だ、と言える。そしてその視線の責めの多くはなぜだか女性に向けられる。なぜなのか。

水季は葛藤した末に「夏に選択肢を与える」ための決断として独特な選択に踏み切る。そして不器用で肉親にも頼れないシングルマザーとして経済的にも時間的にも追い詰められていく。「予期せぬ妊娠をするなんてだらしない」という硬直的な感想の先には「子育ての恵まれた環境を整えられていないのに産むなんて無責任だ」という論が待っている。

しかし、『海のはじまり』というドラマはそうは言わない。「子どもを育てる体制と覚悟が整った状態でなければ、妊娠の可能性のある男女は慎重に避妊をしてもセックスをするべきではない」というのはやはり極論だ。このドラマが描きたいのはあくまで、その上での責任の分担についてだ。

※1 引用:GINGER「〈特別取材〉目黒蓮・主演「海のはじまり」の脚本家・生方美久が今作で‟伝えたいこと”はふたつ」
https://gingerweb.jp/timeless/person/article/20240627-interview-16

あらゆる命のはじまりと終わりは偶然

1話で水季は妊娠を「事故」と口走り、「言い方よくないか」と慌てて撤回する。「事故」と聞くと不幸な出来事が偶然に発生し、防げなかったことを指すような印象を受けるが、事故的に良いことが起きることもある、と考えればここでの水季の発言も一概に不用意とは言えない。

むしろ、このドラマ全体を包む死生観は「どこまで行っても、あらゆる命のはじまりと終わりは偶然である」ということに思える。実際、7話で水季は語る。「いつ死ぬかは、選べない。生まれるのも、死ぬのも、選べない」。

水季はガンの治療よりも娘・海と過ごす時間を優先し、早逝した。7話では水季の四十九日が描かれる。

これまでのテレビドラマで恋愛と死が絡むことがなかったわけではない。が、悲恋や乗り越えるべき過去のトラウマとしての喪った恋人、というテンプレートに留まっていた。『海のはじまり』の特殊さはここにもある。

1話の時制で既に帰らぬ人となっていた水季の存在感が、ドラマ折り返し地点を越えた7話でも、変わらず現在的なのだ。夏と水季が出逢った大学時代と、約10年後の現在を往還する構成、古川琴音のエネルギッシュなキャラクターも相まって、水季という不思議な人物は死者なのに死者という印象が薄い。このドラマは亡きキャラクターである水季を「死者」として過去に、あの世に、簡単には解放しない。

海と手を繋ぐ、古川琴音演じる・南雲水季 ©フジテレビ

ドラマ全体を覆う「生死二元論」への懐疑

水季を死の世界に解放しない意思は、セリフにも表れる。みんな、水季を現在形で語るのだ。

5話では水季の母・朱音(大竹しのぶ)が生前の口癖について「すぐ言うの」と水季がまだ生きているかのように言う。6話では夏が水季の同僚だった津野(池松壮亮)に「水季、いつからここで働いてるんですか」と、あたかも水季が今も働いているかのように尋ねる。

単に「水季の死を受け入れられない」という感傷的なセリフではない。「生」や「命」だけが明るく、形があり、人の手によりコントロールされたものであり、「死」は暗く、得体の知れない、人間とは断絶された何かだ、という生死二元論とでも言うべき安心・安全な世界観を疑うムードがドラマ全体に漂う。

目黒蓮演じる・月岡夏(左)と池松壮亮演じる・津野晴明(右) ©フジテレビ

1話冒頭で水季と海が、画角いっぱいに映し出された海原の水面を前に「海ってどこから始まるの」という親子らしい無邪気な問答をする。ここでの風景としての海は大いなる命の象徴でもあり、やがて全ての命が帰っていく黄泉の象徴でもある。生の象徴でも死の象徴でもある、大きく、決して鮮やかな青ではない、銀色に輝く海の水面を前にして、命には始まりも終わりもない、生と死は繋がっている、という印象が観る者に刻み込まれる。

海の父になる練習として水季の実家に寝泊まりすることになった夏に割り当てられたのは、水季の部屋だった。夏は水季と海が二人暮らししていた空き部屋を訪ね、大家(岩松了)から生前の暮らしぶりを知らされる。死者の部屋で眠り、死者の部屋の窓を開けるという儀式的な場面が続く。あまりにも丁寧に死と向き合うドラマだ。

6話では生前の水季が母・朱音に、母の立場・役割は「いつ終わるの?」と尋ね「死んでも終わらない」と断言される。これは1話で海から夏へ投げられた「夏くんのパパ、いつ始まるの?」という問いへのアンサーでもある。死ごときでは切れない命同士の繋がり。死の断絶よりも、生のしがらみの方が強い。このドラマはそう簡単に水季を死なせてくれない。

「血縁ファシズム」「異性愛ファシズム」へのレジスタンス

夏の今の恋人・弥生(有村架純)も、妊娠するも周囲の非協力に流されて中絶した過去がある。主人公・夏が進む道を一歩先に経験してきた津野は「母性」という言葉について、生前の水季と現在の弥生から同じようにたしなめられる。「母性」は美化され濫用されるのに対し、一応対義語なはずの「父性」はほとんど使われない。性別によって「親らしさ」が勝手に分類・定義されていることへの違和感。

大袈裟に言えば、「血縁ファシズム」「異性愛ファシズム」へのレジスタンスだと思う。母になる性別であれば血縁の子への愛が社会から義務として要請され、模範的な愛情や態度を実現できないと猛烈に非難される。家族のあり方が現実にはどんどん多様化しているのに、やっぱり、「男と女が恋愛し、結婚し、血の繋がった子を持つ」という多数派の経験が大きな声を持ち、「理想像」として次の世代をしっかり圧迫する。

「普通の家庭」「普通の親子」の生存性バイアスが「『好きなタイプは家族を大切にする人です』っていうアレ(弥生のセリフ)」として個人の自由を時代遅れに追い込む。その前提には「男女の恋愛」が家庭を作る、という男女二元論もあるので、異性愛ファシズムと血縁ファシズムは強固に繋がっている。

男女は平等であるべきだが、男女は平等ではないし、左右対称でもない。男女が平等であるべきだ、という建前の下に、女性が優遇されている箇所を部分的に切り取り、拡大解釈し、あげつらう手順が、どうしても女性に生きづらくいてほしい思想の持ち主たちのなかでは定着してしまった。その詭弁を笑い飛ばし覆せるほど、社会の平均的なリテラシーや関心は、弱い立場に置かれた人には向いていない。じゃあ、命のはじまりについてはどうだろうか。自分の肉体に大きな負担をかけて出産する女性に対し、男性は何ができるのか。

できることは少ない。その割に、できることは少ない、という言い訳で逃げ切ろうとしすぎてはいないか。5話での母(西田尚美)からの夏への厳しい説教は、それまでドラマを甘い目で見続けてきた男性視聴者全体へのクリティカルで効果的な説教であった。

有村架純演じる・百瀬弥生 ©フジテレビ

『海のはじまり』以前、以後に分かれる「夏の海の恋愛ドラマ」の歴史

第1子出生時の父母の平均年齢は現在、30歳過ぎだ。その時点できっと、生理を経験してきた女性よりも、男性の当事者意識はどう頑張っても20年近く遅れている可能性が高い。このどうしようもなく妊娠への理解が遅れる側のジェンダーである「男」の声が大きい社会が、なぜいまだに続いているのか。母になると美容院に行きづらくなる、という、社会が女性に求めるケアと母らしさの不均衡、という主題に、どれほどの男たちがこのドラマなくして気づけただろうか。伝統的に恋愛の匂いが馴染んできたドラマ枠で、そんな射程の広い問いを投げかけている。

男性中心主義の社会が変化を嫌い、面倒ごとを包み隠して思考停止するために「母性」が都合よく使われてきたんじゃないか。そんなところまで月9ドラマで行ってしまうなんて。間違いなく、「夏の海の恋愛ドラマ」の歴史は『海のはじまり』以前、以後に分かれる。

もっと言えば、ジャンルの解体だけでなく、ジャンルの統合にも挑み、達成している。恋愛ドラマでもありながら、見応えのあるホームドラマでもあるからだ。密接な人間関係の入り口を描く「恋愛ドラマ」と、共同体の持続を描く「ホームドラマ」。そんな2つの、血縁があるのかないのかわからないジャンルが、このドラマの両親だ。そんな両親と独特な緊張関係を持った子のようなドラマが『海のはじまり』だ。

月9ドラマ『海のはじまり』フジテレビ系毎週月曜よる9時放送
動画配信サービス「FOD」にて最新話まで配信中
▶FOD:https://fod.fujitv.co.jp/title/3026/

 

大島育宙(おおしま・やすおき)
1992年生。東京大学法学部卒業。テレビ、ラジオ、YouTube、Podcastでエンタメ時評を展開する。2017年、お笑いコンビ「XXCLUB(チョメチョメクラブ)」でデビュー。フジテレビ「週刊フジテレビ批評」にコメンテーターとしてレギュラー出演中。Eテレ「太田光のつぶやき英語」では毎週映画監督などへの英語インタビューを担当。「5時に夢中!」「バラいろダンディ」他にコメンテーターとして不定期出演。J-WAVE「GRAND MARQUEE」水曜コラム、TBSラジオ「こねくと!」月曜月1レギュラーで映画・ドラマの紹介を担当。

 

寄稿:大島育宙
編集:吉岡葵
写真提供:©フジテレビ