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矢田部吉彦|2024年ベネチア映画祭受賞作紹介【世界と私をつなぐ映画】

2024年のベネチア映画祭が9月7日に幕を閉じた。かつては話題作の数でカンヌ映画祭の後塵を拝したこともあったベネチアだけれども、近年では米アカデミー賞に向けた前哨戦の皮切りを果たす映画祭として存在感を増している。『ラ・ラ・ランド』(16)、『ジョーカー』(19)、『ノマドランド』(20)といった作品はベネチアでワールドプレミアされ、そのまま翌年春のアカデミー賞まで評価と勢いを継続させた例だ。ベネチアの作品に注目することで、その年の後半の話題作が見つかる構図になっている。

とはいえ、もちろんアカデミー賞を狙う華やかな作品ばかりを集めているわけではなく、個性的な監督による作品の紹介や、新鋭の発掘にも余念が無い。メインのコンペティション部門に加え、第2コンペ的な「オリゾンティ」部門や、平行部門の「ベニス・ディズ」や「批評家週間」部門など、さすがメジャー映画祭の一角を占めるベネチアは、作品数も非常に多い。

ここでは、2024年のベネチアで受賞した作品のいくつかを紹介してみたい。

金獅子賞はスペインの大物監督作品

ベネチア映画祭ではシンボル・マスコットのライオンにちなんで、コンペティション部門の最高賞を「金獅子賞(Golden Lion)」と呼んでいる。もともとベネチア市の守護聖人が聖マルコで、聖マルコを表すライオンがベネチア市の象徴になったというのが由来であるらしい。

その金獅子賞を2024年に掲げたのが、スペインの巨匠、ペドロ・アルモドバル監督による『The Room Next Door』だ。40年を越えるキャリアと数々の名作を誇る名匠中の名匠が、75歳にして最高クオリティーを更新した。驚きの作品である。

物語は、人気作家であるイングリッドが、旧友のマルタが末期ガンであると第三者から知らされる場面から始まる。入院中のマルタをイングリッドは訪ね、ふたりは旧交を温める。戦場ジャーナリストだったマルタはタフな面を見せるが、病気の進行は如何ともしがたく、イングリッドの見舞いを何よりも喜ぶ。やがて、マルタはある重大な相談をイングリッドに持ちかける。

アルモドバルは、初期の作品から鮮やかな色彩や計算された構図で独自のアート世界を築いていた作家であるけれども、本作ではその美学が極まった感がある。病室や住居内が中心となる前半では、様々な原色をまとった小道具が画面の隅々に配され、完璧な構図のもと、あらゆるショットが見事なアート作品として成立している。屋外に出る後半では、豊かな光線が人物と自然を煌々と照らしていく。そして、比較的シンプルな物語の中に、アルモドバルは自身の死生観を凝縮させた。

リアリズム表現に長ける作品が映画祭で評価されることが多いなか、アルモドバルはその対極を行く存在であり、人工的な装置の中でその美学を表現する唯一無二の芸術家であることを、余すことなく伝えてくる作品である。

アルモドバルの作品はメロドラマとして論じられることがあり、本作も実にアルモドバル的メロドラマだ。映画批評の世界において、ジャンルのひとつとしての「メロドラマ」は、通俗的で大仰な愛のドラマというネガティブなイメージとは異なる次元で扱われていて、アルモドバルを語る上で1950年代に傑作を連発したメロドラマの巨匠であるダグラス・サーク監督が引き合いに出されることがある。ここで深入りはできないのだけれど、ダグラス・サークはメロドラマを次のように定義する。「メロドラマは、宗教やギリシャ悲劇の世俗化した形態であり、紋切り型の中に、人間本来の根源的な様相を浮き彫りにするものだ」。

アルモドバルのビビッドな色彩や、登場人物のドラマティックな葛藤は、ダグラス・サークの世界を改めて想起させるし、メロドラマに特有な心理描写も顕著である。例えば、映画の後半に階段が非常に重要な役割を果たしていて、階段はダグラス・サーク作品でも人物の心理状態を表すために多用された装置であることを思い出す。こういったディテールからの連想は無限にありそうで、今後の詳細な分析が期待されるけれども、もちろん本作を堪能する上で映画史の文脈に関する知識などまるで必要ないことは言うまでもない。

イングリッド役のジュリアン・ムーアと、マルタ役のティルダ・スウィントンは、アルモドバル美術のピースであることを厭わず、しかしそれでも血の通ったナチュラルな存在にも見える。役者の存在感と監督の求める美学の完璧な一致だ。死を巡る映画のトーンは荘厳の域に達し、一方で決して現代的なポップ性から外れることがない。映画を見る歓びをとことん味わせてくれる作品であり、まさに芸術の名にふさわしい。

少し意外だったのが、本作がアルモドバル作品として初の英語映画であったということだ。アカデミー賞を狙えることばかりが強調される必要もないけれども、ふたりのアメリカの名優を配した本作が、今後アカデミー賞を狙う展開になっていくことは間違いないだろう。

審査員大賞はイタリアの『Vermiglio』

2等賞に相当する「審査員大賞(Grand Jury Prize)」は、マウラ・デルペロ監督による『Vermiglio』が受賞した。イタリア・アルプスの村を舞台にした、静かで美しいアート作品である。

第二次大戦末期、山間の村で9人の子を持つ家族が作品の中心となる。父は村の唯一の学校で教え、母は10人目の子どもを妊娠している。こどもたちは3人ずつひとつのベッドで眠り、家事を手伝い、それぞれ個性的な側面を見せる。長男は父親に大人扱いされないことに不満を持ち、頭の良さを親に認められた娘のひとりはただひとり高等教育に進むことが期待され、また別の娘は、叔父とともに軍から脱走して村にやってきた青年兵に恋をする。いくつかのエピソードが平行し、山の四季が移り変わっていく。

徹底した静の作品であり、山に囲まれた村で暮らす人々の暮らしが繊細なリアリズムで描かれていく。脱走兵の存在が村に戦争の現実を思い出させ、そして娘との結婚はやがて思いもよらない事態を招くものの、それらはドラマティックに語られることはなく、村での厳しい生活を生き延びる日々のなかに収束していく。ささやかな村の生活が四季の変遷とともに描かれるなか、ふとこれは時代劇なのだったと思い出して我に返る。まるで現在の村の生活を見ているかのような錯覚に陥るほど、時代の再現力が真に迫っている。

山々の絶景をひけらかすことはなく、女性の負担を強調し過ぎることもなく、映画の主題は奥ゆかしいほどに前面に出てこない。終戦という時代の変わり目が村に与えるだろう変化の予兆のなか、家族の運命のゆらぎを捉えようとするデルペロ監督の辛抱強い演出力が際立つ作品だ。

女優賞はニコール・キッドマン

激戦となった女優賞を制したのは、アメリカのスター俳優、ニコール・キッドマン。ハリナ・ライン監督『Babygirl』で主演を務めた。権力を持つ女性が年少の青年と不倫をするという、現代的な主題を持つ作品だ。エロティック・スリラーと紹介する記事もあり、果たして現代の映画はいかに「エロティック・スリラー」を描き得るだろうか?

ニコール・キッドマンは、物流企業を興して成功した女性CEOに扮している。ビジネス界のスター的存在であり、メディア露出にも余念が無い。多忙な身であるが、長身で美形の青年インターンに目が留まり、意識してしまう。夫から性的満足を得ていない主人公は、インターン青年の魅力に抗えなくなる。

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こうやってあらすじを書いているとバカバカしい気にもなってしまうのだけれど、これはポスト#MeToo時代において、映画は性的欲望をいかに描き得るかと言う命題に挑む実験作であると考えれば、神妙に臨む必要があるという気になってくる。そして、その人物が権力を持っている場合、そしてあえて言えばその人物が女性であった場合、いかなる物語と演出が求められるであろうかを、観客とともに考えていく作品であるとも言える。CEO女性とインターン青年のパワーバランスがコロコロと逆転し続けるため、映画に没頭しながら、どういうエンディングが現代の正解であろうかと、見る者の頭はフル回転していく。特殊な経験ができる作品だ。

ドロドロと暗いトーンではなくて、あっけらかんと明るい作品であると言えなくもない。おそらく監督も美女CEOと美男インターンの不倫という物語の陳腐さに自覚的で、自然にユーモアも含まれていったのではないかと推測するのだけれど、主人公がセックスに不満を覚える「寝とられ夫」に扮するのが色気ムンムン俳優のアントニオ・バンデラスであるというキャスティングからして、皮肉な笑いを誘っているとしか思えない。

それはそれとして、ニコール・キッドマンの協力を得て、ハリナ・ライン監督はポスト#MeToo時代の映画におけるセックスの描き方についても、ひとつのあり方を提示する。見るものを刺激するための若者どうしのセックス描写から、純粋に欲望を表現するための年齢を問わないセックス描写へ。ここもあえて言えば、女性の脚本家と女性の演出家に頼らざるを得ない領域である。いや、それすら、もはや偏った認識なのだろう。映画とセックスは、いままさに過渡期にある。

脚本賞にはブラジルの『I’m Still Here』

かつて『セントラル・ステーション』(98)が日本でもヒットを記録した、ブラジルの名匠ウォルター・サレス監督の新作『I’m Still Here』が最優秀脚本賞を受賞。70年代の軍事独裁政権時代の実話を、見事に映画化している。

リオデジャネイロの海沿いの家に暮らす、両親と4女1男のこどもたち。幸せな日々を送り、長女はロンドンに留学に行くなど、経済的にも安定していた。しかし、ある日理由を告げられることがないまま父親が当局に連行されてしまう。母親と次女も一時的に拘束され、ほどなく釈放されるが、父親は戻ってこない。母親は毅然として家庭を守る。

アルゼンチンやチリなど、70年代の南米諸国における軍事独裁政権の非道な所業については度々映画でも語られてきていて、本作はブラジルで起きた事例の記録としてとても貴重だ。左派の市議であった過去が災いして連行された夫の物語を通じて、我々は市井の目線による現代史の記録に触れることになる。

ただ、本作に関して言えば、物語の重要性もさることながら、映画としてのクオリティーの高さに言及する方がより重要だ。極端に言えば「夫が連行されて帰ってこない」という以外の要素がほとんどないにも関わらず、136分の上映時間が驚くほどスムーズに、シームレスに、観客の集中力を全く切らすことなく、流れていく。物語の進行上の時間を絶妙につまんで前進させ、家庭を支えるという妻の視点から一切ブレない優れた脚本とサレス監督の手練れの演出のなせる業であり、脚本賞は実にふさわしい。

そして何よりも毅然とした態度を貫く妻を演じたフェルナンダ・トーレスが素晴らしい。ニコール・キッドマンと女優賞を競い、結果は前述の通りであるけれども、ブラジルの映画賞は総なめにするだろう。歴史に残る名演だと思う。

審査員特別賞『April』

2024年屈指の1本として、これから世界の映画祭や映画賞を席巻していくと思われる『April』が、審査員特別賞に輝いた。ジョージアのデア・クルムベガシュビリ監督による2本目の長編監督作。主題の重要性と表現の芸術性が非常に高いレベルで融合した傑作だ。

ジョージア東部、コーカサス山脈のふもとの小さな町が舞台。優秀な産婦人科医のニナは、出産直後の乳児が死亡したことで、医療ミスを疑われる。死亡した乳児の父親は、ニナが闇で中絶手術を施している噂を聞いており、ニナを人殺しと呼ぶ。医療過誤については非が無いことに自信を持つニナは院内調査を依頼するが、中絶については答えない。

映画は、生死に携わるニナの心象風景を、時間をかけて冷徹に描き出す。ニナの内なるデーモンは老いたゾンビ姿となって夢に現れ、やがて現実を浸食する。性的欲望は時に危険を伴う形で求められる。激しい雨が地を叩き、厳しい自然が常に意識される。まるで、自然の摂理に反する中絶行為をそこに対比させるかのように。

長廻しを駆使したショットがリアリズムを強調し、しかし一方で悪夢的演出を交え、さらには効果的なカット割りで状況を切り取るなど、ルカ・グァダニーノ監督作品のキャメラマンや編集スタッフを迎え、ルーマニアン・ニュー・ウェーヴの影響も伺えるクルムベガシュビリ監督の映画作りのセンスには、これからジョージアを越えて世界の映画を担っていくと信じさせるほどのスケールを感じる。

主題の重要性については、詳述する必要は無いだろう。旧弊が色濃く残る保守的な社会と、抑圧的にふるまう男の存在は、しつこく障壁であり続ける。近年の映画が繰り返し描いてきた絶望の状況ではあるものの、『April』には一切の既視感が無く、新たなタッチと切り口で女性の苦境を描き切った。アルモドバルと本作とどちらに金獅子を与えるか、審査員たちは悩んだに違いない。

平行部門「オリゾンティ」の作品賞

カンヌ映画祭がメインのコンペティション部門に加えて第2コンペ的位置付けの「ある視点」部門を持つように、ベネチアにも「オリゾンティ」という部門がある。ブレイク前の監督たちによる質の高い作品が集まり、常に注目したい部門でもある。2024年にこの部門の作品賞を受賞したのが、ルーマニアのボグダン・ムレサヌ監督による『The New Year That Never Came』という作品だ。

共産主義体制がいよいよ末期を迎えた時期のルーマニアの姿を描く群像劇。人心は完全にチャウシェスク政権から離れており、地方で起きた反体制運動を政府が武力で制圧しているニュースが伝えられる。テレビ局は放映予定の年末特番に出演した歌手が国外亡命したことを受けて、映像を差し替えるべく代役を探す羽目になる。白羽の矢を立てられた下積み中の女優は、キャリアと信念のはざまで苦しむ。一方、テレビ局のディレクターの息子は、密かに国境越えの亡命を試みる。さらに、労働者の男性は、幼い息子が教会に宛てた手紙に、お父さんはチャウシェスクの死を願っていると無邪気に書いていたことを知り、手紙の回収に躍起になる。

ルーマニアの監督たちは共産主義下の時代を語ることが多く、リアリズムを土台とし、そこに皮肉やダークユーモアを込めたるなど、様々なトーンで抑圧状態を描いている。本作では、市井の人々による群像劇を追いかける楽しみがあり、歴史が変わる瞬間へと一気になだれ込んでいくカタルシスを与えてくれる。

Copyright Memento Distribution

本作が長編1作目となるムレサヌ監督は、もはや時代の動きは止めようが無いという状況下において、それでもそれを認めようとしない政府側と、政変が起きることを信じきれない民衆との、いわば国民的心理戦を活写してみせた。確かに作品賞にふさわしい。ルーマニアの監督たちからは、相変わらず目が離せない。

「オリゾンティ」部門監督賞

「オリゾンティ」部門の監督賞は、長編第1作となる『Familiar Touch』を手掛けたアメリカのサラ・フリードランド監督が受賞した。『Family Touch』は、認知症を患う老女が老人ホームに入居し、親身なスタッフに恵まれて少しずつ施設に慣れていく姿を描いている。

ここでいきなり個人的な話になって恐縮なのだけれど、僕は映画祭で作品選定業務を行っていたことから、映画を見るに際してなるべく個人的な感情は持ち込まず、客観的に見ようと努めるクセがついている。しかし認知症を扱う映画だけは例外で、認知症気味の両親の介護を経験した後に、スクリーンで辛そうな老人を見ることがすっかり辛くなってしまったのだ。しかしそんな僕でも、『Familiar Touch』はとても素直に見ることができた。それは、映画のスタンスが、とても優しいからだと思う。

サラ・フリードランド監督の経歴を調べてみると、とても興味深い。スティーヴ・マックイーン監督やケリー・ライカート監督らの助手としてキャリアをスタートさせ、ダンス振付家としてピナ・バウシュ財団の奨学生だった経歴もあり、映像と肉体表現を融合させるアーティストであるらしい。さらには高齢者アートをサポートし、認知症アーティストのケアラーでもあるという。

新たな映画のジャンルを切り拓いてくれる予感のするサラ・フリードランド監督に賞を授与する「オリゾンティ」部門は、やはり面白い。

「オリゾンティ・エクストラ」部門観客賞

ベネチアには、「オリゾンティ」に加えて「オリゾンティ・エクストラ」という部門もあって、クリエイティブでオリジナルな作品を集めるというのだけれども、そう明確な定義はなく、他部門から溢れてしまう作品の受け皿的部門と捉えていいかもしれない。コンペ部門ではなく、唯一の賞が観客賞。そしてその観客賞を受賞したのが、イランのナデル・セイバル監督による『The Witness』という作品だった。

ナデル・セイバル監督は、ジャファル・パナヒ監督『ある女優の不在』(18)に共同脚本として参加し、カンヌ映画祭の脚本賞を受賞している。監督としては本作が長編3本目にあたり、前作『No End』(22)はイランの住宅事情を背景に、小心な男が自分のついた嘘のせいで泥沼にはまっていく様を描いていた。新作も、現代の都市を舞台にしたドラマだ。

元ダンサーで活動家の側面を持つ初老の女性が主人公。彼女は、政府の要人である夫からDVを受ける年下の友人を心配している。そして、友人がDVの果てに夫に殺される現場を目撃するのだが、目撃証言はいともたやすく無視されてしまう。そして老女はある決意を固める。

頑ななイラン社会にあって、楽観的なドラマは作りにくいとしても、どこか希望を含み、批判を込めたラストが秀逸な作品だ。

イランで反スカーフデモが起き、当局の弾圧によって若い女性が殺されたのが2022年。この事件の余波を描くイラン映画が目立ってきている。『The Witness』では、こんなシーンがある。男性からの激しいDVによって心身ともに傷ついた女性が、駐車した車の運転席に座っていると、彼女がスカーフを被っていないことに気付いた通りがかりの女性が足を止めて、話しかける。

「スカーフをちゃんと被ってください。あなたのせいで男性が罪を犯すかもしれません。神があなたに与えた美は、夫のためにあるのであって、他の男を誘惑するためではありません。スカーフを被ることは、あなたと社会の双方にとってためになるのです。我が国の社会のあらゆる腐敗や諸悪の根源は、スカーフを軽視する女性にあります。イスラムの価値を守るために我らの殉教者は命を犠牲にしたのです。ヒジャブは我が国の法であり、守りなさい。今回だけは道徳警察に通報しないでおきます。しかし次はありませんよ。終末の日を覚悟しなさい」

一方的に説教をした女性はそのまま立ち去る。画面には、傷ついた女性の愕然とした表情が映し出される。あまりの不条理に、怒りで胸が苦しくなるシーンである。そしておそらく、このようなシーンを映画に含めることも、危険を伴うかもしれないのだ。

2024年のカンヌ映画祭で大きな評判となり、スカーフ問題も扱っている『The Seed of the Sacred Fig』を手掛けたモハマド・ラスロフ監督がそうであるように、社会派作品に取り組むイランの監督たちは、キャリアを賭けて、いや、命を賭けて製作に臨んでいるはずなのだ。おかげで我々はイランで本当に何が起きているのかを知ることができる。彼らの覚悟に報いるためにも、イラン映画が多く日本で上映されることを望みたい。

おわりに

本文では触れられなかったけれども、ベネチアへの日本からの参加作品としては、空音央(そら・ねお)監督『HAPPYEND』(10月4日公開)もあり、非常に高い評価を得ていたことを付記しておきたい。真の意味で新しい、画期的な学園映画である。また、五十嵐耕平監督『Super Happy Forever』(9月27日公開)もベネチア入りを果たしていて、男女の出会いと別れを複数の時系列で語る脚本が秀逸な作品だ。ぜひこの2本を劇場で見て、ベネチアの選定のセンスの良さを感じてもらいたい。

いや、そんなことを言うなら、むしろすぐに見られるこの2本の日本映画を紹介するコラムを書くべきであったかもしれない。というのも、本文で言及した作品の日本公開については、アルモドバルの『The Room Next Door』とニコール・キッドマン『Babygirl』はあるだろうなとは思うものの、その他については全く分からない。見られるかどうか分からない作品について書くのは、いささか気が引けるところではある。とはいえ、評価を受けている映画の情報をリアルタイムで伝えることにも多少の意義はあるだろうとは思い、そのまま書いてしまった。

今後の公開や配信を楽しみにしてもらえたら幸いだ。

 

矢田部吉彦(やたべ・よしひこ)
仏・パリ生まれ。2001年より映画の配給と宣伝を手がける一方で、ドキュメンタリー映画のプロデュースや、フランス映画祭の業務に関わる。2002年から東京国際映画祭へスタッフ入りし、2004年から上映作品選定の統括を担当。2007年から19年までコンペティション部門、及び日本映画部門の選定責任者を務める。21年4月よりフリーランス。

 

寄稿:矢田部吉彦
編集:おのれい

 

▼映画解説者中井圭による『HAPPYEND』の空音央(そら・ねお)監督インタビュー記事はこちら。
https://ashita.biglobe.co.jp/entry/interview/soraneo

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