いまこの原稿を書いている場所は、ベルリン映画祭を訪れる前に立ち寄ったパリの知人のアパートで、ラジオから流れるFM局のナビゲーターが「最近行われた国際的なアンケート調査によれば、フランス語が世界で最もロマンティックな言語であると認識されているそうです」と語っている。ナビゲーターは特に浮かれるわけでもなく淡々と語っているが、まだフランスに華やかなイメージが残っていることを皮肉に思っている様子が感じられなくもない。
フランス語圏からの帰国子女だった僕は、70年代末の帰国直後に通った日本の小学校の教員から「おフランス」と揶揄され、イジメとまではいかなかったけれど「なんだよそれ」という気分は存分に味わった。残念ながら「おフランス」という揶揄語の撲滅には力及ばずで、あれから数十年を経てもいまだに日本では使われる局面があるようだけれども、現実のフランスがのどかなアコーディオンやフランスパンの世界から遠ざかって久しい。それが最も感じられるのが映画だ。
アート映画の牙城であるカンヌ映画祭は、#MeTooの動きもいち早く反映される場となった。あるいは、欧州が移民問題で揺れた2010年代、フランス映画とカンヌ映画祭は移民を主題に持つ作品で溢れた。さらにイスラム過激主義者たちによる無差別テロ殺害事件がパリを引き裂き、極右政党が台頭し、労働者デモは複雑化かつ長期化し、古き良き「おフランス」はいまやどこにも存在しない。無邪気なエンタメ映画においてでさえ、どこかしら社会の現状を反映したものが目立つ。
それでも、というか、そうであるからこそ、フランス映画の強さは際立つ。効率的な助成金制度を持つフランスは主として欧州における共同製作体制をリードし、アート系の映画の牽引役を担う。自国でも意欲的な作家が次々と台頭し、女性の監督の活躍も目覚ましい。
フランスの政府系映画機関「ユニフランス」が主催する日本のフランス映画祭は、社会の動きを敏感に反映し、アート性を備えながらもスター俳優を育ててエンタメ意識も強いフランス映画を、30年以上に亘って届けている。大勢の映画人ゲストが来日するのも大きな魅力のひとつだ。2024年3月20日にスタートする「横浜フランス映画祭2024」にも魅力的な作品が揃っている。そのいくつかをここで紹介してみたい。
『コンセント/同意』
まずは最もタイムリーで、痛みを伴い、そして物議を醸し得る作品から始めてみたい。ヴァネッサ・フィロ監督による『コンセント/同意』(23)は、ある女性が10代の時に年長の男性と交際した関係を振り返り、その男性を告発した文章を元にした、実話の映画化である。
性加害/被害を巡る事態が日本でも多く報道されるようになったが、そこで加害側が被害者との間に「同意」があったと主張することがある。同意の有無が事件性を判断する上での争点になっていくわけだが、果たして同意があったとしたらそれで問題無しとしていいのか、という点に本作は踏み込んでいく。
文学少女の14歳のヴァネッサは、50歳の著名な作家に目をかけられて浮足立ち、母の反対を振り切って作家との関係を自ら望む。作家は小児性愛者として知られ、その体験を文学的に「昇華」させることで評価を得ていた。「同意」をベースに始まった関係の行く末が、描かれていく。
作家のヴァネッサ・スプリンゴラ(監督名がヴァネッサなのは偶然)が、35年の時を経て発表した書籍「同意」(2020、中央公論新社)を元にしている本作は、時の経過の長短は精神的被害の治癒に関係が無いことを、十分な説得力で見せてくれる。そして、同意があろうが無かろうが、力関係に著しい格差がある場合は搾取の構図に陥ることが不可避であることも描き出す。たとえ、その場の本人たちにその自覚が無かったとしても。
現在を生きる我々にとってとても重要な作品になるわけだが、その描き方は賛否を呼ぶかもしれない。というのも、中年作家がローティーンの少女を口説き、関係を持つに至る経緯が、かなり生々しく演出されているからだ。激しいセックスシーンこそあるわけではないが、接近していく過程の嫌悪感は如何ともし難いものがある。説得力を出すための演出であると頭では理解するものの、描写の倫理の境界をどのように引くべきか、これは監督が来日したらぜひ質問してみたいところである。
それだけ、鬼畜たる作家に扮する俳優、ジャン=ポール・ルーヴの演技が真に迫っており、実におぞましく、映画としては素晴らしいと唸らざるを得ない。実在のその作家が実際に文学賞を受賞している事実も恐ろしい。
つい先日、フランスで名を知られる女優が、10代の時に交際した有名な監督を告発したばかりであり、その事実は本作と完全に重なって見える。『コンセント/同意』は、時代を象徴する重要作品だ。
『バティモン5 望まれざる者』
原題は『Bâtiment 5』で、バティモンとは建物のこと。団地の「第5棟」を意味すると考えていいはず。パリ郊外の団地地域、主として低所得者層が暮らし、格差/差別社会の象徴と呼ばれる地域を舞台にしている。
マリで生まれ、パリで育ったフランス人であるラジ・リ監督は、カンヌ映画祭の審査員賞を受賞し、アカデミー賞にもノミネートされた『レ・ミゼラブル』(19)で大ブレイクした。フランスの文豪ヴィクトル・ユゴーの小説と、そのミュージカル版で広く知られる「レ・ミゼラブル」と同名だが、両者の間に関係は無い。いや、もともと「レ・ミゼラブル」とは「悲惨な境遇の人々」を意味しており、ユゴーが描いたフランス革命期の下層市民に、ラジ・リ監督は現代パリの郊外に暮らす市民を重ねたのだと見ることはできるかもしれない。リ監督『レ・ミゼラブル』は、郊外で差別的な扱いに不満を溜める移民系の人々が警察と大衝突する様を圧倒的なリアリズムで描く衝撃作であった。
新作『バティモン5 望まれざる者』(23)も、郊外の団地が舞台である。市長が突然死してしまい、市長代行として、政治経験が浅く、本職は小児科医の白人中年男性が党の推薦を受けて就任する。一方で、市役所に勤務しつつ、個人で住宅問題の相談を受けている若い黒人の女性が新市長の施策を注目する。老朽化した団地建物の建て替えが市の喫緊の課題であるが、市の方針と住民たちの事情はまるで噛み合わない。新市長は半ば意固地に強引な施策を実行しようとし、女性は激怒を抑えながら冷静に対応しようと努めるが、事態はいよいよ深刻化していく…。
緊張感溢れ、スピーディーな展開はさすがのラジ・リ監督である。行政側と住民の意識の差がどうしようもなく乖離しており、そこに安易な解決策があろうはずもないのだが、目を背けるわけにはいかない。「おフランス」から一万光年離れた現在のパリのリアルを、いかにして映画で描き得るか。そして、それを一種のエンタメとしていかに提示するか。その心構えや、映画に期待する役割などを、上映後のQ&Aで監督にじっくりと聞いてみたい。
『Vermines(原題)』
タイトルは「害虫」の意味。こちらもパリの郊外団地が舞台になり、移民層や低所得者層が暮らす建物が主役として、現代パリの華やかではない側面を際立たせる作品だ。ただし、こちらはホラー!!
盗品スニーカーを転売して稼ぎ、昆虫や爬虫類の飼育を趣味とする青年が、ある日なじみの店でタッパーに入った蜘蛛に一目ぼれして購入する。部屋に持ち帰るが、青年が気付かないうちに蜘蛛は入れ物から外に出て、やがて増殖した蜘蛛は建物中に拡散し、住民に迫ってくる…!
ああ、恐ろしい。マジで怖いです、これ。厳密に言えば、ホラーの中でも「動物パニックもの」というジャンルに属するのかな。フランス産の動物パニックものは意外に少ないかも?いや、よくは分からないけれど。B級感というかチープ感が味ともなりうる動物パニックものではなく、本作はそれなりに本格感があり、それは団地の老朽化という前記の『バティモン5 望まれざる者』と共通した背景を持つからかもしれない。
社会の弱点とされる部分からパニックを広げるという物語手法は、ホラーやパニックの常套手段なのかもしれない。パニックの前には社会の格差も無くなるという暗喩があるかどうか。ゾンビもウィルスも襲う相手を選ばない。もちろん、蜘蛛も。いや、深読みか…。
社会派 meets 動物パニック、という稀有な本作で、ワーキャー騒いでもらいたい!(僕はベルリン行き前に寄ったパリでちょうど公開中の本作を劇場で見て、ギャーと思わず声を上げる観客と一緒に楽しんだ!)
ちなみに、本作は世界で最も有名なジャンル系の映画祭のひとつであるスペインの「シッチェス映画祭」で審査員特別賞を受賞しているので、お墨付き。
『Ama Gloria(原題)』
恐ろしくなったので、心を温めよう。『Ama Gloria(原題)』(23)は、パリで暮らす6歳の少女クレアと、亡き母の代わりにクレアを育てる乳母のグロリアの物語。23年のカンヌ映画祭「批評家週間」部門のオープニング作品であり、マリー・アマシュケリ監督は3人の共同監督による長編1本目『Party Girl』で2014年カンヌの新人監督賞を受賞した期待の存在だ。
グロリアは実の子のように愛情を込めてクレアの世話をし、クレアもグロリアを母親同然に思っている。しかし、グロリアは故郷のカーボベルデに帰国しなくてはならなくなってしまう。クレアにとってグロリアと離れることは辛すぎる。ついに父を説得し、夏休みを利用してカーボベルデのグロリアを訪ねる。クレアにとって忘れられない夏になる…。
くりくりの髪に眼鏡をかけたクレアの愛らしさに、心を奪われずにはいられない。クレアが自然に涙を流す姿を見ると、本当に大丈夫だろうかと心配になってしまうほど上手い。6歳の子に現実と演技の差が分かるのだろうか…。いや、それは愚問で、分かるに決まっているのだけれど、監督がどのようにして演出したのか、その秘密を聞いてみたくてたまらなくなる。
クレアがカーボベルデで経験する心理の揺れと、その果てに取った行動のエピソードがとても自然で巧み。世界情勢に比べればささやかだけれど、人の一生を左右するような幼年期の大事な出来事を繊細に丁寧に描く脚本が素晴らしい。心が洗われる逸品だ。
『けもの(仮題)』
今回のフランス映画祭で最大の問題作が『けもの(仮題)』(23)だろう。23年のヴェネチア映画祭のコンペ部門に出品された、ベルトラン・ボネロ監督の新作。
「面白いかつまらないかでいったら断然面白いのだけど、分かるか分からないかでいったら、全然分からない」という知人の評が言い得て妙だと思ったのだけど、目の前で展開しているシーンは抜群に面白く、しかし繋げていくと意味がどんどん分からなくなるというか、解釈が幾重にも可能な深淵さを備えている。
胸の内に大いなる恐怖を抱えて生きている女性と、彼女に様々な形の想いを寄せる男性との、幾世代にも及ぶ物語、と要約していいだろうか。いや、間違っていたらごめんなさい。ともかく、映画は19世紀と思しきコスチュームドラマとして始まり、2044年との間を行き来し、そこに2014年も挟まれる。ガブリエルという女性とルイという男性が各時代に登場し、ふたりの関係性は異なるものの、各自ともに時代を越えて一貫した人物像を備えている(ように見える)。
2044年のガブリエルは、AIと対話をし、DNAの洗浄処置を受けることにより、自分が恒久的に抱える恐怖を消し去ることが出来ると説明され、処置に踏み切るかどうかを悩む。
『けもの(仮題)』は、そのDNAが辿った起伏に富んだ旅路を描いていく物語であり、時空と虚実は自由に入り交じり、観客はカオティックでサイキックな世界に囚われていく。
ボネロという監督は、コスチュームドラマであろうが、近未来が舞台であろうが、いずれも強烈に現在を意識させる映画を作る人であり、『メゾン ある娼館の記憶』(11)では搾取される20世紀初頭の女性たちの姿に現代的なロック・ミュージックを重ね、『ノクトラマ 夜行少年たち』(16)ではパリのテロ事件を予見せしめた。時代を縦横無尽に駆け巡る『けもの(仮題)』では、生きることの恐怖という絶望的な感情/状況の普遍性を提示する試みである。主演のレア・セドゥの魅力を味わってもらいつつ、これはもう見てもらうしかない作品なのだ。
コアな映画ファンの人であれば過去作との連想も楽しいはずで、僕はキューブリック、ヒッチコック、リンチあたりが浮かんだ。見た人との感想交換がとても盛り上がるはず!
『めくらやなぎと眠る女』
フランスではアニメも盛んで、日本のマンガ/アニメがフランスで人気があることはよく報道されるけれど、フランスのマンガ(Bande Dessinée=バンド・デシネー)も大きな文化として伝統を誇っている。巨匠ミッシェル・オスロ監督を筆頭に、アニメーション映画の有名監督も多い。
『めくらやなぎと眠る女』(22)は、パリとニューヨークに拠点を持つピエール・フォルデス監督による作品で、世界で最も有名なアニメーション映画祭であるアヌシー映画祭で審査員特別賞を受賞し、2023年に新設された第1回新潟国際アニメーション映画祭では、見事グランプリを受賞している(審査員長は押井守氏)。僕はその新潟で本作を見ていて、アート作品としての個性と完成度の高さに感激し、グランプリを取るのではないかと密かに予想したのだった。
村上春樹原作であることで注目を集める作品で、日本が舞台であるのだけれども、なるほど村上作品に特有の、どこか無国籍な雰囲気がとても上手く出ている。どうやら、「めくらやなぎと眠る女」、「かえるくん、東京を救う」、「ねじまき鳥クロニクル」、「UFOが釧路に降りる」、「バースデイ・ガール」、「かいつぶり」などの作品がベースになっていることが分かる。
震災の数日後(「UFOが釧路に降りる」では阪神大震災だったけれど、本作では東日本大震災に設定を変えている)、妻に去られた男が虚脱状態で休暇を取り、友人の用事を引き受けて北海道に向かう。そして男の勤務先の同僚の冴えない中年男は、突然カエルくんの訪問を受ける…。いくつもの不思議なエピソードを連ねながら、虚無を抱えた典型的な村上春樹的主人公が中心になり、全体では見事にひとつの世界観にまとまっていく。ビジュアルが繊細で美しく、そして外国人が描く日本の世界は日本人から見ると微妙に非現実感があり、セリフが英語であることで現実と非現実のバランスが絶妙に保たれている印象があって、あまり経験したことのない映画体験となる。もっとも、フランス語バージョンもあり、さらには日本語で吹き替えも予定されているとも聞いているので、バージョンごとに異なる味わいがありそうだ。
そして、村上春樹原作を土台に持つ『ドライブ・マイ・カー』(21/濱口竜介監督)への出演が忘れられない三浦透子にそっくりな女性が登場するのだけど、偶然だろうか?それはともかくとして、うっとりと惹き込まれる魅力を持つ素晴らしい作品であり、監督も来日するはずなので、ぜひとも楽しみにしてもらいたい。
『美しき仕事 4Kレストア版』
私事で恐縮だけれど、人の人生を変える映画があるとすれば、『美しき仕事』(98/クレール・ドゥニ監督)こそは僕の人生を変えた作品だ。1998年にフランスで公開された本作を見たとき、この作品を日本に紹介する仕事に就きたいと強く思い、権利を買って配給することを考えた。当時の僕は映画と無関係な業界の会社員で、残念ながらフットワークが及ばず配給は叶わなかったものの、ほぼ直後に会社を辞め、映画の仕事に転身した。そのきっかけになった1本が『美しき仕事』だったのだ。
でもなにも「美しい仕事」を描く映画に感化されて「仕事」を変えようと思ったわけではない。『美しき仕事』は必ずしも「美しい仕事」を直接描く内容ではない。物語は、アフリカのジブチに駐屯している外人部隊に所属する男たちの心理戦を描くもので、彼らの仕事には日々の訓練が大きな割合を占める。黙々と体を鍛錬する彼らの姿は、コンテンポラリーダンスの群舞のようであり、彼らは灼熱の太陽に焼かれていく…。
クレール・ドゥニ監督は「肉体の実存性」を好んで作品のモチーフとしているが、『美しき仕事』の肉体こそは、ドゥニ・ラヴァンという特異な俳優の肉体を得たことで、実存しながら抽象性を帯びるという領域に達している。あまりに意外なラストシーンの衝撃は、今も細胞レベルで忘れられない。映画はこういう瞬間を描くために存在しているのであり、人生を捧げる価値があると思ったし、今も思っている。
そんな『美しき仕事』が、26年の時を越えて、ついに初めて正式に日本で劇場公開される。自分で配給したかったという思いを懐かしく思い出しながら(ちょっと悔しい)、ひとりでも多くの人にこの傑作を「発見」してもらいたい。
多彩な作品、多様なゲスト
上記で触れらなかったけれど、他の作品も見どころが満載だ。『Neneh Superstar(原題)』(22/ラムジ・ベン・スリマン監督)は黒人の少女が、オペラ座付属の超エリートバレエ学校に通う物語で、白人少女だらけの学校で苦労しながらサバイブするヒロインの姿が勇ましい。『画家ボナール ピエールとマルト』(23/マルタン・プロヴォ監督)は、ポスト印象派の人気画家、ピエール・ボナールとその妻マルトの姿を描く伝記もの。なんといっても芸達者のヴァンサン・マケーニュと、大物セシル・ドゥ・フランスの共演が嬉しい。
『アニマル ぼくたちと動物のこと』(21)は今回の唯一のドキュメンタリー作品。動物の大量絶滅が食い止められない状況下で、環境保護活動に注力する16歳の男女が世界を旅する姿が描かれる。シリル・ディオン監督は本人が環境活動家としても知られ、本作はカンヌ映画祭でプレミア上映されている重要作である。
横浜フランス映画祭2024のオープニングを飾る『愛する時』(23/カテル・キレヴェレ監督)は、第2次大戦終戦直後のフランスで結婚した男女の長年にわたる愛憎関係を描き、ヴァンサン・ラコストとアナイス・ドムースティエという若手実力派スター俳優の共演が見逃せない。
さらに日本で撮影され、イザベル・ユペールが主演する『日本のシドニー(仮題)』(23)は、相手役に伊原剛志さんを迎え、この2人の共演も見ものだし、エリーズ・ジラール監督がパンデミックの中の日本に通い、そこで撮影した日本の風景にも注目したい。
そして、いまや多くの映画祭が一部門を割くようになった、テレビシリーズも紹介される。名匠グザヴィエ・ジャノリ監督が手掛けた『カネと血』(23)も必見だろう。
フランス映画祭では上映後に監督や俳優のQ&Aが多く組まれている。直接話が聞けるのは貴重な機会だし、作品の深堀りにも役立つ。映画祭ならではの雰囲気も楽しみたいところだ。
おわりに
フランス映画に代表される欧州のアート系映画は、日本での劇場公開で苦戦することが増えてきた。観客のミニシアター離れがあったり、円安の影響があったりで、配給会社による映画の買い付けが非常に大きなリスクを伴う状況となっている。以前のように当たり前のように世界の話題作が劇場で見られる時代ではなくなってきている。それを考えると本当に恐ろしいのだけれども、例えばフランス映画祭に通い、作品に刺激を受けつつその話題を広めることが、確実に映画の未来を支えるに違いない。
現在のフランスがいかなる様子であり、そしていかなる問題を抱えているのかを目撃しつつ、アート映画をリードし続けるフランス映画の最前線に触れてもらいたいと切に願うところだ。
矢田部吉彦(やたべ・よしひこ)
仏・パリ生まれ。2001年より映画の配給と宣伝を手がける一方で、ドキュメンタリー映画のプロデュースや、フランス映画祭の業務に関わる。2002年から東京国際映画祭へスタッフ入りし、2004年から上映作品選定の統括を担当。2007年から19年までコンペティション部門、及び日本映画部門の選定責任者を務める。21年4月よりフリーランス。
寄稿:矢田部吉彦
編集:おのれい