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肩書きを真に受けない姿勢が生む、新たな連帯と創造 映画『スイート・マイホーム』齊藤工監督インタビュー(前編)

斎藤工を既存の枠組みの中に閉じ込めることは困難だ。飄々と真摯に他者の想像を逸脱し続ける彼は、常に捉えどころがない才能を発揮する。しかし、多才な彼が最も輝くのは、やはり映画に関わる瞬間だろう。俳優として多くの映画やドラマなど映像作品で活躍する彼が、齊藤工名義で映画監督やプロデュースワークといった裏方としての顔を持つことは、周知の事実だ。むしろ、本名を名義として使う、このクリエイターとしての顔こそが、彼の本質に近いのかもしれない。

2023年9月1日、齊藤工監督は新作映画『スイート・マイホーム』を世に送り出した。同作は、神津凛子の同名ホラーミステリー小説を、窪田正孝を主演に迎えて映画化した、齊藤工監督の長編作だ。これまで、イメージの固定からすり抜けるような独特の作家性によって、オリジナリティの高い映画を撮り続けてきた彼が、単独監督作であり原作のある商業長編映画として挑んだ本作。公開直後から既に観客や批評家から高い評価を獲得し、注目を集めている。

「あしたメディア」では、そんな齊藤工監督にロングインタビューを敢行した。聞き手は、長年、齊藤工監督と映画情報番組で共演してきた、映画解説者の中井圭。齊藤監督の表現者、そして人としての佇まいを極力伝えるべく、対談形式の前後編でお届けする。今回は前編。

『スイート・マイホーム』
スポーツインストラクターの清沢賢二は、家族との幸せな生活のために、一台のエアコンが家全体を温める“まほうの家”と謳われた新築住居を建てた。彼の住む寒冷地の長野県では理想的な新居だった。だが、この幸せな暮らしは、ある不可解な出来事をきっかけに身の毛立つ恐怖へと転じていく。

出演:窪田正孝

   蓮佛美沙子 奈緒
   中島歩 里々佳 吉田健悟 磯村アメリ
   松角洋平 岩谷健司 根岸季衣
   窪塚洋介
監督:齊藤工
原作:神津凛子「スイート・マイホーム」(講談社文庫)
脚本:倉持裕
音楽:南方裕里衣 
製作幹事・配給:日活 東京テアトル
制作プロダクション:日活 ジャンゴフィルム
企画協力:フラミンゴ
©2023『スイート・マイホーム』製作委員会 ©神津凛子/講談社公式サイト:sweetmyhome.jp 公式Twitter:@sweetmyhome_jp
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中井:これまでの齊藤工監督に対する社会的な認識は、監督作の『blank13』(2018)や『COMPLY+-ANCE コンプライアンス』(2020)などを含めて、他の何にも似ていない独特な作家性をイメージする人が多かったと思います。だからこそ、忌憚なく言うと、一般の観客に響くことがより強く求められる商業作品を撮れるのだろうか、と疑念を持った人もいるんじゃないかなと思いました。

齊藤:ぼくも疑問に思っていました(笑)。

中井:しかし、ぼく自身、齊藤さんと番組をご一緒してきた中で、映画に対する圧倒的な素養はもちろん、事象の捉え方が極めて客観的で地に足がついていることを実感していたので、絶対に商業映画を撮れると思っていました。そして今回、齊藤さんがこの規模の商業映画に挑戦し、仕上がった作品を拝見して、こちらの想定を上回るクオリティだったことに驚きました。ご本人としては、この商業性の高い映画にチャレンジすることに対して、どういう思いがあったんですか?

齊藤:確かに、従来のぼくの作品は、企画から自分で立ち上げるなど、自主制作的なケースが多かったですし、今回のように原作がある作品の映画化は、日本映画史から鑑みても成り立ちとして正攻法だと認識しています。今回の原作小説を読んだときに「これは(ぼくではなく)黒沢清監督が撮る作品じゃないか?」と、本当は思ったんですよ。俳優業のときもよく思うんですけど、「(優先順位の)5番目ぐらいの候補なんじゃないか」って(笑)。

中井:いや、そんなことはないと思いますが(笑)。

齊藤:オファーいただく時期から逆算するんですよ(笑)。

でも、これまで自分が商業作品を背負うことから逃れようとしていたところがある、とも思っていました。(本作を含め、齊藤工作品に出資をしている)福山雅治さんに『blank13』を作る際に、「商業として勝負することは何より大事だ」と言われていたことも大きかったです。

また、今は極力リスクを回避する時代の流れもあると思いますが、自分が傷つかない範囲で映画を作ることによって摩擦がなくなって失われたもの、不便さが残してくれるものを、ぼくはテーマにしないといけないと思いました。効率性で言うと、ぼくが今回のお話に徐々に前向きになっていったとき、キャスティングに関してデータをいただいたんです。もちろん、それらのデータは間違ってないから使われるのだと思いますが、同時に、生産性を優先してしまうことで、「言葉で描けないから映画にする」といったような、何か本質的で重要なものを失ってしまうんじゃないか、と思いました。

今回、商業映画の監督を体験して生意気ながらに思ったことは、ぼくのように俳優兼監督みたいな立場の人間が、バカなふりをして言えることは大いにあるな、と思ったんですよね。これまで多くの映画監督が、家賃を払うためや家族を養うために、データに象徴されるような大きな流れを受け入れ、咀嚼して、どうにか映画を作ってきたという歴史を感じたんです。その点、ぼくは、先をあまり考えなくていいので、たとえ商業映画というフィールドでも、どこか気軽さを持って向き合える気がしました。そういう理由で、この映画の監督を引き受けようと決めました。ただ、良い家を作るとしたら、その柱となる人たちが仕事を受けてくれないと実現できないと思っていたので、引き受ける条件として、撮影に芦澤明子さん、主演は窪田正孝さん、録音静音は桐山裕行さんにお願いしたい、と伝えました。

中井:元々、齊藤さんと芦澤さんは接点がありますし、芦澤さん自身、(今回の原作同様)ホラーやサスペンス要素のある映画を撮ってきた黒沢清監督とよくご一緒されている巨匠のカメラマンです。今回、どうして芦澤さんを撮影に起用したかったのかを教えてください。

齊藤:実は、中井さんの言葉が結構大きかったんです。(黒沢清監督作で芦澤明子さんが撮影を担当した)『トウキョウソナタ』(2008)の冒頭から、人を介さない表現で不穏な家庭を描いているという、中井さんの解説がすごく腑に落ちたんです。だから、この原作を映画にするのであれば、いかに無人の家をカメラで捉えるかが鍵になると考えました。それを芦澤さんと一緒に探っていけたら、きっと実写化することができると思いました。

また、芦澤さんとぼくは元々の距離感が近いからこそ、仕事をお願いする機会は今回を逃すとないんじゃないか、と思っていました。芦澤さんは、今フィリピンの映画監督の作品を撮影しているはずで、昨年のインドネシアのアクション映画『復讐は私にまかせて』(2022)も含め、若手監督たちと国際色豊かにフットワーク軽く動かれていますが、やっぱりぼくは芦澤さんの凄みを知ってしまっている。だからこそ、自分が撮る作品で芦澤さんにお願いすることが現実的ではなくて。ただ、ご一緒したいという希望はずっとあったのですが、今回、状況が合致したのでお願いできました。

中井:本作の画作りは、芦澤さんと相談しながら決めていったのでしょうか。作品全体における芦澤さんの影響についても教えてください。

齊藤:これまで芦澤さんが関係した作品のアーカイブがたくさんあるから、元々「この映画の、このショットで」みたいなイメージはあったんです。当初、ぼくは、役者に対してクローズアップ(被写体の近くに寄った構図)ではなく、ロングショット(被写体から距離をとった構図)で画面を構成していこうと思っていました。でも、芦澤さんはぼくの意図を理解してくれた上で、撮影がいざ始まると、役者に寄っていくんです。芦澤さんは人を捉えるため寄り画も欲しい方で、早い段階から芦澤さんと役者さんが近接し、対話し始めました。でも、それで撮れる画が本当に素晴らしくて。ぼくはロングショットで、ちょっとおしゃれさや映画っぽい画面を求めていたのだと思いますが、黒沢組の編集もやられている高橋幸一さんも、このキャストの座組みで芦澤さんの力のあるショットを繋げていった方が映画の強みになる、と言ってくれました。

あと、面白かったのが、芦澤さんを前にして、役者が期待以上の伸びを見せてくれることがありました。芦澤さんが、画面に映っている役者たちの演技を観ながら実況中継をすることがあるのですが、見ているうちに役者の演技がどんどん良くなっていって、最終的には素晴らしい瞬間を捉えることができました。演技が良くなった明確な理由はわかりませんが、芦澤さんにカメラを構えられたことによって、役者もごまかしのきかない何かを感じて、自分自身と対話するしかなくなる。それが今回の作品には、性質として合っていたのかな、と思いました。

中井:興味深いです。たとえば、芦澤さんが黒沢清監督と組むと、全体として引きの画が多い印象がありましたが、今回はそんな風に寄りの画を多く撮っていたんですね。

齊藤:誰と組むかによる、ということがわかりました。決して監督を無視してるわけじゃないんですけど、ぼくが引き画でOKを出しても、芦澤さんは追加で寄りも撮って、結果それを本編で使う。ジャズ的なことだと思うんですけど、準備していたことを現場で乗り越えて、驚きと好奇心を持って塗り替えていくことをされていました。それが的確かつ自由度が高い。芦澤さんには、人としての迫力みたいなものを感じました。

芦澤さんの存在感は、それだけではありません。この映画のロケの最中に関係者内でコロナの陽性が出て、途中まで撮ったけど撮影を再開できないかもしれないという状況で、現場が1回止まったんですよ。そのときに、本来ならぼくが言うべきでしたが、芦澤さんが「感染しても誰にも責任は一切ないし、誰が感染してもおかしくない。まずそれぞれ責任を感じないで欲しい」と伝えた上で、芦澤さんは現場を進めるべきだ、と提言してくれました。窪塚さんも同様の声掛けをしてくれましたね。ぼくが当時少し慌てていたときに、芦澤さんと窪塚さんが船の行き先に導いてくれた瞬間がありました。

あと、本当に素晴らしいと思ったのが、芦澤さんご自身の知見の還元です。(撮影後の編集調整やスクリーニングを行うスタジオの)イマジカが新しくなって時間が経ってないタイミングで、この映画の試写がありました。そこで芦澤さんは、イマジカのスタッフの方たちにも指南するんです。まだ真新しいシアターなのでイマジカのスタッフさえ気づけていない弱点もあるのですが、それを芦澤さんがどんどん見つけて指摘する。それは自分のためだけじゃなくて、その環境を使う今後の若手監督たちのためにもやっている。芦澤さんは、自分のアシスタントたちもそうだけど、他の部署のアシスタントもしっかり面倒を見ています。だから、みんな芦澤さんが大好きです。そうやって全体を育てているんだと感じました。ぼくのことも、監督として立ててくださるんですけど、一方で監督として育ててくれているという感じがずっとありました。何事もすごく自然に、物腰柔らかく丁寧に伝えてくれます。守護神的な人でしたね。

中井:こうやって聞くと、本作における芦澤さんの影響範囲は、通常のカメラマンの立ち位置を超えた、想像以上のものになっていますね。

齊藤:振り返っても、ぼくが監督をしたという事実より、芦澤さんにとんでもない局面を見せてもらった、という記憶が強く残っています。その観点からも個人的に思うのですが、どうも、監督という言葉自体が、意味を持ちすぎている気がしました。あの文字と響きが強すぎる。そして、監督本人がその立ち位置に権力性を感じてしまうと、極端なバランスになってしまう気がします。だから、肩書きを横に置いておくことが重要でした。そして、ちょうどこの映画を作っているタイミングで、映画業界の様々な膿が出てきました。ぼく自身も遠い対岸の火事ではなく、だからこそ1番気をつけたのは、肩書きなんていうものを真に受けない、という姿勢でした。それもあって、「この原作を映画化するんだったら、自分はこういうものが観たい」という客観的な立場と距離感で現場にいました。

中井:齊藤さんのこれまでの活動を鑑みても、そもそも映画監督という立場に強いこだわりを持ってるというよりは、企画やプロデュースも含めて表現を生み出していくことに重きを置いていると感じます。今、この作品はこの座組でやったら面白い、とか、この期間のこの形だったら自分も携われる、といったスタンスで、どんどんアウトプットを世に出していく。齊藤さんが優先しているのは、自分が上に立つことではなく、クリエイティブが世に出ていくことだと感じています。

齊藤:まさにそう思います。(齊藤工監督がライフワークとして続けている、映画館のない場所に上映設備を運んで映画を上映する企画の)移動映画館「cinéma bird」もそうです。観客が作品を捉える時に、監督や役者で観ることはむしろマイノリティだと思っています。その意味でも、まず作品が良いか悪いかという基準が、お客さんと作品の純粋な関係値だと考えています。その事実に対して、ベストな布陣を考えればいいと思います。

あと、不条理なストレスを乗り越えて当たり前、みたいな悪しき歴史の中から生まれるクリエイティブで、良いものが生まれるとは思えないんですよ。偶然、悪い形での成功例が生まれたとしても、現代はもはやそういう時代ではないと思います。たとえ実現するのが難しくても、どこにもストレスが沈殿しない現場を目指すことが、これからの映画作りの現場の最低限のモラルだということは、今回も強く思いました。

中井:齊藤さんの取り組みを長年見てきて、その考え方がご自身の根本的なところに存在していることを理解しています。そして、ようやく映画界も適切な方向性に変わり始めている。ただ、忌憚なく言うと、齊藤さんがソーシャルグッドの視点から先進的な取り組みをしているという話が、映画界の大きなニュースになっていくこと自体、映画界が社会的位置としてまだちょっと遅れている、ということも同時に思います。

齊藤:そうですね、おっしゃる通りだと思います。

中井:でも、齊藤さんがずっと考え、行動してきたことが、この商業映画の現場においても実現していくこと自体にすごく意味があることは、お話を聞きながら改めてすごく感じました

齊藤:ありがとうございます。

中井:作品のテーマや演出なども教えてください。ぼくは本作を観て、緩やかにジャンルやカテゴリーをまたいでいる、という感覚を受けました。元々、齊藤工監督作はジャンル的に常に揺らいで、どこにも属さない部分があると思っています。ご本人としてはどう考えていますか。

齊藤:そうですね。カテゴリーなどに囚われたマーケティングは当然ありますが、蓋を開けてみたら、想定通りの結果にはならないことも多いです。また、世界の映画を観ていると、そのテイストは単純じゃないこともわかります。甘いと思ったら辛口になったり、味が変わっていくのが映画であり、人間だと思います。ただ、今回は原作がある以上、縁取りとしてはホラーサスペンス的なものをしっかり踏まえて、その中で何が起こるかを描く意識がありました。

この取材の最初に話した、マーケティングデータで座組を組んで、この映画を作ったら、どこか丸いものができそうな気がしました。今、アメリカ映画界では、ストライキが起きています。AI活用による作業の効率化などに対して、脚本家組合と俳優組合が人間の仕事の10年後を考えて戦っています。アメリカでストライキが起きたと知ったとき、ぼくがマーケティングデータを渡された感覚に近いなって思ったんです。ぼくは、そこに危機感が強くありました。取材では、弱点として「俳優監督だから」という話をよくするんですけど、一方で、だからこそ振りかざせるわがままもある、と思っています。監督業で家賃を払ってないところが、ぼくの最大の強みなのかなと。だから、たとえ決裂したとしても思ったことは言う、という方針を持っていました。キャスティングやスタッフィング、倉持(裕)さんと構成した脚本に関しても、このまま進むと丸くなってしまうと感じたことを、ことごとく避けていきました。

あえてジャンルやカテゴリーを壊していくという意識はなかったんですが、ぼくが理解したこの作品は、ホラーサスペンスという枠にとどまらない母性の物語でした。だから、その物語を芦澤さんに捉えてもらったことに意味があります。この愛の深さを捉えるのは、女性が適しているのではないかと思いました。もちろん、そもそも男性や女性といった性で単純に分けることが正しいかはわかりませんが、少なくともぼくには、男性の無力さを痛感する原作でした。そのことを窪田さんに伝えていませんが、120%理解して表現してくれたから、もう言うことないな、という感覚でした。男性から見た女性性というのは、ひとつのアングルとして大事だなと思います。だから、ジャンルやカテゴリーを意識するより、立ち入ってはいけない線のようなものがどこに張っているかを映画として捉えていることを重視しました。

気がつけば、自身の話以上に撮影の芦澤明子さんのエピソードを滔々と語る、齊藤工監督。そこから垣間見えるのは、彼がいかに他者へのリスペクトを携えて現場に立っているのかという、心持ちそのものだろう。それは、監督という権力装置から距離を置いて、スタッフ・キャストそれぞれが力を発揮できる環境を作るという、彼ならではの監督論そのものかもしれない。そして、ロングインタビュー後編では、いよいよ『スイート・マイホーム』の演出論、さらに独自の興行支援や宣伝論に話が及ぶ。

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取材・文:中井圭
写真:服部芽生