よりよい未来の話をしよう

絶対的な幸せはない。『ヒヤマケンタロウの妊娠』から考える多様な妊娠・出産・家族

広告代理店の第一線で活躍し、仕事もプライベートも充実した日々を送る30代の桧山健太郎は、ある日突然、自分が妊娠していることを知る。「男性も妊娠する」世界を描き話題になった、Netflixドラマ『ヒヤマケンタロウの妊娠』。
ドラマを観て、「男性も妊娠したらいいのに」「妊娠して、桧山のようにこれに困った」などと共感した方も多いかもしれない。
2022年にNetflixで配信された『ヒヤマケンタロウの妊娠』は2013年に制作された漫画が原作となっている。原作者である坂井恵理(さかいえり)さんに、本作に込めた思いや理想とする社会などについてお話を伺った。

常識を揺さぶる作品を描きたい

『ヒヤマケンタロウの妊娠』を執筆したきっかけを教えてください。

担当の編集者さんが『ビューティフルピープル・パーフェクトワールド』(小学館・2010年)という作品を読んで、ジェンダーに関する問題を絡めた作品を『BE・LOVE』(講談社)で描いてくれないかと依頼をくださいました。その時に提案したのが「男が妊娠する」という話だったんです。

私には10歳下の弟がいて、弟が赤ちゃんの頃の記憶も残っているので、子どもの可愛さや育児の大変さはある程度分かっていましたが、つわりと出産の痛みは全く想像ができなくて、育児よりも妊娠・出産に恐怖心を抱いていました。それと同時に女性だけが痛みを負うのではなくて、「男も妊娠できればいいのに」と前から思っていました。執筆を開始した当初は、私自身は妊娠経験がなかったので身体感覚としての妊娠を作品に落とし込むことがなかなかできなかったんです。でも、執筆開始後に実際に自分も妊娠して、あっという間に物語ができました。

執筆当初は、どのような読者に読んでもらいたいと考えていましたか?

少女漫画なので、まずは女性が「そうだよね」と共感してくれたらいいなと思っていました。さらに、作品を読んだ人の常識や「普通だと思っていたこと」が揺さぶられたりするといいな、という考えもありました。なので、様々な立場の人を描いて「主人公の立場にいる人が100%正しい」とはしないように意識していました。

一方で、もちろん男性に読んで欲しいという思いもありました。作品内では、桧山のパートナー・亜季が妊娠報告を受けて「本当に私の子?」と言うシーンがあります。自分ではない人間が妊娠していたら、やっぱり他人事になるだろうなというのは分かります。だから現実社会で男性がちょっと他人事になる気持ちも分かるんです。ただ、だからと言って女性の声に耳を傾けなくていいという訳ではない。あえて亜季に「私の子?」と言わせることで、男性にとって妊娠が他人事になりがちであることに気づいてもらい、男性が女性の声を聴くきっかけになればいいなと思っていました。

妊娠・出産・育児も、家族の形も人それぞれ

作中では妊娠による身体の変化についても、リアルに描かれていました。意識した点があれば教えてください。

「男性が妊娠する」というストーリーで、妊娠した男性が妊娠状態に驚く様子を表現するには細かい身体の変化を描いたほうがいいと思っていました。また、自分が実際に妊娠・出産してみて気づいた身体の変化はかなり取り入れました。

例えば、漫画では桧山のつわりを軽く描いていますが、これは私自身のつわりが軽かったので、「つわりが軽い妊婦もいる」というのを伝えたかったのです。一方で、川端みずきというキャラクターのつわりが重い設定にしたのは、「つわりが重い人もいる」ということもきちんと描かないといけないと思ったからです。

漫画では、妊娠する高校生男子や、夫が妊娠した妻、二股をかけられて妊娠したものの別れることになる女性…と様々なキャラクターの妊娠が描かれています。複数の妊婦/妊夫をオムニバス形式で描いた理由を教えてください。

色々な人の視点を入れる必要があると思ったからです。例えば、桧山とパートナーの亜季は、最後まで結婚しない設定にしました。「できちゃった結婚して家族になって幸せになりました」みたいなストーリーには抗いたかったんです。また、桧山たちカップル以外にも、結婚している夫婦や、女性が妊娠する視点も必要だと思い、入れました。

中絶する男子高校生のストーリーもありますが、これは「中絶は悪いことではない」と伝えるためでした。妊娠・出産をテーマにすると、どうしても「無事に出産して幸せになる」方向に行きがちなので、1人は中絶するキャラクターを入れることで、出産しないことも肯定しようと思いました。「産むのが絶対的な幸せ」という風には描きたくなかった。

もちろん、妊娠の大変さだけに偏らず、妊娠・出産の素晴らしさもあるのでバランスも意識しながら描きました。

坂井さんご自身も、妊娠・出産・育児を経験されて、考え方が変わった点などはありましたか?

妊娠時のつわりや育児の方法などは「人による」ということです。私は妊娠前はつわりが怖く恐ろしいものだと思っていたのですが、実際は私のつわりは軽かったんです。なので本当につわりがきつい人の気持ちは分かっていないと思います。

育児の方法も、子どもによります。SNSなどで育児の方法論などを目にしますが、「全部自分の子どもにも当てはまる」とは思わないほうがいいなと思いました。ネット上の情報や人から言われることは無理しない程度に受け止めて、自分と子どもに合うやり方を、自分自身が見つけていくしかないのかなと思っています。
 

他者への想像力を働かせる

妊娠・出産は経験しないと分からないことも多いと思いますが、一方で経験していない人からの配慮ももっと必要なのではないかと思います。自分が経験しなくとも人の痛みが分かるようになるためには、どのようなことが必要だと考えられますか?

人の話を聞くときに、「相手の話を否定することがコミュニケーションだ」と思ったり、意見を戦わせた方が話し合えているように感じることがありませんか。でも、「辛い」と言っている人の話は、否定する前にきちんと聞いてあげられるようになった方がいいと思います。ある考えに対して反発をおぼえたら、それが正当な場合もありますが「自分の心を守るためだけに反発しているんじゃないか」と自分を見つめ、そのうえで他人に対処することも大切だと思います。まずは自分の弱さを認めてからコミュニケーションを取る、ということです。また、自分が経験していないことを経験した人が書いた文章やフィクションなどに触れたり、観たりすることは想像力を働かせる助けになると思います。

今後、扱ってみたいテーマはありますか?

これまでは、「とにかく読みやすくジェンダーについて描いて、考えてもらおう」と思って描いていました。ただ最近、フェミニズムのことを取り入れた漫画やフィクションが増えています。読みやすさだけでなく、真剣に性暴力のことを考える作品を作っても、いまの時代なら受け入れてもらえるかもしれない、と思っています。

理想とする社会とは

2013年に『ヒヤマケンタロウの妊娠』を執筆してから、社会が変わったと思うことはありますか?

今までよりは女性の声が届きやすくなり、それによって政治が動くことがようやく出てきた気がします。「保育園落ちた日本死ね!!!」というツイートで待機児童問題がクローズアップされたような例も、2013年以前だったら無かったように思います。

一方で、まだ変化が不十分、もしくは変わってほしいと思うことを教えてください。

制度面で変わってほしいことはたくさんあります。例えば、保育園を増やすのは前提で、さらに「保育園の箱を作って終わり、保育士の給料を少し上げます」ということではなく、もう少し根本的な変化が必要です。子ども、子育てをしている親、現場で働いている人の目線で改善してほしいことがたくさんあります。自治体の配置基準で、保育園の先生は4歳児20人に対し1人程度のところが多いのですが、1人で20人の子どもの面倒を見るのは無理です。現場に任せきりで、制度を決めている側がきちんと現場を見られていない感じがします。

他にもよく、「忙しいならベビーシッターを雇えばいい」と言われますが、それも簡単なことではないんです。仕事に出る前にベビーシッターさんに預ける予約をして準備をするのがまず大変です。ベビーシッターさんのサービス品質にもかなり差があって人気の人はもう予約が取れなかったりする。夫がもっと育児に関わらないと家庭は回らない、とも思います。

男性の育児の観点だと、漫画に妊夫とイクメンを応援する「ウムメン・イクメンカフェ」が登場しますよね。このようなアイデアを描いた理由を教えてください。

男性は、女性みたいに集まって悩みを吐露したりする場所が少ないですよね。男性同士でケアしあう場所があったらいいのに、という気持ちを込めました。一方で、男性は育児に関わる程度に差があるので、共通言語で喋りづらいということもあると思います。男性の育児レベルが全体的にもう少し上がると、「パパ友」も作りやすくなるのかもしれないですね。

また、これは性別問わずですが、子どものケアはもちろん大事だけど親のケアもすごく不足している。だから子どもを産みづらくなっているんじゃないかなと思います。

最後に、坂井さんが理想とされる社会について教えてください。

1人1人の考え方が変わらないと、世界は変わらないと思います。1人1人が「自分は幸せだ」と思えるようになると、人にも優しくできると思う。自分に余裕がないと人に冷たくしてしまったりするので。そのためにも最低賃金を上げるとか、制度の部分から変えることも必要だとは思います。

あとは、少子化になって子どもと全く接したことがない人が増えています。そうすると、子どもがどういう存在なのか分からないから、より子どもが持ちづらくなる。SNSだけで情報を仕入れるとネガティブな情報が入ってくることが多いので、実際に子どもと触れ合える機会があるといいですね。子どもを持つかどうかは個人の自由であるべきだけれど、子どもに冷たい社会になってはいけないと思います。

「男性も妊娠したら、女性の気持ちが分かるようになるのでは?」

多くの女性が、生理や妊娠・出産・育児への無理解に対するもどかしさを、1度は感じたことがあるだろう。一方で、人は誰でも自分が経験していないことや、他者の気持ちを想像することは容易ではない。中絶に関わる問題や、妊娠・出産や育児に関する制度などジェンダーに関する様々な問題も、「想像できない」ことが原因であることが多いように思う。

「男性も妊娠する」世界での妊娠・出産を描いた漫画『ヒヤマケンタロウの妊娠』。主人公・桧山をはじめ、様々な職業、立場、家族から見た妊娠・出産が描かれている。そこには坂井さんの「色々な人がいることを知ってほしい」という思いが表れている。読む人それぞれが自分の立場に重ねて共感できると共に、「こういう妊娠・出産・育児のあり方もあるんだ」という驚きや「あなたの生き方も間違っていない」と肯定されたような安心を感じることができるだろう。漫画やドラマなど慣れ親しんだメディアが、他者の経験や立場を想像し、社会との向き合い方を変える手助けになるかもしれない。


坂井 恵理(さかい えり)
1972年生まれの漫画家。代表作には『ヒヤマケンタロウの妊娠』(2013年・講談社)、『鏡の前で会いましょう』(2016年・講談社)、『シジュウカラ』(2018年・双葉社、第23回文化庁メディア芸術祭・審査委員会推薦作品)、『ひだまり保育園 おとな組』(2017年・双葉社、第22回文化庁メディア芸術祭・審査委員会推薦作品)などがある。『シジュウカラ』はテレビ東京でドラマ化され、『ヒヤマケンタロウの妊娠』はNetflix
で実写ドラマが配信されている。

 

取材・文:Natsuki Arii
編集:白鳥菜都
写真:服部芽生

 

本記事に記載された見解は各ライターの見解であり、BIGLOBEまたはその関連会社、「あしたメディア」の見解ではありません。