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​​キャンセルカルチャーとは?その意味と事例や社会的な問題点を徹底解説!

日々、携帯電話に届くニュース速報は「ロシアによるウクライナ侵攻」や「参議院議員選挙速報」など、緊急性が高いものばかりであるが、そのなかに著名人の写真と共に「〇〇不倫か。近日会見予定」といったゴシップ要素の高い“速報”が紛れてくることがある。筆者はこの類のニュースに違和感を覚えるのだが(世間が知る必要がない個人的な話である場合にはとくに)、メディアさえも動かし、個人的な話題を価値のある“速報”に仕立ててしまうこの風潮を下支えしてるのが「キャンセルカルチャー」という文化だと考えている。悪いことは悪いと表明する意義ある抗議姿勢に見える一方で、常に誰かに監視されているかのような息苦しい現代社会の象徴にも見える「キャンセルカルチャー」とはいったい何なのだろうか。

 

キャンセルカルチャーとは?

キャンセルカルチャーは「Cancel」+「Culture」、つまり「取り消す文化」や「取り消す行動」を意味する。日常生活でよく目にするのは「著名人の不祥事によるテレビ番組やCMへの出演停止」だろうか。企業の例を挙げるならば、「ハラスメントを起こした社員を解雇する、もしくは降格させる」など、社会的に見て「良くない」とされる行いや不祥事を起こした個人を排除する動きのことを指す。個人や企業に限らず、外交の文脈では特定の国との関係悪化をきっかけとする、その国で生産されたものを買わない「不買運動」もキャンセルカルチャーの一種と言えるだろう。「不祥事を起こした者や、社会的に不適切と思われる言動をした者を排除する」という前提こそ変わらないものの、その対象範囲は広がり続けている。(一方で必ずしも、キャンセルされる側に非があるとは限らないという点は、別の問題であるが、特筆しておきたい。)

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キャンセルカルチャーが生まれた背景

キャンセルカルチャーは、不平等や不公正を指摘し、是正や変革を訴えるための手段であるボイコット運動と類似の性質を持つ。その点、古くから存在する抗議姿勢と言えるが、2010年代から「キャンセルカルチャー」という言葉で定義がなされるようになった。アメリカで誕生したとされる「キャンセルカルチャー」は人種や性別などを理由に虐げられた個人に共感し、そのことに反対・抗議する姿勢を指す「コールアウトカルチャー(Call-Out Culture)」と共に語られることが多い。
 

コールアウトカルチャー・キャンセルカルチャーは、「Black Lives Matter」の運動と共に広がりを見せてきた。帰宅途中に警察官から銃殺された黒人学生や、ジョギング中に銃で撃たれ死亡した20代黒人男性。2020年に起きた、白人警察官による過度の武力防衛により命を落とした「ジョージ・フロイド事件」。人種が異なるという理由で命をも奪われる、あまりにも一方的で不条理な暴力に接し、人々は「差別により誰かを傷つける言葉や行動」に敏感になった。その結果、それらに反対する姿勢として「コールアウト」、つまり差別による精神的、身体的暴力をはたらいた個人や企業を「呼び出し指摘」したり、キャンセルしたりすることによる、抗議活動として広がりを見せた。

コールアウトカルチャーが、間違いを正すため、公の場での説明責任の要求と対話を前提とした抗議であるのに対し、キャンセルカルチャーは間違いを指摘・非難し、排除する、という特徴がある。抗議活動に参加するアクティビストの間では、このキャンセルカルチャーが持つ、ある種の攻撃性や暴力性を危険視する声も上がっている。(※1)また、バラク・オバマ元大統領も、SNS上で起こるキャンセルカルチャ―に対して「石を投げるだけでは状況は変わらない。それはアクティビズムとは言わない」と指摘している。(※2)

※1 参考:コールアウトカルチャーとキャンセルカルチャーの違いを示し、キャンセルの危険性を述べている学生の投稿。
Gavin Inglis “all-Out Culture vs. Cancel Culture: Know the Difference.”
https://medium.com/@gavininglis/call-out-culture-vs-cancel-culture-know-the-difference-2135274734f0
※2 参考:CNN Politics「What Barack Obama gets exactly right about our toxic `cancel`culture」https://edition.cnn.com/2019/10/30/politics/obama-cancel-culture/index.html

キャンセルカルチャーの事例

日本の中で記憶に新しい事例として思い出されるのは、2021年に開催された東京オリンピックではないだろうか。大会の開催を目前に控えた時期に、過去の発言などを理由に次々と関係者が辞任を余儀なくされた。そんなニュースに、落胆し不安になった人もいたのではないか。ここでは、実際の事例をもとに、日本ではどのようなキャンセルがなされているのかを見ていきたい。

●女性蔑視や容姿批判…度重なる不祥事でキャンセルされ続けた東京オリンピック組織委員会 

TOKYO2020組織委員会の森喜朗前会長は、会議で発した「女性がいると会議が長くなる」という女性蔑視と取られる発言が波紋を呼び、辞任に追い込まれた。そのほかにも、同夏に開催を控えた2021年3月には、開閉会式演出チームのディレクターであった佐々木宏氏が、社内でチームメンバー向けに発信した女性タレントの容姿批判をするコメントが明るみに出て、SNSを中心に批判が殺到し、辞任を申し出た。続いてその後任を務めた元コメディアンの小林賢太郎氏も、数十年前のコントでのセリフが「ユダヤ人大量虐殺のホロコーストを揶揄している」との指摘から、批判が殺到し辞任に追い込まれた。さらには、楽曲制作を担当した小山田圭吾氏も、過去に雑誌のインタビューで語った内容の凄惨さが指摘され、組織委員会側は続投の意向を見せていたものの、批判が収まることはなく本人が辞任を申し出る結末となった。

●会社を牽引する会長の文書をきっかけに、内部事情が表出し、不買運動へと発展したDHCのケース

株式会社DHCの会長を務める吉田嘉明氏は、同社の公式オンラインショップにおいて、自身の署名付きで嫌韓と取れる内容を記した。その記事に問題意識を抱いた消費者がSNSで声を上げたことをきっかけに、様々な問題が表出した。週刊誌に内部告発する社員が出てきたり、吉田氏の過去の言動を遡りその問題性を数年越しに指摘したりと、その影響は広がり続けた。消費者の間では「#差別企業DHCの商品は買いません」といったハッシュタグと共に不買運動が始まり、DHC製品をアメニティとして使用していたホテルにも使用停止求める抗議の声が届いたという。このハッシュタグは、2022年8月時点でも投稿数を伸ばしており、いまだにキャンセルの影響が続いていることが分かる。

炎上との違い

では、キャンセルカルチャーと炎上は何が異なるのか。その発言や行動自体が広く拡散され、物議をかもし、賛否両論で激しく議論されることが“炎上”であるのに対し(もちろん一方的な誹謗中傷の場合もあるが)、キャンセルカルチャーはその1歩先の排除、取り除くという行為まで地続きになっているのが大きな違いだと言えよう。

「排除」という言葉が持つ暴力的なイメージは、キャンセルカルチャー自体の印象にも影響を及ぼしている。実際に国内で行われる「キャンセル」を用いた抗議行動に対しても、「こじつけではないか」「過剰すぎるのではないか」「揚げ足取りではないか」と疑念を抱く人がいることも確かだ。一方で、キャンセルカルチャーを用いることで、これまで見過ごされ、世間の目が向かなかった問題が表出する場合もある。

そんなキャンセルカルチャーの効用について1例を挙げると、2019年6月24日に放送されたNHKのドキュメンタリー番組「ノーナレ」の例がある。この日の放送では「今治タオル」の生産工場で働くベトナム人技能実習生らの劣悪な、人権が尊重されているとは言い難い労働環境が報じられた。筆者もリアルタイムで番組を見ており、「今治タオル」の厳しい評価基準と高品質さに裏付けされたクリーンなブランドイメージからは想像もつかない現実に、目を疑った。その放送直後からTwitterでは「#今治タオル不買」というハッシュタグと共に、不買運動という形でキャンセルがなされた。外国人技能実習制度については、この報道の約3か月前、2019年4月に入管法が改正され処遇が改善されたと思われていた。その矢先に変わらない現実をありのままに描いたこの報道は、外国人技能実習制度そのものを問題視する流れをつくり出すきっかけになり、プラスの意味でのキャンセルカルチャーが機能したと言える。
もちろん、「今治タオル」の生産を行う全ての工場で外国人技能実習生を雇っているわけではなく、労働者とブランドのどちらも大切にしながら経営している企業が多くあるという事実を忘れてはいけない。キャンセルカルチャーの特徴として用いられる「排除」は強い印象を与える言葉かもしれないが、取り除くという行為まで繋げることのできるキャンセルカルチャーだからこそ、動かすことができる山もあるのだ。

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キャンセルカルチャーへの批判と支持

キャンセルカルチャーに対する批判の1つは、表現の自由を侵害するというものだ。批判は主に、キャンセルカルチャーが人々を恐れさせ、意見の自由を制限することになるという点でなされている。。批判者たちは、議論を封じることで、社会が真実を見失い、大衆が正しい選択をすることができなくなると警告している。このような批判は、主に保守的な政治家や人権活動家からなされており、例えば、アメリカ合衆国の政治家ドナルド・トランプがキャンセルカルチャーに対する批判を公言することが多かったことが報じられている(※3)。

一方で、キャンセルカルチャー支持者は、表現の自由が全てを正当化するわけではないと主張している。彼らは、表現の自由は責任と共に行使されるべきであると考えており、社会に不快感を与える発言や行動に対しては責任を負うべきだとしている。彼らは、キャンセルカルチャーが社会をより公正にするために必要な手段であると考えており、人々が責任を負うことで、より良い社会が実現すると主張している。このような考え方は、主にリベラルな政治家や人権活動家から支持されており、例えば、アメリカ合衆国の政治家ジョー・バイデン政権がトランスジェンダーの人々を支援する政策を打ち出したことが報じられている(※4)。

キャンセルカルチャーに対する批判と支持の両方が存在する中で、重要なのは社会全体で議論し、公正かつ健全な社会を実現するための方法を模索することだろう。表現の自由や責任、社会的影響力の問題など、様々な要素が絡み合う中で、より良い社会を目指すためには、意見の対立ではなく、対話や妥協を通じて解決することが必要だ。

※3 参照:CNN「It’s time to cancel this talk of ‘cancel culture’」https://edition.cnn.com/2021/03/07/us/cancel-culture-accountability-reality-trnd/index.html
※4 参照:The New York Times「Biden Administration Restores Rights for Transgender Patients」https://www.nytimes.com/2021/05/10/us/politics/biden-transgender-patient-protections.html

キャンセルカルチャーの代替的な視点

キャンセルカルチャーに代わる視点として、修復的司法が注目されている。修復的司法は、犯罪の被害者が回復し、犯罪者が責任を取り、そしてコミュニティが再建されるような、犯罪に対する取り組みの1つである。

修復的司法は、被害者を回復させることが重要な目的であり、被害者が自分自身や社会と向き合うことを支援する。そのため、被害者が自分の声を発することを奨励し、また、被害者が被害者であることを受け入れることを求める。同時に、犯罪者が自分の行為に責任を取ることを促すことにより、再犯を防止することも目指している。

修復的司法は、犯罪に対する伝統的な刑罰と比べて、被害者中心のアプローチを採用しているため、被害者のニーズに応えることができる。また、修復的司法は、コミュニティにも目を向けている。コミュニティが犯罪の影響を受け、犯罪を許すことはできないことを認識し、犯罪に対する共同責任を持つことを促す。

一方で、修復的司法にも課題がある。例えば、被害者と犯罪者が同等の立場で参加することができない場合がある。しかし、修復的司法は、社会的な問題に対する新しい解決策を提供するものであり、キャンセルカルチャーとは対照的な、建設的なアプローチとして注目されている。

キャンセルカルチャーの問題点と今後の向き合い方

キャンセルカルチャーは、とくにSNSにおいて顕著に見受けられる。SNSの世界では、顔の見えない者同士が特定のトピックスをフックに繋がり、物事の1側面などの限られた情報を頼りに自由に意見を交わす。言動の自由と称して様々な発言が許容されるSNSの中だからこそ、議論は炎上を呼び、その炎上はときにキャンセルカルチャーに変容する。
国内におけるキャンセルカルチャーの問題は、日本の国民性も大きく影響していると考えられる。社会学者である石田光規氏は、著書のなかで「ひとさまに迷惑をかけられない」という日本特有の迷惑センサーの高さが、コロナ禍における自粛警察の出現や、著名人の不倫や離婚などのプライベート事情へのメディアや世間の執拗な干渉を招いている、と指摘している。(※3)また、キャンセルされる側に常に非がある、という前提自体を疑う姿勢の欠如も問題だろう。

※3 参考:石田光規『「人それぞれ」がさみしい 』(ちくまプリマー新書、2022年)

まとめ

先述の石田氏は、「キャンセルカルチャーの怖いところは、時間をさかのぼってその効果が発揮されることだ」とも指摘する。オリンピックでのキャンセルを思い返しても、10年以上も前のことがきっかけで職を追われ、生活までもが脅かされる事態となった。
情報があふれる現代に生きるからこそ、自分が触れている情報は物事の1側面に過ぎないということを常に意識し、失敗を犯した者をひと吹に排除するのではなく、共に反省し、同じ過ちを犯さないための警鐘に力を注ぎたいものだ。
迷惑行為を監視し、プライベートにも過干渉になり、対話ではなく一方的に排除する。誰もが生きやすい社会の実現を願った抗議姿勢のあり方は、“現代のキャンセルカルチャー”の形をしているだろうか?


文:おのれい
編集:大沼芙実子