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エンタメ作品に込めたメッセージ:インドネシア映画の牽引者、エドウィン監督インタビュー

日本で紹介される機会が多くないものの、国際的に活躍する若手監督が増えてきたことで注目されているのがインドネシア映画だ。
2022年のベルリン映画祭のコンペティション部門で受賞を果たしているカミラ・アンディニ監督や、2017年のカンヌ映画祭に出品歴のあるモーリー・スリヤ監督という2人の女性の監督がシーンをリードしているのも頼もしいが、いち早くその個性が国際的に認められたのが、エドウィン監督である。
エドウィン監督は2003年から短編製作を始め、初期からシュールでユニークな世界観が注目されてきた。2008年の長編第1作『空を飛びたい盲目のブタ』は、奇癖を持つ人々の姿が断片的に繋がれて描かれ、やがてマイノリティへの優しい眼差しが浮かび上がる秀作であり、見事ロッテルダム映画祭で国際映画批評家連盟賞を受賞する。そして2012年に長編第2作の『動物園からのポストカード』がインドネシア映画として初めてベルリン映画祭のコンペティション部門に選出されると、エドウィン監督の名は一躍世界的なものになる。『動物園からのポストカード』は、動物園で育った少女と動物たちとの関係を巡る寓話で、監督のユニークな視線が温かみを増したような傑作だ。
その後、中編の『舟の上、だれかの妻、だれかの夫』(13)で神秘的な映像美を披露したり、『ひとりじめ』(17)でラブコメという世界の中に束縛される若者の姿を描いたり、『アルナとその好物』(18)で食を巡るロードムービーを手掛けたりするなど、意欲的な作品作りが続いていく。
そして、最新作『復讐は私にまかせて』が2021年のロカルノ映画祭のコンペティション部門に出品されると、見事にグランプリを射止め、エドウィン監督のキャリアはさらに輝きを増している。日本での劇場公開も決まり、来日を果たしたエドウィン監督にインタビューする機会を得たので、彼のコメントも交えながら作品の魅力に触れてみたい。

新作『復讐は私にまかせて』のストーリー

エドウィン監督

新作の英題は『Vengeance Is Mine, All Others Pay Cash』、つまり「復讐するは我にあり、他の者たちは現金を払え」というもの。なんとも想像力を刺激するこのタイトルは、インドネシアの人気作家エカ・クルニアワンによるベストセラー小説の題名でもある。映画化を熱望したエドウィン監督はクルニアワン氏と共同で脚本を仕上げた。

映画をひと言でまとめるなら、1989年を舞台にした、乱暴者の青年とボディーガードの女性の関係を巡るアクション・ラブストーリーである。バイクレースや喧嘩に明け暮れる青年アジョは、ある日実業家の男をやっつけに行くが、その警護を担当している女性イトゥンと対決する羽目になる。伝統武術「シラット」の遣い手であるイトゥンと激しいバトルを繰り広げ、ダウンしてしまったアジョはイトゥンからねぎらいの言葉をかけられる。アジョはこの日からイトゥンのことが忘れられなくなる。恋してしまったのだ。ふたりは再会を果たし、関係が深まるように見えたが、アジョはやがて身を引いてしまう。彼は性的に不能であり、女性を愛することが出来ない。ふたりの運命は意外な方向へ転がっていく…。

エドウィン監督は原作を読んだ時の印象を次のように語ってくれた。

「ビザールな物語にたちまち引き込まれました。ファイトシーンがある一方で、物語は複雑で、興味深いキャラクターが登場します。80年代に流行したB級小説のようなタッチで書かれているスタイルにも惹かれました。ただちに当時の映画も思い出しました。映像的な小説なのです。音や音楽も小説から聴こえてくるようでした。80年代のインドネシアが、映画的に浮かび上がってきます。エンターテイメント性がありながら、しっかり現代と繋がている物語で、古い権力の復活などの問題も扱っています。ロマンティックな内容ではありますが、あまりメロドラマティックになり過ぎていないところも気に入りました」

女性の視点、そしてマチズモ幻想

本作は青年アジョとボディーガードの女性イトゥンの物語であるが、全体のキーはイトゥンが担っているように感じられる。これまでにもエドウィン監督作品では女性が主人公の作品がいくつかあったが、女性を主人公にすることに対して、どのように感じているのだろうか。

「女性やマイノリティの視点から物語を語ることは重要だと思っています。そして女性のキャラクターに、より多様な個性を持たせる時代に来ているとも思います。私は女性ではありませんが、人種としてはインドネシアではマイノリティに属しますし、自分自身のアイデンティティは初期の作品から自分の映画作りに影響を与えています」

もう一方の主人公の青年アジョはケンカの強い男として描かれ、インドネシアにおける昔ながらの勇敢な男の象徴的な姿を現している。エドウィン監督自身、軍事政権が活発な時代に育ち、英雄や男の威厳に関する物語や神話はとても身近なものだったという。

「男性優位主義の名のもとに、暴力が常態化しており、日常生活に横たわっていました」

このマチズモやトキシック・マスキュリニティ(※1)と指摘される性質について、監督は違和感を抱いているという。いまだに男性優位主義や家父長制の価値観は存在しているが、男らしさという勲章を手に入れるために必死にならなくてもいいじゃないか、とエドウィン監督は言う。
青年アジョはED(勃起不全)であることよって、「男らしさ」と現実のギャップに悩み、暴力に走る。原作者クルニアワン氏とエドウィン監督は、アジョの歪んだ行動の中にマチズモ信仰の弊害を描いて見せていく。

映画の中、アジョのEDは幼少期のトラウマに原因を持つという設定になっているが、実は女性に対して暴力を重ねてきたあらゆる男性の罪を一身に背負っているのではないかとも聞いてみる。

「そういう解釈も可能ですよね。男性が支配する世界において、男性器が機能しないことがいかなる危機になり得るかを描いています。権力にオブセッションを持つ男性にとっては皮肉な状況です。世界がこのマチズモの仕組みの中で動いていることのバカバカしさを指摘したいと思いました」

ちなみに、たまに誤解されることもあるようだけれども、「復讐するは我にあり」とは、復讐を誓う人物の叫びではなく、「復讐は神がするから、個人的には復讐するな」という聖書の教えである。『復讐は私にまかせて』において、復讐は女性が担う。つまり女性が神なのか?という僕の問いかけに、監督は笑みを浮かべただけであった。ちょっと行き過ぎたかもしれない。撮影に話を移してみよう。

※1 用語:直訳すると「有害な男らしさ」。社会が男性に対して“男らしさ”を設定し、その“らしさ”に沿わない行動や思想を罵ったり、バカにしたりして排斥することや、またはその概念のことを言う。ただし、この言葉が持つ意味や考え方は日々変化し続けている。

日本人キャメラを起用したフィルムによる撮影

小説から映像が浮かんだということだが、80年代のタッチを再現するためにデジタルではなくフィルムでの撮影としたのだろうか?

「フィルムにはもとから興味を持っています。80年代当時の雰囲気をデジタルで再現することも出来はしますが、とても厄介です。それよりはフィルムで撮った方がずっと良い味を出しやすいのです。必ずしも技術に詳しくはない観客からも、何か特別な感じがすると思ってもらえたのは驚きでした。デジタルだと、どの映画も似たようなテイストになりますが、この作品は何かが違うと思ってもらえるようです。緑やそのほかの色のコントラストが良く出ています」

本作の撮影は、日本の名手芦澤明子さん。どのような形で監督が持つビジュアルイメージを芦澤さんに伝えたのだろうか?

「脚本をめぐってたくさん話しました。特に物語の背景にある社会政治状況についてです。これは説明しないと分からないことですからね。そこから画面のイメージを芦澤さんが作り出しました。当初は35mmフィルムの撮影も検討しましたが、より小型で個性のある16mmフィルムで撮ることにして、多種のフィルターを試しながら緑を基調にした映像を作ってくれたのです」

物語の根柢にある80年代の政治状況

芦澤さんに説明した社会政治状況について、少し教えてくれないかと頼んでみる。作品を深く理解するために知っておくべき89年前後の政治状況とはどんなものなのだろうか?

「当時のスハルト大統領は恐怖政治を敷いており、人々を恐怖で従わせようとしていました。窃盗など軽犯罪を犯した者も反逆者のレッテルを貼られ、殺されました。その遺体は人々の恐怖を煽るために公共スペースに晒されたのです。ストリートで人が死んでいました。83~84年くらいのことです。私の家の近くの市場でも同じことがありました。しかし人々は政治状況の本質を理解することは出来ませんでした。ちょうど同時期にインドネシアはティモール島への植民地支配を強めていたのですが、我々は国内の矛盾について十分な知識を持つ機会が得られず、別の問題に目を逸らされていたのです。この時期の状況を映画にするには今でも困難が伴います。

芦澤さんとロケハン中に小さな食堂でランチを食べたときのことが印象的なのですが、ちょうどその日が現職のジョコ・ウィドド大統領が政権2期目の組閣を行う日でした(2019年10月23日)。そして、スハルトの娘婿で、スハルト政権時に軍人として人権侵害に関わり、追放されたはずのプラボウォ野党党首が、国防大臣として入閣したのです。旧権力者が復権し、新しい権力とのせめぎ合いが見てとれました。とても危機感を抱いたことを覚えています。こういった古い権力がはびこる状況がこの映画に反映されています。旧体制や権力を象徴する人物が映画に登場しますが、彼の辿る運命は私がどうしても描きたかったことの1つです。

この人物にまつわる裏ストーリーとしては、その人物は日本占領時に日本軍から訓練を受けているということです。日本軍は若いインドネシア人をリクルートしていました。インドネシア軍には、オランダ軍派と、日本軍派の2つの派閥が存在します。スハルトは日本軍派でした。日本軍から軍人として育てられたのです。このあたりを深堀していくととても興味深く、現在にまで繋がってくるのですが、そういったインドネシアの権力体制の歴史がこの映画の根柢にあると思います」

魅力的なキャラクターたち

イトゥンを演じる主演のラディア・シェリルはエドウィン監督作品の常連であり、今作が長編としては3本目のコラボレーションとなる。「どうしていつも大人しい役ばかりなのだ」と以前に冗談で文句を言われたと監督は笑う。NY在住のために当初のキャスティング候補には上がっておらず、しかしやはり彼女しかいないと、出演依頼することになったという。
アクションの経験はほとんどないものの、今回は完璧に武術をマスターしている。相手の肩に飛び乗り、脚を首に絡めながら回転して相手の体を倒す一連の技のキレ味には、惚れ惚れするばかりだ。一方で、愛に一途な姿を見せる場面では、切ない胸の内が滲み出るような可憐な姿となり、その幅の広い演技は観客を魅了せずにはいられない。

そして、映画の中盤、不思議な場所から突然、謎の女性ジェリタが登場する。精霊のような、しかし実体を伴った人物。どこか、復讐を概念化した人物のようにも見える。いったい彼女は何者なのか?

「芦澤さんと最初にディスカションしたのが、ジェリタのキャラクターについてでした。原作本ではあまり細かく説明されていません。原作ではただ『醜い顔』としか書いていないのですが、随分と主観的で曖昧な表現ですよね。醜いとはどういうことだろうと芦澤さんと話し合いました。やがてよりスピリチュアルな存在であること、そしてご指摘のように、復讐が体を持ったような存在に仕立てていったのです。

暴力や抑圧に反対するというのが、我々が映画に込めたステートメントでもあります。暴力は蔓延していて、必ずしも法や良識だけで解決する問題ではないかもしれませんが、映画の中でひとつの区切りをもたらす存在がジェリタであると言ってもいいかもしれません」

アクション・ラブストーリーとして実に楽しい作品である一方で、フィルムの手触りと色彩が個性的な日本のキャメラマンによる撮影、抑圧された女性の解放やマチズモにトキシック・マスキュリニティという主題、さらには腐敗した権力と暴力の歴史への意識など、通常のエンタメ作品を凌駕する様々な要素に満ちた作品が、『復讐は私にまかせて』という映画である。

国際共同製作

映画の中身とは少し離れるけれども、本作の作られ方にも触れてみたい。『復讐は私にまかせて』は、インドネシア映画と呼んで差し支えはないものの、実体としては、複数の国から資金を集める「国際共同製作」体制で作られている。アート系作品に対する国内マーケットが小さい東南アジア諸国では、監督が自らの企画を進めたい場合に資金調達を海外に求めるケースが多い。国内では2千万しか集まらないとしても、5ヵ国揃えば1億になる。
また、複数国が参加する過程で、脚本はよりブラッシュアップされ、洗練されたものになってくる。外国のプロデューサーと組むことで、海外の主要映画祭にもコネクションが出来ることもなる。その結果、しかるべき予算をかけ、メジャー映画祭で紹介される道筋が開けてくる。
もちろん事はそう単純ではなく、気の遠くなるような作業とプロセスを経ていくわけだけれども、冒頭に名を上げたカミラ・アンディニ監督も、モーリー・スリヤ監督も例外なく同じプロセスを踏んできているし、その先駆者たる存在がエドウィン監督であるとも言える。
日本では深田晃司監督や濱口竜介監督らがフランスと縁を築いてカンヌやベルリンやヴェネチアなどのメジャー映画祭に出品を果たしているが、まだまだその数は限られている。国際共同製作に取り組むノウハウを持つプロデューサーの育成が日本の映画業界の喫緊の課題であり、様々な取り組みが行われている。
共同製作について、エドウィン監督に尋ねてみた。

「『復讐は私にまかせて』の企画立案から完成までには、6年を費やしています。インドネシア、シンガポール、ドイツ、タイの4か国の共同製作体制となりました。やはりそのくらいの時間はかかります。長年の付き合いのあるインドネシアの2人のプロデューサーが大変な努力をしてくれていますが、私も常に資料やシノプシス(脚本の概要)など必要なマテリアルをアップデートして2人と議論していますので、資金調達には参加していることになります。外国のプロデューサーに読んでもらえる脚本を常にアップデートして用意しておくことが肝心です。プロデューサーの意見を聞きながら常に脚本をリライトしますが、自分の肝となる部分は守るようにしています。海外の観客のことを意識はしますが、脚本の内容を左右するほどではありません。自分が理解できるのであれば、観客も同様であるはずだと思っています。たとえ100%ではないかもしれませんが。結局、自分が信頼できるパートナーとしてのプロデューサーといかに出会えるかが、最も重要なことでしょう」

インドネシア映画界の切磋琢磨

活況を呈しているインドネシアの映画界は、エドウィン監督の目にどう映っているだろうか?

「インドネシアの監督同士、映画に対する異なる考え方を認め合いながら、互いから学ぼうという意識があります。そこがインドネシアの監督たちのダイナミズムの根柢にあると思います。インドネシア映画とは何かと定義付けるようなことはしません。好みのテイストも価値観も異なることがありますが、多様性を受け入れ合っています。
私が短編を作っているころから、ジャカルタやジョグジャカルタの映画人コミュニティーが一体となって映画祭にアプローチするなど、協力し合う文化がありました。映画祭で互いの作品を見ることでさらに繋がりが強化となり、コミュニティーも緊密なものになっていったのです。インドネシアは映画学校も少なく、映画教育制度が進んでいません。ですから、例えばジョグジャカルタ映画祭でたくさんのアジア映画を見て、そこから学んでいくことがとても重要になります。いかに自分たちの映画が他のアジア諸国にコミュニケート出来るか、そういうことを作り手も観客も学んでいくのです」

『復讐は私にまかせて』は、とても楽しいエンターテイメント作品である。しかしそこには、インドネシア現代史の文脈、ジェンダーやトキシック・マスキュリニティといった現代的主題、さらには国際的な資金調達体制や、インドネシア映画人たちの相互活動が凝縮されて作品が産み出されていることなど、いくつもの刺激的な要素が詰まっている。
まだまだ日本での一般的な認知度は低いインドネシア映画だけれども、『復讐は私にまかせて』が初のインドネシア映画体験になるとしたら、それはとても幸せなものになるだろう。

写真:『復讐は私にまかせて』8月20日(土)シアター・イメージフォーラム他全国順次公開

 

矢田部吉彦(やたべ・よしひこ)
仏・パリ生まれ。2001年より映画の配給と宣伝を手がける一方で、ドキュメンタリー映画のプロデュースや、フランス映画祭の業務に関わる。2002年から東京国際映画祭へスタッフ入りし、2004年から上映作品選定の統括を担当。2007年から19年までコンペティション部門、及び日本映画部門の選定責任者を務める。21年4月よりフリーランス。

 

寄稿:矢田部吉彦
編集:おのれい

 

(注)
本コラムに記載された見解は各ライターの見解であり、BIGLOBEまたはその関連会社、「あしたメディア」の見解ではありません。