
自分の痛みを表現することは怖い。
なぜなら、「痛い」「辛い」という言葉に対して、「みんな大変だよ」「もっと大変な人はいる」という言葉が返ってくるから。
20歳のときに難病(潰瘍性大腸炎)を患い、13年間の闘病生活を送るなかで、カフカの言葉が救いとなった経験から、文学紹介者として活動する頭木弘樹さん。9月11日に刊行された『痛いところから見えるもの』(文藝春秋)に書かれていることを中心に、「痛みを言葉にすること」についてお話を伺った。

頭木 弘樹
文学紹介者。著書に『絶望名人カフカの人生論』((新潮文庫、2014年)、『絶望名人カフカ×希望名人ゲーテ 文豪の名言対決』(草思社文庫、2018年)、『絶望読書』(河出文庫、2018年)、『食べることと出すこと』(医学書院、2020年)、『うんこ文学 ──漏らす悲しみを知っている人のための17の物語』(ちくま文庫、2023年)、『自分疲れ――ココロとカラダのあいだ』(創元社、2023年)など。NHK『ラジオ深夜便』内のコーナー「絶望名言」に出演中。
痛い人と、痛くない人の間にある本を書きたかった
新刊『痛いところから見えるもの』を書かれたきっかけを教えてください。
文藝春秋の編集者である山本さんから、「痛みについて書いてほしい」というご依頼があったのがきっかけです。最初は私には書けないと思っていました。というのも、痛みって“痛い”としか言いようがないから。「痛い、痛い」とずっと書いてあるばかりになってしまうなと。しかし、山本さんとやりとりをするなかで、意外に書くことがあるな…とだんだん思うようになってきたんです。
それはどのような変化だったのでしょうか?
ある人が、身内の方が非常に身体が痛い状態にあって、家族だけれどもその痛みを分かってあげられないと。痛みがある当人もうまく説明できず、ご家族は「なんで自分のことなのにきちんと説明できないの?」と時々腹が立ってしまう…という話を聞きました。
私はそれを聞いて、自分の入院中のことを振り返り、そういうやりとりはとても多くあったなと思ったんです。そういうときに、痛みを持つ人と持たない人の間に本があり、いろんな痛みについて「この部分のこういう気持ち・痛みなんだよ」などと話せたらとてもいいんじゃないかなと思いました。
書き始めるまでに1年以上はかかりましたね。
そのような経緯で書かれた『痛いところから見えるもの』も含めて、本を出されるときに意識されていることはありますか。
本を出すからには、世の中にあったほうがいい・あるべき本を書きたいと思っています。
入院中に色々と本を読んでいるときに、自分の求める本がなくてもどかしかったんですよ。私は自分の病気を「治らない病気」と言われたわけですが、世の中の大半は「立ち直る本」で、立ち直れない人がどう生きていくか、という本がなかなかない。なので、自分が本を出す側になったときには、そういう「あるべきなのにない本」を書いていきたいと思っています。
『痛いところから見えるもの』は目次が公開されています。「痛みにはもれなく孤独がついてくる」という章がありますが、その孤独とはどんなものなのでしょうか。
痛みを他者に理解してもらうのは本当に難しいですよね。相手も同じ痛みを経験していれば分かってもらえるかもしれないけど、やっぱりそうじゃないと分からない。痛みを持つ当人自身も、痛みが消えて何年か経ったら、痛みを思い出せないこともあります。それが痛みの特殊なところなんだと思います。だから、いま痛い人だけが苦しんで、他の人に分かってもらえないということが起きやすい。
痛い人にとって、痛みがある上に分かってもらえない、という状況はダブルで辛いものです。痛みを分かってもらったって、その痛みが減るわけではありませんが、やっぱり辛い。
そういう、分かってもらえない孤独というのは、だんだん怒りになったり人間不信に繋がったりするほどのものだと思います。
世界で一番苦しい人しか嘆いてはいけないのか?
分かることはできなくても、少なくとも傷つけることは言わずにいたいものです。痛みを持つ人をより孤独にしないために、周りの人はどのようなことに気を付けたらよいでしょうか。
痛みや苦痛は、「一般化」と「比較」をされやすいんです。
「一般化」というのは、「みなそれぞれに大変さを抱えているのだから、そんなに自分だけ騒ぐな」なんて言われ方をすることです。「比較」というのは、もっと大変な人がいるんだから、それぐらいで騒ぐな、と言われてしまうことです。この2つは、やられたことがない人はいないと思います。でもこれは、痛みを持っている人に対して、一番やってはいけないことだと思います。
たとえば一般化では、生きてればみんな辛いんだと言うけれど、痛い人はその上にさらに痛いわけです。リュックを1つしか背負っていない人が、2つ背負っている人に対して「みんな重いんだから」と言っているのと同じですよね。
山田太一さんの「旅の途中で」というテレビドラマで、物語の終わりにある登場人物が「夫婦なんてみんな、そんなもんよ」と一般化するようなことを言うと、相手が「そんなことは、ないな」と否定するシーンがあるのですが、それを観たときに、すごく感動しました。
確かに、分からないものを捉えようとするとき、「一般的にはどうか」という材料を探すように思います。一人ひとり違う状況なのに、「みんな同じ」と当てはめてしまう、ということですね。
矛盾するようですけど、違うのならどっちの方が大変なんだという比較が次に出てきます。これは、周囲の人だけでなく痛い当人もやってしまうんです。
病状が重い人が上で軽い人は肩身が狭い、ということが病室では起きます。そして同じぐらいの病状の人同士で、不幸比べが始まるのです。
俺の方が大変だ、いや俺の方がこんなに苦しいなんて言い合うんですけど、これは勝った方も負けた方もへこみます。勝った方は人より苦しいわけだし、負けた方もすごく苦しいのに下に見られて気分が良くない。不幸比べは本当に無益だなって、病院の6人部屋で身にしみました。
AさんとBさんの苦しみは比較できない、と思っています。同じ人が両方体験すれば苦しみの程度の違いが分かるけど、別の人の苦しみは全く分からないですよね。比較をしてしまうと、世界中で一番辛い人しか嘆けなくなってしまう。
私も入院中に経験したのですが、痛いと言っていると最初は同情してもらえます。でもずっと言っていると、だんだん相手にされなくなってくるんです。病院という場でさえ、そういうことがあります。痛いと言い続けている人はちょっと情けない感じになったり、本当に痛いのか疑われて我慢が足りないように言われたり。痛みを堪えている人の方が素敵だよ、なんて言われてしまったりする。それが当人にはこたえるんですよね。
どうして痛みを持たない人は、そんな言葉を投げかけてしまうのでしょう。
痛みに苦しむ人の存在は、元気な人にとって不安要素なのだと思います。自分ももしかしたらそうなるかもしれない、自分も苦しむ可能性があると思っている人ほど、苦しんでいる人に明るいことを言って欲しがる。嘆き続けている人がいると非常に不安を高められてしまうから、「辛くても大丈夫」という人を好むんです。
「辛くても大丈夫」という物語や記事はよく見られますね。
難病に関する取材なんかでも、やっぱり昔は「苦しかったけどいまは楽しく生きています」という結論に持っていきたがるようなものが多かったですね。それは元気な人は勇気づけられるかもしれないけど、倒れたままの人にとっては逆にへこみます。自分は立ち直れていないわけで。そのままでどう生きているかっていう記事もとても大事だと思うんですよ。困難克服物語のほうがウケはいいですが、そこにすごく逆らっていくことが大事だと思っています。
チャップリンは貧困の中からお金持ちになりました。彼は他の人がエッセイの中で、「チャップリンと貧困の街を歩いたら非常に懐かしそうにしていた」というような書き方をしたときに、激怒したんです。「わたしにとって貧困とは、魅力的なものでも、自らを啓発してくれるものでもない」と。
成功した人は「あの時代も良かった」みたいなことを言いますが、あれはやっちゃいけないと思っています。だって、ずっとその時代の人がいるんですから。
新刊に寄せて「何も得られなくても、痛くない方がいい」という言葉をSNSに投稿されていることが印象に残っています。いまのお話とも繋がりますが、この言葉はどんな思いから発されたのでしょうか。
痛みを我慢した方がいいというのは、全部は取りきれないから仕方ない面もあります。でも、それを良いことのように言ってしまうのは違う。「取れない痛みもあってすみません」と言われるほうがまだ良いです。得るものが無くたって痛くない方がいいでしょう。
あとは失うものも多いですからね。あんまり苦しむと、心も歪みます。当人が「痛みを我慢して得られるものがある」と言うのは仕方ないと思うんですが、周囲がそれを押し付けるべきではないですよね。
痛みを乗り越える物語が人から好かれるのは、何か困難があって乗り越えていくというのが人生だ、という基本パターンからきていて根強いんだと思います。でも痛みに関しては、本当に違う。
痛みを持つ人が相手に分かってもらえるように話しているのに、辛い状況から脱せないのは努力が足りないからだと言われてしまうこともありますね。
努力信仰も本当に恐ろしいことです。努力して立ち直った人や成功した人は、自分の努力のせいだと思うんですよね。でも100%努力によることなんてありえないわけで、ずいぶんいろんな偶然が働いているんですが、当人はそれを意識しない。
ジェームス・ブラウンのドキュメンタリー映画を見ていて、興味深かったんですが、彼は貧困から這い上がったので、同じ貧困の人を助けようとするのですが、自分が頑張ってきたから、頑張る人しか助けなかったと。そのせいで晩年、彼からは人が離れていったそうです。彼は自分がそういう道を歩んだから無理もないんですが、頑張れない人のことが分からなかったと語られていました。頑張れないことってあるし、そういう人のほうが大変なんですけどね
痛みを分かり合えた先にある、人と人との繋がり
誰にでも頑張れないときはありますね。頑張ることを求められすぎていると、とてもつらく、自分の無力さを感じます。
私も難病になってそうだったんですが、やっぱり立ち直らなきゃって思っていました。そうするとすごく苦しいわけですよね。そんなときにカフカの「いちばんうまくくできるのは、倒れたままでいることです」という言葉を読んで、本当に感動しました。
倒れたまま生きていくにはどうしたらいいか、というふうに切り替えると、そのほうがずっといい。なかなか声を聞いてもらえなかったり、当人も隠していたりしますが、実際は倒れたままの人がすごくたくさんいる。それをちゃんと語り合えれば、分かってもらえなくて孤独になっている人間同士は、そこで繋がれる、ということもあるわけです。お互いの孤独は分かりますからね。
頭木さんの前著『食べることと出すこと』(医学書院、2022年)でも、同じ麻酔の痛みを分かりあうことができた瞬間のお話を書かれていましたね。
今回もその話は書きました。この人は同じ痛みを知っているなあと思ったときの、あの感動はすごかったですね。自分でも不思議ですが、その痛み自体は別に泣きたいとも思っていなかったし、そのせいで苦しんでいる気もなかったんです。手術でたまたま痛かっただけですから、アンラッキーだったなぐらいに思っていたんですけど。
しかし、同じ痛みを知っている人がいると分かった瞬間、2人でボロボロ泣いてしまって。あの繋がりは、ちょっと特別でしたね。全然気が合わない人だったんですけどね。向こうも時々思い出していると思いますよ。
カミュの著書『ペスト』のなかで、ペストになった患者が、なっていない人に分かってもらうためには、自分の特別な気持ちを十把一絡げの感情に変えてしまわなきゃいけない、そうしないと分かってもらえない、そういう代償を払っても聞いて欲しいんだ、というようなことを書いています。さすがカミュ、すごいなと思います。
彼は若い頃からずっと結核で苦しんで、いつも死刑台にのぼる悪夢にうなされていたらしく、そういう人が書くものはやっぱり違いますよね。自分のなかにあるモヤモヤして全く表現できないものが、言葉で表現されているというのは、とても大きい感動です。
痛みを分かり合える、というのは強い繋がりを感じる瞬間かもしれませんね。しかし、実際にこのような経験はなかなか生まれづらいものですよね。
生まれづらいですね。昔、病気で便を漏らしてしまうという話を本に書いたことがありました。そしたらDMなどでたくさん「自分も実は…」という言葉が届いたのです。こんなにいたのかと、驚きました。みんな隠しているから分からないのですが、言い合うと心の繋がりになると思います。
悲しい体験、孤独な体験、ネガティブな体験というのは、人を孤独にして切り離して一人きりにしてしまうけど、逆にそれを語り合えた時にはとても強い繋がりになる。だから語るということは大事だと思うんですよね。隠しちゃうと孤独なままですから。
痛みを言葉にすることが、繋がりを生むかもしれないというわけですね。では、痛みを持つ人がまず話す相手はどんな人が多いのでしょうか。
まずは大体、家族とか親友とか身近な人に言うことが多いですよね。やっぱり秘密の部分もありますからね。そこでいい反応が得られなくて、結局わかってもらえないんだって黙ってしまうコースがとても多いわけです。
そうなってしまうのはどうしてなのでしょうか?
話を聞く相手の立場からしたら、何か励ましたり慰めたりしなきゃいけない、と思ってしまうからだと思います。話を聞いている間もずっと、これどう返事したらいいんだろうと悩んでいる。
聞く方が返答の仕方で頭がいっぱいになってしまうと、話している方はちゃんと聞いてもらえていない感じがする。さらに聞き手が「大丈夫だよ」「そういうことはみんなあるよ」とか言ってしまうと、「これは話してもムダだ…」と話し手が思ってしまう。そういうすれ違いが起きてしまうので、意外と身近な人の方が難しいんですよね。
そのようなすれ違いが起きると、痛みを持つ人も身近な人も口を閉ざしてしまいそうです。どんな姿勢で聞いたら良いのでしょうか。
最近オープンダイアローグ(※1)というものをやってみたんですが、そのとき友達役という役割を担当したんです。私に与えられたのはただの役であり、話す方の私生活までは知らないので、あんまり言うことがないんです。ただ聞いているだけで、返事をしなくてもいい。そういう状態で聞いていたら、相手の話がすごく入ってきたんですよ。そのとき初めて、日常の会話では相手の話を聞きながら、自分のターンのことを考えているんだなと気づきました。いままでこんなに人の話をちゃんと聞いたことがなかったんじゃないかと。
だから身内の人と話すときは、「励ましや感想や慰めはいらないから、ただ聞いて」と伝えて話したほうが、お互いに満足度が高いと思いますね。全く返事をしないで、ただ話を聞くというのは難しいです。そもそもキャッチボールのように打ち返すものが会話だと思い込んでしまっているところもありますからね。でも意外とそれってまずいなと思いました。
※1 用語:「オープンダイアローグ」とは、フィンランド発祥の精神科医療におけるアプローチで、患者本人、家族、医療関係者が対話の場に集まり、それぞれの視点から問題を捉え、関係性を構築することで課題解決を目指す対話を重視した療法。
文学の力をかりて表現する、痛い、苦しい、つらい。
相手が変わると、話す言葉も変わっていくと思います。たとえばお医者さんに話すときには、どんな違いがあるのでしょう。
それはかなり違いますね。お医者さんに話すときは、やっぱり病状をちゃんと伝えないと命に関わりますから、それはそれでまた別の難しさがあります。痛みってうまく言えないので、病院の6人部屋でも互いに相談していました。みんなで表現を考えるんです。先生から「ズキズキ痛いですか?」と聞かれたら、つい「はい」って答えてしまうんだけれど、ズキズキじゃないよね、なんてことを話していました。
次の診察までに考えようと思うんだけれど、これが結構難問で、詩人の打ち合わせみたいになるんです。新しい表現をどうやって生み出すか?と、文学サークルみたいになる。お医者さんは統計的で科学的だから、実感で語る患者とは言葉が違います。たとえば食べ物の話をするとき、一方は栄養成分の話をして、もう一方は美味しいとかまずいとかの話をしていたら、噛み合わないですよね。そういうふうなことが、医師と患者のあいだでも起きがちです。
そのほかには、痛みはあるのに原因が見つからないという人もいました。原因がないのはいいことでもありますが、痛みはあるわけですから、その人は泣いて訴えていましたね。
インターネットなどで第三者に話すときには、またどのように変わっていくのでしょうか。
たとえばブログなどに書くのも結構危険です。うまく語るのが難しいことを、無理に語ろうとすると、ありがちな物語やありがちな表現を使ってしまいやすい。文学者じゃないから、どこかで見たものを使って書くことになるのは当然だと思うんです。でも、よくある書き方をすると、自分だけのかけがえのない気持ちまで、ありきたりなものに入れ替わってしまう可能性があります。そうすると、かえって自分で辛くなります。自分でも本当の気持ちがよく分からなくなったりもします。書くことの悪影響というのもあるのです。
それでもやっぱり孤独ではいたくなくて、痛みを言葉にしたいと思うこともありますよね。そんなときに、どんな視点を持つというのでしょうか。
安易に言葉にしない、ということがまず大事だと思います。相手に聞いてもらえるように、ウケるように話そうとして「大変だったけど、いまは元気に生きています」と嘘でも言ってしまうということがあります。求められる方向にはまっていくことに対しては、抵抗しなければいけないですね。
でも、分かってもらえないから言葉にしないというのも、やっぱりよくない。安易にはやらないけれど、なんとか言葉にしようという努力は続けていかなければいけないと思います。自分だけの言葉を見つけるっていうのは、難しいんですけどね。
自力ではなかなかすぐに出てこないので、いろんな文学が参考になると思います。とくに純文学は、言葉にならないものを言葉にしようと頑張っています。だからそこには、いままで言葉になっていなかったものが表現されているわけです。こういう気持ちが見事に言葉になっているな、と感心します。それをそのまま使えるわけではないけれど、すごく参考になる。文学は、自分の気持ちを表すための、お医者さんに正確に説明するための、究極の実用ですね。
文学が痛みを表す言葉に繋がる、というのはどういったことなのでしょう。
痛みをお医者さんに正確に説明しようと思ったら、文学的表現は欠かせません。『痛いところから見えるもの』にも書きましたが、たとえば血管の中が痛いと言う人がいるんですが、それがどんな痛みなのか、なかなか想像がつかないですよね。私もやっぱり分からなくて、点滴が漏れて痛いという経験があるから、そういう感じなのかなと思っていたら、「血管の中をガラスの粉が流れてくるように痛い」と表現されていて。これは痛そうですよね。点滴の痛みとは違うと言うのもわかる。すごい文学的な表現でしょう。
文学気取りをやっているわけではなくて、こういう形でしか表現できない。『痛いところから見えるもの』でも文学をたくさん引用しているのは、そういうところがあるからです。私自身も、病状を説明するために文学に頼りました。それまでは本を読まない人間でしたから。
文学から何かを得て自分の言葉で痛みを表現ができ、誰かに伝わったとき、そこにどんな喜びがあると思われますか。
この人分かったなというのは、なぜか分かるものです。分かってもらえていないのも分かる。分かってもらえたときの繋がりというのは、先ほども言った通り非常に大きい。書いた方も読んだ方も感動するということになりますから。そこまで行くのが大変なのですが、でも言わないと誰も気づかない。
私も実は、言葉にするのは無理があるから、あまり喋らない方がいいんじゃないかと最初は思っていたんですよね。結局誤解を招くだけだし、下手すれば愚痴っぽい人ということになって嫌われるだけだと思って。
でも、熊谷晋一郎さんという、ご自身も脳性麻痺という障害を持ちながら小児科医になり、障害と社会の関係について研究されている方に、「言葉にすると違ってきてしまうことについてどう思われますか?」と聞いたら、「介助者に何かをしてもらわないといけないっていうときに、言葉にする必要がある」という意味のことをおっしゃいました。それはもう本当に、そうだなと思いましたね。言葉にしたら違ってしまうなんて言っているのは、まだ贅沢なんだなと思いました。ちゃんと言葉にしていかなければ、と思ったことを覚えています。
自分だったらどうするか、は必要ない。
大切なのは、グラデーションを想像して対話を続けること
相手との関係性にかかわらず、痛みを経験していない人が痛い人の話を聞くとき、必要な姿勢はどんなものなのでしょう。
これは痛みに限らずですが、相談を受けたり、話を聞いたりする人は「自分だったらどうするか」と考える人が多いように思います。しかしこれは、非常に危うい考え方です。
相手と自分は経験も異なるし、相手には相手の、こちらには分からない事情や感じ方がある。そういう、ためらいをどこかに持っているかどうかが、大きな違いになる思います。
分かってあげようとする以上に、分からないんだっていう前提で聞くことが大事だと思います。色々聞いた後に結論的なことを言ってあげなきゃいけないというプレッシャーを持たず、それなしでいいという前提になった方が対話がとても豊かになると思います。目の前の人の話を素直にそのまま聞いてあげるということですね。
自分だったらこうする、と白黒つけて判断するのではなく、相手の事情を想像した対話の姿勢が大切ということですね。
白黒つけたほうが分かりやすいですよね。でも、常にグラデーションだということを意識した方がいいと思います。どちらか極端にいくという性質が人間にはありますが、だからこそ常に間を取ろうとすることが大切なのではないかと。それが難しいからこそ、いつも心がけなければいけないことかなと思います。
目の前の相手を傷つけてしまうことを恐れすぎてしまうと、対話ができなくなってしまうということもありますよね。
優しい人ほど人を傷つけてはいけないと思って、傷つけてしまいそうな相手に近づかないように、遠巻きにするようになってしまいます。それは、とても残念なことです。
目の前の人を傷つけることを、あまり恐れなくていいと思うんですよね。人と人が接したら、絶対傷つけてしまうんですよ。それは恐れなくてよくて、傷つけた後の調整が大事だと思います。
目の前の人に何か言って、それで傷ついたとしたら、それはもう言わないようにする。そうやって、個人と個人のあいだで調整をしていけば、だんだんいい関係になっていけます。そうではなく、事前に、対話する前に、「こういう言葉はよくない」「こう言った方がいい」などと一般論で勉強してから接しようとすると、とても勉強しきれませんし、一般論と個人ではちがいますから、役に立たないこともあります。
とりあえず傷つけるのは仕方ないと思って、当人がそれを嫌がったらやめる、という普通のことをやった方がいいと思います。前もって「気をつけるべき十ヵ条」とか勉強しようとするのは、ほんとやめたほうがいいです。個人と個人として向き合ってほしいです。

頭木弘樹『痛いところから見えるもの』(文藝春秋)
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痛いのは疲れる、そして孤独だ――
痛みは人を孤絶させる壁。が、そこに岩清水のように滴る言葉があった。
――鷲田清一(哲学者)
ユーモラスで、しみじみせつない、はじめてみる光。
――伊藤亜紗(美学者)
潰瘍性大腸炎から腸閉塞まで――壊れたからこそ見えるものがある。
絶望的な痛みと共に生きてきた著者がゆく“文学の言葉”という地平
・水を飲んでも詰まる“出せない”腸閉塞のつらさ
・痛みでお粥さえ口に“入れられない”せつなさ
・オノマトペ、比喩……痛みを「身体で語る」すすめ
・女性の痛みが社会的に「軽視」されてきた理由
・カントの勘違い、ニーチェの“苦痛の効用”…etc.
なぜ痛みは人に伝わりづらいのだろう?
「痛い人」と「痛い人のそばにいる人」をつなぐ、かつてなかった本。
取材・文:カネコハルナ
編集:おのれい
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