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マライ・メントライン|適応力の限界とは?【連載 あえてSDGsを懐疑してみるのもまた一興】

この連載、そもそも2~3回でネタが切れると思っていて、そこで打ち止めにするつもりであった。というかいまもそうで、前回あたりでもう潮時かなと思っていたのだが、ちょっと思いついたことがあるのでまた書いてしまう。カート・ヴォネガットふうに言えば、そういうものだ。

ドイツ「緑の党」の党首辞任が暗示するもの

2024年9月、ドイツ東部州選挙での大敗を受け、ドイツ「緑の党」のダブル党首が揃って辞任を表明した。ドイツ緑の党については以前にも話題にしたことがあるが、中途でいろいろな変節を見せながら「環境政党」の老舗として、世界の多くの人びとの記憶に残る存在といえる。

今回の辞任劇について、党組織としては「変革のための前向きなもの」と述べている(まあ、立場上そう言い張らないといけない面もある)。だが、正直なところ、根性だけでリングに10ラウンド立ち続けてきたボクサーが、ついにとどめの右ストレートを顔面に食らってダウンしてしまった瞬間のような感触が、ドイツ社会の空気感を知っている私にはある。

これまで頑張ってきた何かがついに斃れ、そして完全に失われてしまった感触。

その本質は何か。

いろいろ見解はあるだろうが、個人的にそれは「いままでの生き方を、理性によっていくぶん軌道修正することで達成される社会変革」のコンセプトだろうと思う。それが「そんな路線では手ぬるい!」と「もともと不要だ!」の二派に挟撃されつづけたあげく、徹底的に粉砕されたのだ。

人間の埋没的欲求とSDGsの相性

また逆に、そうした日常理性信奉的な路線の維持につとめてきた勢力の衰退感もすさまじい。支持層の高齢化もあるだろうけど、ドイツに帰郷するたびに実感が深まるのが、そうした人々(多くは中道左派)のもはや、新しい「正しさ」についてゆくのに疲れたという深い実感、諦観である。

生活哲学と密着した自分たちの知的信念が、数十年かけて、どうやら形骸化した商業的モットー以上のものを生み出せなかった的な感触。おそらくこの路線の先には何もないし、また、そういうアレコレを目の当たりにして嫌悪感を抱き、走り続けて行きつく先のひとつが「環境テロ」だったりするのだろうな、と思わぬでもない。

だがしかし、世界は「だからといって」完全過激化の方向に向かうのだろうか?

そういう見立ても確かに存在するが、実際はどうだろうか。良くも悪くもアクティブな人々は、状況によっては(そう、世界中どこでもとは言わない)意外と少数派にとどまるかもしれない。何故かといえば、たとえば私自身、過量な情報に取り囲まれ、日々それを捌かねばならない日常を過ごすなかで、次第に社会に刃向かうことも社会を守ることも、だんだん同様にしんどくなってきたからである。

そして、その先に浮上してくるのが、なるべくエネルギーを消費せずに生きたいという埋没的欲求だ。

そう、ここで気づく。

SDGsを含むこれまでの環境運動は、対立しあう思想的諸派を含め、みな、エネルギー使用の適正化・最適化実現のため、それはそれですごい変革エネルギーを投入する姿勢を見せていた。「見せつけていた」といってもいい。なるべくエネルギーを消費せずに生きたいという発想は、一見すると地球にやさしい系の環境主義路線ぽいが、根本ベクトルがおそらく真逆なのだ。興味深い。

そしてそういえば、いわゆる環境主義路線を厭う人々がいた。私はその「厭う人々」について、一律「あと先考えずエネルギーを使っちゃう」タイプの刹那主義的な存在だと思っていた。実際そういうタイプも多いのだろうけど、たぶんそれだけではない。中にはけっこうな比率で、「ただ単に耐える」人というのが居るのではないか。

そして実は、根本的には自分もそのカテゴリに属するのではないか、と思うようになってきた。

正常性バイアスを持つ人間の「生きる力」と、皮肉にも見える最良のエンディング

「耐える人」とは何か?

ありていにいえば、手に入る食料の量が半分になれば、それで怒って立ち上がるのではなく、半分の量で生き続けようとする生物である。

さらに半分に減らされたら、それで何とか生きていくのだ。またさらに半分に減らされたら…もういい加減生きていけないはずだから、さすがに立ち上がるだろう、と思うでしょ。

でもたぶん違う。ナチの強制収容所の記録などを読むと、人間がいかに非人間的な欠乏環境におかれようと、正常性バイアスという「日常性幻想」にすがりつく力で生き抜いてしまえるか、ということがよく分かる。人間は、どこまでも自らを騙して環境に適応するのだ。このような地獄システムによって、ある意味、人類は資源枯渇時代を生き延びられるかもしれない。

よくよく考えると、これはこれで持続可能性の道といえるのではないか。

そして重要なポイントは、まったく「前向きな克服」的な要素が見当たらない点だ。しかし、人類の成長神話自体が飽きられている昨今の状況には、向いたアイディアかもしれない。

いわゆる意識高い系の人々が嫌がりそうだという点も、ネット民的な層にはむしろ好ましく映るだろう。最新の電脳デバイスによってその「幻想」面のリアリティを強化すれば、たぶん心身の抵抗は大幅に減少する。これは前回の記事で述べた、映画『マトリックス』の似非現実システムと現実の中間にある一種の妥協点といえるが、いま実際、内心で「これはアリ!」と思っている政治家とか社会プロデューサーは絶対そこそこ居るだろうなぁ、と思う。

この考え方で唯一気に入らない点が、「耐える人」というのが根本的に体制順応型で、いわゆるビッグブラザーの下僕以上の価値を持たないっぽく見えるあたりだ。

でも仕方ない。体制反抗的な言辞を思う存分吐き散らしながら、実態はマトリックス的に完璧にシステム管理され、そして主観的満足さに満ちながら死んでゆく、というのがいまのところの人間存在の、蓋然性からみて最良のエンディングなのかもしれない。そして世界はよたよたと生き延びる。

それでいいのか?

インテリしぐさ的には「否!」が正解と思われるが、では、真の正解とは何だろう?

 

マライ・メントライン
1983年ドイツ北部の港町・キール生まれ。幼い頃より日本に興味を持ち、姫路飾西高校、早稲田大学に留学。ドイツ・ボン大学では日本学を学び、卒業後の2008年から日本で生活を始める。NHK教育テレビの語学講座番組『テレビでドイツ語』に出演したことをきっかけに、翻訳や通訳などの仕事を始める。2015年末からドイツ公共放送の東京支局プロデューサーを務めるほか、テレビ番組へのコメンテーター出演、著述、番組制作と幅広く仕事を展開しており「職業はドイツ人」を自称する。近著に池上彰さん、増田ユリヤさんとの共著『本音で対論!いまどきの「ドイツ」と「日本」』(PHP研究所)がある。
https://x.com/marei_de_pon

 

寄稿:マライ・メントライン
編集:大沼芙実子

 

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