日本に広がるもう1つの貧困、子どもの「体験格差」をご存じだろうか?
体験格差とは、学校外の体験機会を得られるかどうかが、子どもによって格差が生じていることを表す言葉である。
日本における年収300万円未満のいわゆる「低所得世帯」では、子ども達の体験が平均的に少ないというだけでなく、公益社団法人チャンス・フォー・チルドレンが2022年に行った全国調査の結果によれば、約3人に1人が体験の機会が過去1年間で1度もない「ゼロ」の状態にあると言われている。
社会ではまだあまり認知されていないかもしれないが、地域のお祭りに参加できず、サッカーやピアノをしたくてもできない、休日に海や動物園に遊びにいったことがない子ども達が多くいる実情があるのだ。こうした実態について、2022年に日本で初めて大規模な調査を実施し、2024年には『体験格差』(講談社)を出版したのが、今井悠介氏だ。
今井氏が代表を務める公益社団法人チャンス・フォー・チルドレンは、阪神・淡路大震災で被災した子どもたちの支援を行ってきたNPO団体のプロジェクトとして発足。その後、2011年に発生した東日本大震災に伴い独立し、法人として設立された。これまでに、 子どもたちの学習塾、習い事等の受講料として利用することができる「スタディクーポン」などを通して、全国の経済的困難を抱える子どもたちの教育支援を行っている。
今回は、今井氏にそもそもなぜ2022年に体験格差に関する大規模調査に踏み切ったのか、そして調査からわかった体験格差の実態や、いま進めている取り組みについて伺った。
◼️今井 悠介(いまい ゆうすけ)
1986年生まれ。兵庫県出身。公益社団法人チャンス・フォー・チルドレン代表理事。公文教育研究会を経て、東日本大震災を契機に2011年チャンス・フォー・チルドレン設立。6000人以上の生活困窮家庭の子どもの学びを支援。21年から体験格差解消を目指し「子どもの体験奨学金事業」を立ち上げ、全国展開。24年4月に初の単著『体験格差』を上梓。
体験格差について「議論をはじめる土台」が必要だった
2022年に「体験格差」に関する大規模な調査に踏み切った理由について教えてください。
そもそも子ども達の体験が大切である、ということに対して社会的な合意があまりとれていないという課題がありました。
子どもの貧困に対する対策として、食事などの生活を支える基盤としての支援や、学びの選択を広げるための学習支援は増えています。その一方で、体験はどちらかというと必需品ではなく贅沢品と捉えられ、親の努力次第という見方も多く、「子どもの体験」に対する社会的な支援はどうしても置き去りにされ議論がなされてきませんでした。
その1つの要因が、データの不足です。現場では「習い事をしたかったけど全くできない子たち」や、「誕生日もクリスマスも祝ってもらったことがない子たち」と当たり前に出会います。ただ、そうした実情を企画書にまとめて説明する際に、「体験格差」について網羅的に説明できるデータが不足していたんです。
どのような家庭で、何が理由で、どの程度の格差が生じているのか、それを定量的に明らかにすることから始めないと、この問題を社会課題として提起することが難しいと感じ、調査に踏み切りました。
これまで顕在化されていなかった格差を可視化した本調査に意義を感じました。こうした調査結果をレポートだけでなく書籍として社会へ発信しようと思った経緯を教えてください。
調査レポートを発表した後、周りや現場からは多くの共感や反響がありました。ただ、世の中全体から見ると1つのNPO団体が出した調査レポートにすぎません。本当の意味で、社会課題の1つとして位置付け、「子どもの体験を贅沢品として扱ったままでいいのだろうか?」「体験格差を親の努力が原因と決めつけていいのだろうか?」という議論をしていくためには、まずは、体験格差の実情について多くの人に知ってもらう必要がありました。今回、この本を単行本ではなく新書にしたのも、ひとりでも多くの人に手にとってもらいたいという想いからです。
実際に、書籍を出版していかがですか?反響も含めて伺いたいです。
最初は世の中にどう受け止められるのか正直不安もありましたが、出版後に「初めてこの問題を知った」という声や、子どもに関わる仕事をされている方々から「ずっと感じていた課題でした」という声を多く寄せられたので、本を出して良かったと思っています。
また、それ以外にも「ほかの課題ももっと取り上げてほしい」というご意見もいただけるなど、体験格差を知ってもらうだけでなく、議論を始める土台をつくれたという意味で意義を感じています。
「体験が大切」だけではむしろ格差が広がる
本書では定量的な調査データだけでなく、今井さんが敢行したインタビューが数多く掲載されています。当事者の方々の生の声はセンセーショナルに感じる内容も多くありました。
インタビューを通して、多くの親御さんが「自分たちの力でなんとかしなければならない、でもそれができなくて子どもに申し訳ない」という想いを抱えていることを知りました。
特に最近では物価高騰もあり、本当に数十円から数百円単位でどう節約するかを考えながら、明日生きるのが精一杯という状況下で子ども達がやりたいことを諦めさせなければならないことも少なくない。また、子ども達も親が頑張っている姿をみて、本当にやりたいことを言い出せなくなっているという場面も多くありました。数字だけではなく実際にいま困っている人たちがいることを伝えたいという想いで、インタビューを掲載しています。
1つひとつの事例を読むなかで、子どもの体験格差は「各家庭の自己責任」ではなく、いかにして「社会として下支えするか」という問題意識が強く芽生えました。
1つ注意が必要なのが、「体験が大切」ということ“だけ”が広まると、子どもに体験機会を提供できる余裕のある家庭がますます子どもに体験機会を与えるようになり、逆に格差が広がる要因にもなります。
そのため、本書を通じて1番伝えたいことは、「子どもにとって体験は大切」であるということ以上に、社会として子ども達の体験を大切にしながら、それをいかに下支えする仕組みをつくれるか、あるいは大人が自分の子ども以外の子ども達とどのように関わっていけるのかということなんです。
例えば、発達の特性で大勢の人がいる場だと落ち着けない子どもの場合、集団行動が発生する場への参加が難しく、そうした既存の枠組みでの体験の機会は狭められてしまいます。でもそれは、その親や子どもだけではどうしようもないことで、その周りの大人たちが能動的に彼らに関わり、参加しやすい環境づくりをしていかなければ、こうした問題の解決は難しいんです。
地域や行政が協力しながら取り組む必要がある
体験格差を改善するために、チャンス・フォー・チルドレンではどのような取り組みが進められているのでしょうか?
2022年、チャンス・フォー・チルドレンでは、体験の奨学金事業「ハロカル」をはじめました。「ハロー・カルチャー(文化・体験との出会い)」と「ハロー・ローカル(地域との出会い)」という2つのメッセージを込めています。
ハロカルでは、個人や企業・団体等の活動に賛同してくれる人たちからの寄付金を集め、経済的に厳しい家庭の小学生に、スポーツや音楽、芸術活動などの体験活動で利用できる奨学金を提供しています。またそれだけでなく、各地のNPO等と連携しながら、家庭への相談支援を行い、子どもたちを地域で支えていく取り組みになります。
こうした課題解決の取り組みは行政などとの協業も重要になるのでしょうか??
そうですね。やはりこうした大きな社会課題を解決していくためには、民間の動きだけでは難しいので、いかに公的な動きとして解決策を打っていけるかが重要になると思っています。
ただ、体験の中身に関して、全て自治体が主導して体験教室などを作っていくことも現実的ではありません。体験活動において重要なことは、子ども達1人ひとりがやりたいことが違うなかで、それぞれが新しい出会いができる状態です。
そういった意味では、自分の家で音楽教室を続けている人や、サッカーを教えることが好きな人など、その地域にいる多様な市民が中心となって、子ども達にいろいろな体験の機会を提供していくことも重要になってきます。つまり、公的な活動だからと行政に任せきりになったり、あるいは市民だけで取り組んだりするのではなく、行政と市民が良いパートナーシップ関係のなかで取り組んでいく必要があると思っています。
2024年5月、チャンス・フォー・チルドレンは子ども向けのスポーツ・文化芸術・体験活動等の奨学金提供事業において、墨田区との連携も開始されましたよね。今後どういった方向へ活動を注力されていくのか教えてください。
ハロカルを中心に、体験格差を減らしていくエコシステム作りに取り組みたいです。これまではいかに制度を作っていくかということに注力していました。次は、制度ができた中でどうやって血が通った仕組みにしていけるか、その地域にいる人たちがどんな想いでその制度を使っていくかが重要になってきます。伝統的な体験など、その地域にしかない体験も多く存在しているので、この仕組みや制度を全国のさまざまな地域の方々に使ってもらえるように、仲間を増やしていきたいと思っています。
私たちには、何ができるのだろうか?
現状、金銭的な理由などで子どもへの体験の機会の提供が難しいと考えている親に対して、まず最初に伝えたいことはなんでしょうか?
自分のせいだけではないということ、決して自分の努力の問題ではないと思ってほしいです。
体験が限られている現状に対して、「無料でできる体験もたくさんある」という意見があがることもあると思いますが、一概にそれも言い切れません。というのも、無料で体験できる場や機会がたくさんあったとしても、その情報を探したり、知ることがそもそも難しいのが現状です。だからこそ、それを負担なく探したり繋げられる仕組みを社会として整える必要があります。
今井さんの活動も含め、これから体験格差に対して社会として制度が整っていくことを強く期待していきたいと感じました。同時に、当事者ではない人々がこの問題に対して貢献したいと考えた時、すぐにできる行動にどんなものがあるのでしょうか?
ご自身が持っている資源に合わせて行動してもらうのがいいと思います。例えば、生活に余裕がある方であれば団体への寄付という形があります。寄付先としては、私たちの団体もそうですし、子ども達のサッカー体験支援や、放課後のアフタースクールなど、特定のテーマで活動している団体もあるので、自分に合った団体を探すところから初めてもいいかもしれません。
また、ボランティアで地域の活動に参加するなどもあるかと思います。体験の担い手は企業や自治体、保護者が主体のものなど、本当に幅広くあるので、そうしたなかで自分が参加できるものを見つけていくのもおすすめしたいです。場合によっては読書会や勉強会など、そもそも「体験格差」という問題を知っていくことや議論していくこと、同じように問題意識をもつ人々と知り合っていく活動もぜひお勧めしたいですね。
「体験格差」を議論で終わらせないために
社会の中で生きていると、幼い頃の体験からさまざまな学びを得ていることを実感する。
リフティングの回数が練習のたびに増えていく経験は、積み重ねることでしか得られない成果の存在を、友達と共に楽器を奏でてつくった曲は、ひとりでは味わえない豊かな気持ちを教えてくれる。人によって種類は違えど、そうした幼い頃に体験した尊い時間が、その後の人生に大きく貢献していると実感できる人も多いのではないだろうか。
しかし、そうした体験をすべての子どもたちが存分に享受できていない社会であることが、今回の調査及び書籍の出版を通して明確に顕在化された。今井氏の著書を皮切りに、「体験格差」は社会課題として注目を集め、議論が加速しつつある一方で、改善に向けた前進はまさにこれからと言えるだろう。そのなかで、私たちにできることは果たしてなんなのだろうか。
1つ言えることは、体験とはそのほとんどが“誰か”の下支えによって得られるものということだ。もしかしたら私たちひとりひとりがその“誰か”になっていくことが、体験格差なき社会への大きな一歩に繋がっていくかもしれない。
取材・文:おかけいじゅん
編集:吉岡葵
写真提供:公益社団法人チャンス・フォー・チルドレン