よりよい未来の話をしよう

矢田部吉彦|ベルリン映画祭2024報告

ベルリン映画祭が2024年2月15日から25日にかけて開催された。

開催前、noteに「ベルリン映画祭2024予習ブログ」と題した文章を書いた。要約すると、ベルリン映画祭がイスラエル政府によるガザへの過剰攻撃を非難していない姿勢に対して表現者が異を唱え、参加をボイコットする作品も現れた状況のなか、その「ベルリン映画祭」とは誰なのかを問うことを通じ、ベルリンはジレンマに陥っているだろうと想像し、とにかく2024年のベルリンは揺れるだろうという内容だ。

そして、映画祭に実際に参加してみて、どうやら自分はナイーヴであったようだと感じてしまった。というのも、ベルリン映画祭は確固たる姿勢を示せないであろうと想像し、事は曖昧のまま進むだろうと思っていたし、ドイツ政府当局のイスラエル支持も慎重なものであろうと勝手に思い込んでいたのだ。しかし、事はそんなに複雑ではなかった。

ベルリンのオープニングで感じたこと

映画祭の主催者であるドイツの文化省(に相当する官庁)やベルリン市は、もっと態度を曖昧にするのだろうと(ナイーヴにも)思っていたのだけれども、映画祭を通して明らかになったのは、当局はイスラエル支持(ガザ即時停戦要求無視)を隠すことは無く、一方でベルリン映画祭の現場は個人的な主張を抑え、当局の方針に従っていたのだということだった。

映画祭開幕前、ベルリン映画祭はガザへの攻撃の即時停止を訴えることはせず、中東での犠牲を悼むというコメントに留め、そのことが一部表現者の反発を招いていた。ドイツ政府関係者は、反ユダヤ主義と指摘されることが政治生命を脅かすであろうことから反イスラエル政府の姿勢は取らず(取れず)、それがそのままベルリン映画祭の方針につながっているのだろうと、想像はできた。ただ、当局と映画祭の境目は可視化されていなかったし、もとより「リベラル/社会派」で知られるベルリン映画祭としてはジレンマを抱えながら、どこかに「バランス」を見出しながら乗り切るのだろうと予想していた。

そのまま開会式を迎えようかという時、ベルリン映画祭が極右政党の議員をオープニング・セレモニーに招待していたことに対してドイツの映画人が反発していると報道され、一気に問題化する。映画祭は、選挙で選ばれた議員をセレモニーに招待するのは通常の手続きだとしつつも、極右政党所属議員への招待をキャンセルし、移民排斥を公約に掲げる極右政党の政策に断固反対する姿勢を打ち出した。

この騒ぎは、うがった見方をすると、ベルリン映画祭を救ったようにも見えた(仕込んだようにさえ見えたほどだ)。というのも、極右の政策に反対し、つまりは移民排斥に反対し、民主主義の堅持を叫ぶことで、「社会派ベルリン映画祭」の面目をギリギリ保つことができるからだ。はたして、オープニング・セレモニーに登壇した大臣や他の政治家は民主主義の大切さを説き、喝采を浴びていた。ユダヤ関連以外の事項についてはリベラルに振ることを厭わないドイツは、ガザに触れないまま、極右政党に反対することで問題のすり替えを図ったように見えたのだった。

ガザへの直接的言及こそ少なかったとはいえ、文化大臣は長いスピーチのなかで「(ハマスは)イスラエルの人質を今すぐ家に帰せ!」と叫んでイスラエル政府支持を隠さず、さすがに会場では苦虫を噛み潰したような表情の人が散見された。後日、大臣がコンペの作品に来場した際には、僕の席の男性はブーイングをしており、決して政治家の姿勢が一般感情を代弁しているわけではないことも、肌で感じられた。

そして会期中は、小規模のデモこそあったものの、映画祭自体は滞りなく進行していったと言っていいと思う。

ベルリンのクロージングで露わになったこと

そして、24日のクロージング・セレモニーを迎える。金熊賞(最高賞)を受賞した『Dahomey』のマティ・ディオプ監督はじめ、受賞者がガザ停戦に言及するスピーチが続く。

ドキュメンタリー賞(観客賞)を受賞した『No Other Land』は、イスラエルとパレスチナの複数人の監督たちが合同で作った貴重な作品だが(話題作ゆえにチケット即完で僕は見られなかった)、イスラエルのユヴァル・アブラハム監督がスピーチでこう語った。

「私はイスラエル人で、(隣に立っている共同監督の)バゼルはパレスチナ人です。そして2日後には、互いの立場が平等でない地に帰ることになります。このアパルトヘイト状態、不平等は、終わらなければなりません」

後日配信された「Deadline」の記事(※1)によれば、彼の発言をドイツの政治家やイスラエルのマスコミが「反ユダヤ的」としたことにより、監督はイスラエルの極右勢力から殺害の脅迫を受け、帰国を延期し、家族を避難させる事態に陥ったという。なんと酷い話だろうか。さらに、ベルリン市長は映画祭のセレモニーで「偏った」コメントが頻出することを問題視し、来年着任する新ディレクターには対策を講じるように指導するとしている、という報道もあり、これが本当だとすると、あまりのひどさに体が震える思いがする。

そして、3月1日に、2024年で契約が終わるディレクターのカルロ・シャトリアン氏が声明をXに投稿した。「反ユダヤ主義」が政治的な武器として用いられていると非難し、民主主義の根幹である発言の自由を強調した上で、さらに、次のように明記している。

「我々は映画祭の決定に常に沿ってきました。たとえその決定が自らの意にそぐわないものであっても、そして国際映画祭が本来向かうべき方向とは時に一致しないものであっても」(筆者訳)

“we have always aligned with the festival’s decisions even when these were not exactly ours and at times did not go in the direction of what an international film festival should stand for.”

「ベルリン映画祭とは誰か」との問いに対しては、「ガザ停戦を主張しないベルリン映画祭」とは、映画祭を主催する文化省やベルリン市であり、現場を統括するディレクターたちは従わざるを得なかったという構図の存在が、この発言で明らかとなった。

2024年のベルリン映画祭が陥った状況は、リベラル/社会派で知られる同映画祭の歴史に深い傷を残したことは間違いない。ガザの問題と極右政党の問題が混じった上に、ディレクター陣は最終年だったということが事態を複雑化させた。現場の空気の重さを想像すると気が遠くなりそうだ。

いったい来年以降のベルリンはどうなっていくのだろうか。イタリア人のカルロ・シャトリアン氏とドイツ人のマリエッテ・リッセンベーク氏の2頭体制から、(前ロンドン映画祭ディレクターでアメリカ人の)トリシア・タットル氏による1人体制への変更が決定済みだ。

このように、2024年のベルリンは揺れた。ならば、肝心の作品はどうだったのか。今回は受賞作を中心としたコンペ作の多くを見ることができたので、ここに記録として記しておこうと思う。

まずは受賞作品から。

※1 参考:Deadline「Israeli Director Says He Is Getting Death Threats After German Officials Criticized Berlin Film Festival Acceptance Speeches As “Anti-Semitic”」
https://deadline.com/2024/02/yuval-abraham-berlin-film-festival-israel-death-threat-antisemitism-no-other-land-1235840325/

最高賞『Dahomey』

金熊賞(最高賞)は、フランスのマティ・ディオプ監督によるドキュメンタリー作品の『Dahomey』。2023年の『アダマン号に乗って』(ニコラ・フィリベール監督)に続き、2年連続でフランス人監督によるドキュメンタリーが受賞という結果になった。

Copyright Les Films du Bal - Fanta Sy

100年前に、フランスが西アフリカの「ダホメ王国」から奪った美術品が、現在のベナン共和国に返還される模様が描かれる。前半は、パリからベナンの博物館への移動が返還される彫像の視点から語られ、後半は美術品返還をどう受け止めるべきか、ベナンの大学で学生たちが意見を表明し合うシンポジウムの場面が中心になっていく。

Copyright Les Films du Bal - Fanta Sy

数千点を超える失われた美術品のうち、20点程度の返還を進歩と見るか、侮辱と見るか。返還はベナン政府の努力によるものなのか、フランスのマクロン大統領のパフォーマンスなのか。学生たちは様々な意見を交わしながら、自らのアイデンティティーを模索し、作品は現在から植民地主義を考察する視点を備えていく。映画本編も現代アート的なラジカルさを備えており、24年の重要作の1本として世界を回っていくだろう。

審査員大賞『A Traveler’s Needs』

ホン・サンス監督、またもや銀熊賞(審査員大賞)受賞!『小説家の映画』(22)が「3年連続4度目の銀熊賞受賞」と謳っていたので、本作の受賞は「5年間で4度、通算5回目の銀熊賞受賞」という途轍もない結果となった。ただ、まあ、お馴染みの人には、いつもホン・サンス。良い意味で。

主演はイザベル・ユペールで、彼女が独特のメソッドを用いて韓国人の大人相手にフランス語を教えている。楽器を演奏した生徒に高揚した気持ちを韓国語で表現してもらい、それをユペールが詩的なフランス語の文章に訳し、生徒はそれを覚えるというメソッド。音楽を重視し、詩人をしばしば映画に登場させるホン・サンスの文脈に沿った主題の展開と言っていいはず。そして、年少の青年の家に転がり込んでいるユペールは、青年の母の反発を避けるべく、公園をうろつく。実際にユペールが何者なのか誰も詳しいことを知らない…。もともとどこか得体の知れない表情を持つユペールをうまく利用したキャラクター設計で、これまた充実のホン・サンス体験ではある。

Copyright 2024 Jeonwonsa Film Co.

しかし、正直言って受賞には「またか」との思いがよぎったことは白状せねばならない。我々ファンは散々ホン・サンスを見ているので、「いつもの」味わいを十分に楽しみつつも、1作ごとに興奮し過ぎることもないわけだけれども、ひょっとして国際的な映画監督と役者で構成されるコンペの審査員たちは、あまりホン・サンスを見たことがないのではないかと勘ぐってしまう(なので、毎回びっくりして賞をあげちゃう)。

が、しかしそこでハタと気づいたのは、それは逆だということ。やはり絶対評価で見ると、ホン・サンスの個性の唯一無二性は揺るぎのないものがあり、審査員が新作を新鮮に受け止め、世界観を評価したということは、僕がどこか惰性でホン・サンス作品に接しているかもしれないことの証でもあり、ただ「ホン・サンス」とひとくくりにするのではなくて、1本毎に向き合っていかねばいかんのだと思わされた次第。

審査員賞『The Empire』

銀熊賞(審査員賞)がフランスのブリュノ・デュモンの問題作『The Empire』に与えられたのも、作品の評価が割れていただけにサプライズだった。評価が割れたというよりは、評価がしにくいという方が正確かもしれず、あまりに人を喰った内容ゆえに、作品自身が評価を拒んでいる面もあるのかもという気がしないでもない。

フランス北部の田舎の地を舞台に、2つの地球外勢力が抗争を繰り広げている。ひとつは「1」で、対するは「0」。地上で救世主と思しき子が生まれ、事態は風雲急を告げる。地球人たちが地上の危機を知ることは無いまま、2つの勢力は大バトルに突入していく。

Copyright Tessalit Productions

というあらすじが合っているのか、ちょっと自信がない。ただ、フランス北部を舞台にしたデュモン作品のいつもの荒涼とした自然の中で、ライトセーバーが「ヴィン」と音を立てて光り、SF光景が繰り広げられる様には唖然とするばかり。そして宇宙船の造形は圧巻の素晴らしさ。船の一部が巨大なゴシック建築の教会と化しており、一方がノートルダム、もう一方はステンドグラスの美しさで知られるサント・シャペル教会のような威容を誇り、これが宇宙空間に浮かぶビジュアルこそは、この作品の最大の見どころだろう。

Copyright Tessalit Productions

スターウォーズのオマージュ(あるいはパロディ)とうそぶきつつ、善悪の区別はほとんど曖昧であり、「1」対「0」のデジタル的対決の世界における救世主誕生の物語(『ジーザスの日々』(97)以来のデュモン映画の系譜か)であり、帝王に扮するファブリス・ルキーニの順調な怪演を楽しみつつ、深読みを試みながら挫折する作品、だろうか。ビジュアルは本当に素晴らしい。

ちなみに、フランス映画業界への怒りと失望で映画女優を廃業しているアデル・エネルは、本作に当初起用されていたとのことだが、脚本の不備(と修正の不足)を原因に降板し、デュモン監督との証言の食い違いも報道されている。一歩下がって、様々な側面から本作を判断する冷静さも求められていることは注記しておきたいと思う。

監督賞『Pepe』

銀熊賞(監督賞)はドミニカのネルソン・カルロス・デ・ロス・サントス・アリアス監督に。『Pepe』も問題作と呼べる作品で、大胆なチャレンジ精神に満ちており、僕は監督賞に納得。

アフリカのカバが、コロンビアの麻薬王の私設動物園に移送されてくる過程を、カバの視点を始めとした複数の視点で語る作品で、ネイチャー・ドキュメンタリーにフィクションドラマを混ぜ、そこに社会学的ドキュの側面もアタッチした前衛的な作り。ジャンル分け不能との前評判に違わず、奇想天外な展開は大層刺激的だ。特に川の描写はリサンドロ・アロンソ監督の『Los Muertos』(04)を想起させる禍々しさをたたえ、南米アート映画の系譜が息づいているようにも見える。

Copyright Monte & Culebra

後半に、周辺の村々を代表した女性たちが川を移動して一堂に会し、美人コンテストが行われるドキュともドラマともとれる場面が挿入され、これが一切本筋とは関係ないのだけれども、強い批評性を備えた素晴らしいシークエンスになっている。ここからカバ狩りへの繋ぎが非常にスリリングで、ベルリンで忘れられない1本となった。

Copyright Monte & Culebra

主演賞『A Different Man』

銀熊賞(主演賞-ベルリンは数年前から「男優賞、女優賞」の呼称を廃止している)は、アメリカのアーロン・シンバーグ監督『A Different Man』(23)に出演のセバスチャン・スタンに与えられた。かなりエネルギーを要する難役であることは画面から伝わってきたため、これも納得。映画はかなり強烈な内容。

映画『エレファント・マン』(80)のモデルとなった人物が患っていた疾患と同種の病により、顔が著しく変形している男性エドワードが主人公。エドワードは、それなりに通常人と変わらない生活をしているけれども、女性との縁は無いだろうと諦めていたところ、期せずしてアパートの隣室の女性イングリッドと親しくなる。一方で、画期的な治療法が開発され、エドワードはハンサムな顔に生まれ変わることができるが、その未来は残酷な皮肉に満ちていた…、という物語。

Copyright Faces Off LLC

セバスチャン・スタンがハンサム化した男性を演じ、実際に疾患を持つアダム・ピアソンという俳優が共演し、ハンサム化した主人公の運命を翻弄していく。究極のルッキズムを扱う内容であるのだけれども、ピアソンの顔の変形の程度が、最初は観客がショックを受けることを隠せないレベルなので、「人は内面が重要」というきれいごとを超えた次元でルッキズムが問われていくことになる。変形した顔も映画で見続けると慣れていくので、観客も段々と冷静になれるのだけれど、実生活での経験において自分が冷静になることの重要性をも問われているような気になる。これでもか、と追い込んでくるハイカロリーな脚本の迫力は尋常ではなく、強烈。

イングリッド役に、『わたしは最悪。』(21)でカンヌの女優賞を受賞したレナーテ・レインスベ。2024年のベルリンコンペに2本出演作があり、『わたしは最悪。』のインパクトが欧州中に波及していることが伝わってくる。

助演賞『Small Things Like These』

銀熊賞(助演賞)は、アイルランドのティム・ミーランツ監督『Small Things Like These』に出演のエミリー・ワトソンへ。本作は映画祭のオープニング作品でもあり、プロデューサーのマット・デイモン(出演はなし)の出席に会場が沸いたり、主演のキリアン・マーフィーがインタビュアーから「ベルリン映画祭主演賞と、(『オッペンハイマー』でノミネートされている)オスカーの主演男優賞と、どっちが欲しいですか?」と聞かれ、「えー、両方はダメ?」と答えて笑いを取ったり、政治的な発言が飛び交ったセレモニーのなかでは唯一の明るい時間を提供してくれたのが印象的だった。

Copyright Shane O’Connor

とはいえセレモニーに続いて上映された作品のトーンはかなり静かに抑えられていて、終始小声の会話が暗がりの中で続いていくような、独特な暗さを持っていた。主人公は、木炭や石炭を様々な施設に提供することで生計を立て、4人の娘と妻に囲まれ、質素な暮らしを送る男性。ある日、彼は建物から逃げ出した女性をかくまうことになり、彼女は修道院から逃がれたのであり、その修道院は女性の「再教育」を名目に虐待的収容を行っていたことが徐々に分かってくる、という物語。

作品は実際の出来事をベースにしており、アイルランドの地方教会の闇を炙り出す。そこでエミリー・ワトソンは冷静で冷酷な修道院長を演じ、確かな存在感を発揮している。

脚本賞『Dying』

銀熊賞(脚本賞)は、ドイツのマティアス・グラスナー監督『Dying』。長尺(180分)をぐいぐいと見せてくれる力のある脚本で、これは納得の受賞。

いくつかのチャプターに分けられる構成(僕は章立て映画が好きなので、入りやすかった)。最初は祖母の章で、認知症と弱体化が進む夫の介護に追われる姿を語り、次は指揮者として活動し破滅型の音楽家の友人に振り回される長男、さらには定職を持たず人生を棒に振ろうとしている長女、などのように、章ごとに家族のひとりの視点が取り上げられる。

Copyright Jakub Bejnarowicz / Port au Prince, Schwarzweiss, Senator

様々な形で、「死」が家族の面々にまとわりつく。老いた祖父の死から、意外な人物の死に至るまで、登場人物が究極の選択を迫られる過程が、たっぷりの尺を用いて十分な説得力とともに語られる。しかも余剰な印象は与えない。指揮者役の長男に扮する名優ラース・アイディンガーの存在が映画を牽引してはいるものの、脚本の巧みな力業に負うところも大きい。特に、母と息子が強烈な対決をするクライマックス的な場面を中盤に据える構成が斬新で、180分映画の作り方のひとつの答えを提示している気もしてくる。そういう意味でも脚本賞は納得で、見ごたえのある作品だった。

Copyright Jakub Bejnarowicz / Port au Prince, Schwarzweiss, Senator

芸術貢献賞『The Devil’s Bath』

銀熊賞(芸術貢献賞)は、秀作『ロッジ 白い惨劇』(19)を手掛けたオーストリアのセヴェリン・フィアラとヴェロニカ・フランツのコンビ監督の新作『The Devil’s Bath』。18世紀のオーストリアを舞台にしたドラマで、予想されたような「ホラー」ではなく、心理ドラマと言った方が正確かな。『ロッジ』も厳密な意味ではホラーではなかったように、ホラーに近づく心理を描かせたらこの2人は実に上手い。

作品の背景となるのは、女性が幼き我が子を殺し、処刑されるケースが続出した時代。主人公の女性は、結婚相手の男性に絶望し、実家に戻ろうにも戻れず、やがて精神を病んでしまう過程が中心に置かれる。主人公のエピソードを通じ、当時多くの女性たちが我が子を殺すに至る、その恐るべき理由が明らかになっていく。これは歴史的事実をベースにしており、実に恐ろしい。

Copyright Ulrich Seidl Filmproduktion / Heimatfilm

時代劇として、時代を再現する美術に目が行くのはもちろんとして、山村部の土着的なおどろおどろしい空気の表現が巧みであり、まさに芸術貢献賞はふさわしい。虐げられる女性たち、そして捻じれた倫理観と、キリスト教の偽善の恐怖、さらには狂信的な群集心理など、時代を超える主題が込められた、これは逸品。

Copyright Ulrich Seidl Filmproduktion / Heimatfilm

ヴェロニカ・フランツ監督の夫は、オーストリアを代表する監督のひとりであるウルリヒ・ザイドル。宗教に対する冷徹な姿勢が共通していると見ていいかもしれない。フランツ監督も同国の映画を牽引する存在になりつつある、と感じる。

以上ここまでが、受賞作品。映画祭の賞とは運任せのようなところもあるので(審査員が変われば結果も変わる)、受賞が無いから作品が悪いということには絶対ならないことは言うまでもないと強調した上で、以下、コンペの他の作品にも触れてみたい。

『My Favorite Cake』

2024年のベルリンの最大のサプライズは、業界誌が日々更新する星取表の上でも、日々交わされる会話の中でも、会期中最も評価の高かった作品が無冠に終わったことだった。これには本当にびっくりした。映画祭の賞が、いかに時の運にすぎないか、諸行無常のような心境に陥ってしまったほどだ。その作品が、イランのベタシュ・サナイハ&マリヤム・モガッダム監督による『My Favorite Cake』。

早くに夫に先立たれた老女が、一念発起して新たなパートナーを探そうと街に出る。公園での出会いは不発に終ったが、立ち寄った食堂でランチをひとりで食べているタクシードライバーの男性が独身と知り、彼のタクシーに乗り、家に寄らないかと誘う…。

Copyright Hamid Janipour

基本的に微笑ましい話なのだけれども、後半に意外な展開が待っているというツボを押さえたドラマ。老境でパートナーを見つけることの切実な想いが胸に刺さると同時に、抑圧されるイランの女性の立場を訴える側面も持つ。さらに、老人たちは79年のイラン革命前に青春時代を送った世代であり、自由な時代を懐かしむのだが、そのセンチメンタリズムがそのまま現体制への批判に繋がっていると見ることもできる。

前作『白い牛のバラッド』(20)が死刑制度批判を描いたことによって国内の上映ができなかった経緯も影響して、監督たちは国外出国を禁じられており、ベルリンで本作のワールド・プレミアに立ち会うことができなかった。しかし、上映会場に監督たちの席は用意されており、その空席が、事態の重さを強調する役割を果たしていた。そして、来場した主演の2人が監督たちの写真を掲げて登壇し、場内は大拍手に包まれた。それは、監督たちを応援する拍手であったのに加えて、何よりも作品の出来の良さに後押しされた拍手であったことは、その場で受けた確かな実感だ。

Copyright Hamid Janipour

しかし、無冠とは…。映画祭の受賞結果に驚かされることは少なくないけれど、今回ほど驚いたことはなかなか無いかもしれない。

『Another End』

イタリアのピエロ・メッシーナ監督新作『Another End』は、ガエル・ガルシア・ベルナル主演のSF心理ドラマ。なかなか見ごたえのあるダーク・エンタメだ。

近未来。事故などの突然死により、愛する人に別れを告げられなかった悲しみから立ち直れない人に対して、特別なプログラムが開発される。それは、故人の意識と記憶を別の生きている人間に一時的に移植し、その人と会話し、別れを告げることで、悲しみに区切りをつけることができるというもの。姿かたちは違っても、内面が故人本人だと分かると、別れを告げる効果があるとされる。主人公の男性は、愛する妻を失った痛手から立ち直れず、プログラムを受ける。そこでドナーとして現れた別の女性を妻と認識するに至り、「妻」に別れを告げるのも辛く、さらには(プログラム終了と同時に縁が切れる)「ドナーの女性」にも思い入れを抱いてしまう。

Copyright Matteo Casilli / Indigo Film

いや、まあ、ともかく設定が複雑で、ややこしい。ただ、分かってくると、いろいろと面白みがあって、そして最後は鮮やかに騙される。確かに映画祭のコンペで受賞するタイプの作品ではないけれども、グリーフケアの問題を巧みに掘り下げていて、意外性もあり、没入感を誘う。

主人公の前に現れる(亡妻の内面を持った)「ドナーの女性」には、『わたしは最悪。』レナーテ・レインスベが扮しており(上述の『A Different Man』にも出演)、これは主人公が動揺するのも無理もないと思わせる魅力を発揮しております。

Copyright Matteo Casilli / Indigo Film

『Architecton』

ブタちゃんたちの生活を描いた『グンダ』(20)で見る者の度肝を抜いたロシアのヴィクトル・コサコフスキー監督の新作の主題は、建築。あるいは、建物とは何か。あるいは、コンクリートとは何か。あるいは、結界と聖域について。

冒頭、ウクライナと思われる場所で、全壊した建物の数々をドローンが静かに捉えていく。建物はえぐられ、各階の部屋の内部がむき出しになっている。画面が切り替わり、地表の石が映し出されると、それは小刻みに震え出し、やがて大地が揺れに揺れ、いったい何が起きているのかと思いきや、そこは無限と思えるほど広大な採石場のミクロの映像だったことが分かる。一方、イタリアの著名な建築家は、自分の庭に円形に石を敷き詰め、今後一切この円の中に人間は入らないとする結界を創る。

Copyright Neue Visionen Filmverleih
2024 Ma.ja.de. Filmproduktions GmbH, Point du Jour, Les Films du Balibari

破壊された建物を通じて戦争に向かう人間の所業を暴き、その建物の土台となる石の来歴と、絶望的に広大な自然破壊を冷静に観察し、人の行為に対する超自然的な境界/歯止めの存在を見つめようとする作品。と僕は解釈しているけれど、未知の光景をシャープな映像で切り取る美学に貫かれ、コサコフスキー監督の非凡な才能が伝わる逸品だ。

Copyright Neue Visionen Filmverleih
2024 Ma.ja.de. Filmproduktions GmbH, Point du Jour, Les Films du Balibari

『Gloria!』

イタリアのマルゲリータ・ヴィカリオ監督による『Gloria!』は、1800年のイタリアの修道院を舞台にしたミュージカル・ドラマ、と言っていいかな。修道院は保護した孤児たちに音楽を教え、教会のオーケストラ要員に育てている。そこで音楽コースに入れなかった雑用係の少女が音楽の才を発揮し、オリジナルな曲を奏でて少女たちの注目を集め、やがて少女たちは団結して、抑圧的な修道院とキリスト教の世界に反旗を翻していく物語。

Copyright tempesta srl

ディズニー的なテイストを備えた商業映画で、映画祭のコンペらしくないとの声が上がったことは確か。僕も劇中で主人公の少女がいきなり現代的ポップスを作ってしまう下りに、ポップスの音楽史を無視した強引な運びだなと思ってしまったけれど、女性のエンパワーメントの主題を映画祭は重視したのだろうと納得している。こういう作品がコンペにあってもいい。

実際に、19世紀に修道院で音楽を習得し、優れた音楽の才を発揮した女性たちは数多く存在したらしいのだが、彼女たちの名前は全く歴史から排除されてしまっている。本作はそんな彼女たちに捧げられ、名を与えられなかった女性音楽家たちに「グロリア」と名付け、タイトルとしている。そうと知ると、やはり納得感が深まる。

Copyright tempesta srl

『Langue Étrangère』

フランスのクレール・ビュルジェ監督新作の『Langue Étrangère』、タイトルの意味は「外国語」。フランスとドイツのティーンの女性の交流の物語。

Copyright Les Films de Pierre

フランスのストラスブール在住の17歳の少女ファニー(写真左)は、ドイツのライプツィヒに住むメル友のレナ(写真右)の家にしばらく滞在することになる。初めて会ったレナはよそよそしく、フランスに帰れとまで言う。しかしファニーが学校でいじめに遭っており、自殺も図ったことを打ち明けたことで、レナは気を遣うようになり、やがてレナとファニーは完全に離れられないほどの親友になっていく。

現代ヨーロッパのティーンの問題意識が垣間見えて、まずはそこが面白い。現代はデモの時代であり、さまざまなデモに彼女たちは関心を示し、ファニーは交流の無い異母姉が女性活動家のリーダーであることをレナに告げ、その姉を探そうという展開になっていく。反資本主義、エコロジー、人権。その全てに精通はしていなくとも、関心を示すことが10代にとってクールであるということが良く伝わってくる。

ファニーがレナの学校に一時的に通い、フランスの学校とオンラインで繋ぐ場面があり、ドイツとフランスの生徒が相手の国に対して抱く意識が見えて面白い。ドイツの高校生は「フランス人はどうして英語ができないの?どうしてストライキばかりやってるの?仕事したくないの?」と聞き、フランスの高校生は「ドイツの学校ってどうして白人ばかりなの?」と聞く。あるいは、逆にレナがファニーを訪ねてフランスの学校に行くと、ナチ式敬礼でからかう生徒が現れ、教師は激怒してその生徒に謝罪させようとするのだが、レナは「我々は暗い歴史を背負っています。話し合う心構えはできています」と言い、謝罪は不要と断る。

ファニーの闇が明らかになる過程も意外性があり、そして特にレナ役の俳優が素晴らしく、僕は主演賞を予想したのだけれど(結果は残念)、現代的で個性的な欧州ティーン青春映画として上々の出来。ファニーの母にキアラ・マストロヤンニ、レナの母にニーナ・ホスという配役もナイス。

『Sons』

『THE GUILTY ギルティ』(18)でサスペンス劇の確かな演出力が評価されたスウェーデン出身(活動の主体はデンマーク)のグスタフ・モーラー監督、新作の舞台は、刑務所。

中年女性のエヴァは、刑務所の軽犯罪者収容棟に勤務している。ある日、搬送されてきた新たな転所者の中に知っている顔を見つけると、その男が収容される重罪犯棟に異動を願い出る。その男こそは、刑務所に服役していたエヴァの息子を同じ刑務所内で衝動的に殺した凶悪人物だったのだ。常に厳重警戒モードの凶悪犯棟の勤務に就くエヴァは、息子の報復を果たそうと決意する。

Copyright Les Films du Losange

設定はシンプルであるだけに、巨漢の凶悪囚人に対峙する女性看守の心理の緊張がひしひしと伝わる演出が実に上手く、さすが警察の緊急ダイヤル対応室から出ずに緊張ドラマ『THE GUILTY ギルティ』を成功させたモーラー監督だと唸らされる。

エヴァ役がキャリア豊富なシッセ・バネット・クヌッセンであるために映画が確実に引き締まることと、凶悪男が粗暴な巨漢で実に恐ろしく、俳優が素晴らしい。刑務所内の緊迫の心理戦に加え、成長過程で粗暴化していく息子を止められなかった(世の中の)母親の悔恨と悲しみが滲み出る様が、上手い。安定と満足のドラマ。

ベルリンのコンペは、上記紹介の14本に加え、あと6本の全20本なのだけれど、未見であったり、ちょっとイマイチだったりもあるので、ここまでにしておこう。

激動した2024年のベルリン。カンヌと並び、映画祭と社会/政治情勢が深く結びつく映画祭のひとつとして、これからも注視していきたい。

 

矢田部吉彦(やたべ・よしひこ)
仏・パリ生まれ。2001年より映画の配給と宣伝を手がける一方で、ドキュメンタリー映画のプロデュースや、フランス映画祭の業務に関わる。2002年から東京国際映画祭へスタッフ入りし、2004年から上映作品選定の統括を担当。2007年から19年までコンペティション部門、及び日本映画部門の選定責任者を務める。21年4月よりフリーランス。

 

寄稿:矢田部吉彦
編集:おのれい