ChatGPTをはじめとして、一般に使用可能なAIツールがリリースされてから既に1年以上が経つが、生成AIの利用や規制にまつわる議論の熱は依然として冷めることを知らない。そのようななか、生成AIが既に日常に浸透している社会を鮮やかに描いた作品が話題を呼んだ。第170回芥川賞を受賞した『東京都同情塔』(2024年、新潮社)だ。
本作の舞台はザハ案の新国立競技場が建設され、寛容論の名のもと、誰も傷つけない代わりに空疎な言葉が跋扈(ばっこ)する日本社会だ。あくまでもフィクションの体を取りつつ、文字面だけでは捕捉できない傷やざらつきが不可視化される描写は現実における分断を鋭く活写しているとも言えるだろう。今回は過去作も踏まえ、他者との対話という切り口で著者の九段理江さんに話を伺った。
『東京都同情塔』の反響と執筆のきっかけ
芥川賞を受賞した『東京都同情塔』は、執筆の過程で生成AIを使用したという点が話題となっています。その他にはどのような反響が寄せられたのでしょうか?
選考委員の吉田修一先生のコメントにもありましたが、芥川賞受賞作品なのに飽きずに楽しめると言ってくださる方は多いですね。そもそもキャッチーな物語は芥川賞を受賞しにくいと言われています。エンタメ性が強すぎると、選考上不利になる部分も大きいので、今回は本当にラッキーだったのかな、と。
芥川賞は純文学に対する賞ということもあり、そもそも普段から文学に注目していないと、どのように読んだら良いか分からないことも多いと思います。受賞や生成AI活用のニュースなどがきっかけでも良いので、たまたま手に取って、なんか面白いな、他の文学作品も読んでみようかな、と思ってくださったら。
そもそも『東京都同情塔』を書こうと思ったきっかけは何でしょうか?
まずは『アンビルト』というテーマで小説を書いてみたくて。いろいろと資料にあたって考えていくうちに「建築と言語の結びつき」というテーマの小説に仕上がりました。とはいえ建築家の知り合いもいませんし、資料を基に自分の想像だけで書いていました。
建築家が書いた資料や本を実際に読んでわかったのですが、建築家は言葉を使う職業なんです。公共物を作るにあたって税金や多くの人の労力を使わなければいけないから、論理的に言葉を尽くして説明しないといけない。最初のうちは筆が進みませんでしたが、「建築家と小説家は根本的に似ているところがある」と気づいてからは本当に書きやすくなったんですよ。議論が求められる職業という意味でも小説家とかなり近い部分があるので、考えていくのが面白かったです。
九段理江さんの小説の魅力ー文体と対話について
『Schoolgirl』(2022年、文藝春秋)(※1)などの過去作も拝見し、九段さんの小説の魅力のひとつは文体にあるような気がしました。「読みやすい」と評されるのもその所以なのかなと。具体的には、句読点が生むリズムや言葉に含まれる韻もそうですし、文章から音楽のようなものを感じるんです。現在発表されている作品の多くは一人称視点で語られているかと思いますが、どのように登場人物の文体を書き分けていらっしゃるのでしょうか。
それは本当に嬉しいというか、すごく鋭い指摘だと思うんですけど、私、音楽を聞いているときと文章を読んでいるときって、出てる脳波が一緒だと思うんですよ。それぐらい受け取っている感覚が同じで。
共感覚ってありますよね。色を見て音楽が聞こえる人とか、音楽を聞いて色が見える人とか。それと同じように、私は文字情報を受け取っているときに音楽が聞こえて、逆に音楽を聞いてるときに文字情報が浮かんでくる。今まで同じような人に会ったことがないから「それが共感覚です」とは断言できないんだけど、本当にそうなんですよ。『東京都同情塔』の語り手を書き分ける際も、「それぞれの音楽が聞こえてきた」という感じで、私の中に流れている音楽が文章になっているので、そこを感じてくださってるのかもしれないです。
『東京都同情塔』、あるいは『Schoolgirl』にも誰かの言葉によって登場人物の文体の変化、自己変容が生じる描写が見られます。ある種「対話」も九段さんの作品に通底するテーマのひとつではないかと感じるのですが、芥川賞の受賞スピーチでも仰られているように「言葉で対話することを諦めたくない」と思うようになった背景は何でしょうか。
子どものときから、人と会って目を合わせて会話していても、その先に行けないもどかしさを感じていたんです。相手は「あなたの言っていることはわかる」と言ってくれても、私としては解釈が違っていて対話が成立していないと思うこともありました。
たとえば、相手の名前にどの漢字が使われているかなんて、他の人にとっては取るに足りないことなのかもしれない。でも、そこに関心を持つことが自分にとってのコミュニケーションであり、些細なことの積み重ねが対話につながる気がしています。
私が小説を書く理由の1つでもあるんですが、他者と対話するためにいろいろ試して一番上手くいきそうだと思うのは、今のところ小説というメディアなんですね。小説を通して人とわかり合える、あるいはコミュニケーションを取れるのではないかという可能性を感じています。
※1 参考:太宰治『女生徒』を本歌取りし、社会派Youtuberとして活動する14歳の娘と小説を愛する母の分断を描いた、九段さんの作品。第73回芸術選奨新人賞受賞、第166回芥川賞候補作。
遅いメディアだからこそ、本には可能性がある
ここからは、作品から離れて本という媒体そのものについて伺います。人々の本離れや書店の廃業等のニュースも聞かれるなか、文学界や本の未来について考えていることはありますか?
デビューする前から、本を手に取って面白いなと感じてくれる人が増えたら良いなと思っています。よく、本が取って代わられることに対する脅威として動画やSNSが挙げられますよね。それらに比べて、本は非常に「遅い」メディアです。1冊を読み終えるのに時間もかかりますし。ですが、この遅さというものに非常に可能性を感じています。遅いからこそ、確実にその人の思考を形づくるものなので。
専門学校の講師や大学の助手をしていた時期があり、教育的な視点で「読書文化はこれからの世代に良い影響を与えられるのか」ということを考えてしまいます。人生は長いので、思考の土台になるものが形成できていればより思考の広がりを生めるはずです。そのような意味で遅いメディアを乗りこなすことを私は重要だと考えていますし、多くの人に同じように感じてもらえたら嬉しいなという気持ちがあります。本というものの可能性を本当に感じているので、ずっとそこだけは変わらないです。
本日お話を伺っていて、一貫して人間が紡ぐ言葉というものに対する希望や、それを職業として扱う人間としての矜持のようなものを受け取りました。自分の言葉を獲得しようと模索する人たちに対して、メッセージやヒントがあれば教えてください。
人と人と関係性の中でしか、意味のある言葉は生まれないだろうと思いますね。あしたメディアの皆さんだから話せることもあれば、ひとつ前に取材に来てくださった新聞社さんだから話せることもある。固有の関係性の中でしか生まれない言葉が、その人自身をつくっているのではないかなと思います。
あとは、『東京都同情塔』の最終的なメッセージでもありますが、「思考し続けることをやめない」ということでしょうか。うまくフレーズに収まりませんが、当たり前なことや、社会にとって正しいと思われていることに対する問いだったり、疑いを持ち続けることをやめたくないなと。自分の場合は、この想いがすべての作品に反映されていますし、今後もそのような作品を書き続けたいです。
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「多様性を重視せねばならない、そういう時代だから」と社会通念はめまぐるしくアップデートされる一方で、その背後にある傷のすべてが受容されるとは限らない。むしろ、言葉の含意を超えていけるのは文脈を容易に捨象(しゃしょう)せず、対話を諦めないという姿勢だろう。
誰かの痛みに鈍感でありたくない、想像することを手放したくないと願う人にとって『東京都同情塔』や『Schoolgirl』といった作品群のメッセージは強い支えとなるだろう。虚構を飛び越えていかに現実にリーチできるかを考え続けるーー九段さんが生み出す世界から、今後も目が離せない。
九段理江(くだん・りえ)
1990年9月27日、埼玉生まれ。2021年、『悪い音楽』で第126回文學界新人賞を受賞しデビュー。22年1月に発表された『Schoolgirl』が第166回芥川龍之介賞、第35回三島由紀夫賞候補に。23年3月、同作で第73回芸術選奨新人賞を受賞。11月、『しをかくうま』が第45回野間文芸新人賞を受賞。24年1月、『東京都同情塔』が第170回芥川龍之介賞を受賞した。
取材・文:Mizuki Takeuchi
編集:吉岡葵
写真:服部芽生