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「言葉にならないモヤモヤこそ大切に」ー福祉社会学の専門家と現代社会のしんどさを紐解く

「オーバードーズ」という言葉を聞いたことがあるだろうか。薬の過剰摂取のことを意味し、いま10代の若者の間で市販薬を利用したオーバードーズの件数が急増している。

世論のなかには「なぜそんな危険なことをするのか」「家族や学校の先生に相談したり、カウンセリングに行ったりすればいいのに」という声もあるが、あえてオーバードーズを選択することに、理由はないのだろうか。

筆者に「しんどさを言葉にしたくても言葉にできないという人がいる」という視点を与えてくれたのは、福祉社会学者であり『ケアしケアされ、生きていく』(ちくまプリマ―新書、2023年)の著者である竹端寛さんだ。兵庫県立大学の准教授として働き、日々学生の声に耳を傾けている竹端さんに、現代社会のしんどさを私たちはどう捉え、受け止めることができるのか話を伺った。

「苦しいこと」の表現

本書を読んで印象的だったのが「苦しみ」と「苦しいこと」という言葉が別物であると定義していた点でした。前者は自分が何に困っているのか把握した上で言語化して伝えることができる一方、後者は自分が何に苦しんでいるのか分からず、うまく言葉では表現できないこと、と書かれていました。

竹端:さとうさん(※筆者)がなぜその言葉に関心を持ったのか知りたいです。よかったら詳しく教えていただけますか。

最近、オーバードーズをしてしまう若者が増えているニュースを見ていて、なぜこんな苦しいことが絶え間なく起きるのだろうと考えていました。本書で竹端さんが学生さんたちのことを観察するなかで、卒論を前にして連絡が取れなくなったり、白紙で提出したり、意見を聞くと突然泣き出してしまうということを「苦しいことを表現している」と書かれていました。いま社会で起きていることも、程度の差はあれど、どれも言葉にならない「苦しいこと」を自分なりの方法で表現しているのではないかと感じたのです。

竹端:そうだと思います。私自身も以前はオーバードーズやリストカット、ひきこもりや不登校、目の前の学生が突然泣いてしまうということがバラバラの出来事に見えていました。ですが、これらのことを観察していくうちにすべて「苦しいこと」を表現しているのではないか、安心して涙を流せる場所を作ることがゼミで最も大切なことかもしれない、と考えるようになりました。

竹端さん。兵庫県のご自宅からオンラインで取材を受けてくださった。

竹端:薬物依存の自助グループ『ダルク』で活動されている倉田めばさんという方が「薬物とは私にとって言葉だった」(※)というフレーズを言ってるんです。

彼は自身の母親から「あなたは薬さえ使わなければいい子なのに」と言われていたそうです。でも内心は「いい子のふりをするのが疲れるから薬を使っているのに」と思っていた。警察や診察室、家族の前で「もう2度と使いません、やめます」と言わされる度に「私は私を見つけるチャンスを失っていた」「自分の言葉を取り戻したときにはじめて薬物が不要になっていくのに」と倉田さんは話しています。

自分の言葉が奪われているというのはどういう状態でしょうか。

竹端:たとえば、学校や家で先生や親の顔色を読んで、いいことだけ言わなければいけないと感じる人がいる。それって世の中では「いい子」だけど、言い換えれば言葉を奪われてるとも言えます。言葉を奪われて育つと、人は自分の言葉を失ってしまいます。

本当はしんどいと感じているのに先生や親をがっかりさせまいと「元気です」「楽しいです」と口にしてしまう。そうやって苦しみを苦しみとして言葉で表現できないと次第にキャパオーバーを迎えてしまいます。壁に穴を開けたり暴言を吐いたり、ひきこもりや不登校、リストカットやオーバードーズなど、言葉ではない方法で「苦しいこと」を表現するようになる。

これは学生にではなく、親や教員といった大人の側に問われていることだと思っています。目の前の人の「苦しいこと」の表現を私たちはしっかり受け止められているのだろうかと。

竹端さんが勤務している兵庫県立大学のキャンパス

※ 出典:ゆき.えにしネット「『拾い集めた言葉たち』Freedomコーディネーター:めばさん」
http://www.yuki-enishi.com/guest/guest-020417-1.html

か細き自分の声を聞くこと

こういう社会を前に、自分には何かできることがあるのかと考えます。

竹端:まずはさとうさん自身が「か細き自分の声」を聞くことから始めればいいのではないでしょうか。

か細き自分の声ですか。

竹端:なんかモヤモヤするとか、なんか違うような気がするとか。誰にも言わされていない、SNSに触発されたのでもない、自分だけの声を「こんなこと言っても仕方がない」とは思わずにちゃんと大事にするんです。自分のなかにある名前のつかないモヤモヤを受けとめられるようになってはじめて、他者のモヤモヤにも耳を傾けられるようになるはずです。

本書にも書いているのですが、私のゼミでも「モヤモヤ対話」という場を設けていて、学生が安心して自分の考えていることを話す時間にしています。誰からも評価も批判もされない、課題やグループワークでもないところで自分のモヤモヤをボソボソと言える時間です。

「誰からも評価も批判もされない時間」というのは学校だけでなく会社でも不足しているように感じます。特にコロナ禍を経て多くの会社がテレワークになり、要件もなくただ話すという時間はほとんどなくなりました。

竹端:そうですよね。そしたら名前もつかない感情や物事を話す場を、さとうさんがつくることもできます。そのときに重要なのは、ひたすら共感することでもうまく相槌を打つことでもなく、他者の他者性に出会うことだと思うんです。「私と違う〇〇さんは何を考えていて、何をしたいの」と聞くこと。そこで発される言葉に無理やり共感する必要はなく、自分と相手の唯一無二性を互いに知るといいと思います。

あえて相手に共感する必要はないのですね。

竹端:あとは前置きとして「こんな重い話をしてごめんね」とか「面白い話できないんですけど」とか言わないことも大切ではないでしょうか。みなさんは芸人さんでもないので誰かのための面白い話をしなくてもいいんです。そして自分の話をするときに「すみません」と言わないこと。「聞いてくれてありがとう」で、いいじゃないですか。

本取材のきっかけになった竹端さんの著作『ケアしケアされ、生きていく』(ちくまプリマー新書、2023年)

期待される「いい子」の違い

竹端:少し話は変わりますが、さとうさんは海外に住んだことはありますか?

10年前に高校留学をして1年間スウェーデンに住んだことがあります。

竹端:実は私も20年前に研究のためスウェーデンに住んでいたことがあります。学校の雰囲気もかなり自由ですよね。

はい、授業中も学生が自分のタイミングで水を飲んだりトイレに行きます。日本では授業が終わるまでそういったことは基本的にしてはいけなかったので戸惑いました。

竹端:戸惑いますよね。でも、そもそも水を飲むことやトイレに行くことって、誰かの許可が必要なんでしたっけ。

「生理現象に誰かの許可はいらないよ」と聞いて、たしかにと納得しました。

竹端:人間の尊厳に関することはきちんと守りなさいという非常に大切な学びですね。日本の高校ではおそらく先生に伝えられなかったのではないでしょうか。他にはどんなことが日本とは違うと感じましたか?

「いい子」の定義の違いでしょうか。たとえばスウェーデンでは自分が水を飲みたいときやトイレに行くことが必要なとき、その権利を主張できることが、自立して考える能力を意味し、いいことだとされます。しかし帰国した日本の高校ではなぜ授業中に水を飲んではいけないのかと聞いたときに「先生にたてつくな」と一喝されて終わりました。

竹端:ここも非常に重要な点です。日本のいい子は大人にとって都合のいい子であり、スウェーデンは自分の権利を言葉として主張できる子、という違いがありますよね。

その背景にはスウェーデンは社会として子どもの権利条約を大切にしていて、幼稚園の頃から習いますよね。小学校からは政治教育もあり、模擬投票もする。あなたの声には価値があると教わってきたはずです。一方日本は「学校の先生が特定の党になびいてはいけない」という謎の決まりから、学校での政治教育を禁止された歴史があります。でも、そんな教育をされて、日本の若者が選挙でどこに票を入れたらいいかなんて分かるわけがないですよね。

まさに選挙に対する感覚も違います。スウェーデンでは模擬投票もしましたし、選挙小屋でお菓子をもらったり、党員の方から直接話を聞いたりしました。いま思うと、当時高校2年生で初めて「政治」というものを意識しました。あれから10年経ち、いまの自分は少しずつ政治や選挙を信じる気持ちから離れているかもしれません。

竹端:政治は箱の中に紙を入れることだけではないですよ。フェミニズムの名言に「The personal is political(個人的なことは政治的なこと)」という言葉がありますよね。この取材企画自体がさとうさんの個人的な問題意識があって始まったのですから、実は政治的なアクションとも言えるのではないでしょうか。その内なる声を必ず大切にしてほしいのです。

学生たちとも政治や選挙について話していると「投票してもどうせ社会が変わらないだろう」「変わらないなら意味がない。選挙は費用対効果が悪い」という声もあります。ですが、自分のアクションを費用対効果で考えるということ自体が特定の価値観を選んだことであり、政治的なことなのです。

「昭和の成功」の上に成り立つ日本社会

竹端:私自身がスウェーデンにいたときの話もぜひしてみたいのですが、20年前に住んでいた当時から女性の電車運転手さんの数が多かったのです。スウェーデンは人口も少ないですし、だからこそ男性だけではなく女性も働かないと社会が成立しませんよね。

するとどうでしょう。女性が働かないといけないということは誰かが子どものケアをする必要があります。そこで幼稚園や学校の整備が整った。また、職場環境でも早い段階からインターネットを積極的に取り入れ、効率化が進みました。男女ともに1日7時間ずつ働いて、同じだけ稼ぐということが可能な社会ができましたよね。

たしかに女性の運転手や管理職も多いですし、男女関係なく総動員しなければ社会が成り立ちません。新しいテクノロジーにも寛容な印象です。

竹端:そうですよね。でも日本ってどうでしょう。昭和時代に大成功した体験があり、頑張れば報われるという考えをいまだに大切にしている。いまだに多くの日本の会社はケアは母親に押し付けるものという前提があり、父親は長時間労働・残業・出張・単身赴任が当たり前という論理があります。

私自身も娘がいますが、たとえば風邪を引いたら出張をキャンセルするとか、突然時短勤務にするとか、そういうことを体験しています。ケアというのは、予定したことがその通りにいかなかったり、自分の力ではコントロールできない「ままならないもの」に巻き込まれたりすることのはずです。

これを経験して思うのは「追いつけ追い越せ」とか「がむしゃらに働く」ということ自体、ケアを誰かに押し付けることで本来存在するものをないことにして成立する、まさに「机上の空論」の上に成り立つ論理だと思うのです。

竹端さんの娘さん。娘さんの存在が「ケアの本質」に気づく大きなきっかけとなった

自分の声を聞く革命

今日お話をお伺いして、個人のしんどさから日本社会という大きな背景が浮かび上がってきました。ですが、まずは自分自身がモヤモヤとした声を聞くことから始めてみようと思います。

竹端:今日のような1対1での対話を福祉社会学では「水平の対話」(※)と呼ぶのですが、さとうさんは私との時間を過ごしながらも、さとうさん自身の内側からいろんな言葉が浮かび上がってきますよね。「楽しいな」とか「なんだろうこの時間は...」とか。これを「垂直の対話」(※)と呼びます。この内側から湧き上がってくる言葉をおざなりにせず何よりも大事にしてください。

きっといまの10代や20代の方はSNSの世界に常にさらされて、「それと比べると自分なんて」とか「こんなことを言っても意味がない」とか、より正しい生き方や費用対効果で生きようとして、それがしんどさにつながっているのだと、私は学生たちを観察し、対話しながら感じていました。でもそもそも人生に正解もありませんし、費用対効果で捉える必要もありません。

いきなり社会をよくする革命を起こすことはできないですが、「自分の声を聞く革命」は明日からでもできますよね。なんかしんどいな、なんかモヤモヤするなという方も、ぜひそのアクションから始めてみてほしいと思います。

※ 補足:「水平の対話」とは会話している人々の間での横での対等なやりとり、「垂直の対話」とは内なる声との対話を意味する。(参考:竹端さんのブログ「オープンダイアローグな4日間」https://surume.org/2016/05/4.html

おわりに

取材中に竹端さんはこんな言葉を残した。「大人は若者のオーバードーズが増えているというが、それが示すことは、もうこの社会のあり方が限界ということなんじゃないでしょうか」。

苦しいことを言葉ではない方法で表現されるとき、私たちはたしかに驚く。しかし、いい子でいようと我慢し続けた人が、ようやく苦しいことを表出してくれたと捉えることもできるのではないだろうか。

まずは自分自身が無視してきた、モヤモヤとした内なる声に耳を傾けてみる。その先に、相手のモヤモヤやしんどさを受け止められる自分になるのだろう。

 

竹端 寛(タケバタ ヒロシ)
1975年、京都市生まれ。兵庫県立大学環境人間学部准教授。専門は、福祉社会学、社会福祉学。子育てをしながら、福祉やケアについて研究。著書に『ケアしケアされ、生きていく』(ちくまプリマー新書)、『家族は他人、じゃあどうする?――子育ては親の育ち直し』(現代書館)など。

 

取材・文:さとうもね
編集:柴崎真直
写真:竹端寛さん提供