よりよい未来の話をしよう

品田遊さんとインターネットの現在地。漫画「そういう人もいる」ができるまで

彼のルーツを辿ると、いつもインターネットがそばにある。

小学生の頃にインターネットを使い始めたという彼は、2009年に現在のX(旧Twitter)で「ダ・ヴィンチ・恐山」という名前のアカウントを作成。その独特な名前と投稿が注目を集め、早々にフォロワーを増やしていった。

若くして活躍するスポーツ選手がスカウトを受けるように、学生時代にウェブメディア「オモコロ」からスカウトを受け、ライター・編集者として入社。2015年には、個人ブログから派生した小説『止まりだしたら走らない』を「品田遊」名義で発表。いまではエッセイを含む4作の著書があり、作家としても活動の幅を広げている。

そんな彼が、2021年12月15日にXのサブアカウント(@d_d_osorezan)で突如として始めた漫画がある。

タイトルは『そういう人もいる』。

週1回のペースで更新されるその漫画は、平均して毎回5000以上の「いいね」を集める。内容は、美澄さんと幾翔さんという若い男女夫婦を中心にほのぼのとした日常を描く1ページ漫画。しかし、世間一般の日常生活を描く漫画とその切り口は一風変わっている。

「そういう人もいる」初回。一見なさそうな失敗談が話題に。

早くからインターネット、SNSの世界で注目を集め続ける彼がいま考えていることとは。作品のことから、インターネットやSNSに対する向き合い方について、話を伺った。

ずっと描きたかった、生活の細部

漫画『そういう人もいる』は、どういった経緯で始まったのですか?

もともと漫画原作を考える仕事をやっていて、編集者さんの依頼で漫画のネームを定期的に出していました。しかし私の仕事が遅いのもあって全然ネームが通らない期間が4年ぐらい続いて…。キツくなってしまって、もう少しラフなかたちで漫画を作れないかと、一旦商業ラインから離れて自分のSNSで始めることにしました。noteでそのことを話したところ何名か作画の出来る方からお声掛けいただき、皆さんとお話しして南十字明日菜先生にお願いしました。それから、私がネームを描いて南十字先生が漫画に起こしたものをSNSで週1回程度投稿しています。

品田さんはご自身でも文章を書いて発信されていますが、漫画にこだわる理由はあったのでしょうか。

漫画というフィルターを通した出力を定期的にやっていきたいと思っているんです。漫画には文章にはないパッと読ませるチカラがあります。絵はあまり得意ではないので、コマ割りまで描いてその後を南十字先生にお願いしていますが、かなり意図を汲んで洗練された形で直していただくので毎回凄いなあと思います。

お話の中身はどのように決められたのですか?

内容的なきっかけはもう少し前から考えていて、ずっと"生活の細部"みたいなものを描きたいと思っていたんです。けらえいこ先生の『あたしンち』が大好きで、ああいった生活の断片を取り上げた人間の生活を描いてみたかった。『あたしンち』は、永遠の憧れです。

キャラ設定としては、私自身の性格とは切り離して作っているつもりです。もちろん自分自身のなかにあるものを取り出しているところはありますが、自己投影度は50%くらいですかね。すべてが私の実体験だと勘違いされることもあるのですが、そんなことはないです。

また、実は個人的に恋愛モノを描くことが苦手だと自負しているので、収益が発生しない場で挑戦してみたかったんです。主人公が結婚していること以外にも、設定は細かく作り込んでいるので、まだ出せていない部分は沢山あります。

美澄さんと幾翔さんの仲の良さを感じられるエピソードも。

異様さを肯定的に捉える

ほっこりした日常漫画の側面もありつつ、その切り口はやはり品田さんらしいというか、独特な視点で生活の気づきを取り上げているように感じます。

最近、Xで日常の出来事でエッセイ漫画を載せている人をよく見かけます。その流行に軽薄に乗りつつも(笑)、ちょっとズラしていきたいという意図はありました。"あるあるネタ"のなかに、わざと共感されなさそうなネタも入れています。

それは、普段私がウェブメディア『オモコロ』でやっていることや、個人での執筆活動やSNSで投稿していることと、根本的には同じだと思っています。程度の違いはありますが、日常生活のなかに潜んでいる"異様さ"というものを、前向きに、肯定的に存在を捉えたいなと思っているんです。

例えば、マンションの渡り廊下を照らす多数の蛍光灯。そのうちのひとつを管理業者の方が交換しているところを見かけて思ったんですが、最初に取り付けたタイミングがどの蛍光灯も同じなら、切れる時期も近いのではないでしょうか。ということは、短期間に何度も交換作業が発生してしまい、面倒なのでは?このような、日常にある盲点のような描写をすることが、好きなんです。そういう物事をなるべく取りこぼしたくないなという気持ちはありますね。

だから漫画でも、途中に、なんだこれは?と思われるようなエピソードも入れることでエッセイの地平から意図的にはみ出しています。

取材場所付近の公園で撮影。シーソーに乗るのは久々とのこと。

ただ無目的な漫画でありたい

お話を作るうえで意識していることはありますか?

劇的にしすぎないように気をつけています。本来は、現実よりも極端な側面を描くことが漫画の機能の1つだと思うんです。価値観や善悪をぶつけることで、読者を引き込ませるドラマが生まれるものですが、この漫画は全然山場がありません。

泣いたり笑ったり、という感情の起伏を山場に持ってくる漫画は私には書けないという予感があったので…より何気ない日常を描くようにしました。また私自身、人にそんなに心から伝えたいことがないという。そういう部分がキャラクターにも反映されているとも言えます。

読み手としては、自分もこのような経験をしたことがある!というエピソードに共感して、救われている人もいるような気がします。

返信欄には、共感したことを伝えるコメントも多い。

正直、描いているときは読者に良い影響を与えたいとかそういった意識は全く無くて。あらすじや登場人物の詳細を出さずに、タイトルと絵だけをポンと投稿しているので、いろんな受け止め方をして貰えればと思っています。

でも漫画それ自体が何かを伝えるための目的になっているのは避けたくて、ただ無目的な漫画でありたいです。ただ、それを描くことによって他者の存在を肯定する愛情みたいなものがほんのりと出せていたらいいなと。

人の感情や考え方というのは、善悪や合理性とは一旦離れて、その人の中で起こっている現象みたいなもので、それが起こっていること自体は誰にも否定し得ない。漫画でも、そこは守ってあげたいと思っています。

ラベリングすること、しないこと

『そういう人もいる』というタイトルは、捉え方によっては、マイノリティに焦点を与えているタイトルだと思うのですが、そういったことは意識されていたのでしょうか?

マイノリティ/マジョリティという対立構造は念頭にはありましたが、特に強く打ち出したいわけではありません。それを意識したうえで1ページ漫画を作るとなると、人間よりコンセプトが前に出てきてしまうなという感覚があったんです。それよりも、日常生活の延長線上を継続して描くことによって、マイノリティ/マジョリティという具体的なワードを出すことなく「この人はこういう人なんだ」という納得を伝えられたらと思っています。

『そういう人もいる』の漫画で出てくる人には、病名でラベリングできるようなマイノリティもいます。でも、キャラクターの行動を見せることのほうがラベルより重要だと考えているので、あえて印象を固定するような描写は避けています。

私も、発達障がいだということは公表していますが、そのこと自体をあえて強調しようとは思っていません。こんなやつでもヘラヘラと生きているんだぞということは、説得力を持ってお伝えできる気がしますけど(笑)。

記事やYouTubeで『オモコロ』を拝見していると、かなり個性的なメンバーがいて、それぞれにその個性を受け止めあっている印象です。

私は社会的生活能力がかなり低い方だと思っていて。でも今の会社の人たちは相互に弱点を持っているので、誰も強く出れないという点で成り立っている気がします。誰かが誰かに「こうだろ!」と怒っても「お前もこうだろ!」と言われてしまうので。こういう社風で銀行をやっていたら潰れると思うので、不要不急の娯楽を制作する会社でよかったです。

品田さんの失敗を受け止め続ける同僚。

仕事で出会う人には、30歳くらいまで実家で何もしないで生きてきた人もいっぱいいます。そんな人もなんだかんだで生きている。それが良いとか、そのままで大丈夫とまでは言えませんが、例えば、大学に落ちただけで社会から弾き出されるような感覚になって、絶望してしまう人もいますよね。だけど、現実問題として大学に落ちたことで人生が終わってしまうなんてことはないし、むしろそのように思いこんでしまうことで生じる精神的な害の方が大きいと思います。

私は特に立派なこともしていないですし、マイノリティの苦境を切に味わっている訳ではなく、恵まれた立場にあると思っています。だから想像できる他者のイメージにも限界があるのかもしれない。でも、なるべく誠実に、いろいろな「そういう人」を描けたらなと思ってます。

基準は自分のなかに置いておきたい

お話を伺っていて、何かを伝えることを目的にするのではなく、タイトルそのまま、品田さんの思う『そういう人もいる』という視点で漫画を投稿されているのだなと納得しました。

わざと語弊のあることを言うと、もっとバズろうと思ったらバズれると思うんですよ(笑)。バズるということは、共感される余地があらかじめ用意されていることだと思います。でも広く拡散される(=バズる)ことと、私の感覚で良いなと思うラインが必ずしも一致するとは限らない。もちろんそれが一致するケースもあると思いますが、それは自分の実力だとなかなか難しいので…。

漫画に対して共感していただくのはもちろん有難いですが、作るときの狙いとしては違いますね。自分が書いた漫画に対してこれで良いと思える基準は、自分の中に置いておきたい。

これが、お金をもらってお仕事で発信するのであれば、数字の方にどうしても重心を置いてしまいます。たとえば「3000リポストを達成したからこの路線を続けよう」というように、多く拡散された内容に寄せてしまう。でもそれだと、自分が面白いと思っているのが誰にとっての面白さなのかが分からなくなってきて、怖いんですよ。今回の漫画は自分がお仕事ではないところでやっていることなので、良いと思うラインを自分のなかに置いておきたいと思っています。

共感されることとは、別のところで作品づくりをされていると。

タイトルは忘れてしまったのですが、過去に読んだ本で、「共感」と「共振」の違いについて書かれている本がありました。そこでは、同じイデオロギーや目的で繋がる「共感」とはまた別で、もっと根源的な部分で繋がる「共振」がある、と。例えば、それぞれが抱えている孤独というものがあるとして、直接的な言葉を交わすこと無く、孤独であるという水準において共通していると認識することがある。内容的に何かが重なっているわけではないとしても、互いに本質的に孤独だということを共有しているというその「共振性」を心のよすがとして持つことが可能だと読んで、確かになと思ったんです。

『そういう人もいる』のなかにも、「共感」ではない「共振」の部分で繋がる感覚があるような気がします。

時間が許せば、漫画の他言語版を作りたいと思っているんです。考えている内容は違っても、考える行為自体は全世界共通なのかなと感じているので。私たちはそもそも、人と人とが違っていること自体を忘れがちです。例えば日本で生活していたらカナダにいる夫婦の生活とか、想像しようとも普段思わない。でもそういう生活を、SNSを通して見られるなら私は見てみたい。同じように考えている別の国の人に、この漫画を見てもらえたらいいなとは思います。

今のところ、この漫画の終わりは決めていません。自分で打ち切らないと打ち切りにならないという(笑)。

SNS、インターネットをめぐる体感

「バズる」というお話も出てきましたが、品田さんが思う今のインターネットやSNSは、どのような印象でしょうか?

私がインターネットを使い始めたのは2001年頃ですが、その頃は個人が作っているホームページなどを見て楽しんでいました。各人が自分の好きなことを勝手にやっているサイトが沢山あって、取り扱うテーマ自体に全く興味がなくても面白いんです。最近見つけたサイトでも、マウンテンバイク乗りの人がただただ峠超えに挑戦している様子を綴っているブログがあって。私は全然マウンテンバイクに対して興味がないのですが、その人が楽しんでいる様子を見ると、いいな、楽しいなって思うんです。

インターネットに書かれていることがどう相互に影響を与えるかは、それぞれに知る由も無いですが、世界が思いもよらぬところで繋がっている凄さというのは感じます。

今、自分の興味が、どれくらい外的要因によって形成されているのかはもう分からないですよね。私自身、自分が言っていることが、何%くらい自分の意見なのかは正直わからない。同じSNSばかり見ていると、そこに流通しやすい情報ばかりが流れてきて、そこに特化した感性が育ってくるということは十分ありえると思います。SNSを見ていると、アルゴリズムによっておすすめ欄に同じようなものが流れてきて、それはとても癪だな〜と思います。レコメンドとかリアクションとか、「RE」の付くものが多すぎる。何かがずっと流転している気がしますね。

品田さんは、これからのインターネットやSNSに対して、どのように向き合いたいですか?

インターネットは生活の一部で、今のところ辞められる気配はないですね。

私のインターネットの原体験は、先ほどのバイク乗りのブログのように、"目的も無く、ただそうあるものを記録しているもの"でした。本来のインターネットの豊饒さとは、そういうところにあったと思うんです。

何かに対するリアクションを求めるためでは無く、一種の無用の長物みたいなものをあえてインターネットの世界に置いておく。それに結果を期待するのではなく、出来れば、置くというその行為自体を目的としていたい、と思いますね。

おわりに

社会がそれぞれに多様性を認め合い前進するためには、共感は大事なことである。しかし、その共感までコントロールされている部分があるのではないかと、話を聞いてハッとさせられた。

インターネットやSNSの功罪は計り知れない。多くの共感に日々晒され、価値基準が揺らぎそうになる場面もあるかもしれない。もはやそれらを切り離すことのできない私達にとって、自分自身の感受性を大事に取っておくことは、今のインターネットと向き合う際に必要なことだ。

品田さんが"他者の存在を肯定する愛情"を描いたという漫画『そういう人もいる』には、自分自身や周りの生活を健やかに守るためのヒントがあるかもしれない。

 

取材・文:conomi matsuura
編集:Mizuki Takeuchi
撮影:服部芽生