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「強い私」でなくていい 組織開発専門家・勅使川原真衣さんと「能力」について考える

自分には「能力」がない。そう思って悩んだことのある人は少なくないだろう。

社会で求められる能力は時代や環境によって変化しているが、いつの時代も大きな存在感を放っている。気づけば私たちはこの存在に追われ、そこに当てはまろうと必死にもがいているのではないだろうか。

「能力」があることは、一見ポジティブに聞こえる。しかし、実態は組織規範や人の価値観の延長線上にある、定義のないものだ。「能力」の名をつけることで、その感覚的なものが正しく、普遍的に求められるもののように見えてしまう側面があると捉えると、いささか危険な要素があるとも言える。

そんな「能力」への疑問に、ヒントをくれた本がある。勅使川原真衣さんの著書「『能力』の生きづらさをほぐす」(どく社、2022年)だ。勅使川原さんは大学院で教育社会学を修了後、コンサルティングファームで人材開発に従事した。そして、そこで抱いた「能力」への疑問から、現在は自身が代表を務めるおのみず株式会社にて、企業の人材採用・評価・育成などの組織開発を支援している。

ときに私たちに生きづらさをもたらす「能力」という存在に、私たちは、どのように向き合って行くべきなのだろうか。組織開発の専門家である勅使川原さんに、率直に質問をぶつけてみた。

勅使川原真衣「『能力』の生きづらさをほぐす」(どく社、2022年)

「リーダーシップの呪い」との出会いから、教育社会学へ

まず、勅使川原さんが「能力」に興味を持った経緯を伺いたいです。大学院で学ぶ以前から、教育の分野に関心があったのでしょうか?

学部のときは言語を研究していました。大学近隣の小学校に海外ルーツの子どもが多かったので、そこで日本語教師のボランティアをして過ごしました。卒業後は大学院に進み、オーストラリアで日本語教師をしていましたが、そのときにクラス運営がうまくできず、周りから「あなたのリーダーシップはダメだ」と言われたんです。

実は、小学生のときにも「リーダーシップ」について悩んだことがありました。4年生のときの担任に「リーダーシップがあってすばらしい!」と言われていたのに、5年生になったとたん「あなたのリーダーシップには問題がある」と言われるようになったんです。もちろん、私という人間がそんなにすぐ変わるはずはありません。おかしいですよね。

背景には、その定義の違いがありました。4年生の担任は「統率力」を意味したのに対し、5年生の担任は「クラスで教師より目立つこと」を意味しました。後者は「能力」の名のもと、気に入らない生徒である私をしつけようとしていたんですよね。

オーストラリアで再びこの「リーダーシップの呪い」が現れたのを機に、改めて「人の評価って何だろう?」と考えるようになりました。そのとき、当時東京大学にいた社会学者の苅谷剛彦先生の本に出会い「これだ!」と思って、オーストラリアから研究計画書を書き、一時帰国して面接を受け、そのまま教育社会学の道に入っていきました。

大学院修了後は、企業で人材開発に携わります。研究の現場とはまた違う気づきや発見、課題がありましたか?

敵地視察と称して、人材開発の分野に進みました(笑)。

個人の能力を突き詰めることは科学との相性が良く、人材開発業界では能力をデータで可視化して改善点を明らかにしていく「能力開発」が盛んにおこなわれています。しかし、人の特徴はデータだけで説明できるはずありません。データをどんなに追っていっても、結局「その人ってどんな存在なんだろう?」ということは分からない。それに対して、「科学的に精査されたアセスメントの結果です」と言って人を評価していくことに、徐々に違和感を抱くようになりました。

印象的なエピソードがあります。ある企業の部長選任プロジェクトに参加したときのことです。私たちが部長選任に必要なアセスメントデータを持って企業に伺うと、先方はもうお通夜みたいな雰囲気で、すごく暗かったんです。その方が日頃どんなに一生懸命仕事をしているかも知らない外部の人間が、「科学的な結果です」と言ってその人の能力を「宣告」しに行っているようなものなので、そうもなりますよね。そこから、データによって人の能力を評価し、あたかも正しいかのように査定していくことって、あるべき姿なのかな?と考えるようになりました。

組織や個人が「強くなること」が成長ではない

そんな問題意識から、現在はご自身の会社で組織内の「人の組み合わせ」を軸に組織開発をされています。どんな内容なのですか?

コンサルでの経験を経て、データを使って個人を突き詰めるより、個人が発揮しやすい機能を把握した上で、得意・不得意や思考の癖を生かすように「人と人を組み合わせる」ことに目を向けるようになりました。私の会社で提供しているヒトミルは、まさにその「組み合わせ」を考えるサービスです。

具体的には、まず組織の構成メンバーに、ブレーキをかけることが得意なのか、アクセルをぐんと踏むことが自然にしやすいのか、などの「発揮しやすい機能」がわかるアセスメントを受けてもらい、その結果から組織と個人の行動パターンを把握して、経営者と一緒に「それぞれの人が活躍しやすい、人同士の組み合わせ」を考えていきます。あまり大人数で実施しても意味がなく、大企業で言えばチーム単位など、~40人程度で実施するのが適しています。

組み合わせを行う方法も様々です。プロジェクトの構成メンバーを入れ替え、日ごろの仕事で密に関わる顔ぶれを調整するケースが多いですが、人の配置換えが難しいときには、それぞれの解釈の特性を知ったうえで、声のかけ方、指示の仕方を工夫できるようワークショップを行うケースもあります。

このサービスは「個人を成長させていくモデル」ではないので、長期スパンで関わることが多いです。なんというか、「組織や個人が強くなること=成長」ではないんですよね。何年も一緒にいれば、企業も個人も良いときも悪いときもありますし、子どもが生まれて生活が変わることもあります。一時的なアセスメントでその人となり全体を「能力」として評価するなんておこがましく、そんな変化やゆらぎを前提としながら、もっと長い目で関わりよりよい組み合わせを提案しています。

現代社会は効率性重視で、組織によっては労力のかかる「丁寧に人と向き合うこと」の優先度が低いケースも多いように感じます。

そうですね。むしろそういう組織の方が多いかもしれません。

これはもう哲学というか、人間観みたいなところの違いだと思っています。たとえば大病された方とか、壮絶な介護を経験されてる方とか、“他者の痛み”のようなものを知ってる方が上層部にいる組織だと、丁寧に向き合うことの大切さを比較的分かってくださる印象がありますね。

人事の仕事は、「対話」の重要性を示していくこと

多くの企業では、社員の「あるべき姿」や「求める人材像」があり、それらを軸に育成や評価がなされると思います。一方で、そこに当てはまらない自分を「能力がない」と捉え、自信喪失につながってしまう人もいるのではないでしょうか。

そういうケースは、得意不得意や価値観の違いが大きいと思います。価値観の違いすら「能力」や「人間力」の欠乏と捉えてしまうと、「与えられた環境に適することができないこと=自分の人となり全体が壊れていること」と捉えかねません。ですが、能力は虚構です。

もし、その組織で求められる「あるべき姿」が自分の性格や感覚と合致しないと感じることがあったら、「求められている機能が自分の感覚と違うんだな。その機能を発揮していれば周りは安心するし、自分の意見をもっと聞いてもらえるようになるかもしれない」くらいの俯瞰した気持ちを持って、その態度を身に付けてみることは、ありかなと思います。

やっぱり社員も100人100通りなわけだから、どんなに頑張ったとしても、1つの型にはめることは絶対にできないはずなんです。だからこそ企業は、丁寧に人と向き合い、レゴブロックのように、一人ひとり異なる個性を組み合わせて、大きな船を作っていく方が良いんじゃないか、というのが私の考えです。

これまでのお話を聞いていると、組織の人事部門が丁寧に個人と向き合うことが重要だと感じます。「忙しくて一人ひとりと向き合いきれない」という人事担当者もいるのではないでしょうか?

そうですね。ただ、本当に対話の時間だけは大切にしたほうが良いと思うんです。

私が提供しているサービスは、先のアセスメント診断後、どうやって相互理解し、適切な組み合わせを作っていくかを決めます。これはもちろん、誰かが神のように決めるわけではなく、地道に話して決めていくしかないんですよね。

いま、タイパやコスパが重視されていますが、「個別に話して考えていく時間、ありません!」なんて言っているようでは、絶対に組織変革はできないと思います。「タイパやコスパは分かるけど、絶対に時間を巻いてはいけないものってありますよね」ということを、意識的に伝えるようにしています。

時間を使うべきはどこか、ということですね。

本当に「その人をもっと分かりたい」と思ったら、その術は対話しかないと思うんです。そうなると、人事の仕事はむしろ対話の重要性を各職場で広げていくことではないでしょうか。

教育を変えるためにも、まずは企業から変えていきたい

少し視点を変えて、いまの社会では、組織に限らず社会全体でも「自立」「自己責任」といった「高い『能力』を携えておくことが正」という風潮があると思います。そんな現代社会をどう見ていますか?

本当は、そこが1番課題意識を持っている部分なんです。いまは「独り立ちした強い個人をいっぱい作れば、良い社会ができる!」というモデルの社会になってる気がしますが、そうではないと思います。「自己責任」とか「自立」とか、高い能力がたしなみぐらいのレベルで求められていると感じますが、はたして「それは正義なのか?」と。

個人だって、強いときもあれば弱いときもあるし、強い人があるとき急に弱くなることだってある。障がいや病気などで、生まれながらにしていま求められている“強さ”を持てない人もいます。そういう、ゆらぎある個人が集まる場所が社会だと考えたときに、やはり“あるものを生かしていく”というのが大切だと思うんです。「万物は流転しているなかで、どうやって相互扶助を高めてくか?」ということも、もっと世界的なテーマになるべきではないかなと思っています。

たしかに、現代社会では、「強い人」がもてはやされる風潮はあるかもしれません。

いま、成功体験をまとめたビジネス書が多く出版されています。「自分の成功は自分の能力にあったんだ!」と能力還元主義的に執筆をされる内容が多い印象なのですが、やっぱりなにか、成功した人の特権を感じてしまうんですよね。

きっと成功の背景は、「能力」だけじゃないと思うんです。環境に恵まれたこととか、運が良かったこととかもあるでしょうし、成功のために踏んづけてきた人もいるはず。成功したことを誇るよりは、環境や周りの支えでたまたま成し遂げた成功を還元するという意味でも、能力主義的な発言は控えていくべきじゃないかな、と個人的には思っています。

ただ、こういう類の本って分かりやすいんですよね。「正解がここにある!」と思って読めるんです。私の本では「葛藤と向き合う大切さ」を提示しましたが、「結論を先に書いてほしかった」というレビューも目にしました。結論を先に書いて済むような、そんな単純なことじゃないと思うんです。

こういうところからも、「いまの社会はこうなんだな」と感じます。最速・最短・最善でゴールを目指すことをずっと求められてきているから、それ以外は「未熟で不完全なもの」として虐げられてしまうのかな、と。

この社会の風潮は、どこからきているのでしょう?

教育社会学的に考えると、やはり「学校」が人間観を規定している部分は大きいです。教育基本法の第1条「教育の目的」には「人格の完成を目指し」という言葉があります。私はここから「あなたたちは人間が完成していない、未熟な存在なんだから、もっと努力しなさい」というメッセージを感じます。最近では「自助」という言葉もよく使われますが、「自立しましょう。自立した人は助けますよ」とも聞こえる。そんな風に言われることに、しんどさを感じる人はたくさんいますよね。人間はもっと弱い存在だし、変化し続ける存在です。教育基本法も含め、その前提に立って社会のあり方が変わっていくとよいと思っています。

学習指導要領にも「生きる力」とか「自己調整力」といった言葉が入っていますが、やはり個人を“強く”しようとしているんですよね。そうじゃなくて、いろんな浮き沈みがあることを踏まえて、社会システムを再構築することが必要ではないかと思っています。

その点、教育分野に対してアプローチしたいと考えていることもあるのですか?

学校教育に関わる活動もしています。先生方への講演や、校長先生方がお読みになる雑誌に寄稿させていただいたりしています。

ただ、いまの教育の命題は「有能な社会構成員を作ること」なので、教育単体を変えることは無理だと思っています。まずは目指す先である、優秀な労働者を育成する側の、“企業”を変えていかないといけないと思っています。なので、いまは企業の立場から人間観を変えていくことを1つの使命だと捉えて、組織開発を切り口に社会にジャブを打っていっているところですね。

私たちはずっと強くはいられない。どんな人にだって、ゆらぎがあるだろう。しかし「能力」という、あたかも正しく、必要であることが疑われない言葉によって、そのゆらぎの存在が見えづらい社会になっているのかもしれない。それによって、生きづらさを感じている人は、少なくないはずだ。

勅使川原さんは、現在朝日新聞デジタルの言論サイトRe:Ronや大和書房オンラインメディアのだいわlog.で連載をしているほか、今後も複数書籍の発売に向け鋭意執筆中だという。「能力」との向き合い方について、今後もたくさんのヒントをもらえそうだ。もちろん、分かりやすくないこの問題は、短時間で、はっきりとした正解にたどり着くものではないだろう。だからこそ、長い目で向き合い続けていきたい。

 

取材・文:大沼芙実子
編集:篠ゆりえ
写真:勅使川原真衣さん提供