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歴史の再構築から現在を照射するセルゲイ・ロズニツァ監督、新作はなぜ必見か|矢田部吉彦コラム

日本の夏は、戦争映画の夏でもある。戦争とその記憶を意識させられる夏の訪れに合わせ、毎年戦争関連映画が数多く公開される。『破壊の自然史』(2022)と『キエフ裁判』(2022)も、そんな夏に合わせて公開される「戦争映画」であるが(ともに2023年8月12日公開)、第2次世界大戦を扱いながら、現在も継続中のウクライナ戦争への意識を喚起させるという意味で特別な作品だ。

両作を監督したのが、ベラルーシ生まれ、ウクライナ育ちのセルゲイ・ロズニツァ監督。20年近いキャリアがありつつも日本での紹介は遅れたが、ここにきて彼の新作を一手に担い、次々と公開してくれる配給会社の株式会社サニーフィルムの代表、有田浩介さんにもお話を伺いながら、ロズニツァ監督新作を紹介してみたい。

コスモポリタンとしてのセルゲイ・ロズニツァ監督

そもそもロズニツァ監督とはどういう存在であるかと言えば、フィクションとドキュメンタリーの双方を手掛け、この2つの映画形態の懸け橋となる重要な存在と表現できる。ドキュメンタリー監督としてのキャリアを10年以上積んだ後、フィクション長編第1作となる『My Joy』(2010)がカンヌのコンペに選ばれたことで、ロズニツァは一躍世界で注目される存在となる。悪夢的な道程に巻き込まれるトラック・ドライバーの姿を描く『My Joy』は、暴力や汚職をふんだんに含み、旧ソ連の暗部を強く意識させる作品であった。以来、現在に至るまでフィクションとドキュメンタリーの双方で主要国際映画祭の常連となっている稀有な存在である。

日本での公開は、強制収容所を訪れる現代の無邪気な観光客の姿を客観的に見つめるドキュメンタリー作品『アウステルリッツ』(2016/日本公開は2020)が最初となり、批判を目的としない冷静な視点が観客の思考を大いに刺激した。同時に、スターリンの国葬の映像を繋いだ『国葬』(2019/同)と、スターリンが行った「見せしめ」裁判の様子を記録した映像を編集した『粛清裁判』(2018/同)も公開され、膨大なアーカイヴ映像を掘り起こして編集し、重大なソ連の歴史の局面を再構築し、かつ自らの芸術世界に資するものとして提示するロズニツァの唯一無二なる才能が日本でも広く知られるようになった。

さらにロズニツァの重要性をもう一段高めることになったのが、『ドンバス』(2018)であった。2014年に端を発したロシアの侵攻後、ウクライナ東部のドンバス地方で何が起きているのかをフィクションの形で描いた『ドンバス』は、不条理なエピソード集という形でショートストーリーを巧みに編んだロズニツァの才気によってカンヌを皮切りに世界中で上映され、ウクライナの現状を知らしめることに貴重な一役を買ったのだった。そして、2022年2月の本格侵攻を受け、日本でも緊急公開が実現した。

しかし、本格侵攻は、ロズニツァ監督本人には皮肉な結果をもたらす。ウクライナ映画アカデミーは、ロシアの個々の映画人を差別すべきでないとの立場を表明したロズニツァを、会員から除名してしまう。コスモポリタン(※1)を自認していたロズニツァにしてみれば当然の立場だったのだが、結果を受け入れる他なく、ウクライナ映画業界の助成が得られなくなり、活動の拠点をリトアニアに移す。

とはいえ制作のペースが落ちることはなく、2022年には『破壊の自然史』(同年5月のカンヌ映画祭でプレミア)と、『キエフ裁判』(同8月のヴェネチア映画祭でプレミア)という2本の新作を発表したのである。

※1 用語:国籍などにはこだわらないで、全世界を自国と考えている人。世界主義者。

ロズニツァ監督作品の魅力

サニーフィルム社の有田氏は、どのようにしてロズニツァ作品に出合い、配給を決心したのだろうか?

有田浩介氏
米テキサス州ヒューストン出身。映画配給会社サニーフィルム代表。レコード会社のプロモーターを経て2011年から映画パブリシストとして活動。2016年から映画配給を始め2018年に株式会社サニーフィルムを設立。歴史、戦争、人権、倫理、移民・難民問題をテーマとした作品を多く手がける。

有田氏「『国葬』を2019年のIDFA(アムステルダム国際ドキュメンタリー映画祭)で見たのが初めてのロズニツァでした。スターリンの棺を上から映した緑と赤の色調の場面写真が、ケレン味たっぷりでヤバすぎるというか、強烈で。この作品見たさにIDFAに行ったと言っても過言ではないほどです。滞在の最終日に見られたのですが、見ただけでは100%理解できたとは言えませんでした。上映後の監督へのQ&Aの時間で、監督と観客とのやりとりを聞いて総合的に理解したというか、その感覚が面白かったんです。観客の質問を聞いているだけでも学べる体験でしたし、これを日本語字幕にしたら絶対に好きになる人がいるだろうと直感があり、映像の力や(知っている人はいたかもしれないとしても)未知の存在の発見などを含めて、トータルでこれはすごい、日本でやる人いないのかな、と思いました」

矢田部「アーカイヴ映像だけであそこまでオリジナルなものを作るのは新しいですよね」

有田:「そう思いましたし、びっくりしました。アーカイヴァル映像がもともと好きで、写真も好きなのですが、想像させますし、古い映像や写真自体が物語るものがある気がするんです。それらをカルトっぽく使って異なる文脈で語る監督もいますが、ロズニツァはそうではない」

矢田部「アーカイヴを1つの材料としてリミックスして実験映画的なアートに仕立て上げる作家もいますが、ロズニツァは違いますよね」

有田「はい、ロズニツァのアプローチは違いますね」

矢田部「ロズニツァは、きちんとあるべき形でアーカイヴ映像を用いながら、自分のオリジナルな映画として完成させている点が非凡ですね」

有田「非常に正しいやり方だなと思います。でもそれをやれている人はほとんどいない。アーカイヴのパーツを使って歴史を説明するケースはあるとは思いますが、ロズニツァは歴史イベント全体をアーカイヴで構築していて、編集のレベルが凄まじく高い。

さらにそこに音を足したり、フォーリー(手作業で音を作り、劇中音に当てはめていく技術)を用いたりする。アーカイヴで歴史を再構成するけれども、あくまでロズニツァの映画作品になっているのです」

確かに、『国葬』でも、そして『破壊の自然史』や『キエフ裁判』でも、ロズニツァのアーカイヴァル・ドキュメンタリー作品を見て驚かされるのは、見事に修復されたアーカイヴ映像のシャープさだけでなく、発言者の声が鮮明に聞こえ、細かい音まで設計されていることだ。聞かせるべき音を目立たせることは演出の一つであり、アーカイヴ映像の集積がオリジナルなロズニツァ作品となって生まれ変われる所以のひとつである。

有田「120分のアーカイヴ映像を使いながら、あたかも自分が指示をして撮ってきたように見せ、我が作品として仕立てる編集が素晴らしい。これはもう本当に映画である、と思います」

矢田部「全く同感です。ところで、いくら『国葬』が素晴らしかったとはいえ、日本で無名の監督で、しかもいわば地味な作品を日本で配給することにはリスクが伴うはずです。有田さんとしては、ご自身がドキュメンタリー作品を配給してきた経験に基づいて、ある程度勝算はあったのでしょうか?」

有田「ある程度の勝算が無いと配給はできないですよね。2018年に配給した『ゲッべルスと私』(2016/クリスティアン・クレーネス監督他)も1人の人物が語る歴史を、アーカイヴァル映像が補足して見せていく作品でしたが、これがヒットしたことも影響しました。能動的にオーディエンスが考えにいかないと理解できないものに、興行的なポテンシャルがあると分かっていました。ロズニツァは、そのラインでいくと、とても大きなチャンスがあるな、と思ったのです。特に言葉のやりとりの多い『粛清裁判』は、日本語にしたら化けるぞと思いました」

矢田部「日本ではナチス関連の作品が公開されることが多いですし、独裁や虐殺への理解を深めたいというか、このテーマへの好奇心が強いというマーケットの特性はあるのでしょうか?」

有田「日本人の知的好奇心という意味ではあるでしょうね。ただ、現在はシニア層がターゲットの中心になっていて、若い層に届けきれていないという思いがありますので、そこが今後の課題になってきます」

矢田部「ロズニツァは多作なので、全作付き合うのは大変ですよね?配給するかどうかの是非は、1本ごとに判断されるのですか?それとも、とことん付き合う?」

有田「ある程度まとめて同時公開するとか、色々と方法は考えています。やりながら判断するという感じでしょうか。続けられるように、見せ方に濃淡を付けながら進めて行けたらと思っています」

気概と信念のある映画配給会社の存在があってこそ、我々は重要な作品を見ることができる。ロズニツァ作品は歴史的事実の再認識を迫ると同時に映画作りの新しい形を提示し、複層的に訴えてくるが、決して商業的な作品ではないので、配給会社の勇気ある判断が不可欠となる。

日本の映画文化を支えているのは、有田氏はじめ、各配給会社の目利きたちの慧眼だ。

『破壊の自然史』について

『破壊の自然史』は、第二次大戦における、英米軍によるドイツの都市への爆撃を撮影した膨大な映像フッテージで構成される戦争の記録である。

導入部では平和な市民たちの姿があり、やがて、闇夜に降り注ぐ大量の爆弾が地上で爆発し、その光が星空と区別がつかなくなる様子が映し出されていく。きらめくその映像は、ほとんど「美しい」。しかし、夜空のきらめきの下には、市民の暮らしがあり、ましてやそこは大空襲を受けた東京や大阪でもありえるのだと思うと、全身が総毛立つ。

このような作品で美的な側面を語るのはとても難しい。壮麗な音楽に加え、映像のコラージュが視覚的カタルシスを与えてくる時はなおさらだ。戦争とアートを巡る倫理的な一線への問いかけを、ロズニツァは呈示してくれる。

『破壊の自然史』
©️LOOKSfilm,Studio Uljana Kim,Atoms & Void,Rundfunk Berlin-Brandenburg,Mitteldeutscher Rundfu

矢田部「『破壊の自然史』はどうご覧になりましたか?」

有田「本当に面白く見ました。音楽が印象的です。ロズニツァの作品に音楽があることは少ないのですが、本作は例外ですね。フルオーケストラを入れてかなり本格的に音楽を入れています」

矢田部「もしかしたら、ロズニツァを知らない人には、本作から入るのが1番いいかもしれませんね」

有田「入口にはなりますね。ロズニツァは作品も多いですし、数本を例えば”群衆”というような共通のテーマでくくりながら(※2)日本で紹介してきたのですが、逆に今からだとどこから始めればいいのか分かりにくいかもしれません。なので、おっしゃる通りロズニツァを初めて見るには『破壊の自然史』は最適な作品かもしれません」

『破壊の自然史』
©️LOOKSfilm,Studio Uljana Kim,Atoms & Void,Rundfunk Berlin-Brandenburg,Mitteldeutscher Rundfu

“連合軍がドイツの都市を空爆する映画”だという短文で映画の中身が説明できる点でも、『破壊の自然史』のインパクトは効果的で、鋭い。そしてここで重要なのは、ナチスの非道な行為に対する報復としての空爆である、という因果的な文脈から切り離された次元で、空爆が描かれている点である。

もちろん、その因果から完全に逃れることはできないとしても、空爆=破壊という行為がどこか感情を排した形で純粋に抽出され、提示される。連合国と枢軸国の相互の報復という物語を離れ、究極の暴力の凄まじさだけがただただ露呈していくのだ(※3)。

そして、第二次大戦で見られたその破壊の「自然史」は、2022年のロシアのウクライナ本格侵攻に至るまで変わることが無いのは、言うまでもない。

有田「地続きの戦争について、とても考えさせられます。アメリカ留学中に湾岸戦争が起きました。以来、イラクがあり、シリアでも戦争は継続中です。それらを喚起させる力が本作にはあります。そして、あれだけの大量破壊をしておきながら、幾度も正義を振りかざす連合国側の主張は今見ると滑稽なほどで、驚かされます。彼らにとっては、集中空爆はこれまでやったことが無かったわけですし、実験だったのですよね。あれをやってしまうのが、人間なのだと思い知らされました。戦争における人間性が見えてくる作品ではないでしょうか」

矢田部「戦争における人間性が見えるというのはまさにそうですし、戦争と人の営みというか、戦闘機の組み立てや整備を行う産業との結びつきが描かれるのも本作の特徴ですね」

有田「そこはとても強調されています。破壊兵器を製造し、これを一緒に用いて行こうと集団を鼓舞する上官の姿や、重工業と生産の実務が見られるのはまさにアーカイヴ映像ならではですね。そしてもちろん、日常の暮らしがいかに破壊されていくかが描かれます。ロズニツァは時系列にそれらを並べるのではなく、多種のアーカイヴから引っ張ってきて演出しているわけです。ある日、日常が破壊されるという戦争そのものを、ある意味分かりやすく描いている。やはりロズニツァ作品の中では1番分かりやすいかもしれません」

ドイツ軍と英米軍の両陣営において、戦闘機が工場で組み立てられる様子が並行して描かれ、その戦闘機には続々と爆弾が搭載される。当初は軍需工場を狙っていたはずの爆撃は、都市にも至り、無数の市民が犠牲となっていく。

IDFAで本作上映後に登壇したロズニツァ監督は、「大量爆撃によって、市民は戦争終結の政治的ツールとして用いられるようになった。その惨状は今に通じている」と語った。

アーカイヴ映像を用いたドキュメンタリー映画という手段を最大限に駆使し、それがアートという形を取るかもしれないとしても、ロズニツァが伝えるのは反戦に他ならず、戦争に翻弄される人間の営みに他ならない。

※2 補足:『国葬』、『粛清裁判』、『アウステルリッツ』の3作は、「群衆3選」と題されて同時に公開された
※3 参照:『破壊の自然史』プレス資料:「セルゲイ・ロズニツァ監督Q&A」

『キエフ裁判』について

第二次大戦終結後、ソビエト連邦ではナチ犯罪者と協力者に対する20の公開裁判が行われ、そのうちのひとつを映画として再現/再構成したのが『キエフ裁判』である。

『キエフ裁判』©️Atoms & Void

この裁判は1946年の1月17日と18日の2日間に亘って行われ、広い講堂が満席の市民で埋まり、将軍、高級将校、低級将校らを含む15名のドイツ軍人が裁判官の質問に答えていく様を映画は見せていく。ロズニツァはオリジナルの法廷映像を発見し、映像と音声を復元し、まさにロズニツァがカメラを廻していたのではないかと思わせるほどの統一感のある映画に仕立て上げている。

矢田部「『キエフ裁判』はどうご覧になりましたか?」

有田「1941年にドイツ支配下のキエフで数万人のユダヤ人が虐殺された事実を描く『バビ・ヤール』(2021)というロズニツァの作品がありますが、『キエフ裁判』はそこから派生しています。『バビ・ヤール』を配給した経緯でこの裁判の存在は知っていました。そして、『キエフ裁判』では多くの子どもが殺された事実も明らかになりますが、殺された子どもたちが今の自分の子と同じ年齢であったりして、特別な感情を持って見ることになりました。

“バビ・ヤール3部作”と勝手に名付けているのですが、ドキュメンタリーの『バビ・ヤール』、その裁判を含む『キエフ裁判』、そしてバビ・ヤール事件をフィクションで描く新作プロジェクトが進行中で、これらは自分が関わることは決めているので、『キエフ裁判』の配給も自然の流れだったのです」

『キエフ裁判』©️Atoms & Void

矢田部「大勢の子どもたちを殺した兵士が、何も考えていなかったと発言するシーンには戦慄します」

有田「命令に従わなければ自分が殺されるとか、酒飲みながらやってたとか、もう人間性は崩壊しているのですよね。それはやはり怖い。

そして、ロズニツァが描きたかったのは、刑の執行の部分ですよね。一目見ようと押し寄せる大量の群衆。池田嘉郎先生が解説原稿で触れていますが(※4)“群衆の傍観者性”が際立ちます」

矢田部「『バビ・ヤール』においても、市民が何もしないことで(傍観することで)罪に加担しているという視点がありました。それは酷だろうと僕は思いもするのですが、群衆の本質を描くことはロズニツァ作品に顕著ですね」

有田「ロズニツァが描くクラウド・サイコロジー(集団心理)の側面を“群衆”という形でまとめて打ち出したのは、他の国でやっていなくて日本だけなんです。でも彼の作品には一貫して群衆が登場します。無関心や、集団的熱狂や狂気とか、ロズニツァが描き続けている主題であると言えます」

矢田部「群衆の無関心や、集団的熱狂などは、まさに日本の国民性に関する議論の俎上に上がりがちな側面であるわけで、日本でロズニツァが見られることの意義の高さをここでも感じずにいられません」

有田「また『キエフ裁判』では、『粛清裁判』でもそうであったように、あらかじめ刑は決められていたとも言えるわけです。そういった裁判の虚構性に対する考察としては、寄稿して下さった芝健介先生の文章に当たってもらいたいですが、眼から鱗が落ちる思いがします(※5)。こういう作品を配給して刺激的なのは、専門家の意見に接することでさらに勉強ができることにもあるのですよね。

シンプルに、戦下における蛮行や鬼畜のような行為を聞かされる辛さとか、聞きたくないような話を聞いてしまうけれど、それがまた映画の経験としては“面白い”ということになるわけで、破壊の映像が美しいと思ってしまう感情と通じますが…。とはいえ聞かなければ良かったという発言はひとつもありませんでしたけれどね。我々は戦争を知らないのですから…」

『キエフ裁判』©️Atoms & Void

※4 参考:『キエフ裁判』パンフレット寄稿文:池田嘉郎著「破壊と殺戮の脱コンテクスト」
※5 参考:『キエフ裁判』パンフレット寄稿文:芝健介著「『キエフ裁判』論考」

「戦争と正義」

『破壊の自然史』と『キエフ裁判』は、「セルゲイ・ロズニツァ<戦争と正義>ドキュメンタリー2選」と題されて同時公開される。どうして「戦争と正義」なのだろうか?

「セルゲイ・ロズニツァ《戦争と正義》ドキュメンタリー2選」
8月12日(土)よりシアター・イメージフォーラムにて2作品同時公開(予定) 配給 サニーフィルム

有田「外交などで戦争が言及されることがありますが、結局のところ戦争とは、今回の作品で見られるように狂気のなかで人が大量に殺され、国家意思によって”正義”の下に大量破壊が実行されるわけです。そもそも戦争に正義はあるのかという問いに対しては、正義などあるはずがないということで議論は終わるはずなのですが、8月というタイミングで意識したのは、我々は敗戦国ですし、広島と長崎もありますし―それは今回の作品にリンクしていますがー、この時だけは戦争における正義を普遍的な倫理観で話してもいいじゃないかという思いです。

議論した方がいいというのは押し付けがましいですが、映画を通じて考えてみたい。確かに防衛のための戦争は”正しい”という国際法上の正義はあるかもしれません。ただ、日常の、一般の人たちが殺される行為に正義はない。当たり前の話なのですけどね…」

おわりに

2022年2月のロシアの本格侵攻から18カ月が経とうとしており、ウクライナを巡る状況は不透明なままである。楽観論と悲観論が交差しながら、そもそもどのニュースを信じていいかが分からない時代に我々は生きている。

早い時期から、アーカイヴァル・ドキュメンタリーとフィクションの双方の手法で、旧ソ連とウクライナの地で起きてきた戦争行為を独自に再構築してきたセルゲイ・ロズニツァ監督は、本格侵攻に「追い越されてしまった」ことにより、図らずも人類が戦争の経験から学んでこなかったという不都合な真実をその創作を通じて証明してしまったことになる。

ロズニツァが各作品を通じて再構築する歴史は大きな流れで繋がっており、その射程は常に現在へと向けられている。彼の作品を通じて現在を理解しようと試みることは、8月に我々ができることのひとつであるのは間違いない。

矢田部吉彦(やたべ・よしひこ)
仏・パリ生まれ。2001年より映画の配給と宣伝を手がける一方で、ドキュメンタリー映画のプロデュースや、フランス映画祭の業務に関わる。東京国際映画祭に19年間在籍し、「日本映画・ある視点」、「日本映画スプラッシュ」、「ワールドフォーカス」、および「コンペティション」部門などのプログラミング・ディレクターを務めた。2022年3月にはウクライナ映画人支援上映会を企画するなど、現在はフリーランスとして活動中。

 

寄稿:矢田部吉彦
編集:おのれい