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責任を直視すること、そこに生まれる赦しを描く 映画『CLOSE/クロース』ルーカス・ドン監督インタビュー

バレリーナを夢見る15歳のトランスジェンダーの少女の苦悩と、壮絶な顛末を描いた映画『Girl/ガール』。同作で第71回カンヌ国際映画祭でカメラドール(新人監督賞)に輝き、世界中で注目を集めた若き天才ルーカス・ドン監督が、新作『CLOSE/クロース』(7/14公開)を引っさげて、4年ぶりに来日した。二人の少年の友情と関係性の破綻を描く新作『CLOSE/クロース』も、第75回カンヌ国際映画祭でグランプリに輝き、その溢れる才能を見せつけている。そんな彼の創作の根源にある考え方や、芸術の世界で昨今激しく議論されているポリティカル・コレクトネスについて、映画解説者の中井圭が対話を通じて深く掘り下げる取材を行った。

『CLOSE/クロース』

13歳のレオとレミは、24時間ともに過ごす大親友。中学校に入学した初日、親密すぎるあまりクラスメイトにからかわれたレオは、レミへの接し方に戸惑い、次第にそっけない態度を取ってしまう。気まずい雰囲気のなか、二人は些細なことで大喧嘩に。そんなある日、心の距離を置いたままのレオに、レミとの突然の別れが訪れる。季節は移り変わるも、喪失感を抱え罪の意識に苛まれるレオは、自分だけが知る“真実”を誰にも言えずにいた…。
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監督:ルーカス・ドン(『Girl/ガール』)
脚本:ルーカス・ドン、アンジェロ・タイセンス
出演:エデン・ダンブリン、グスタフ・ドゥ・ワエル、エミリー・ドゥケンヌ

7月14日(金)より全国公開
配給:クロックワークス/STAR CHANNEL MOVIES
© Menuet / Diaphana Films / Topkapi Films / Versus Production 2022
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ステレオタイプな社会と対峙する個人を表現する

ルーカス・ドン監督の前作『Girl/ガール』は世界中で非常に高い評価を得ました。今振り返って、作品のどの点が高く評価されたと考えますか?

前作『Girl/ガール』の主人公でトランスジェンダーの少女ララは、観客がどこか共感を持てるキャラクターでした。それは、彼女だけではなく、多くの人が自分の身体をコントロールしようとすることを何かしら体験しているからだと思います。だから、ララとは違うバックグランドを持つ、多様な人々と映画を通じてつながることができたんじゃないかと思います。また、社会に蔓延するステレオタイプな考え方と対峙して、新しい可能性を提示しようとする映画なので、その点が世界に響いたのではないかと考えています。

前作『Girl/ガール』も今回の新作『CLOSE/クロース』でも、「自分らしさ」を尊重しない現代社会が浮かび上がります。監督がこの題材を反復して描く理由について教えてください。

私たちは生まれた瞬間から、身体に紐付けられた様々なルールに従うことを社会に要求されます。これまで長い時間をかけて構築されてきた古い社会規範の中で生きていくには、演じなければならない役割があるのが現状です。しかし、私たちの内部で起きている心理面と肉体面の葛藤は、そんな単純なものではありません。そんな現代社会とこの時代を生きる個人が対峙することは、とても荒々しいものです。前作『Girl/ガール』も今回の『CLOSE/クロース』も共通して、その荒々しさを表現しています。

現代社会に必要な、優しさの革命

新作『CLOSE/クロース』において、二人の少年の友情をテーマにした理由を教えてください。

以前、私が生まれ育った村にある小学校を訪ねる機会がありました。その学校のことを振り返ると、本来の自分でいることに苦労した当時を思い出します。学校では男女別行動だったので、私は自分がどこにも属していないように感じていました。周囲から、からかわれることも多く、特に男子との関係性に不安を感じていました。というのも、男子と仲良くなることで、私のセクシュアルアイデンティティに対する周囲の思い込みや偏見を強化してしまうのではないかと感じたからです。その気持ちを表現してみようと紙に書き留めた言葉が、友情、親密、恐怖、男らしさなどです。それが、『CLOSE/クロース』を構成する要素になりました。

昨今、多くの作品の中で「男らしさの解体」が謳われています。本作でも、レオが男らしさを見せることで、二人の関係性が引き裂かれていきます。この問題点について、監督の考えを聞かせてください。

この映画は、レオが、ステレオタイプの男の子のように男らしく振る舞うことで、彼が元々持っている柔らかい個性を消したいと考える過程を描いています。現代社会は、過度に弱肉強食が進んでしまっていると思いますが、そもそも何かを声高に主張することが強さではないですし、本来は優しい人々も生き延びることができるはずなんです。伝統的な家父長制や異性愛が通念になっている社会の問題は根深いですが、この映画では、社会のあり方には別の可能性があることを提示できれば良いなと考えています。

本作では、子どもたちの持つ純粋さと残酷さが描かれます。その問題を大人たちはどう理解し、振る舞うべきなのでしょうか。

子どもの世界は、硬いものが柔らかいものを容赦なく潰してしまう残酷さがあります。自分がこの過酷な世界で生き延びるためには、他者に対しても残酷にならざるを得ないのです。その理由は、我々が生きる今の社会全体があまりに冷酷だからだと考えています。現代社会には優しさの革命が必要です。革命という言葉を聞くと、なにか攻撃的なものを連想するけど、もっと静かで優しいところから始めれば良いと思います。優しさには価値があるとみんなが思うことができれば、社会変化の美しい一歩になると思います。

責任を直視することで与えられる赦し

本作は終盤、あるキャラクターによる赦しと労りが描かれますが、これは監督の社会に対する期待でしょうか。

人を赦すことができるのは、我々人間にとって素晴らしいギフトだと思います。もちろん誰もがいつでも他者を赦すことができるわけではありませんし、とりわけ自分自身を赦すことは本当に難しいことです。ただ、自分を赦すためには、他者の存在が必要不可欠です。本作においてある悲劇が起きた後、そこに関わる人たちは起きたことへの責任を深く感じます。ただ、その悲劇から目を逸らすことなく責任を感じていることを表現することで、人間は前に進めるし、成長します。現代社会に生きる多くの人々は、自分たちの責任について語りたがらないし、極力そこから目を背けます。だから、自分の責任を直視することは、その時点で力があると思うし、そこに与えられる赦しが重要だったのです。

色を取り戻す画面が示す希望

表現面において『CLOSE/クロース』は、身体性に重点を置いているように感じます。

私は映画監督ではなく、ダンサーになるのが夢でした。踊る時だけは自分の内側にあるものを表現し、本当の自分になることができたのです。でも、13歳の時には諦めました。踊っていた時、どこか誰かに批判されているように感じました。私には他者の目を気にしない強さがありませんでした。

書くことも、自分を表現する方法でした。ただ、言葉で自己を表現することはダンスよりも難しいのです。だから、私は自分自身と同じようにキャラクターたちを動かすことに興味があります。私の映画では、言葉がたびたび、身体的な描写に変換されます。たとえば『CLOSE/クロース』では、男の子たちをできるだけ密着させています。また、男らしさを象徴するという点で、アイスホッケーに惹かれました。顔を覆うヘルメットをレオにかぶせる理由にもなりました。私の中で、身体性は脚本執筆の最初の段階から意識しています。

舞台に花畑を選んだ理由を教えてください。

映画に登場する花畑は、私の故郷の村にある花畑をもとにしています。劇中レオが始めるアイスホッケーの世界とは対照的に、花畑には儚さが感じられます。レオの家族が働く花畑は、季節によって変化する風景を映し出します。秋には花を切る作業が行われ、画面から色が徐々に消えていきます。それは悲しみの過程を伝えるためにコントラストを強調したかったからです。そして冬が過ぎると花が再び植えられ、画面に色が戻り、希望と生命が続いていくことを表現しています。

撮りたいものは、個人の肖像

本作は、マイノリティを支援する素晴らしい映画だと思います。一方で、近年「ポリティカル・コレクトネスが映画をつまらなくしている」という見解が一部存在します。このことについて、監督はどう思いますか。

興味深い質問ですね。世の中には、ポリティカル・コレクトネスを満たさないことがたくさんあります。その上で、私自身は「映画がすべてポリティカル・コレクトネスである必要はない」と思っています。というのも、映画は、素晴らしいアートでもあり得るものだから。

昨今のポリティカル・コレクトネスの隆盛で大切なことは、今まで垂直的に考えてきた物事をどう見つめるかです。従来型の考え方は、マイノリティにとって暴力的な構造です。その縦構造になっているものを横倒しに変化させることが社会にとって非常に大事で、それが実現すれば社会は良い方向に動くでしょう。ただ、それであっても、アートがすべてポリティカル・コレクトネス的な姿勢をとる必要はない、とも思います。私が脚本を描いている時に「この表現は、ポリティカル・コレクトネスかどうか」ということは考えていません。結果として、私の映画が、マイノリティに寄り添う作品になっているかもしれませんが。

私が撮りたいと思っている映画は、「個人の肖像」です。だから、その映画の中で描かれる個人が、何かの集団を意図的に代弁する形にはしたくない、と思っています。それは描く対象を不誠実に単純化してしまうし、私はそこから生まれる安直さを避けたいと願っています。それと同時に、私が描いてきた物語は、明確にポリティカル・コレクトネスを含んでいます。それは、この映画の取材を通じ、あなた(筆者)を含め、世界中の映画人やジャーナリストたちと話す中で、私自身がその事実を強く自覚し、理解してきたことでもあります。映画には、このように我々を考えさせるだけの大きな力があると思います。

『Girl/ガール』も今回の『CLOSE/クロース』も、カンヌ映画祭などをはじめとして、大きな功績を残しましたが、ルーカス・ドン監督の次回作はどんなものになるのでしょうか。

私の頭の中には、今、2本の作品のアイデアがあります。ただ、どちらを先に撮るべきか、悩んでいます。ひとつは、今までの作品に連なるメッセージを伴った作品で、もうひとつは、より野心的で、現代とは時代が違う作品です。後者もこれまでのテーマを引き継ぐ部分はあるけれど、映画のスケールが大きいから撮ることに少し怖さもあります。ただ、いずれにせよ、自分の心がどちらを欲しているかが重要ですね。

映画をまたぎ、社会課題へとつながる質問に対しても、できるだけ単純化を避けて誠実であろうとするルーカス・ドン監督。その姿勢そのものが、安易な答えを拒絶しながら苦しみと向き合っていく映画『CLOSE/クロース』に映っている。そして、脚本を書く際にポリティカル・コレクトネスを意識していないと述べた彼から取材中に出てくる言葉は、マイノリティに対する共鳴と柔らかな眼差しに満ちていた。期待される次作では、芸術の担い手として更なる高みに到達しているのは間違いないだろう。そんな彼が描こうする「個人の肖像」が、社会がマイノリティに課す苦しみと決別できる状況に少しでも変化していることを、願ってやまない。

 

取材・編集・文:中井圭(映画解説者)
撮影:服部芽生