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2023年屈指の重要作『TAR/ター』が描く世界とは。鑑賞に際し、見ておきたい作品たち|矢田部吉彦コラム

TÀR/アメリカ/2022年 © 2022 FOCUS FEATURES LLC.

2023年3月に行われた米アカデミー賞では下馬評通りに『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』(2022)が圧倒的な存在感を発揮し、これをもって2022年の賞レースを巡る喧騒もひと段落した感がある。しかし日本では、受賞こそならなかったものの、米アカデミー賞にノミネートされた重要作が満を持しての公開を控えている。トッド・フィールド監督、ケイト・ブランシェット主演の『TAR/ター』(2023年5月12日公開)である。

女性のオーケストラ指揮者を主人公とする『TAR/ター』こそは、社会的に成功を収めた女性が抱える闇光を野心的なタッチで描く真に重要な作品であり、本作が16年振り3作目の監督作でありながらその全ての作品においてアカデミー賞ノミネートを果たしているトッド・フィールド監督の才能が如何なく発揮された作品であり、その演技が崇高の域に達しているケイト・ブランシェットが賞レースの存在を超越して君臨している作品なのだ。

TÀR/アメリカ/2022年 © 2022 FOCUS FEATURES LLC.

問答無用に見てもらいたい作品なのだけれども、事前情報を入れずに本作を見た時の衝撃をこれからの人にも体験してもらいたいので、映画の中身については極力触れたくない。

ほんの入り口だけ紹介するとしたら、ケイト・ブランシェットは「リディア・ター」という名の指揮者を演じている。ターは、ベルリンを本拠地とする世界的に有名なオーケストラの首席指揮者であり、師を意味するマエストロと呼ばれるほどの存在である。映画『TAR/ター』は、そんな彼女の生きる世界を描いていく。

TÀR/アメリカ/2022年 © 2022 FOCUS FEATURES LLC.

作品があまりにも真に迫っているために、実在の指揮者をモデルにした伝記ではないかと思わされるが、実際はフィクションである。というのも、女性のオーケストラ指揮者は極めて少ない。ましてや常任首席指揮者となると、ほぼゼロに近い。そういう意味では、本作はフィクションどころか、監督の言葉を借りれば“ファンタジー”ですらある。『TAR/ター』が、女性不在のポジションが、依然として当たり前に存在する状況への異議申し立てであることは言うまでもない。しかし『TAR/ター』の重要性はジェンダーパリティ(※1)の問題提起に留まらない。ハラスメント、キャンセル・カルチャー、あるいはウォーキズム(※2)などの極めて現代的な事象が次々と俎上に上がっていく。

TÀR/アメリカ/2022年 © 2022 FOCUS FEATURES LLC.

とはいえ、本作が社会派映画なのかと言えば、決してそうではない。性別を問わず、権力を持つ人物とその力の使い方が考察される。時にモノクロかと思わせるほど極端に彩度を落とした画面は北欧絵画を連想させ、リアルな社会派というよりは、格調の高いアート映画の佇まいをまとい、物語は進んでいく。そして、激しく複雑な内面を持ち、アートとエゴ、あるいはアートと倫理の間に横たわる許容範囲の振り幅を一身で体現する芸術家を演じ切ったケイト・ブランシェットは、もはや神に祝福される領域に踏み込んでいる。

本稿では、『TAR/ター』の中身にこれ以上踏み込むことはせず、その周辺にある作品に触れることで『TAR/ター』への関心を喚起してみたい。

※1 用語:ジェンダーの公正を実現する統計的な尺度。マネジメント層の男女の比率や同じ時間で稼げる男女の賃金や、暴力被害を受けた性別の割合、国会議員の女性比率など、特定の指標で男性と女性の「数」の違いを特定の指標で明らかにし、改善していくことで公正な状態を目指していく尺度言葉。
※2 用語:米国で制度的な人種差別や不公正といった問題への関心を喚起するためのスローガンとして使われていた言葉。現在では「ポリティカルコレクトネス(人種・性別・信条などによる偏見・差別のない中立的な表現)」や左派的信条を揶揄する表現として使われる。

『Antonia: A Portrait of the Woman』

『TAR/ター』の主人公リディア・ターを演じるにあたり、ケイト・ブランシェットが参照したと言われるのが『Antonia: A Portrait of the Woman』(1974)というドキュメンタリー作品である。

男性が支配していた(している)オーケストラ指揮者の世界で、はじめて女性として成功したひとりに、アントニア・ブリコというオランダ出身のアメリカ人がいる。『Antonia: A Portrait of the Woman』は、パイオニアとしてのアントニア・ブリコの半生を紹介し、その偉業を讃える。1970年代の「ウーマンリブ」の潮流の中でも重要視される作品となり、1974年の米アカデミー賞ドキュメンタリー部門にノミネートを果たしている。

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アントニア・ブリコ

本作の製作時には70代を迎えていた1902年生まれのブリコが自らの生い立ちを語り、いかに1930年代に指揮者として活躍できたのか、当時を振り返る。まずはヨーロッパで成功し、それが「ヤンキー娘がヨーロッパで活躍!」とアメリカで報道されたものの、ニューヨークでの凱旋コンサートの開催に際しては、興行主から席数の半分のチケットを買い取れとの条件を出されてしまう。その条件を見事にクリアし、カーネギーホールが満員になる。さらには女性のみの演奏家からなるオーケストラを組成し、音楽家に性別は関係ないことを証明する。まさにパイオニアであり、音楽界のルース・ベイダー・ギンズバーグのような存在である。

バッハの研究者であり、音楽人としても名高かったシュヴァイツァー博士と長年に渡って交流したエピソードも興味深い。『TAR/ター』のリディア・ターにアントニア・ブリコの血が流れていると考えると、フィクショナルな人物が実像を伴って現れてくるような気がしてくる。真に偉大な人物を記録した貴重な作品だ。

『レディ・マエストロ~アントニア・ブリコ~』

アントニア・ブリコの前半生を映画化したのが、『レディ・マエストロ~アントニア・ブリコ~』(2018)だ。

DVDジャケット写真©Shooting Star Filmcompany - 2018、発売ニューセレクト/販売:アルバトロス

『Antonia: A Portrait of the Woman』で語られたエピソードの数々が丁寧にドラマ化されており、偉人の人生に触れる刺激に加え、ウェルメイドな商業映画としても楽しめる。特に、コンサート劇場の座席案内係だったブリコがいかにして指揮を勉強できる環境を勝ち取り、やがてヨーロッパでのデビューを果たしたのかを紹介するエピソードの数々は驚きの連続だ。

DVDジャケット写真©Shooting Star Filmcompany - 2018、発売ニューセレクト/販売:アルバトロス

ロマンスのパートが多分に盛り込まれているとはいえ、指揮者になりたいと発言しただけで周囲から嘲笑される時代を生き、自ら道を切り開いていくブリコの胆力と情熱に感動しないでいるのは難しい。それこそルース・ベイダー・ギンズバーグの生涯を映画化した『RBG 最強の85才』(2018)を思い出す。

アントニア・ブリコは戦前と戦後を通じて成功を収めた指揮者であったが、ついに有名オーケストラの首席指揮者となることはなかったらしい。そして、現在もその地位に就いている女性が皆無に等しいことが、映画の最後の字幕で説明される。ベルリンのオーケストラを率いる女性指揮者を主人公とする『TAR/ター』は、このような現実の中で作られているのだ。

『ベニスに死す』

『TAR/ター』の主人公リディア・ターは、グスタフ・マーラーの交響曲をほぼ全て録音してきたが、唯一第5番だけを最後に残していた。そしてついにその第5番をコンサートで公開録音することになり、リディア・ターはオーケストラとリハーサルを開始する。そのリハーサルの模様が、『TAR/ター』の柱のひとつになっていく。ここで重要な役割を果たすのが、マーラーの交響曲第5番の第4楽章、「アダージェット」である。リディア・ターは、「アダージェット」の解釈にこだわり、彼女なりの「アダージェット」の演奏を追求していく。

この「アダージェット」は、映画と最も縁の深いクラシックの楽曲であると言っても過言ではないかもしれない。というのも、20世紀を代表する大巨匠のひとり、ルキノ・ヴィスコンティ監督による不朽の名作『ベニスに死す』(1971)において、メインテーマに使用されて決定的な役割を果たしたのが「アダージェット」なのであり、この映画をきっかけとしてマーラー再評価の機運が盛り上がったほど、「アダージェット」は世界中の人々に響いた曲だったのだ。

20世紀初頭を物語の舞台とする『ベニスに死す』では、老境を迎えた男性の作曲家が心身の疲れを癒すべくヴェネチア(ベニス)を訪れ、ホテルで絶世の美少年に出会い、その美しさの虜となり、絶望的な想いの中で苦しんでいく様子が描かれる。絶対美と死を前にした芸術家の心境を映像化した希代の傑作である。マーラーの「アダージェット」は主人公の心象風景をあますことなく代弁し、ひとりの登場人物と言って良いほどの存在感を発揮している。

『TAR/ター』の劇中、オーケストラと「アダージェット」をリハーサルする場面で、リディア・ターが演奏を中断させ、笑いながら「ヴィスコンティは忘れてね」と指導するシーンがある。頽廃的なトーンを排し、より愛の楽曲としての側面を強調したかったのだろうか。ターは同性愛者である。『ベニスに死す』の男性老人が美少年に魅かれ堕ちていく運命が、ターにも待っているだろうか。複層的に『ベニスに死す』は『TAR/ター』と絡んでいくようである。

 

『ベニスに死す』の中で「芸術は曖昧なものであり、その最たるものが音楽で、決められた解釈から自由である」といった意味の芸術談義が交わされる。芸術はグレーゾーンであるから芸術であるとすると、人間のグレーゾーンはいかに捉えられるべきであろうか。まさにそこは『TAR/ター』の主題でもある。

ちなみに、『TAR/ター』がワールドプレミア上映されたのが、2022年夏のヴェネチア映画祭である。そしてケイト・ブランシェットは同映画祭で主演女優賞を受賞した。『TAR/ター』と『ベニスに死す』との関連性は、まるでここまで計算に入れていたかのようだ。

『イン・ザ・ベッドルーム』

さて、『TAR/ター』を創造したトッド・フィールド監督は、どのような存在だろうか。

フィールドはまず役者として映画界におけるキャリアをスタートさせ、ウッディ・アレン監督『ラジオ・デイズ』(1987)や、スタンリー・キューブリック監督『アイズ ワイド シャット』(1999)といった大物監督作品に出演している。俳優として一定の評価を得つつ、やがて少しずつ監督業に乗り出し、複数の短編を手掛けたのち、2001年に初長編監督として作られたのが『イン・ザ・ベッドルーム』である。

『イン・ザ・ベッドルーム』では、アメリカ北東部の美しい港町を舞台に、愛する者を失うという痛切な悲劇に直面する中年夫婦の姿が描かれる。巨大な痛手から立ち直ることができるかどうか、荒れ狂う嵐の中で夫婦の仲を保つことはできるのか、先に進むために手段は残されていないのか、など、ヘヴィーな物語に真正面から向き合っている。

長編デビュー作にかくなる物語を選ぶところにフィールド監督の本気度が伺えるが、人物像の造形に長け、その人物を通じて俳優の最良の部分を引き出す演出力が発揮され、『イン・ザ・ベッドルーム』は単なる悲劇的な作品でなく、人間内面の計り知れなさを伺わせる深淵なドラマとして成立している。米アカデミー賞において、作品賞とともに、主演のトム・ウィルキンソンとシシー・スペイセク、そして助演のマリサ・トメイの計3名の俳優がノミネートされ、フィールド監督の優れた俳優演出力を証明する形となった。

さらにフィールド監督の才気がうかがえる点として、時間を粘り強く使う点が挙げられる。その場面が必要とみなせば、必要な時間をそこにかけることができる監督なのだ。本作の後半、夫婦が悲しみと向き合う時間は長く、物語に大きな動きが無くとも、夫婦が喪に服す時間をたっぷりと取る。2時間11分という、ヒューマンドラマとしては少し長めの上映時間ではあるが、この時間を省略してしまえば映画の存在意義が無くなることを監督は承知しており、そしてその賭けに成功している(『TAR/ター』も2時間半を超えるが、一瞬たりとも緊張が途切れることはない)。

しかし、2001年のサンダンス映画祭で話題となった『イン・ザ・ベッドルーム』の配給権を獲得したのが、(#MeTooで失脚した)悪名高いハーヴェイ・ワインシュタイン率いるミラマックス社だったことで、フィールド監督は危機に直面してしまう。その剛腕によって頭角を現し、アカデミー賞に連続して作品をノミネートさせる実績を重ね、当時のハリウッドで栄華を誇ったワインシュタインは、担当作品を強引に編集し直すことでも知られていた。そして『イン・ザ・ベッドルーム』に関しても後半が長すぎると判断したワインシュタインは、30分短くしろとフィールドに要求したのである。しかし、9カ月に渡る交渉の末、フィールドが勝利し、映画はオリジナルの長さで保たれることになった。ワインシュタインが他の作品に気を取られていたり、サンダンスで話題になった作品を変えることはないという社内の意見が多かったりなどの理由はあったとしても、ワインシュタインの「ハサミ」に監督が勝った稀有な例となった。

トッド・フィールドは、まさに映画業界史上最悪の暴君の圧力に真正面から立ち向かったのだった。監督キャリアの初期に、この最悪の圧力が彼の心に残した傷は決して小さくは無いだろう。『TAR/ター』では、地位にある者とその力の行使のされ方が大きな主題のひとつとなる。ワインシュタインの記憶が影響を及ぼしていたとしても決して不思議ではないどころか、必然であろうとも思えてくる。

『リトル・チルドレン』

トッド・フィールド監督の長編2作目『リトル・チルドレン』(2006)では、前作と同じく夫婦の危機が描かれるが、その様相は全く異なっている。ともに既婚者の若い男女が不倫関係となり、その行く末を見つめるドラマであるが、暑い夏を舞台に男女の背徳的な高揚感が中心となっているからか、前作よりはだいぶ明るい印象である。

不倫に走る2人を「(大人げない)リトル・チルドレン」と呼んでしまう監督の視点は(同名原作があるとしても)シニカルであるし、彼らを不倫に走らせる背景設定(女性の夫はポルノサイトに夢中で、男性は妻への経済的依存を恥じている)に説得力があり、凡百の不倫映画を超える魅力を持っている。

主演の男女はともに美しく、アメリカの典型的な郊外都市の空間にフィットするその姿はそれ自体が批評的であるとも見える。そして、読書会に参加した(不倫中の)主人公の女性は、課題図書となった「ボヴァリー夫人」の解釈を巡り、「ただの不倫小説だ」と理解を拒絶する知人に対し、「愛していない夫に従うだけの退屈な生活に反旗を翻したフェミニズム小説だ」と論破する。『リトル・チルドレン』の主題を代弁するシーンとして印象深い。

また、男と女が暮らす地区に性犯罪者が刑期を終えて帰って来るというサブストーリーが効いており、住民による追放運動が起きる中、犯罪者の更生の可能性と人々の偏見排除とが天秤にかけられる。さらに、性犯罪者追放運動を先導する元警官の男は、かつて少年を誤射殺した経験を原因とするPTSDに苦しんでいる。明るい光線が降り注ぐまばゆい夏の映像の裏にあるのは、まぎれもなくアメリカの闇である。

本作も配役が冴え、『タイタニック』(97)のアイドル的喧騒から10年を経て、性格俳優へと脱皮を果たしたケイト・ウィンスレットが現代のボヴァリー夫人を見事に演じている。前作のシシー・スペイセクに続き、トッド・フィールドは本作のケイト・ウィンスレットを米アカデミー賞主演女優賞ノミネートへと導いた。そして、それは『TAR/ター』のケイト・ブランシェットでも続くことになる。

『リトル・チルドレン』の後、トッド・フィールド監督は主戦場をCMの世界に移し、17年間映画作りから遠ざかる。しかし、CM製作で世界中を巡り、あらゆる国のスタッフと仕事をともにした経験がその後の大きな財産となったという。とある(実現しなかった)企画でケイト・ブランシェットと出会い、その10年後に、彼女を主演に想定してフィールドは『TAR/ター』を書く。数名を除きスタッフとキャストは全員がドイツ人、撮影地もドイツという環境で『TAR/ター』が作られていった。

『バタード・バスタード・ベースボール』

ここで少し脱線するようだけれども、トッド・フィールドを知る上で興味深い作品にも触れてみたい。

Netflix映画「バタード・バスタード・ベースボール」独占配信中

プロ野球の世界大会、WBCの大いなる盛り上がりは記憶に新しく、改めて野球の面白さを味わった人も多いだろう。野球と映画は相性が良く、『ナチュラル』(1984)や『フィールド・オブ・ドリームズ』(1989)など、野球映画の傑作は少なくないが、これらは映画が野球を扱った例であるのに対し、野球が映画人を取り込んだ例もある。そんな事実を紹介するドキュメンタリーが、Netflix作品『バタード・バスタード・ベースボール』(2014)だ。

1970年代、オレゴン州のポートランドに、独立系プロ野球チーム「ポートランドマーベリックス」が誕生した。折しもポートランドからプロ球団が撤退し、街が野球を失ってしまった直後だった。チームを立ち上げたのが、野球選手からハリウッド俳優に転身し、テレビシリーズでも活躍したビング・ラッセル。彼は大リーグのチームの傘下に属さない独立球団を立ち上げ、周囲の予想に反し、大成功に導いていくのである。

『バタード・バスタード・ベースボール』は、そんな「マーベリックス」を巡る一部始終を紹介してくれる。こんなチームがあったのか!と驚かされるとともに、金にまみれた大リーグのアンチテーゼとして、とにかく野球を愛することの純粋さが「マーベリックス」快進撃の裏付けとなっていたという事実が、WBCで野球の神髄に熱狂した心に染み入る。

Netflix映画「バタード・バスタード・ベースボール」独占配信中

「マーベリックス」のオーナーであるビング・ラッセルは、『ニューヨーク1997』(1981)などによって80年代のスター俳優となったカート・ラッセルの父親である。父親の影響で、カート・ラッセルも当初は野球選手を志し、実際に「マーベリックス」でプレーをしている。カート・ラッセルによる当時の証言もたっぷり聞くことができる。

そして、「マーべリックス」にボールボーイとして参加していたのが、当時ローティーンだったトッド・フィールド少年なのである。『バタード・バスタード・ベースボール』の中で、当時を知る人物として何度も登場するトッド・フィールドは「マーベリックス」の奇跡を興奮と懐かしみを持って振り返り、野球への情熱を隠そうとしない。プロ球団から指名されなかった選手たちを集め、反逆精神と野球愛で一世を風靡した「マーべリックス」という球団はまた、ジェネラル・マネージャーや他の要職に女性を起用した先進的な球団でもあった。この体験は、後にクリエイターとなるトッド少年の心に大きく豊かな影響をもたらしたことだろう。

おわりに

幾重もの観点から語ることのできる『TAR/ター』の素晴らしさについて、その中身に触れずに語ることは至難の業だ。でも、前知識は少なければ少ないほど望ましい。とはいえ勧めたいし、語りたいことは多い。そんなジレンマの中、周辺作品を紹介することでお茶を濁した格好になってしまったけれど、参照すべき作品は他にもたくさんあるに違いない。

『TAR/ター』は想像力を刺激し、連想の範囲を広げてくれる。

準備に2年をかけたというケイト・ブランシェットの演技は映画史上最高のレベルであると信じて疑わず、その点をまずは第1の見どころとして挙げつつも、キャラクター造型の秀逸さや、ジェンダーの主題、そして権力の行使の影響と余波についても、じっくりと向き合いたい。同時に、マーラーの名曲に興奮し、クラシック音楽世界の舞台裏を覗き見る楽しみもあるだろう。トッド・フィールドという才能についても、一層興味が深まるはずだ。

『TAR/ター』、公開が待ち遠しい。

<『TAR/ター』>
監督・脚本・製作:トッド・フィールド『イン・ザ・ベッドルーム』『リトル・チルドレン』 
出演:ケイト・ブランシェット『ブルージャスミン』、ニーナ・ホス『あの日のように抱きしめて』、マーク・ストロング『キングスマン』、ジュリアン・グローヴァ―『インディー・ジョーンズ/最後の聖戦』
音楽:ヒドゥル・グドナドッティル 『ジョーカー』(アカデミー賞作曲賞受賞)
原題:TÀR/アメリカ/2022年 © 2022 FOCUS FEATURES LLC.
配給:ギャガ
5月12日(金) TOHOシネマズ日比谷他全国ロードショー

<本稿は下記サイト、書籍を参照しました>

<参考>

  • 『Antonia: A Portrait of the Woman』:2022年にデジタル修復されたバージョンをYouTubeで見ることができる(ただし日本語字幕なし)
  • 『レディ・マエストロ~アントニア・ブリコ~』:Amazon Primeにて配信中、DVDあり
  • 『ベニスに死す』:Amazon Prime、U-Nextなどで配信中、DVDあり
  • 『イン・ザ・ベッドルーム』:目下配信はされていない模様、DVDあり
  • 『リトル・チルドレン』:Amazon Prime、U-Nextなどで配信中、DVDあり
  • 『バタード・バスタード・ベースボール』:Netflixにて配信中

矢田部吉彦(やたべ・よしひこ)
仏・パリ生まれ。2001年より映画の配給と宣伝を手がける一方で、ドキュメンタリー映画のプロデュースや、フランス映画祭の業務に関わる。2002年から東京国際映画祭へスタッフ入りし、2004年から上映作品選定の統括を担当。2007年から19年までコンペティション部門、及び日本映画部門の選定責任者を務める。21年4月よりフリーランス。

 

寄稿:矢田部吉彦
編集:おのれい