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なぜ「変わること」は怖いのだろうか?哲学者・永井玲衣さんと考える

あなたは「哲学」という言葉からどのような印象を受けるだろうか?小難しくて取っ付きにくく、自分とは関係ないというイメージを持っているかもしれない。一方、誰しもが哲学をすることができる、といったら怪訝な顔をされるだろうか。なぜ冬にアイスを食べたくなるのか。なぜ隣の芝生は青く見えるのか。なぜひとは生きているのか。生活に根ざした問いを深く深く掘り下げながら世界を見つめて考えることを、哲学者の永井玲衣さんは「手のひらサイズの哲学」と呼んでいる。

著書『水中の哲学者たち』(2021年、晶文社)ではさまざまな「手のひらサイズの哲学」を実践する様子が綴られており、そのなかには「変わる」ことについて書かれている章もある。私たちは普段「変わらないこと」を求められる場面も少なくない。意見、考え、1度口に出した言葉に一貫性があることが良いとされる。一方で、私たちは簡単に変わってしまう生き物でもある。その矛盾を恐れないことを約束のひとつにする場が「哲学対話(※1)」だとこの本には書かれていた。

取り組みのひとつとしてさまざまな場所で哲学対話を開き、多くの人と対話を重ねる永井さん。「変わること」とどのように向き合っているのか、お話を伺った。

※1 参考:主に哲学的なテーマについて話し合い、相手の立場を尊重し、お互いに自分の考え方を深めることを目的とした、探究的な対話のこと。

哲学対話の場において「問い」は勝手に育ってしまうもの。変わることを恐れないで

2021年に上梓された『水中の哲学者たち』は発売から1週間で重版し、多くの反響を呼んでいます。身近な問いを深く掘り下げていくという形式が採られていることで、哲学を専門的に学んだことがない人でも読みやすかったように思います。

この本が重版するとは夢にも思っていなかったですね。この本は哲学を身近にしようという試みが先にあったというよりは、自分の哲学の営みとして書いたものだったんです。でも、巷にあふれる哲学書はすごく難解で手に取りにくいですよね。自分自身が哲学をする際にその文体だと取りこぼしてしまうものもあると思い、チャレンジとしてエッセイの文体で書いてみました。そうしたら「初めて哲学と名の付く本を手に取った」と言ってくださる方もいて嬉しかったですね。

『水中の哲学者たち』を読んで哲学対話に関心を持ち、先日永井さんが開かれた哲学対話の場にお邪魔しました。その場では私の出した「0-100で判断しないで生きるには」という問いを採用していただいたのですが、自分自身が出した問いなのに途中で問い自体が揺らぐ場面もあり、非常にむず痒い思いをしました。

私もよく覚えています。どの問いについて考えるかみんなで決めるときに「0-100で判断しないで生きるには」という問いについて考えたいという人が多かったんですけど、人によって0-100の定義は異なりますよね。一方では白黒つけるかどうかとか、あるいは二者択一じゃない世界観で生きたいということについて話しているときに、急に「自分はパクチーが嫌いだったんだけど食べられるようになった」みたいな意見も出てきて、各々の「0-100」の解釈の違いや人々が集まって話すことの困難さが立ち現れました。

そのなかで「もしかしたら、本当に気になっているのは速いスピードで物事が決まっていくことへの不安感かもしれない」と問いが変わっていきました。これは、まだ言語化できていなかったことについて意見を出し合ううちに輪郭が鮮明になってきたということなのかもしれません。もちろん、自分が出した問いが変わり、それに皆さんを付きあわせてしまってごめんなさいという感覚もわかるんですよね。でも、問いは勝手に育つものなので、むしろそれが自然なことです。問いが育った方向、対話が進む方向にみんなで後からトコトコついていくのが哲学対話のひとつの形だと思います。

「国葬、賛成?反対?」だと怖くて参加できない。でも「人を弔うってどういうこと?」だとみんな話せる

永井さんはどのような点に関心を持って哲学対話を開かれているのでしょうか?

哲学対話を通じて何かのスキルを身につけていただくというよりも、私は場作りやその人がどういう仕方で世界に出会うのか、ということに関心があります。そこで何かものすごいものを生み出すとか、イノベーションを起こすのではなくて、みんなで考える、私が考える、という体験そのものが大切な気がしているんです。私はそれを「世界と出会い直す」と言ったりしますけど、どうせこんなもんだろうとか、こいつどうせこんなこと言うんだろうという思い込みを、対話によってときほぐすことが大切なのだと思います。

個人がどのように世界をまなざしているかに関心を持っているんですね。一方で、社会では生産性の高さが個人の価値の全てであるように見られ、傷つく人も少なからずいる現状があります。

それはどうしたらいいんでしょうね...。「生産性」や「スピード感」というところから距離を取ろうとするのが私の対話の場です。普段大変な労働状況に置かれている方や自分の考えを話せる場がない方など、傷ついた大人たちも哲学対話にやって来るんですよ。そのような方たちにとって、哲学対話の場は逃げ場、アジール(※2)として機能するだろうなと思うんですね。

なので、まずはひとりひとりの意見が等しいものとして扱われる、哲学対話のような「水中」の場を特別な場所としてきちんと作らなくてはいけないとは思っています。

でも、その場だけが特別な場で、あとはまた必死に労働しましょう、疲れたらまた「水中」に戻っておいで、という構造だと限界がありますよね。「陸」の生活でふと、「あれ、これ言ってみてもいいんじゃないかな」と思えることや「(感じたままに発言しても)大丈夫だ」と思える場が増えたらいいなと。「哲学が場からあふれ出す」とか「哲学が日常を侵食する」と呼んでいるんですけど、そこも視野に入れたような活動をしたいと思っています。

「哲学が場からあふれ出す」の具体的なイメージについてもう少し教えてください。

たとえば、日常のなかで社会問題や政治の話をすることがタブーとされる場合もありますよね。一方で哲学対話を通じて少しずつ対話の場を開くことによって、普段話しにくいことでも話せる場づくりに貢献できている実感が出てきました。実際「大丈夫な場」で哲学をするとみなさんすごく面白いとおっしゃいますし、怒って出ていく人はあまりいないんですよね。

ただ、ストレートに社会問題や政治について話すことは、SNSの発達もあって非常に恐ろしいことになってしまいました。そこで、私は哲学を言い訳に使っている部分があるのかもしれません。たとえば、「国葬、賛成?反対?」だとちょっと怖くて参加できない。でも「人を弔うってどういうことだろう?」という問いなら比較的みんな話せますよね。哲学対話の延長線上で身近な人と話せるかもしれないとか、おかしいことを「おかしいな」と思えるようになるかもしれない、ということを目論んだ上で哲学対話を続けています。

※2 用語:自由な領域や、逃げ場の意。

確固たる自己などない。場とそこにいる「私」の相互作用で問いが育っていく

身近な人、たとえば家族や友人、あるいはパートナーと哲学対話のような対話を少しずつ始めるためにできることはあるのでしょうか?

実は哲学対話って、意外と身近な人とできない。知らない人だからできたりするんですよね。あらかじめ与えられた共同体、家族や学校、組織などで対話をするのは難しいというのが大前提です。でも最初の1歩としては「よく聞く」とか「偉い人の言葉を使わない」、「人それぞれにしない」という哲学対話のお約束は大切かもしれません。

あとはやはり「言い訳を作る」っていうのを自分のキーワードにしてるんですよね。まずはちょっとおかしいような、笑ってしまうけれど奥行きがある問いについて話してみるのがきっかけになると思います。私は「なんで雑草を抜いちゃうのか」という問いが好きなんですよね。この何でもない問いには、実は「なぜ異物だと思うものを排除してしまうのか」という非常に重要な問いが隠れているんですけど。そういったことから始めてもいいわけです。

自分で問いを見つけるためのヒントはありますか。

まず大事なのは、「絶対に自分の言葉で話さなくてはいけない」とか「絶対に自分で問いを出さなくてはいけない」とか、「自分」というものを重く捉えないことですかね。私自身は、別に普段考えていないんですよ。確固たる自己などないと思っているから、場によって私たちは考えさせられるし、問われるから語れる、他者によって自分がつくられる、という捉え方をしています。なので、自分が普段気をつけることはあまりなくて、ただ場に入って聞くっていうだけだと思います。シンプルですよね。それが難しいんですけど。

確固たる自己があるわけではなく、場によって自分の考えがアップデートされていくような感覚があるんですね。

「変わる」という言葉も結構面白くて。変わるというと転換するものを想像しがちです。これまで資本主義が大好きだったんだけど、何だかおかしいと思えるようになりました、みたいな。でもそういう転換がなくとも、たとえば速すぎるスピードのなかに置かれてそこで傷ついているって一体どういうことなんだろうと考え続けていると、そこで出会う言葉や人によって物の見え方はものすごく変わります。そのような方法で変わり続けているのかなとは思います。

最後に、変わることへの恐れというと、最近も岸田総理の「社会が変わってしまう」という発言が話題になりました。これも今のお話と少し通じるような気がします。そこで生きる人々の考えが変われば社会も変わっていくのは当たり前では?と思ったんですが、永井さんはどう捉えられましたか?

あれには驚きましたよね。首相の場合は打算的な背景もあるかとも思いますが、「一貫していないといけない」、「変えたらみんなに批判されるんじゃないか」、みたいなところには共通して不安の根っこがあるのかもしれないですよね。それでいくと、哲学対話は、初めのお話にもあった「問い」を変えてしまうかもしれない、ずれてはいけない、という呪いと戦っているのかもしれないです。

哲学対話が戦っている「呪い」についてもう少し伺っても良いですか。

哲学対話を何で開くんだろう、というのは自分でずっと考えている問いです。しんどくて難しいですし、開くたびに緊張しますし(笑)。「この場が大丈夫な場になっているかな」といつも汗をかいています。でも、哲学対話は単なる娯楽や思考を磨く場ではなくて、ひとつの抵抗運動でもあるとも捉えられます。分からないと言ってはいけない場のように、この社会は「大丈夫じゃない場」が多いなかで、いかに「大丈夫な場」を作るかということのチャレンジだと思っています。

私たちは、目まぐるしく変化する時代を生きている。ときには過去の自分と整合性が取れなくなることを恐れ、意見や考えを変えることにためらいを覚える場面もあるだろう。今回の取材を通じて、確固たる自己はないと考えることも「変わること」への葛藤を乗り越えるためのヒントになるのだと思った。変わることを前提に自分や他者との向き合い方を捉え直すことで、見えてくるものもあるのかもしれない。

 

永井 玲衣(ながい れい)
学校・企業・寺社・美術館・自治体などで哲学対話を幅広く行っている。D2021メンバー。著書に『水中の哲学者たち』(晶文社)。連載に「世界の適切な保存」(群像)「ねそべるてつがく」(OHTABOOKSTAND)「問いはかくれている」(青春と読書)「むずかしい対話」(東洋館出版)など。詩と植物園と念入りな散歩が好き。

 

取材・文:Mizuki Takeuchi
編集:日比楽那
写真:服部芽生