よりよい未来の話をしよう

体育嫌いが増えている?「体育」のこれまで、今、これから

小さい頃、学校の体育の授業は常に人気教科の上位だったように思う。しかし最近、「体育が嫌い」という生徒が増えているらしい。その理由は、スポーツが不得意なことによる劣等感やスポーツの重要性を感じないなど様々あるようだが、「体育の授業が楽しくない」と感じている子どもが多いようだ。確かに、身体能力も得意・不得意もそれぞれに異なるなかで、みんなで同じことをやり、競い、結果を出すのが「体育」だった印象がある。しかし、1人ひとりの能力や個性を尊重するいまの社会では、集団の中で一律の基準で競い合うこの教科の性質は、時代にそぐわないのではないだろうか。そんな体育の「いま」について、考えてみたい。

「体育嫌い」は増えている?

まず、「体育嫌い」は増えているのだろうか?

学研教育総合研究所が2019年に小学生を対象に実施した調査(※1)では、「保健・体育」は好きな教科で4位、嫌いな教科で3位に位置づけられた。「保健・体育」を「嫌いな教科」として答えた割合は5.8%と小さく、3位といえども少数と言えよう。しかし30年前に実施した同調査(※2)では、体育は好きな教科1位であるとともに嫌いな教科の最下位でもあったことから見ると、「体育嫌い」は増加傾向にあると言える。

また、スポーツ庁が定期的に実施している「全国体力・運動能力、運動習慣等調査」(※3)でも、「体育の授業が楽しいか」というアンケートを実施している。その結果、男子よりも女子の方がネガティブな回答をする傾向が見られ、中学校の女子では過去5年継続して16%前後が「あまり楽しくない」「楽しくない」と回答した。「楽しい」「やや楽しい」と回答した生徒が80%を超える状況のなかで、「体育嫌いが増えている」とは言いがたい結果である一方、一定程度存在する「体育嫌い」にも目を向けていく必要があるように感じる。ことスポーツについて言うと、華々しい活躍にはスポットが当たる一方で、「運動が嫌い/苦手で苦労した」というストーリーを共有される場面は少ないのではないだろうか。身体能力、得意・不得意、そして経験など、「みんな違う」バックグラウンドのなかで、どのように体育が展開されてきたのか、そしていくのか、ますます気になってくる。

※1 参考:学研教育総合研究所「小学生白書Web版(20198月調査)小学生の日常生活・学習に関する調査」
https://www.gakken.co.jp/kyouikusouken/whitepaper/201908/chapter8/01.html
※2 参考:学研教育総合研究所「小学生白書Web版(1989年調査)『1-6年の科学・学習』児童調査と分析」
https://www.gakken.co.jp/kyouikusouken/whitepaper/198900/chapter4/01.html
※3 参考:スポーツ庁「令和4年度全国体力・運動能力、運動習慣等調査結果(概要)について」p.11
https://www.mext.go.jp/sports/content/20221223-spt_sseisaku02-000026462_2.pdf

時代とともに移り変わる「体育」の目的

「体育」を考えるにあたり、まず日本におけるその起源を理解しておきたい。

体育が取り入れられたのは明治時代、近代化に当たって欧米からPhysical Educationという概念が輸入されたことに始まる。その翻訳である「身体教育」が略され、「体育」という名称になったそうだ。「体育」の名称が用いられるようになるまでは「体操」「体練」といった名称で呼ばれることもあったが、それらの内容には軍事目的の身体運動の意味を帯びた時期もあったと言われる。

戦後の体育では、戦前の軍国主義的な性質を払拭することが課題とされ、身体を鍛えるだけでなく身体や運動を通じて問題解決を図っていく教育的要素が重要視された。その後、体力づくりや健康促進、人生における楽しみとしてのスポーツ(生涯スポーツ)といった側面が強まったり、個に応じた指導に目が向いて行ったりと、スポーツが社会生活の中で果たす意味合いの変化に伴い、体育のあり方も変化してきている。

2017年に告示された直近の小学校の指導要領では、体育の要領改訂の趣旨として「運動の楽しさや喜びを味わうための基礎的・基本的な『知識・技能』、『思考力・判断力・表現力等』、『学びに向かう力・ 人間性等』の育成を重視する」という観点が述べられている。とくにこの指導要領では、新たにスポーツを「する、みる、支える、知る」という姿勢が述べられた。これは、スポーツとの関わり方を「する」だけに限らず、現地やテレビ等で観戦したり(「みる」)、ボランティアという形でオリンピック・パラリンピックや地域のスポーツ大会を手伝ったり(「支える」)、様々な選択肢があることを意味している。このような観点もヒントにしながら、自分の適正等に応じてスポーツと多様な関わり方ができることを、体育を通じて学んでいくことが1つの目的に据えられている。

しかし、一口に「多様」といっても考えていくべきポイントは多岐にわたりそうだ。それぞれに異なる「みんな」が、学校というコミュニティのなかである種「画一的に」運動を経験する、それが「体育」という印象がある。多様な個人がいる場なのだから、多様な関わり方は是非提示してほしい。そこで、運動能力などの適正だけでなく、社会的・文化的背景の違いから何らかの制限や窮屈さを感じてしまう場面について、体育から少しひろげてスポーツの切り口からも具体的に見てみたい。

社会的・文化的背景によって異なるスポーツと人との関係性

身体を使って取り組むスポーツは、個々人の体格や筋肉量といった性質もさることながら、経験量によっても達成度に影響が生じる。また、自らの意図しない外的要因からも、自分の望む関わり方が断たれることもあるかもしれない。いくつかの観点から考えてみたい。

ジェンダーの観点

体育の中で、定義された「男女」の概念を感じざるを得なかった経験はないだろうか。たとえば体育の授業が男女で分かれ、男子は柔道、女子はダンスなど、性別に見合った種目を割り当てられることなどがそうである。その種目の好き嫌い、得手不得手にとどまらず、様々なセクシュアリティの生徒がいる学校の場で、男女という2元論で分けられること自体への不快感を抱いた人もいるかもしれない。また、制服以上に体型が露わになる体操着や水着を着ることへの違和感や、クラスメイトと同じ部屋で着替えをしなければならないことへの嫌悪感などを抱く人もいるだろう。

男性では、逞しさや我慢強さといった「男らしさ」を強調する場面に出くわすと感じることもあるようだ。男子だけが無理な段数を積み上げる組体操の「ピラミッド」を強いられた、といった経験がそれである。1人で机に向き合う他の科目と違い、誰から見ても身体の動きで他者との差異が明らかになってしまう体育では、比較・評価されるプレッシャーを感じたり、規範に則った行動をすることに窮屈さを覚えたりする人も少なくないようだ。(※4

もちろん、そういった競争によって高揚感を覚える生徒もいる。それは尊重したい。しかしそうではない生徒がいることにも、目を向けることが重要ではないだろうか。

人種的観点

様々なルーツを持つ人々が暮らすアメリカでは、人種によって特定分野の身体能力やスキルに差が出るケースもある。たとえば29歳以下の人の溺死率を見たとき、アメリカインディアン/アラスカ先住民とアフリカ系アメリカ人の率は、白人に対して溺死率が高いという結果が出ている。(※5)これは基本的な水泳技術の習得状況によるものと考えられており、命を守るための運動経験が環境や文化的背景から平等に得られていない可能性を示唆している。

また逆に「この人種の人はこのスポーツに秀でている」という、一見ポジティブなステレオタイプが引き起こす差別もあるという。たとえば、様々な選手の活躍から「黒人はバスケットボールがうまい」という印象が広がると、学校生活でバスケットボールが苦手な黒人生徒がいたときに「黒人なのにバスケットボールが下手だ」という、ただ「苦手である」という以上のレッテルを貼られ、差別につながるケースがあるそうだ。

宗教上の観点

信仰する宗教の観点からも、運動経験に差が生まれる場合がある。たとえばキリスト教の一派では武道を禁止しているとされており、体育で様々な武道を取り入れている日本でも経験差が生まれることがある(実際に筆者の高校時代、その理由から柔道の授業に参加しない友人がいた)。

別の例では、イスラム教の女性は人前で頭髪を隠すために「ヒジャブ」というスカーフのようなものを着用しなければならない。しかし首が絞まってしまったり体温を過剰に上昇させたりする危険性から、ヒジャブ着用を禁止するスポーツもある。これまでスポーツメーカーが競技中に着用できるヒジャブを発表するなど徐々に環境が整ってきているが、いまだにヒジャブとスポーツの関係で不安を抱くアスリートもいる。2022年秋に実施されたスポーツクライミングの大会では、イランの女性選手が急遽ヒジャブを着用せず競技に出場した。イランでは女性のヒジャブ着用が法律になっており、アクシデントがあっての行為だったとしても、罰則を受ける可能性が懸念された。結果的に罰則などを受けることはなかったが、政府からの反応を気にしながらの帰国になったという。(※6

またイスラム圏の国では、そもそも体育の授業がない国もあるそうだ。体育の授業の中ではどうしてもそれに適した格好をする必要があり、肌の露出が必要な場面もある。イスラム教の教えでは、男性も肌の露出が少ない服の着用が求められており、そういった背景から体育自体がないのだという。

このように、個人の好き嫌い等だけでなく様々な社会的・文化的背景によって、スポーツとの関わり方は大きく異なる。国によって状況は異なり日本ではイメージがしづらいものもあるかもしれないが、「多様な関わり方」を考えていく中では、その生徒が置かれた背景によって体育との向き合い方が変わる可能性があることを理解しておきたい。

※4 参考: 認定特定非営利活動法人ウィメンズ アクション ネットワーク「沈黙する『体育嫌い』の声を聴く「ジェンダー視点を中心に」「セクシュアリティの視点から」ふたつのリーフレットができました」
https://wan.or.jp/article/show/10220#gsc.tab=0
※5 参考: 一般社団法人国際医学情報センター「29歳以下の人の致命的な不慮の溺死率における持続的な人種/民族格差 アメリカ、19992019年」
https://www.imic.or.jp/library/mmwr/21267/

※6 参考: BBC NEWS JAPAN「ヒジャブ外れた状態で競技、クライミング女子選手の帰国をイランで大勢が歓迎」
https://www.bbc.com/japanese/63334853

自分らしい距離感でスポーツと、体育と向き合う

改めて、スポーツとの多様な関わり方を提示するのが「体育」と定義し直したとき、集団に対して画一的な内容を行うことや、速さや距離などの一律の基準で比較することから視点を変え、生徒それぞれの満足度を高めていくことが望ましいのではないだろうか。そんな、少し新しい体育の取り組みについても、いくつかご紹介したい。

日本国内のいくつかの学校では、勝ち負けや先輩・後輩にこだわらない「ゆる部活」が行われている。部員がやりたい様々なスポーツを提案し、種目を変えながら実施する。運動があまり得意ではない生徒や、勉強や習い事優先で部活を適度にしたい生徒も自分の望む距離感でスポーツと付き合うことができ、部活自体に参加する生徒の減少が課題とされる中、部員数が増加した学校もあるようだ。(※7

また、体育で習うスポーツのルール自体を疑い、自分たちに合った形に変えていく動きもみられる。年齢や性別、運動神経や障がいを問わず誰もが楽しめるユニークなスポーツを提案する一般社団法人世界ゆるスポーツ協会では、2021年に全国の学校や教員と連携して「ユニ育委員会」を発足した。(※8)「生徒をルールで縛るのではなく、生徒自身が自分最適なルールをつくる」という大方針のもと、「スポーツを創る」という経験を体育の授業の中で実践していく試みだ。

ある学校では「体育館にあるものはなんでも使ってOK」「ボールを使う」「走らない」という前提だけ統一し、自由にスポーツをつくる授業を実施した。初めは戸惑っていた生徒たちも「これもスポーツなんだ!」「ルールを工夫することでこんなに変わるんだ!」という気づきが生まれ、自分にあったルールを作り得意なスポーツができたという経験から、スポーツが苦手な子も「自分を好きになる」ことができた効果が大きかったという。

公式ルールに工夫をしているスポーツもある。車いすバスケットボールでは、選手の障害の重さで出場や活躍の機会が奪われることのないよう障害レベルに持ち点を設け、チームを構成する選手が特定の点数以上に達しないように制限している。このルールによって、チームの公平感を担保しつつ、様々な選手が活躍できる環境が整っているのだ。

外に目を向けてみると、多様なルーツの生徒が集うアメリカの学校では日本のような指導要領はなく、教え方は現場の教師に任されている。その生徒のバックグラウンドによって、ある子には日頃からやっているスポーツが、他の子には初めて知るスポーツであることが珍しくない。そのため相手に合わせた指導方法が重要になり、日本よりも多くの段階に区切って動きを教えるなどの工夫がなされているそうだ。このような相手に寄り添った指導をしていくことで、生徒個々人が個性にあった体育を経験することができ、満足度が高まることにつながっていくだろう。

※7 参考:朝日新聞EduA 「勝ち負けを気にしない「ゆる部活」って、どんな活動をする
https://www.asahi.com/edua/article/14836777?p=1

※8 参考:一般社団法人世界ゆるスポーツ協会「スポーツのクリエイティブ教育、「ユニ育」はじまります。
https://yurusports.com/archives/5636

体育で得られる歓びを、みんなのものに

身体はみんな違う。得意・不得意もみんな違えば、育ってきた環境も置かれている環境も違う。しかし、身体を動かすことで得られる楽しさや、そこから新たに出会う「自分」という存在への好奇心は、みんな等しく持っているものなのではないだろうか。いま、日本では誰しもが経験する教育機会であるからこそ、「体育」という存在がコンプレックスや苦い思い出を抱く経験ではなく、自分と、そして仲間と向き合う歓びを感じる存在へと進化していくことを期待したい。

 

文:大沼芙実子
編集:篠ゆりえ