2019年末から世界を侵食し、今なお我々を蝕むコロナ禍。失われた多くの命や、止まってしまった経済活動や、浮き彫りになった価値観の衝突など、暗いニュースが多い現在。しかし、そんな閉塞的な空気の漂う今でも、むしろ今だからこそ、さらに自身のクリエイティビティを輝かせ、未来を作っていく素敵な才能を持つ若者たちが存在する。
既成概念にとらわれない多様な暮らし・人生を応援する「LIFULL STORIES」と、社会を前進させるヒトやコトをピックアップする「あしたメディア by BIGLOBE」は、そんな才能の持ち主に着目し、彼ら/彼女らの意志や行動から、この時代を生き抜く勇気とヒントを見つけるインタビュー連載共同企画「止まった時代を動かす、若き才能」 を実施。
A面では、その才能を支える過去や活動への思いを、B面では、表舞台での活躍の裏側にある日々の生活や、その個性を理解するための10のポイントを質問した。
B面はこちら から
第1弾は、『銭湯図解』の著者・塩谷歩波さん。銭湯を「アイソメトリック」という建築図法で図解するとともに、そこに集まる人たちの日常を、温かいタッチで描き話題になった。そんな彼女が、2021年に幼少期からの夢だった「画家」としてのキャリアをスタートさせた。好きなことを仕事にしたいと思ったり、迷ったことがある人も多いだろう。賛否が分かれるテーマだ。現在は順風満帆に見える塩谷さんも例外ではなく、最初から好きな絵の仕事ができていたわけではなかった。「好き」を仕事にして活躍する彼女の原動力や仕事に対する考え方に迫った。
小さいころから好きだった、絵を描くこと
幼少期から絵を見たり、描いたりするのが好きだったという塩谷さん。自身でも将来は絵を描く人になると思っていたというが、実はファーストキャリアは建築事務所から始まった。彼女を建築の道に導いたのは母の存在だったという。
「絵を鑑賞するのも、描くことも好きで、『将来は絵描きになるんだろうな』とぼんやりと思っていました。でもある日、私よりもずっと絵が上手い子が転校してきて。漫画のような話ですが、それで鼻っ柱を折られてしまったんです。
そのとき、ちょうど母がインテリアコーディネーターを目指して専門学校に行っていました。学校の課題で建物のパース(建築物の外観や内装を一定の図法で表現した透視図)を描いている母の姿がかっこよくて、描き方を教えてもらいました。パースは描き方がある程度決まってるので、コツを掴めば上手く描けます。失っていた、絵を描くことに対する自信を取り戻せるようなそんな体験でした」
それから建築に興味を持ち始め、大学では建築デザインを専攻。設計の楽しさに魅了されたという。卒業後は、建築系の花形であるデザイナーの道を志し、建築事務所に入社した。絵に触れていたい気持ちはあったものの、働き詰めの日々で「絵が好きだ」ということも忘れていたという。
「建築事務所の仕事は忙しく、絵に触れられる時間が少なくなっていました。友人に『塩谷ちゃんって、建築で何したいの?』と聞かれても答えられず、自分でも私は何をしているんだろう、と思う瞬間が増えていきました。気持ちが迷子になったことと忙しさが重なり、体調を崩してしまい休職することにしました」
療養期間にうつうつとした日々の癒しになったのが銭湯だったという。当時、同じく休職していた友人に紹介されて行った銭湯の心地よさに、一気に引き込まれた。銭湯に心惹かれた彼女が『銭湯図解』を描き始めるまではわずか1か月半だった。
「一日中家で過ごしていた私にとって、銭湯の真っ白い空間で昼間の光が当たっている湯舟は、それだけで気持ちいい空間でした。そこで目が合った利用者としたたわいもない会話に心が癒されるような瞬間があって『あ、銭湯って素敵だな』って思ったんです。当時、銭湯を紹介してくれた友人とはまた別の友人とSNS上で交換日記をしていて、『銭湯の魅力にまだ気づけていない』と言うので魅力をどうしても伝えたくて。それでパッと思いついたのが銭湯図解でした。ノートの切れ端に5分くらいでササッと描いたのが始まりでした」
「好き」を取り戻す
友人との交換日記から始まった銭湯の図解は、Twitterで話題になり『銭湯図解』として書籍化された。今では、図解の対象は銭湯だけでなくレストランや茶室、カフェなど様々に広がった。彼女が図解したくなるのは「面倒くさい建築」だという。
「描きづらいとか、物が多いとか、建物が古くてシミや汚れがあるとか。そういう描くのに時間がかかる建築は、それだけ人の手がかかっていて、愛着があります。私はそういう人の営みが感じられる部分が建築で1番好きなんです。描いていて面倒くさいけど、その面倒くささに魅力が詰まっていると思っています」
銭湯図解の特徴は、銭湯の建築図面だけではなく銭湯に入る人を描いているところだ。銭湯に集う人たちの「営み」が表現された絵からは、銭湯という場所の温かみが伝わってくる。建築事務所のネクストキャリアとして選んだ高円寺にある銭湯「小杉湯」では番頭をしながら建築と絵を掛け合わせ、『銭湯図解』を描いていた塩谷さんは、絵を仕事にする挑戦を始めた。一度は絵から遠ざかりながらも、幼少期から好きだった絵を仕事にした原動力は「表現すること、芸術の力を信じたいという気持ち」だという。
「何か自分が言いたいことがあるのに言えないとき、自分が聞いている音楽が代わりに気持ちを語っているような感覚がありますよね。こういった体験も含めて、私は表現や芸術に救われてきました。アートが心底好きなんです。だから、子どものときに憧れた“芸術の力”を信じていて、自分もそういう力を与えられる人になりたいなという気持ちが原動力になっています」
「好き」を仕事にした塩谷さん。一方で好きなものと仕事の距離はとるのが良い、という人も多い。塩谷さんはどう感じているのか。
「好きを仕事にするって、良いことと悪いことの両方があると思うんです。好きを仕事にすると、息抜きが息抜きにならない瞬間が多い。私の休日の過ごし方って、映画観るか美術館行くか、本を読むかなのですが、私にとってそれらは仕事でもあります。だから完璧に仕事と関わらないものに触れて癒される、というのとは違う。でも、全部楽しいんですよ。どの仕事も面白いんです。
他者からの評価が気になったり、同世代で私より絵が上手い人を見て嫌になっちゃったりすることもあります。それでも、自分の絵の良いところを探すなど、できるだけ好きであり続けるように努力しています。一長一短だとは思うのですが、私は絵を描きたいのに描けない時間が長かった。だから大変なことがあったとしても、好きなことを仕事にしてるんです」
迷うことは素敵なこと
新しい仕事や未知の世界に挑戦するのは勇気がいることだ。それでも建築から銭湯、銭湯から絵の仕事へと、異なる職種への転職を経験してきた塩谷さん。迷うことはなかったのだろうか。
「私は2回転職していますが、毎回迷いました。『ずっと同じ場所にいた方が安定するよな』とか、建築事務所にいた時には『ここで働き続ければ、いずれキャリアにつながるだろう』とか思っていました。でも、私はいつでも自分が納得できる選択をしたいと思っています。自分で決めて、挑戦した上で失敗する。自分で選んだことだから、受け止めて納得して、そしてまた挑戦する。そんな繰り返しです。
迷いがある人の方が素敵だと思います。迷うって、自分のなかに色々な考えがあるということじゃないですか。その分、選択肢も可能性も無限に広がっているのだと思います。迷うことで得られる選択肢は、何か困難があってつまずいたときに、自分を救ってくれる可能性もあると思います。だから迷うのはいいことだし、素敵です」
現在、「好きなこと=絵」を中心に、文章を書いたりPodcastを配信するなど、様々な仕事に挑戦されている塩谷さん。今後彼女のどんな挑戦を見ることができるのだろう。
「国内の素敵な建物だけでなく、海外の建物の絵も描きたいです。例えば地震のない国は、建物の造り方が日本とは異なります。材料や建物の色も土地柄や条件に合わせて様々です。
あとは、自分の内面も表現していきたいと思っています。文章を描くことも好きなので、エッセイなどを通じて内面の表現をしていきたい。表現方法として、絵とは異なるもう1つの軸を持ちたいと思っています」
図解を出版したり、企業とのコラボレーション企画、モデルなど活動の場が広がり続ける塩谷さん。彼女は仕事をするにあたって「自分の気持ち」を大切にしているという。
「仕事をする時には、条件だけではなくて、自分の気持ちに寄り添うようにしています。自分の感情や気持ちを見て見ぬふりすると、絵がいいものにならなかったり、相手に失礼になってしまったり、良くないことが重なってしまう場合があります。自分の感情に寄り添い、自分が本当にやりたい仕事を、一緒にやりたい人とすると、相手にとっても自分にとっても良い仕事になる。そう思って、今は自分の気持ちをよく聞くようにしています」
自分の気持ちに寄り添い、好きなことを仕事にする塩谷さんにとって、仕事とはどのような存在なのか。
「生活の一部ですね。お風呂に入るのも、食事するのも、仕事もすべて同列で、特別視はしていません。仕事が全てだと思っていた時期もありましたが、その結果身体を壊してしまいました。仕事も含めた生活の全てで構成されているのが『自分』だと思っているので、仕事だけに囚われないようにしたいと思っています」
建築の仕事も、銭湯での仕事も、画家としての仕事も。塩谷さんが選んできた道には、幼少期に抱いた「絵が好き」という気持ちが常にあった。絵に助けられてきたと、芸術への愛を熱を込めて語ってくれた。プライベートと仕事の境目がなくなったり、自信をなくしたりもしながら、好きであり続ける努力をする。そんな塩谷さんの努力と「好き」という気持ちに応えるように、彼女が創造する世界は際限なく広がり続けるのだろう。
塩谷 歩波(えんや ほなみ)
設計事務所、高円寺の銭湯・小杉湯を経て、画家として活動。建築図法“アイソメトリック”と透明水彩で銭湯を表現した「銭湯図解」シリーズをSNSで発表、それらをまとめた書籍を中央公論新社より発刊。レストラン、ギャラリー、茶室など、銭湯にとどまらず幅広い建物の図解を制作。TBS「情熱大陸」、NHK「人生デザイン U-29」など数多くのメディアに取り上げられている。2022年には半生をモデルとしたドラマ『湯あがりスケッチ』が放送された。
文:Natsuki Arii
編集:おのれい
写真:内海 裕之