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その「良かれと思って」が加害の1歩目かもしれない

4人に1人は配偶者から暴力を受けたことがある

セクハラ、パワハラ、モラハラ、DV…。様々な場所に存在する加害が「加害」として認知されるようになってから、まだそれほど長い年月が経っていない。例えば、セクシャル・ハラスメントという言葉が使われ始めたのは1980年代のことだと言われているし、「DV防止法」が施行されたのは2001年のことだ。

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そのなかでも特にパートナー間におけるハラスメントには深刻な現状がある。2021年の内閣府による「男女間における暴力に関する調査」(※1)では、「約4人に1人は配偶者から暴力を受けたことがある」、「女性の約6人に1人は交際相手から暴力被害を受けたことがある」といった結果が示されている。

被害者の反対側には必ず加害者が存在する。しかし、多くの報道で「被害者」に焦点が当たる一方、あまりその行動について具体的な指摘がされないのが「加害者」の方だ。問題の根本的な解決を目指すのであれば、加害者や加害者予備軍の変容が必要であるはずなのだが、現状ではそうなってはいない。そのような問題に着目して、モラハラやDVなどによって仲間やパートナーを傷つけてしまった加害者の変容に取り組むのがG.A.D.H.A(Gathering Against Doing Harm Again:ガドハ)だ。

※1参照:内閣府男女共同参画局「男女間における暴力に関する調査 報告書 <概要版>」(2021)(2022年7月8日使用)
https://www.gender.go.jp/policy/no_violence/e-vaw/chousa/pdf/r02danjokan-gaiyo.pdf

加害者変容のためのコミュニティ G.A.D.H.A

G.A.D.H.Aはモラハラ・DVなどの加害者のうち、「変わりたいと願う加害者」が集まる学びのコミュニティだ。代表を務めるえいなかさんも、自身の妻に加害してしまった過去があるという。

加害をしてしまう背景にはどんな問題があるのか、また、加害者が加害をやめて変容していくためにはどんな取り組みが必要なのか、えいなかさんに話を伺った。

まず、G.A.D.H.Aを作ろうと思ったきっかけを教えてください。

G.A.D.H.Aは、僕自身が変容していくなかで感じた2つの課題を解消するために始めました。

1つは、モラハラやDVなどは加害者の当事者団体がほとんどない領域であるということです。例えば依存症などは自助グループがあるのですが、この領域はほとんどそのような団体がありませんでした。

もう1つは、「こういう考え方をすると良くない」というマイナスからゼロにするための変容の知識は語られているけれど、変容後に「どうやって人と関わっていくのが良いのか」といったゼロからプラスにするための知識があまり体系化されていないという課題です。加害者がいる時点で被害者が既にいるということなので、人を傷つけることをやめた後に「償う」「責任を引き受ける」、その上で「幸福になる」ためにどう人と関わっていくのかまで考える必要があると思っています。そういう情報もまとめたり、伝えられればと思い、G.A.D.H.Aを作りました。

えいなかさんが活動されているなかで感じる、加害者になってしまう方に共通した特性や傾向があれば教えてください。

科学的・量的に実証できるほどのデータはないので、あくまでも僕の仮説ですが、ひとことで言うと「情動調律能力の欠如」だと思います。

情動調律とは、相手の感じ方や世界の捉え方を尊重して受け止めるということです。逆にこれが欠如していると、例えば「痛い」と言っている人に「痛くない」と言ってその人の感情を否定するといったことが発生します。
情動調律の欠如には色々なバリエーションがあって、分かりやすいのはお腹が減っているという子どもを無視して食事を与えないというネグレクト。他には習い事やスポーツなどを嫌がる子どもに対して、「お前が最初にやりたいっていったんだろう」と言ってしまうような教育虐待。あとは、ひどく落ち込んでいる人に対して「ポジティブに考えなよ」としつこく言ってしまったり。相手の感情を無視して、落ち込んでいることや傷つくことをやめさせてしまうようなパターンもよくあります。逆に、相手の喜びや嬉しさに寄り添えないといった情動調律の欠如もあります。例えば、G.A.D.H.Aに来ている人の中には、中学校1年生の最初の中間テストで学年1位を取ったら、親に「こっからは落ちるしかないね、下がるしかないね」と言われたという人もいました。尊厳が傷つきますよね。

こういった情動調律の欠如によって、自分の感情が分からなくなったり、さらには他者の感情も分からなくなったります。例えば、僕は妻が鬱になって仕事ができなくなってるときに、「こういうことをやったら」とか「こうしないと問題解決ができないんじゃない」と言ってしまいました。自分は応援しているつもりで言っていましたが、「やった方がいいこと」なんて大体本人は分かっていて、辛いのは「分かっているけどできないこと」です。その辛さに情動調律ができたらよかったのに、実際にやっていたのは真逆のことでした。
また、一見妻のためを思って言っているように聞こえるのですが、本当は“妻に元気になってもらい、僕をケアしてほしい”という自分のニーズでしかありませんでした。このような形で自他への情動調律能力の欠如が、モラルハラスメントや精神的なDVの形に発展していってしまいます。自己のニーズと他者のニーズを理解できず、自分のために他者を変えようとしていることに無自覚なときに、加害になるのではないかなと考えています。

そんな中でも、G.A.D.H.Aに参加される方はどこかのタイミングで気づいてコミュニティに参加されるのだと思うのですが、どんな時に気づくのでしょうか。

8割くらいの方は、パートナーとの関係の危機を迎えた時にG.A.D.H.Aに入ります。離婚や別居している・しそうといった場合や、パートナーから「あなたはモラハラだ」とか「これはDVだ」と言われて、自分で調べたり、パートナーに教えられてG.A.D.H.Aにたどり着いています。

残りの2割は自分で気づくパターンです。これってモラハラなのかな?と不安になって、自分で気づく。ただ、これはほぼ全員女性ですね。G.A.D.H.Aでは、女性は75%ぐらいが、関係の危機に関わらず、「このままだと私、駄目かも」「パートナーを傷つけちゃってるかも」という自覚や反省の中で連絡してこられます。

なぜ女性の方が自分で気づくパターンが多いのでしょうか。

やはり、社会的な規範の問題があると思います。先ほど情動調律という言い方をしましたが、これは近い言葉で「ケア」ですよね。男性よりも女性の方が日常におけるケアワークをするべきだという規範が強いために、社会的にも自分自身に対しても、私はこれでいいんだろうか?という考えに至ることが多く、問題に気がつきやすいんだと思います。

また、実際には被害者なのに「自分は加害者だ」と思い込んで連絡してくるケースもあります。DV・モラハラの場合、加害者の方が被害者ぶることがよくあって、G.A.D.H.Aのサイトを見せても「俺を変えようとしてるお前の方が加害者だ」と言う加害者も多くいます。そう加害者に言われて「私が悪いのかもしれません」とG.A.D.H.Aにくる被害者の方が結構いらっしゃいます。話を聞いて被害者としての側面を少しでも感じる部分があれば、被害者の方向けの専門機関に相談するように伝えます。その上で「加害者として」学びたい場合にはG.A.D.H.Aに参加ください、と連絡しています。

被害者と加害者の境界が曖昧になってしまうというケースは、私の周りにも悩んでいる人がいました。

そうですね。前に、自分が加害者だと思ってG.A.D.H.Aでいろいろ学んでいくうちに、自分が相手をケアできないことと同時に、相手も全然ケアしてくれていないことに気づいて、関係を終了したと言っている参加者さんもいました。究極的には、被害者の方が来ても、加害者の方が来ても、何が加害で何がケアか分かれば、同じような結末になるのかもしれません。自分からケアを始めてみて、相手からケアが返ってこないのであれば、自分を大切にするためにその関係を終わらせるという選択も大事だと思います。

具体的にG.A.D.H.Aのコミュニティ内ではどんな取り組みをされているのでしょうか。

大きくは3つのことをやっていて、1つがSlackでのコミュニケーションです。加害の報告、弱音の共有、変容報告をテキストでしてもらいます。具体的には、愚痴を言ったり、成果が出たことの共有をします。2つ目が当事者会で、匿名・顔出し無しで喋る場をオンラインで設けています。これも目的はSlackとほぼ同じですが、文字でのコミュニケーションが苦手な人もするので音声も取り入れています。3つ目がプログラムで、いま僕が喋っているような加害者変容に関する理論を学ぶレクチャーとホームワークがセットになっています。

既存の当事者団体はほとんど存在しないとのことでしたが、なぜ当事者同士で語ることが大事なのでしょうか。

2つの理由があります。1つは、変容の過程でこれまで傷つけてきたパートナーに愚痴をこぼしてしまわないようにするためです。加害者変容というのは結構きついです。というのも、今まで「普通だ」とか「当たり前だ」と思っていたことが実は人を傷つけていたと知って、変わらなければいけないので、かなり強い自己否定を伴います。これは多くの場合、自分の養育環境を否定することにもなります。親から「善いことだ」「愛だ」と言われていたことが実は虐待に近かったというようなことがあるので、結構辛いんです。

そんなときに多いのが被害者に「俺も苦しい」とか「こんなに頑張っているんだから」と、ケアを求めてしまうケースです。確かにきついプロセスですが、傷つけた相手に簡単に言って良いことではないと思います。それでも、変容を続けるために愚痴や弱音を言えることは極めて重要です。それは自分への情動調律でもあり、他者から情動調律を受ける機会でもあり、仲間に情動調律をすることで訓練にもなるからです。なので加害者同士で「きついよね、わかる」と言い合える場が必要なんです。

2つ目が、カウンセリングなどの専門家には担えない役割を担うことです。もちろんカウンセリングには非常に重要な役割がありますし、特に専門家以外では難しいトラウマ治療など、加害者変容に重要な機能も多々あります。しかし、カウンセラーとの関係は話を「聞く」「聞いてもらう」という関係に留まります。そうすると、加害者は「自分もケアする主体である」ということが分からなくなってしまうんです。「自分はケアしてもらう存在で、ケアする側ではない」ということです。
けれど、実際には他者との関わりにおいては「ケアし合う関係」がものすごく大事になってくる。当事者団体は、一方的に愚痴をこぼす場所ではなく、自分も誰かをケアする存在になるための場所です。ケアではなく加害的なコミュニケーションを取ってしまった人がいれば、「今のは良くなかった」「こういう言葉遣いの方がいいんじゃない?」と学び合える場所です。G.A.D.H.Aではただ当事者が集まるだけに留まらず、「知識を持った仲間」が集まることで、愚痴の言い合いや被害者への責任転嫁ではなく、自分達の問題として変容を目指せると考えています。

変容のプロセスは“きつい”とのことですが、自ら加害の報告をしたり、弱音を人に言うのはかなりハードルが高そうだなと思いました。

おっしゃる通り難しいところでもあり、そこが加害者変容の核心だと言ってもいいと思っています。

まず加害の報告についてですが、加害をしてしまう時は、そもそも何が悪いことなのか分かっていないんですね。だから、変わりようがない。あるいは悪いことだと分かっていても「そうさせるお前が悪い」とか「環境が悪い」から「仕方ない=悪くない」と考えることが多いです。そういうときに他の人の加害報告を見ることで、自分の加害に気づくことができます。そしてSlackに書き込むことで、ちゃんと問題を認めることができます。

それから弱音の報告について、これは加害者が最も苦手とすることの1つだと思います。情動調律の例にも挙げたように、人の愚痴や辛さをそのまま受け止められず、愚痴を言うのは弱さの象徴だと考えがちです。だからこそ、自分も愚痴を言えないし、自分の不完全さに向き合えないんです。そこから脱却するために、ちゃんと自分の苦しみや辛さを言語化して、受け止めてもらう経験が必要だと思います。

皆がみんな最初からできるものではないので、G.A.D.H.Aではできるだけ参加しやすいように仕組みをデザインしています。例えば、Slackに入ってすぐにする投稿の内容を指定したり、見る動画を指定したり、オンボーディングの工夫をして、早めに馴染んでもらえるように試行錯誤しています。

モラハラやDVは、パートナー間だからこそ自覚しにくい問題でもあるかと思います。できるだけ早く気付いて解決していくために、個人や社会にどんなことが必要だと思いますか。

大きな点としては2つあります。1つは、そもそも加害者が生まれないような社会にすることです。そもそも家庭やパートナー間の物理的な暴力や肉体的な暴力がDVだと認識され始めたのは1970年代頃なんです。当時、アメリカでは親指よりも細い棒で妻を叩いてしつけることは、しつけの範疇(はんちゅう)であって犯罪にならないという、今では信じられないような社会でした。その後、日本でDVと言う概念が認められるようになったのは2000年代です。それまでは問題だとも思われていなかったけれど、法律が変わることによって、加害者が減ったんですよね。加害者は決してカッとなってやっているだけではなく、それが「悪いこと」だと社会的に言われたらそれをやめたりもするわけです。そして身体的な暴力がダメだと分かっているからこそ、精神的・言語的なDVは暴力ではないと考え、それを実行するのです。これは会社で大声で叱責するようなパワハラは減ったものの、セクハラやモラハラはそう簡単に減らないことと同じでしょう。だからこそ同じように、精神的なDVや言葉による暴力も、同じように規制されるべきだと考えています。個人の意識だけでは簡単には変わらないので、政策の次元から変えていく必要があると思っています。

2つ目は、いま学校教育にも徐々に入ってきた包括的性教育やパートナーシップ教育の領域です。他者との境界線や関わり方について早い段階から学ぶことが大事だと思います。政策のような強制力のあるものだけではなく、教育による「予防」が必要です。

分かりやすい身体的な暴力だけではなく、情動調律、すなわち「ケア」の欠如もまた、加害となります。まだまだ社会ではそのような形の暴力や加害が認知がされていませんが、今G.A.D.H.Aで取り組んでいるような個々人へのミクロなアプローチに加え、マクロな視点でも取り組んでいきたいと考えています。

被害者だけではなく加害者にも視線を

情動調律の欠如。正直に言うと、この取材を経て自分にも当てはまる部分があるのではないだろうかと少し不安になっている。「僕のような潜在的な加害者が世の中には山ほどいるので、そういう方に届けていきたい」と話すえいなかさんを前に、心拍数が上がった。逆に言うと、これまで何が加害なのか・何がケアなのか、筆者も曖昧な部分が多かったのだろう。この記事を読んで、同じように感じる人もいるかもしれない。

加害・被害が起きてしまったからと言って、そこで人生が終わるわけではない。加害者・被害者ともに、死なない限りはそこからまた生活が続いていくのである。被害者へのケアはもちろん重要だ。しかし、同時に必要なのは、加害してしまった人が、そこからどう変容していけるのかという視点と活動だ。

また、えいなかさんが語るように、「加害者が生まれない社会」へと変わらない限り、根本的な問題解決にはならないだろう。自身を省みると同時に、社会や仕組みを動かすためにできることを考えたい。


えいなか
「変わりたい」と願うモラハラ・DV加害者の当事者団体GADHA代表。職場のメンバーやパートナーへの加害による関係の危機を経験し、自身の加害性を自覚。発達・臨床心理学をはじめ、学習理論やケアの哲学・倫理学などの知識に触れ、加害者変容を進める中で、当事者団体の必要性を実感し、2021年4月に同団体の運営を開始した。


取材・文:白鳥菜都
編集:Mizuki Takeuchi


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