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カンヌ映画祭2022:ミニ総括と、女性の監督たちの一層の飛躍について

カンヌ映画祭が世界で最も重要視される映画祭である所以は、ひと言でいえば、ハリウッド映画の対抗軸としての「アート映画の牙城」であるからだ。映画を芸術と位置付け、効率的な助成金制度により国際共同製作にも貢献する映画大国フランスを象徴する場が、カンヌだ。有名監督がこぞって新作のお披露目を行い、それにつられてマスコミとビジネス関係者が集まってくる。そして、マスコミとビジネス関係者が集結する場にこそ映画を出品したいと世界中の製作者が考える。そんな好循環が、極めて高いレベルで達成されているのがカンヌ映画祭である。
もちろん、映画祭である以上はカンヌも華やかさを追求し、商業映画を排除することは全くしない。3年振りに通常の開催月である5月に実施された2022年のカンヌは『トップガン マーヴェリック』を上映し、来場したトム・クルーズにカンヌは熱狂した。しかしそれでも、映画祭で最大に話題になるのは、コンペティションに集まった作品の評価であり、作家たちの眼を通じた世界の姿であり、新しい才能の出現についてである。
そのほんの一端を紹介してみたい。

コンペティション作品

コンペは全21本で、ベテランから若手まで注目監督の作品が揃った。全作品について触れたいところだけれど、いくつか個人的なお気に入りをピックアップしてみよう。

最高賞のパルムドールを受賞したのが、スウェーデンのリューベン・オストルンド監督『Triangle of Sadness』だ。

Triangle of Sadness:Plattform-Produktion

裕福な白人たちが豪華客船の旅を楽しんでいる。その船には、セレブ客を筆頭に、接客業の白人職員、そして清掃業のアジア/ラテン系の職員という確固たるヒエラルキーが存在している。しかし客船が座礁して無人島に漂着すると、パワーバランスが逆転していく…。
資本主義を激烈に皮肉り、観客を居心地の悪い気分に陥らせるオストルンドの世界が、スケール感を増している。ウディ・ハレルソンにマルクス心棒者を演じさせ、現代の階級社会を戯画化して茶化す。船酔いした客たちが吐しゃ物まみれになる描写は過剰に露悪的だけれども、上映会場は爆笑に包まれた。カンヌという場所は高級避暑地であり、豪華ヨットもたくさん停泊している。そんなカンヌで富裕白人批判の作品を見て喜ぶのも倒錯した状況ではあるのだけれど、オストルンドの語り口の見事さに映画祭は脱帽した形となった。
2022年カンヌのコンペは、下馬評段階で突出したパルムドール候補は無く、高いレベルで数作が競うという状態の中、本作の受賞はおおむね順当と受け入れられた印象だ。
それにしても、『ザ・スクエア 思いやりの聖域』(17)に続いて2作連続パルムドールを受賞したリューベン・オストルンド、まだ48歳。今後どうなってしまうのだろう!

カンヌの2等賞の「グランプリ」(ややこしい)は、ベルギーのルーカス・ドン監督『Close』。ドン監督は前作『Girl/ガール』(18)でトランスジェンダーの少女と献身的な父親の物語を描き、高い評価を得た期待の存在だ。

Close:Kris Dewitte

新作は、13歳のふたりの少年の友情と愛情の物語。とても親密なふたりは昼夜行動を共にし、明るく楽しい夏休みを過ごす。やがて新学期を迎えると、あまりに親しいふたりを同級生が冷やかす。すると少年のひとりは少し態度を変えてしまう。相手の少年は彼の反応がよく理解できない…。

なんと繊細で、美しく、そして辛い物語だろうか。美しい四季の自然の下で繰り広げられる悲話に、カンヌの観客は胸を締め付けられることになった。批評家筋の評価も非常に高く、これは納得の受賞だ。セクシュアリティやジェンダーといった現代の重要な主題の語り部として、ドン監督は確固たる地位を築いている。

83歳にして自己最高作品を更新したのが、ポーランドのイエジー・スコリモフスキ監督だ。新作『EO』では、旅をする純朴なロバの眼を通じて、人間の様々な姿が浮かび上がってくる。映画史上の名作『バルタザールどこへ行く』(66/ロベール・ブレッソン監督)と同じプロットであり、同作にオマージュを捧げた作品だ。これが、もう、滅法美しい。

EO:Hanway Films

冒頭、ロバはサーカスで踊る少女のパフォーマンスに参加している。赤くストロボ点滅する画面の中、少女とロバの断片が現れては消える。映画のオープニングから極めてスタイリッシュで切れ味があり、スコリモフスキは老いを微塵も感じさせないどころか、最先端のセンスを発揮しているように見える。冒頭から傑作の予感に包まれる。その予感を裏切らないまま映画は進み、美麗な映像が愚かで愛おしい人間の姿を綴っていく。音楽と音響も素晴らしく、究極的な映画体験だ。審査員賞受賞。

ところで、格差社会や移民、あるいはセクシュアリティやハラスメントといった現代の重要な主題を扱う作品が映画祭で評価される場合が多く、オストルンド監督やドン監督の作品もこの流れの中に位置づけることが可能であるけれども、83歳のスコリモフスキの関心はもはや社会を超越し、人間存在そのものに向かっているように見える。授賞式に登場した監督は、撮影に起用したロバの名前を次々と挙げて感謝を捧げた。とてもお茶目な、いまや神の眼を備えた人間観察者である。

受賞はならなかった作品にも傑作は多い。
2021年の特集上映で日本でもファンを獲得したケリー・ライカート監督の新作『Showing Up』は、心の宝石と呼びたくなる1本だ。オレゴン州のポートランドを舞台に、美大を中心とするアートコミュニティーに暮らし、彫刻家として個展の準備を進める女性の姿を描く物語。真摯に創作に向かう姿勢と、隣人や家族の人間関係に振り回される日常の姿との対比がこの上なく愛おしく、やわらかい光線も見る者の心を温める。アメリカン・インディーの最良の部分を抽出したような、珠玉の作品だ。
イランの新星、サイード・ルスタイ監督の『Leila’s Brothers』も、監督の才能の大きさを確認させる力作だ。前作『ジャスト6.5 闘いの証』(19)は東京国際映画祭をはじめ世界中で評価され、長編3本目でカンヌのコンペ入りを果たした期待の存在である。
経済的苦境から脱すべく起業を試みるレイラとその兄弟たちの奮闘を描く物語。大声でまくし立てられるセリフの洪水に観客は溺れそうになってしまうけれど、これは現在のイラン映画のスタイルのひとつであり、ルスタイ監督はその傾向を極めているようだ。アッバス・キアロスタミ、アスガー・ファルハディに続く、イランの国際的スター監督がルスタイ監督であることは間違いなく、さらなる飛躍を楽しみにしたい。

僕が思い切ってパルムドール候補に予想してみたのが、スペインのアルベール・セラ監督『PACIFICTION』だ。太平洋に浮かぶフランス領のボラボラ島を舞台に、フランス人の領事が原爆実験の噂に揺れる現地の統治に苦悩を深めていく物語。
主演のブノワ・マジメルが前時代的な植民地政策の矛盾を体現し、その存在感が素晴らしい。映像はダイナミックであると同時にミニマルでもあり、巨大な波の上で船がスライドする様を迫力満載で追ったと思えば、領事の行動を淡々と見つめていく。説明は少ないものの、演出が実に雄弁だ。セラ監督といえば、死にゆく王の姿をゆっくりと見せたり(『ルイ14世の死』/16)、過剰なセックスや老醜を露悪的に描いたり(『Liberté』/19)と、毎回意表を突く個性の強い存在だ。今回はかなりストレートな作品作りに徹しているように見えつつ、大胆な作家性は十分にうかがえ、受賞もあり得るかと思ったけれど結果は無冠。賞の有無にかかわらず、日本公開が実現されることを期待したい。

「ある視点」部門

カンヌの第2コンペ的位置づけなのが「ある視点」部門。先鋭的な作品が集まり、若手監督作品も多い。上映作品は全20本。コンペはかなりの確率で日本公開が望めるけれど、「ある視点」部門は必ずしもそうはならない。とはいえ、他の映画祭のコンペに出品されたら受賞必至の作品ばかりだ。

さて、この部門の作品賞は、リーズ・アコカとロマーヌ・ゲレというふたりの女性の共同監督による『The Worst Ones』という作品に与えられた。女性の共同監督作品が今年のカンヌでは目立ち、これも時代の趨勢を反映していて喜ばしく、そして見事に作品賞を受賞した。

FDC

地方都市を舞台にした映画撮影が企画され、監督たちは地元の人々をオーディションする。そして問題を抱える4人の子どもたちが選ばれる。どうしてひどいのばかり(The Worst Ones)選ばれるのだ?と地元の人たちは訝しがるが、監督は選んだ子どもたちの特異な経験を演技に活かそうとする…、という物語。
母の放置により姉と暮らす幼い少年が、同じような問題を抱えた少年を演じることになる。撮影で未成年をどこまで追い込んでいいのかという製作倫理が問われ、少年少女の生き様に加え、ハラスメントの境界線も描かれる。その主題も興味深いのだけれど、やはり、子役が素晴らしい。いったいどうやって演技指導したのかと感嘆せずにいられない。映画作りの映画なのに、それをどうやって撮ったのか、というメタな面白さ。作品賞も納得である。

「ある視点」部門には、日本の早川千絵監督による『PLAN75』も出品された。新人監督1本目がカンヌの公式部門に選ばれただけでも素晴らしいのに、新人監督賞の次点まで射止めてしまうとは、これは日本の映画史に刻む価値があるほどの快挙だ。

©2022『PLAN 75』製作委員会/Urban Factory/Fusee
新宿ピカデリーほか全国公開中。配給:ハピネットファントム・スタジオ

75歳になると自ら死を選ぶ権利が得られる法案が国会を通過したという近未来を舞台にした物語。高齢化社会は各国共通の課題であり、この作品ほど国境を越えやすい物語はそうはないだろう。制度を運用する役所の職員や、自死の執行業務とその従事者を丁寧に想定し、リアルなディテールの積み重ねが映画を成功に導いている。主題の共感度の強さに加え、じっくりと落ち着いた早川監督の演出が、目の肥えたカンヌの観客と審査員を納得させた。

日本で難民申請が通らないクルド人家族の苦境を描く、川和田恵真監督の『マイスモールランド』や、高齢化社会のリアルを描く本作がそれぞれベルリンとカンヌに選ばれたことは、日本映画が取り組むべき物語に大きな示唆を与えるに違いない。川和田監督や早川監督らの女性の監督が今後の日本映画を牽引するはずだ。

ちなみに、新人監督賞は『War Pony』という作品を監督したライリー・キーオとジーナ・ギャメルというアメリカの女性の共同監督に与えられた。残念ながら僕は未見なのだけれども、ここでも女性の監督たちに脚光が当たっていることを強調しておきたい。パインリッジインディアン保留地区を舞台にした、ネイティブ・アメリカンの男性たちの姿を描く作品ということで、日本で見られる日が来るだろうか。

この部門では、アグニェシュカ・スモチンスカ監督『The Silent Twins』も素晴らしかった。ふたりの世界に閉じこもり、家族を含めて他人には一切しゃべらず、やがて事件を起こしてしまう女性の双子を巡る実話の映画化で、極めてオリジナルな内容に没入させられる。アメリカ資本の準メジャー作品であり、女性のスモチンスカ監督はいまやポーランドを代表する監督のひとりとして存在感を高めている。

「批評家週間」部門

上述した新人監督賞は、各部門に出品されている新人監督作(1本目)を横串に審査して与えられる賞である一方で、監督2本目までの作品が上映される新人部門が「批評家週間」である。
この部門の作品賞を受賞したのが、コロンビアのアンドレス・ラミレス・プリドという男性の監督による『La Jauria』という作品。コロンビアはアート系の作家を輩出する国として数年来注目されており、本作も荒々しい美しさと衝撃的な暴力を備え、見応えがある。

森の中の少年院に服役する少年たちが、怪しい院長の指導に次第に違和感を抱いていくドラマ。深い森の中で映画は淡々と進行し、やがて胸をわしづかみにされるような衝撃ショットが現れ、この監督のセンスはただ事でないと思い知らされる。抽象度の高いドラマ作りも監督の芸術性を感じさせ、なるほど批評家週間作品賞は納得だ。

コンペ、「ある視点」、「批評家週間」に加え、カンヌには「監督週間」や、「特別上映」部門など、まだまだたくさんの部門と作品がある。全てに触れられないのが残念だが、最後に、2022年のカンヌの「クラシック」部門に出品された(がクラシック映画ではない)日本映画について触れてみたい。

オリンピック映画

現在、映画について意見を表明する際に、とても慎重さが要求される。作り手の不適切な行為が指摘された場合はなおさらだ。本人と作品とは切り離して語るべきという見方は後退しつつあり、やはり両者は分けられないのではないかとの見方が主流となりつつある。キネマ旬報6月下旬号を見ると、ロマン・ポランスキーの新作を評すること自体を拒否する批評家がいれば、「敬愛するポランスキー監督」と確信犯的に文章を始める論者もおり、表現者のモラルが見る者を揺さぶる事態が続く。また、名作の誉れが高いものの、後年になり黒人の人権を貶める描写が指摘される『風と共に去りぬ』(39)や『國民の創生』(1915)といった作品も同様で、今後は注釈付きで見られることが推奨されるだろう。
映画の書き手は「炎上」を恐れて沈黙してしまいがちだ。何を書いても非難を受けそうで、口をつぐんでしまう。難しい時代だとつぶやきたくもなるが、声なき声が立ち上がってきた結果である時代は歓迎すべきであることは言うまでもない。ならば自分も発言すべきと自分を鼓舞するものの覚悟が固まらず、黙ってしまうループにはまるのが現在だ。

ことほどさように、前置きを必要とする。何が言いたいのかと言うと、河瀬直美監督について語りたいのだ。河瀬監督は暴力行為が週刊誌に報道され、それと前後するようなタイミングで、『東京2020オリンピック SIDE:A』のカンヌ入りが発表された。その週刊誌は貴重な媒体なので報道内容を信じてしまう気持ちと、監督を潰したくない気持ちとの間で揺れたというのが僕の正直な感想だ。河瀬監督作品については、ドキュメンタリーの方が劇映画よりも優れていると考えているので、新作にいささかの期待は抱いていた。しかし、先の報道によってその気分が少ししぼんだことは否めず、カンヌで見ることはなかった。帰国し、劇場公開され、見に行った。そして、素晴らしい作品だった。
莫大な予算と人員を擁して作られた作品が見事な作家映画に結実しているという結果は、痛快であるとしか言いようがない。もとよりオリンピックを総括する気など全くなく、オリンピックという入り口を通じて、現在世界が抱える、より重要な問題に焦点を当てていくことに本作の主眼はある。シリアの選手に注目し、五輪中にも平和なんぞは訪れていないと示唆するのは、その一例に過ぎない。競技の結果はほとんど紹介されることなく、競技者とその背景が中心となる。イランから亡命し、モンゴルの国籍を得た柔道家は決勝で日本人選手に敗れる。カメラはイラン/モンゴル選手にフォーカスし、表彰台の日本人には目もくれない。日本礼賛主義を徹底的に廃したこのユニバーサルな視点を、痛快と言わずして何と言おう。

さらに本作が重点を置くのが、女性のエンパワーメントだ。出産直後の女性の競技者がオリンピックに参加した例と、出産直後ゆえに参加を見送った例とを、映画は並べて見せていく。前者のカナダの選手は、夫と乳児を選手村に同行させた。後者の日本人選手は、スタンドで乳児を抱え、元チームメイトたちの活躍を見ながら、無念とも見える涙を流す。ここに女性の社会参加の現実と国家間格差が浮き彫りになる。果たして、河瀬監督以外に、五輪映画にこのようなメッセージを込めることができる監督がいたであろうか。

主題としての女性の権利と、作り手としての女性の存在は、現在の映画を巡る状況の中で最も重要な事柄である。女性の監督による作品が不当と言えるほど少ないとの指摘がなされて久しく、21年カンヌ(ジュリア・デュクルノー監督『チタン』)、21年ヴェネチア(オードレイ・ディヴァン監督『Happening』)、22年ベルリン(カルラ・シモン監督『Alcarras』)と、3つのメジャー映画祭が連続で女性の監督に最高賞を授与しているのは、作品が優れていたという点に加え、完全に時代の要請でもある。ここにアカデミー賞(シアン・ヘダー監督『Coda コーダ あいのうた』/21)を加えてもいい。河瀬五輪映画は、この文脈の中にあるのだ。

オリンピックを全く総括していないという点で本作を批判する文章を目にしたが、おそらく、オリンピックを好きな人にはそう見えるのだろう。しかし、映画はスポーツではなく、ましてやテレビでもなく、映画は映画なのだ。映画には映画の役割がある、としか言いようがない。映画に総括を期待してはいけない。
また、映画の個性は認めつつも、64年の東京五輪を撮った市川崑監督と比べれば劣るという指摘も目にしたが、五輪や映画を超えた論点を喚起するという点で、ここで引き合いに出されるべきは市川崑ではなく、レニ・リーフェンシュタールかもしれない。
1936年のベルリンオリンピックを映像に収めた『民族の祭典』(38)と『美の祭典』(38)を作ったレニ・リーフェンシュタールには、ナチの協力者であるとの批判から生涯逃れることは出来なかった。彼女自身はナチに利用されただけであるとの立場を決して崩さず、戦後はネイチャー系のドキュメンタリーを手掛け、100歳を超えるまで作品を撮り続けた。映画史における巨人のひとりであり、「美の魔力 レーニ・リーフェンシュタールの真実」(瀬川裕司著)をはじめ、優れた研究書も多い。
なぜリーフェンシュタールが有名なのかと言えば、『民族の祭典』と『美の祭典』が映像作品として非常に優れており、しかしそれを認めていいのかという問いが伴い続けているからに他ならない。両作は、ドキュメンタリーとは何かを考える際に必ず参照される作品である。それは、ナチ主導の五輪を美しく描くことの倫理的な問いや、盲目的な美の追求に対する純粋さへの評価、競技を再現してしまう演出性(昼間に撮影できなかった競技を、夜に撮影用に堂々と再現させている)、プロバガンダと映画の関係性など、無数の論点を含んでいる。それこそ、ナチへの協力が指摘される点では、キャンセルカルチャーの始祖のような存在だ。それでも作品の重要性は生き続ける。

女性の監督が五輪を撮ったという点で、河瀨直美とレニ・リーフェンシュタールを並べるのはあまりに乱暴ではあるが、ことの規模は異なるとはいえ、作家と作品の関係性について考えるにあたっては、皮肉な符合を見せてしまった。しかし、美だけに興味を絞ったリーフェンシュタールと、人権を最重要視した河瀨直美は、五輪映画にスポーツを超える視点を導入した。この点は見過ごしてはならず、僕は『東京2020オリンピック SIDE:A』は広く見られるべき作品だとの立場を取りたい。

カンヌからかなり脱線してしまった。いや、脱線でもないのかも。現代を象徴する作品が、2022年もたくさんカンヌから羽ばたいた。カンヌの重要性はいよいよ増すばかりだ。

 

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矢田部吉彦(やたべ・よしひこ)
仏・パリ生まれ。2001年より映画の配給と宣伝を手がける一方で、ドキュメンタリー映画のプロデュースや、フランス映画祭の業務に関わる。2002年から東京国際映画祭へスタッフ入りし、2004年から上映作品選定の統括を担当。2007年から19年までコンペティション部門、及び日本映画部門の選定責任者を務める。21年4月よりフリーランス。


寄稿:矢田部吉彦
編集:おのれい

 

(注)
本コラムに記載された見解は各ライターの見解であり、BIGLOBEまたはその関連会社、「あしたメディア」の見解ではありません。