よりよい未来の話をしよう

格差構造の破壊者:ミシェル・フランコの描く世界

映画は世相を反映すると言われるが、そのあり方は様々だ。現代社会が直面する諸問題に対し、いかなる方法でアプローチするか。それこそ、表現者の腕の見せ所であろう。環境問題、セクシュリティー、ジェンダー、越境、移民、差別、ハラスメント、人権…。映画が取り組むべき主題は、その時代の流れに沿って次々と浮上してくる。世界各国で作られる映画がこれらの主題を語り、観客は世の中で何が起きているのかを知る。ニュース映像は知識を補完してくれるが、それはあくまでも情報だ。その事態が、ひとつの物語として映画で提示されたとき、それは情報ではなく、実感として観客の脳と心に刻まれる。

多くの重要主題のひとつとして、資本主義下の格差社会が挙げられる。少し昔なら「貧富の差」という表現がされていたが、「格差社会」の方がより深刻な構造上の問題として響き、政治の失敗を感じさせる。そして格差社会ほど、世界共通のタームはないかもしれない。『万引き家族』(18/是枝裕和監督)と『パラサイト 半地下の家族』(19/ポン・ジュノ監督)が2年連続でカンヌの最高賞を受賞したのも偶然ではないはずだ。格差社会の底辺にいる人びとに優しい視線を向けた前者と、底辺の人々が富裕層を乗っ取る様を描く後者を、世界は歓迎した。映画は常に弱者に寄り添い、権力者への批判をその存在理由としてDNAに刻んでいる。

しかし、『万引き家族』や『パラサイト』があくまで格差社会をその背景に留めていたのに対し、真正面から、一切のメタファーやほのめかしもなく、直接的に、徹底的に、暴力的に、衝撃的に、富裕支配層を攻撃するのが、ミシェル・フランコ監督の『ニューオーダー』(2020)である。

鮮烈のデビュー

ミシェル・フランコの世界の特徴は、シャープで端正な画面と、そのフレームの中で起きる出来事の残酷さとのギャップだろう。美しい映像と残酷な内容との対比が、よりその残酷さを際立たせる。従って、見る人を選んでしまう恐れがある。露悪的であると感じたり、美意識に抵抗感を覚えたりする人がいるかもしれない。しかしそれを含めてアートであるとしか言いようがない。美しい悪魔なのか、残酷な天使なのか、ミシェル・フランコは見る者の良識と審美眼を揺さぶってくる。

ミシェル・フランコは、2009年に世界の舞台に颯爽と現れた。1979年生まれの監督が、ちょうど30歳の年だ。20代を短編の製作に費やし、実力と経験を蓄え、10年かけてついに長編映画を完成させている。有名映画祭で注目を浴びる若手監督の多くが、決して短くない短編修業期間を経てから、長編の企画を練り上げ、相応の資金を集め、満を持して世界にデビューしている。ミシェル・フランコも決して例外ではない(例外はグザヴィエ・ドランくらいだ)

フランコが放った長編第1作『Daniel & Ana』(09/日本未公開)は、カンヌ映画祭の「監督週間」に選ばれ、大きな話題を呼ぶ。2009年当時、メキシコの監督といえば、メジャーな世界でアレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督が第一線で活躍する一方、カルロス・レイガダス監督が中南米のアート映画界を牽引していた。ミシェル・フランコは、そのふたりの先人とは無関係なところで、突如出現したのだった。

『Daniel & Ana』は、こんな内容だ:
「裕福な家庭に育つアナとダニエルは仲の良い姉弟であり、アナは結婚を目前に控えている。しかしふたりは誘拐されてしまう。銃で脅され、ふたりはカメラの前で性交を強いられる。そのまま帰宅を許されるが、ふたりは元通りの生活を続けることができない。しかし姉がセラピーに通い、快方に向かう一方で、弟はトラウマを払拭できない。それは意外な理由によるものだった…」

実際に起きた事件を元にしているというが、書いているだけでしんどい。いや、文字にするとしんどいのであって、映画は異なる印象を与えたのだった。どこか突き放した距離感や、洗練された固定ショット、そして持続する緊張感は、まさに新人離れしていた。デビュー作で近親相姦を扱うという過剰性にはのけぞるしかないけれど、その革新性からは只者ではない気配が十分に漂ってきた。センセーショナルな「掴み」で注目を集めるしたたかさを有しているとも言えるし、話題性だけで終わらせない実力を備えていたとも言える。描きたいのは、近親相姦ではなく、メキシコにおける富裕層の危うさと、人間心理の闇であることは明らかだったからだ。しかし、富裕層が被る被害にさほど同情的でない姿勢が、突き放した距離感に反映されていたのも確かだった。そこにやりにくさを感じたのか、フランコが富裕層側から映画を語るのはこの処女作のみであり、以降は市井の人の側に立ち、富裕層は嫌悪の対象として描かれることになる。
ともあれ、かくしてミシェル・フランコという名は世界の映画関係者の脳裏に刻まれた。

最初のピーク

2012年にミシェル・フランコは長編第2作『父の秘密』でカンヌに戻ってくる。「ある視点」部門に出品され、見事に部門の作品賞を受賞する。フランコの特徴が見事に凝縮され、第2作目にして初期の代表作となったのが『父の秘密』だ。

冒頭、ひとりの中年男が自動車修理工場から車を引き取る。男はしばらく車を走らせた後、信号で一時停止すると、そのままエンジンを切ってキーをダッシュボートの上に放り投げ、車を乗り捨て、歩き去る。後続車はクラクションを鳴らして追い越していくが、構わず男は歩き去る。ここまで、ワンショット。見事なオープニングである。

男が車を乗り捨てた理由は、おいおい明らかになる。男は別の車で娘と移動し、新たな街で新たな生活を始める。父は料理人で、娘は高校生。穏やかにリスタートしたふたりの生活だったが、娘が学校でトラブルに陥り、事態はあらぬ方向へ向かっていく。

ワンシーン・ワンショットが好んで用いられるが、切り替わったショットではアクションが常に進行中なので、ダレる時間がなく、映画が前にドライブし続けている。事情は分からなくとも、すぐに観客を映画に引っ張り込むリズムを持っている。そしてショットの鮮明さが、否が応でも目を惹く。照明が明るいこともあるが、フレーム内で起きるアクションに毎回驚きがあるのだ。

その鮮明さは、出来事の陰惨さを強調していく。娘は極めて辛い事態に直面するが、観客は画面から目を離すことができない。ショットが力強いから、という以外の理由を見つけることが難しく、映画の魔力という言い方に逃げてしまいたい。フランコの映画にはそういう力が備わっているのだ。目を背けたくなるが、見てしまう。

この作品から、フランコの白人富裕層に対する暗い思いがより鮮明になっていく。娘の友人たちは、プール付きの豪邸に暮らし、世界は彼らを中心に回っているかのようだ。ゴージャズな暮らしぶりを端正に美しく映し出すフランコの映像には、強烈な皮肉が込められる。その「端正な美しさ」は映画の最後までブレることがない。そして富裕層に対する暗い念は、2020年の『ニューオーダー』まで続くのだ。

現実へのまなざし

白人富裕層と下級階層の格差に覚える“強い違和感”を隠さないフランコは、次作で最下層に目を向ける。妹のヴィクトリア・フランコと共同監督をした『Through the Eyes』(13/日本未公開)において、ソーシャル・ワーカーである主人公の女性は、都会で最下層の暮らしを送る人々の面倒を見る。ホームレスからジャンキーまで、ストリートで寝起きする人々を、フランコ兄妹はドキュメンタリータッチの映像で捉えていく。ミシェル・フランコのシャープに構築されたカメラはここでは封印され、生々しいドキュメンタリー的映像を試行している。

ヒロインは11歳の息子と暮らしているが、息子は目に持病があり、一刻も早い角膜移植手術が必要と言われている。しかし順番待ちの列は長く、待っているうちに息子の目の状態は悪化してしまう。母親は、日々接するホームレスたちの角膜を利用したい誘惑に苦しんでいく。

ドラマとドキュメンタリーを融合させる試みを通じて、ミシェル・フランコはいったん富裕層から目を離し、底辺での生活を余儀なくされる人々に集中し、寄り添う。それは、改めて自分の立ち位置を確認する作業のようにも思える。小品である本作は大きな映画祭に取り上げられることはなかったが、監督としてのアイデンティティを確認できたからか、フランコは次作で大きく飛躍する。

深化とさらなる試行へ

『父の秘密』が出品された「ある視点」部門の審査員だった俳優で映画監督のティム・ロスは同作に惚れ込み、ミシェル・フランコ監督作への出演を希望したと伝えられる。ことの真偽は確認できていないが、映画祭では起こり得る話ではある。縁が出来たことは間違いないだろう。そのティム・ロスが出演したのが、『或る終焉』(15)である。

ティム・ロスは、病の末期を迎えた人々が最後の日々を自宅で過ごす手助けをする看護師を演じる。プロフェッショナルな所作で患者の体を支え、シャワーを浴びさせ、会話に付き合う。患者が亡くなったときには、葬儀に出席することもある。しかし、自分のことはあまり話したがらない。ランニングに精を出す以外は、ある女性の写真を繰り返しソーシャル・メディアで眺めている。看護師本人も闇を抱えているように見える。そして彼の看護があまりに親身であることで、自ら窮地に陥っていく。

とても静かに、淡々と進行する。音楽は無く、看護師のスムーズな所作が映画の軸となっているように、映画も流れるように進行していく。余計な贅肉を一切削ぎ落した描写で、命のあり方と人の尊厳が見つめられていく。ここで、残酷な運命を端麗な映像で魅せる技術はさらに進化し、映画全体としては前作よりも静けさと深みを増している。

しかし、表面に見える世界の裏に、富裕層に対する強烈な批判は依然として存在している。末期の病人を自宅に迎えられるのは、裕福な家族に限られる。そして、フリーの看護人の社会的立場は決して高いものではない。このどうしようもないギャップが、悲劇の遠因となってくる。フランコは、富裕層の言動にギリギリ筋が通っているように描くので、不快感にリアリティが増し、観客も富裕層を憎むように誘導される。この誘導は危険であるが、フランコが巧みなところでもある。

残酷でもあり、極めて優しくもある本作は、カンヌのメイン部門とされるコンペティションへの出品を果たし、脚本賞を受賞する。なんとも順調なカンヌにおけるステップアップである。

しかし、続く『母という名の女』(17)は、カンヌはコンペでなく「ある視点」部門での参加となった。フランコとしては、はじめての足踏みだ。いや、外野から見れば足踏みかもしれないが、フランコはここで作風の転換を図っており、多少の遠回りは承知の上だっただろう。おそらく、『父の秘密』と『ある終焉』が似すぎていると考えたに違いない(『ある終焉』を撮っているときに『父の秘密』と同じやり方をしていると自覚した瞬間が多々あったと発言しているインタビューがある)。端正な映像とフレーミングの中で衝撃を伝えるという演出から少し離れようとした試みが『母という名の女』には見られ、それがコンペに届かなかった理由ではないかと推察される。

しかし、同作のオープニングも、相変わらず見事である。まだ画面が暗い時点で、男女の喘ぎ声が聞こえる。しかし画面が明転すると、映っているのは台所で朝食の支度をしている女性の姿である。そこには喘ぎ声と、波の音がする。女性は気にする素振りもなく、台所を出る。すると奥の扉が空き、セックスを終えたらしい全裸の少女が台所に入って水を飲む。少女はテラスに出た最初の女性を眺め、一歩を踏み出すと、少女のお腹が大きいことに観客は気付く。ここまでワンショット。観客はいきなり何度も驚き、直ちに映画に引き込まれる。

少女はまだ17歳であるが、子供を産む決意を固めている。母親のアブリルとは離れて暮らしていたが、アブリルが少女の生活に戻って来ると、出産を果たした少女は育児を母親に頼るようになる。ここで、無責任な出産をしたティーンエイジャーを咎める内容にするほどフランコは凡庸ではなく、物語は少女の母親であるアブリルが暴走する様を描いていく。この展開はとてもユニークで面白い。

前作まで、フランコは画面に光を降り注ぎ、明るい画面と暗い物語を併置していたのだが、今作では夜の場面も多用し、画面を暗くしている。その分、映画のコントラストが弱くなり、画面効果につられるように、物語のインパクトも多少弱くなってしまったかもしれないきらいはある。しかし、平均点は十分に高く、「ある視点」部門では審査員大賞を受賞しているように、必見の作品であることには変わりない。

ところで、『母という名の女』の「母」アブリルは白人女性であり、資産家である。さほどの富裕層ではないかもしれないが、社会階層としては上部に属していると言えるだろう。その事実を分かりやすく示す例が、かつて雇っていた使用人の存在である。この作品では登場回数が限られているが、白人でない先住民/インディオの使用人との接触によって、不安定に見えるアブリルも支配階級であることが突然明白となる。この点こそが重要であり、『ニューオーダー』へと繋がっていく。

そして、究極の衝撃へ

フランコは、メキシコ社会への危機感と不安を長年に渡って溜め込んできた。人種間に根強く存在する階層意識と収入格差、そして白人富裕支配層の優越的な地位に、終始懐疑の目を向け続けた。その強い思いがフランコの人格形成過程のどの段階で醸成されたのかは分からないが、社会に対する正義感を出発点として、長い年月の間に違和感が膨らみ続けたに違いない。

その膨張した思いが、まさに大爆発したのが、『ニューオーダー』である。

描かれるのは、メキシコの某都市における、先住民の蜂起。超富裕の白人家族が自宅でウェディングパーティーを開いており、華やかに着飾った参加者たちが楽しそうに踊っているが、街には不穏な空気が漂っている。新婦のマリアンは、かつての使用人で先住民である女性が病気であることを知り、彼女を助けるべくパーティーを中座して外に出るが、恐ろしい事態が待っている。

『ニューオーダー』は2020年のヴェネチア映画祭のコンペティション部門に出品され、審査員大賞を受賞する成功を収めている。しかし、白人富裕層に対する攻撃的な描写があまりにも過激なため、予告編の時点で既にメキシコのマスコミが騒ぎ出し、フランコが事態の収拾を図るコメントを発表する羽目になった。それほど、本作のインパクトは強烈であり、見るには相応の覚悟が必要だ。しかし、僕は2020年に見たおそらく700本近い映画の中で、『ニューオーダー』ほど印象に残っている作品は無い。格差社会の行く末に待ち受ける絶望的な惨劇を直視することも、その惨劇を避けるための意識改革となり得るはずだ。『ニューオーダー』を、近未来を舞台にしたディストピア映画と表するむきもあるが、そんなに呑気なものではない。分断を抱える社会に起こり得る事態を描く寓話であると冷静に解釈しようとしても、これは、現実にしか見えない。だからこそ本当に恐ろしい。

主題として、処女長編『Daniel & Ana』で既に見られた富裕支配層への批判的まなざしを徹底的に突き詰めているとすれば、スタイルも過去のフランコ作品のルックを進化させ、極めている。スタイリッシュでシャープなショットを復活させ、フレームの中のアクションの衝撃性は過去作を経て磨き上げられた。明るい光線と見事な構図は『父の秘密』や『ある終焉』の延長線上にあり、今作はそこに緑や真紅といったビビッドな色遣いが鮮烈なアクセントを加える。車内ショットで驚かせるのも、フランコ印だ。

しかし、安易なメタファーを削ぎ落し、あまりにも直截的な危機感の露出は、今作にしかない。まるで、もう我慢ができないとでも言っているような、フランコの感情の爆発。美しいフレーム内の過酷な描写を追求してきたフランコ芸術の、究極の到達点がここにある。

もちろん、『ニューオーダー』が描く世界は、対岸の火事ではない。格差と差別が産む負のエネルギーが社会的に溜め込まれるとどれほどの力になり得るか、アメリカのBLM(Black Lives Matter)の例を思い出すまでもなく、世界で『ニューオーダー』に近い事態は既に起こっている。我々が『ニューオーダー』から目を背けることは出来ないのだ。

社会問題を扱う映画は数あれど、その究極系はいかなる形をしているのか。社会の矛盾をゾンビに象徴させるのではなく、あるいは歴史的な出来事を映画化するのでもなく、まるで現実との平行世界での事実であるかのようにダイレクトに怒りを描く形を選んだミシェル・フランコ監督。2009年のデビュー以来、悪化し続ける格差の現実を横目に創作を続け、ついにとんでもない作品に到達してしまった。

一貫した問題意識とビジュアル感覚を持っているミシェル・フランコのようなアーティストの道程を辿ることはとても刺激的な経験だ。今回メンションした作品のうち、『父の秘密』、『ある終焉』、『母という名の女』は、配信で鑑賞が可能である。ネタバレを書かないように気を付けたつもりなので、これを機に監督の創造の過程に触れてみることもお勧めしてみたい。突如として『ニューオーダー』が生まれたわけではないということが見えてくるだろう。

『ニューオーダー』の鑑賞をおすすめしたい。覚悟の上で、と言い添えて。そのあと、世界を見る目が確実に変わるはずだから。

 

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矢田部吉彦(やたべ・よしひこ)
仏・パリ生まれ。2001年より映画の配給と宣伝を手がける一方で、ドキュメンタリー映画のプロデュースや、フランス映画祭の業務に関わる。2002年から東京国際映画祭へスタッフ入りし、2004年から上映作品選定の統括を担当。2007年から19年までコンペティション部門、及び日本映画部門の選定責任者を務める。21年4月よりフリーランス。


寄稿:矢田部吉彦
編集:おのれい

 


写真:『ニューオーダー』6月4日(土)渋谷シアター・イメージフォーラムほか全国順次公開
© 2020 Lo que algunos soñaron S.A. de C.V., Les Films d’Ici
監督・脚本:ミシェル・フランコ
出演:ネイアン・ゴンザレス・ノルビンド、ディエゴ・ボネータ、モニカ・デル・カルメン
 配給:クロックワークス/PG12
公式サイト:https://klockworx-v.com/neworder/